過去7 それは雨上がりを待つ花のような
部活を終えて寮に帰ると、真っ先に私服へ着替える。
そして結んでいた髪を解き、 癖でウェーブのかかった髪をきちんとワックスで整え、バレない程度に薄化粧をしてオフのスタイルが決まると、一息つく間もなく食堂で真由たちと合流し、賑やかで楽しい食事をはじめる。
セツナがいる時もあれば、いない時もあるので、日によってテーブルは三人だったり、四人だったりだ。
食後はそのまま上の階に上がり、談話室でクラスメイトや先輩たちとくだらないほど重要な話をして、遊び飽きると部屋に戻り、シャワールームで汗を流す。そして一日の汚れを洗ってさっぱりすると、ベランダで夜風にあたりながら、頭が空っぽになるまで夜空を眺める。
こうして身も心もリセットされると、部屋の中へ戻り、ようやくソファでくつろぎながら、冷たい緑茶を一杯飲む。
それが夜のルーティーンで、考えずとも体が動く、日々の生活習慣だ。
「ねぇ、セツナ、課題進んでる?」
「進んでないよ。 君が僕に抱きついてるから、腕が動かないんだ」
「そう。大変ね」
双子は常に一緒という概念は誰が作り出したのだろう。あんなに部屋数の多い実家だったのに、私は家を出るまでずっと玲央と同じ部屋だった。だからだろうか、部屋に誰かの気配があるのが当たり前で、逆に言えば、一人きりの家や部屋なんて、想像しただけでも不安でそわそわしてしまう。
「大変だと思うなら、離れてくれる?」
「いーや!あなただけ課題が終わるなんて不公平よ」
「不公平?」
このちょっと不思議な同居人は、玲央と少し性格が似ている。
こうしてすぐに抜け駆けをするところ。
あまり喋らないところ。
他人に興味がないところ。
だから、決して他人を否定しないところ。
入学式の夜、私のアイデンティティを打ち明けた時も、セツナは私から距離を置こうとするわけでもなく、「そうなんだ」の一言で片づけてしまった。
私の女装癖は入学式の翌朝、三十分もしない内に全校生徒に知れ渡ることとなった訳だが、それと同時に、私が同性愛者だというガセネタまでもがオマケについて回った時も、私みたいな変態同居人に腕を掴まれて廊下を歩かされているのに、セツナは何とも思っていない様子だった。
『お前とセツナ、付き合ってるって本当か?』
やっと直接聞いてくる勇者が現れたのはそれから六日も後のことで、その間セツナまで同性愛者だと噂されていたのにも関わらず……だ。
私はセツナを気に入っている。
賢くて才能のある奴は、大好きだ。
「美術部のノルマに、授業の課題に、コンクールの制作に……って、なんだかずっと絵のことばっかり考えてる気がするわ」
「ここはそういう場所だからね」
両腕を解放してあげると、それはゆるりと動き出し、水を得た魚のように次々と滑らかな曲線を描いていく。
「セツナって根っからの天才肌なのね」
「そうかな」
「スランプになったことないの?」
「スランプになるほどの才能はないよ」
「あー、それ嫌味ねー!」
「別にそういうんじゃないけどさ」
日々どんどんたまっていく課題の山に目をやりつつ、私はベッドにダイブする。
「そう言えば私、別に、絵を描かなきゃ死んじゃう、なんてタイプの人間じゃなかったわ」
なんで絵を描きはじめたのか。今となっては思い出せないほど、遥か遠い昔のことだ。ただなんとなく、心美を追いかけてはじめたということは覚えている。厳密に言えば、覚えているというよりは、漠然としたイメージだけれど。
「理央さは、自分自身で体現するタイプだから」
私は机に向かうセツナの後頭部へ視線を向ける。
「体現?」
「そう。モデルとか役者とかダンサーとかさ、そっちの方が向いてると思う」
モデルとか、役者?
そんなこと言われたこともないし、思ったこともない。
「いちいち自分の心の中を覗き込んで、言葉にしてみたり、イメージしたりして、何度も形を変えて、そこからやっと想いを紙に表すなんて焦れったいことをするよりも、瞬間的なものをそのままダイレクトに体で表す方が性に合ってると思う」
「そうかしらね」
「間違いなく絵は上手いけどね」
「そうかしらね」
「僕は好きだよ、入試の時に描いた理央のデッサン」
「そうかし……今、好きって言った?」
「そんな人が落第したら紗夜先生も悲しむから、早く課題やっちゃいなよ」
私は這うようにベッドから出ると、セツナと並んで置かれた自分の机につく。
なんだろうか。俄然やる気が出てきた。
ひたすら多角形を作るだけの、坊主のお勤めのように地道な作業が、今では明るい未来に続く、光り輝く橋のようだ。
「あれ、卑怯よね。入試のデッサンを校舎に貼り出すなんて。あんなの、テストの回答用紙を貼り出すのと一緒よ?しかもご丁寧に先輩たちが見る所に貼るなんて、プライバシーの侵害だわ」
エンジンのかかった私は、自分で言うのも何だが、とにかく凄い。溜めに溜めた課題を “天才・柳澤セツナ” を凌ぐスピードで、片っ端から片づけていく。それも、それなりのクオリティで、だ。
セツナとのお喋りもずいぶん前のことに感じた頃、やっとあらかたの作業が終わった。あれから二時間、ベストは尽くした。
乾いた喉にすっかり温くなった緑茶を流し込み、ふとセツナの姿を探すと、既にベッドに入っていて、すやすやと気持ち良さそうに眠っていた。
長身の割に童顔なので、こうして無防備な顔をしていると、こんな私でもなんだか親心が芽生えてくる。
「あー、かわいい私のベーベ!」
思わずセツナの布団をはぎ、この胸に抱きしめようとすると、思いきりセツナの足が脇腹に飛んできた。
「理央さんのベッド、 あちらです」
「起きて……たのね……」
「お陰様で、高校に入ってから寝つきが悪くなっちゃって」
こんな風に三日に一度はセツナの長い足で蹴られながら布団に潜ると、サイドテーブルのランプを消して、無事に一日が終了する。
「また明日ね、 セツナ」
「おやすみ」
こうしてまた、短く楽しい一日がカンナのように削られていく。
毎日、
気づかないほど少しずつ、
しかし確実に、残された時間は減っていく。
それを今は、
誰もが気づかないふりをしている。




