過去7 それは雨上がりを待つ花のような③
稀に見る才能の持ち主だった女子生徒が、真冬の夜に外階段から落ちて亡くなったらしい。別に幽霊話は聞かなかったけれど、そういう事実があったということは、美術部の通過儀礼のように先輩から教わった。
「柊平くんの時からこの話はあったの?」
「ないよ」
「じゃあ柊平くんが卒業した後の話なのね」
その言葉に返ってくる言葉はなくて、あとはカップの中身がなくなるまで、静かな空間を二人で過ごした。
早起きは三文の徳と言うけれど、このコーヒーが三文の価値なのかしら?
「ああ、心美に怒られるわねー」
「言わなきゃ平気だよ。僕としても、ここで一晩過ごしてることは、あんまり知られなくないしね」
「ああ見えて繊細なの。あんまり傷つけないでよね」
心美が自分で思っている以上に柊平くんに心惹かれているのはもちろん、柊平くんが心美を贔屓していることも、私にはお見通しだった。
「傷なんてのは、わざとつけなくたって、いつの間にかついちゃうものなんだよ」
柊平くんがぽつりと呟いたその言葉の意味はすぐに分からなくて、でも、理解できるところまで成長せねばならない時期は、もうすぐそこまで迫っていた。
次の日から立て続けに雨の日が続き、この森にも本格的な梅雨がやってきた。
「今日も雨かぁ。また外でランチできないね」
三時間目と四時間目の間の休憩時間。制作用のデニムのエプロンをつけたまま、憂鬱そうに外を眺める真由の横に行くと、私はポケットから棒つきキャンディを取り出す。
「食べる?」
「うん!」
真由が好きなストロベリー味の、ピンクと白のマーブル模様の飴玉が小さな口に入っていく様子を、私は背徳感を押し殺して盗み見る。
はぁ、どうして私はあの飴玉に生まれてこれなかったんだろう。徳を積まねば叶わないと分かっていても、まずやる気が起きない。
これも全て、この一日中夜みたいな暗さのせいだ。
「昨日も雨、今日も雨、明日も雨、 明後日も雨、しあさってだって、きっと雨」
「どこにも行けないわね」
うちの学校は全寮制で、校舎から寮へは森の中の一本道しかないので、基本的に生徒は学校の敷地内で引きこもりのような生活を送っている。
休みの日はバスに乗って麓の街へ遊びに行けるものの、一年生にそれが許されるのは、なぜか一学期の期末テスト後からという謎のルールがあり、それがこの週末だった。
真由はため息をつく。
「あーあ。 ハンバーガー食べたかったなぁ」
私は窓の下に背中を預けながら、頭の中に描いた、真由と楽しく街を歩くイメージに、真っ黒なインクを乱雑に塗りたくる。
「このバカげたルール、どこの無能が作ったのかしらね」
「うん?理央、なんか言った?」
「なんでもない」
「あーあ、見たかった映画も来週じゃあもう終わってるしなー。雨かぁ……」
真由のため息、これでもう何回目だろう。
別に雨でも出かけられないことはないけれど、雨の中を真由と歩くのは、どうしても嫌だった。だからバーガーを食べて映画を見るというスケジュールも、最初から晴天のみ決行という話に決まっていた。
クソ、雨のせいで全ての計画が台無しだわ。
きっと真由の百倍、私はショックだ。
「真由ちゃーん!」
教室のドアから、クラスの女子がよそ行きの声で真由を呼ぶ。真由が振り返ると、その子は大声で続ける。
「ゆーまくんが呼んでるよー!」
「はーい!今いくー!」
ゆーま。久世侑馬。
またあいつか。図書委員で真由と一緒の、下の階のクラスにいる男子だ。陸上部だけどぱっとせず、見た目も成績も至って普通。それなのに最近やたら真由にちょっかいを出す、マキシマムにうざい奴。
上位者でもないくせに、よくも人の連れに悪びれもせず声をかけられたものだ。
急いでエプロンを外して教室を駆けていく真由の後ろ姿に、私は舌打ちをした。
「嫌なら行くなって言えばいいじゃない」
いつの間にかトイレから戻ってきた心美が、 真由の使っていた椅子にどすんと座る。
「別に」
「あんたのお人好しというか、気の弱さって、見ててほんとにムカつくわ」
湿気でまとわりつく髪を片手で後ろに流す様は、我が妹ながら女優のように華麗だ。色素の薄い茶色がかった髪の毛一本一本が、蛍光灯の光をキラキラと反射させる。
「久世くんだっけ。あの子のおじいちゃん、国会議員で大臣経験者だってよ」
人のスカートをあれだけ短いと言っておきながら、今や心美だって私と同じ丈だ。それでいて大胆に足を組む姿に、男子が遠くから熱視線を送っている。
あーあ、男って。全員まとめて心美の毒牙にかかればいいんだわ。
「それが何よ。資産の話なら、大臣だろうがうちには敵わないでしょう」
「資産の話ならね。真由のおじいちゃんってそっちに力のある人だったよね。真由、変なことに巻き込まれなきゃいいけど」
「変なことって?」
そこでタイミング悪く始業の鐘の音が鳴り、心美は答えもせずに自分のキャンパスの前へ戻っていってしまった。扉の近くにいたらしい真由もすぐに戻ってきて、心美と何か短い言葉を交わすと、すぐに私の隣の、自分の椅子に座った。
今日は期末テスト後だから授業はない。だから特別教室が開かれて、今は油絵の基礎知識を教えてもらっている真っ最中。五年ほど油絵をやっていた私からすると、基礎と言っても本当に基礎で、まだ “絵を描く” 段階にまでなっていないような授業内容だから、頭の中はすぐに久世侑馬のことでいっぱいになった。
真由はなにを話してきたのだろう。あんなに短い時間だから、きっと重要な話はしてないはずだ。けれど、その短時間でさえ真由に会いに来たということは、なにか言いたいことがあったのかもしれない。
なにかって何だ?
くそっ、あいつ、あいつ、
あいつ !!!
「柊くん、僕は『右上に黄色の絵の具を真四角に塗ってください』って言ったんだよ。誰が赤色で全体を塗りつぶせって言ったの。ん?」
「す、すいません 」
肩越しに柊平くんから冷たく注意を受けると、教室はスクスクと笑い声で溢れた。隣の真由も、バカにしたような顔で私に人差し指を向ける。ま、そんな姿もすごく可愛いから、私にとってはご褒美なんだけど。
「この授業が単位に関係ないからって、女の子のことばっかり考えるのはやめてください。そういう態度、僕ビギナーなので凹みます」
柊平くんの棒読みの言葉に教室はあからさまに騒然とし、「女の子って何のこと?」と小声で話す声が、そこかしこから聞こえてくる。
「違うって。温暖化による異常気象について考えていたの。最近大雨が多いから」
「ふーん」
珍しく柊平くんが教壇に立っていることを、すっかり忘れていた。
今日は柊平くんから直接ご教授たまわれるとあり、クラスにはセツナを除く全員が揃っていて、一様にテーマパークにでも来たような浮き立ちようだ。端から端まで、見事に柊平くんの醸し出す特別感に飲み込まれている。
いくら天才の授業だからって、なにが楽しくて黄色い四角をキャンパスに塗らねばならないの。あー、もう、なんなのかしら。あれもこれも、一つが上手くいかないと全て悪い結果になる、不運な日だ。




