過去6 邂逅④
「セツナの手って、柊平くんの手に似てる」
ふと私が漏らした言葉に、セツナはビクリとして、瞬時に手から鉛筆を離す。理央と真由には聞こえていなかったようで、二人は宝くじを当てて、ハワイに行こうという話で盛り上がっている。
「綺麗な手だね」
「別に、普通だよ」
何か気分を害するようなことを言ったつもりはなが、今にもセツナが荷物をまとめて立ち上がりそうだったので、悪いと思い、その前に私が席を立つ。
「心美、どうしたの?」
「ちょっと外の空気吸ってくる」
「そう。窓なら全開だけどね」
騒がしいアトリエから一階に下りると、やることもないので、自販機でジュースを買い、部室の裏にあるベンチに足を組んで座った。
森からやってくる春風が通り過ぎざま、私の髪を無遠慮に乱し、どうせまた吹くからとボサボサの髪のまま缶を開けると、見上げた先に柊平くんがいた。
流れ込む液体が、気管支に入る。
「大丈夫?」
むせる私に、柊平くんは背中を軽く叩きながら覗き込む。
「今ちょうど、柊平くんのこと考えてて」
「それ、ちゃんとキリッとした顔の僕だろうね?」
「いや、厳密に言うと手だから、顔は関係ない」
柊平くんはやっと咳の止まった私の隣に座ると、ポケットからミントタブレットを取り出して、口に放り込む。その顔は緩みきって、天才の欠片もない。
私は柊平くんの手元を盗み見る。
「柊平くん、部活中に何してるの?」
「君こそ」
「ちょっと休憩」
「僕もだよ」
目前に迫る森では、伸びやかな鳥の声が幾重にも重なって響いている。なんて美しいBGMだと確かに思うのに、カッコウくらいしか種類が分からなくて、自分の知識のなさに苦笑した。
「はぁー」
「あからさまに大きなため息つくなよ。僕がクラスメイトだったら傷ついてるよ」
独りで柊平くんのことを思う存分考えようと思っていたのに、とんだ邪魔が入ったものだ。
本人が真横にいると言うのに、私は別の場所に移動しようか、頭の中で会議することにした。
「あ、今さ、 たかが二時間しか働いてないのに、こいつもう休憩かよって思ったでしょう」
「そんなまさか。邪魔だなーって思っただけ」
「……言うね」
会議と言っても、頭の中のもう一人の自分と議論するだけなので、答えはすぐに出される。ウザいと言う私に、『せっかく向こうから横に座ってきてくれたんだから、いい機会だと思ってそのままで』と言われ、はい終了。
頭の中の私は、いつだって冷静かつ常識的だ。
「保身のために言うと、僕は顧問以外の仕事も割と積極的にやってるからね。昼間は授業の手伝いと事務仕事をこなすし、出張もここの営業だったりするんだよ」
「そうですか」
「今日はテスト最終日で部活がはじまるのも早いしさ、なんだかみんな熱気ムンムンで、少し休憩したいなって思っただけ。それで、なんで僕の手のことなんて考えてたの?」
今日はよく喋るな、と思った。
たまに一年の校舎で見かけても、大抵は生徒に聞かれたことだけを答えるような、受け身な人なのに。部長クラスの親近感を、ついに私も手に入れたということか?
「セツナの手を見て、柊平くんの手を思い出しただけ」
「へぇ」
「セツナの手って凄いの。一切無駄のない動きで、あっという間に描き上げるの」
「そうなんだ」
「国立狙ってるみたいだし、鍛えてるのかもね」
「それで、なんで僕のことを思い出したの?」
柊平くんは自分の膝に肘をついて、音を立てて口の中のラムネを噛み砕く。コリコリと軽い音がして、それが不思議と信頼の証みたいに聞こえた。
「いきなり機嫌悪くならないでよ」
忙しない鳥のさえずりに、ウグイスの名前も思い出した。カッコウとウグイス。それからえっと……あ、カラスもいるか。
「質問に答えてないよ」
二人でぼんやり森を眺めながら、なんでセツナの話をしているんだろうと、今話していることを、話そうとしていることを、一瞬だけ見失う。
どうして私はセツナと柊平くんを結びつけたのだろう。
どうして私は、柊平くんの手のことを考えたいと思ったのだろう。
「えっとー。手の厚みとか、指の長さとか、血管の浮き具合とか、なんだか似てるの。だから」
再び山から強い風が吹いて、今度は二人の髪をかき上げる。柊平くんの長めの髪から、シャンプーの匂いに混ざって紗夜ちゃんの匂いもしたような気がして、私は一気に気持ちが冷めていくのを自覚した。
誰のせいでもないのに、誰かに当たりたくて仕方がない。
なんで柊平くんと一緒にいると、こうも熱せられたり冷やされたり、コロコロと気持ちが変わるのだろう。こういう小刻みな心の動きに慣れていないから、長く一緒にいると正直疲れる。
……しまった。また思考が脱線してしまった。
「柊平くんが絵を描くときも、こんな感じなのかなって。綺麗な手で、綺麗な動きをして、綺麗なものを描くのかなって」
そうだ。
私は空想したかったのだ。
もう新しい世界を描くことのない柊平くんの手を、頭の中で動かしてみたかった。
じっくりと、ずっと終わらずに。
「綺麗じゃないよ。それにこんな手、もういらない」
「じゃあ私にちょうだい。柊平くんも筆が早くて有名だったみたいだし、学生にとっては最高の手だよ」
こちらを振り返った柊平くんに、私は余裕の笑みを浮かべてみせる。ファンとしてはとてもショックな言葉に、我ながらライトに返せたと自負する。
「使えないって。もうとっくに錆びついてるよ」
「ヤスリで磨いて、油さすから大丈夫」
「買いすぎだ」
そう言って笑い声を上げる柊平くんのことを、私は素直に羨ましいと思った。
この人は、もうゴールテープを切ったのだ。私が必死にもがきながら沼地を走っているというのに、柊平くんはとっくにこのコースを走りきり、今じゃ上から私の様子を楽しげに観察している。
「ねぇ心美、もしコンクールで最優秀を取ったら、君のために絵を描いてあげるよ」
「え?」
私は缶ジュースに落としていた視線を、慌てて上げる。
「どう?得るものがあると、お祭りも楽しくなってくるでしょう?」
いたずらっぽく笑う柊平くんを見て、私は思わず立ち上がる。
「約束よ!!」
私はすっかり柊平くんに乗せられて、瞬時に最優秀を取るところまでイメージを固めた。
若くして引退したあの天才画家の新作が、再び世に出るかもしれないのだ。そう考えただけで、途端にコンクールがキラキラと輝きだす。
そら
そら、
そら。
あまりにも遠いそれに、私は必死で手を伸ばした。




