過去6 邂逅②
「いきなりすごい質問……」
「ごめんね。でも、知りたい」
「我が家では……元、我が家では、父の言うことが絶対だったの。だから、父に実母のところに行けと言われたから、従っただけ」
私は頭に浮かんだいくつかの回答に逡巡した後、試しに一番単純な答えを選んでみる。
「だったら理央と一緒にいるとき、もっと嬉しそうにしたら?」
「嬉しくしてるように見えない?」
「あんまりね。ありがとう」
それだけ聞くと柊平くんはしゃがんで、再び絵の具の確認をしはじめる。そんな柊平くんの背中に向かって、今度は私が声をかけた。
「柊平くんは?」
「うん?」
「どうして絵を描かないの?」
私の質問に、柊平くんは振り向きもせずに答える。
「一言で言えば、描きたいものがない」
なんだ。柊平くんも腹の内を見せるつもりなんてないじゃないか。私たちの距離感なんて、まだまだこんなものか。
私はこちらを見ない柊平くんに首をすくめ、残念な表情をしてみせた。
「そうなんだ。あんなに素敵な絵を描けるのに、勿体ない」
「僕の絵、見たことがあるの?」
「子供のころ、父の知り合いの画廊で。最初に見たは古城のやつ。二枚目は『サルヴァツィオーネ』」
「ああ、確か十年近く前に、銀座の画廊に出したことがある。君は今でも子供だけどね」
「サルヴァツィオーネの方は、将来私が買い取るつもり」
私が誰にも話したことのない小さな夢を言葉にすると、柊平くんはククク、と小さく笑い、私を見た。
「毎度あり。残念ながら、 大きな夢にはならないだろうけど」
「あんなに引き込まれたのは、あの絵だけ」
「あれは高二の秋に描いたやつかな。そんなに褒めていただけて、嬉しい限りでございます」
高二であの絵を?私もあと一年半で、あんな絵が描けるだろうか。
そしてふと、かつて疑問だったことを口にしてみた。
「あの女性は、誰?」
またはぐらかされるかな……と思ったものの、柊平くんの返答はちゃんとしたものだった。
「母だよ。僕を生んで大損をした、僕の母親」
柊平くんは手の動きを休めることなく、そうぽつりと呟く。
「お母さん?」
「自分で言うのも恥ずかしいけどさ、とても優しくて、綺麗な人だったんだよ。父以外の人を好きになってれば、もっと違う人生があったのにね」
返事の後半は、私に向けられた言葉ではないと理解したので、それ以上のことは聞けなかった。
しばらくして、ダンボールの中身が無くなったところで、真由と理央がアトリエに入ってきた。
「あ、ちょっと!なによ、これ!」
ピタリと閉まったドア越しに、理央の叫び声が響く。きっとアトリエのテーブルに出しっ放しにしてある、天むすの空き箱を見つけたのだろう。向こうで騒ぎだす二人の声を聞いて、柊平くんは笑いを堪えながら立ち上がる。
「今日も元気いいな」
気の緩んだ柊平くんのそんな顔を見て、私は理央に対し、瞬間的に強烈な苛立ちを覚えた。
「遅いよ、二人とも。もう仕分け終わっちゃったよ」
「ねえ、これ天むす?どうしたの?出張のお土産?」
柊平くんが準備室から出て行くと、さっそく二人の「私も欲しい」アピールがはじまる。
「ごめんごめん、一人分しかないんだよ。また買ってきてあげるから」
私はプライドを逆撫でする荒んだ気持ちを落ち着かせてから、そろりと準備室を出る。すると案の定、理央と真由は私の姿を見て更に騒ぎだす。
「あ!心美!あんたどこ行ってたのよ!」
「心美がいなくて、五分もご飯食べるの待ってたんだからね。理央なんて空腹で倒れそうだったんだよ。先に来るなら、一言くらい言ってよね!」
真由の言葉に、「そうよ、そうよ」と理央も加勢する。
「言ったら絶対について来るでしょう?」
他人のくせにそっくりな表情で怒る二人の姿に、私は肩から力が抜けていく感覚に襲われた。この二人、高校に入ってから更に似てきているような気がする。夜な夜な血でも飲み合っているのだろうか。
「一人で天むす食べたいからってひどいわ!!ケチ!!」
「そうだよ!私も一つくらい食べたかった!」
「もう、うるさいな。これは来てから貰ったの!それまで知らなかったの!」
こうして早速いざこざを起こしている私たちに、柊平くんはとうとう声をあげて笑いだした。
私たちは一斉に柊平くんを睨む。
「まりこ会は今日も絶好調だね」
「笑い事じゃないですけど!」
三人の返答が、寸分違わずピタリと揃う。
「今は分からないかもしれないけど、天むす一つで喧嘩ができるって、とても幸せなことなんだよ?」
柊平くんは可笑しくて仕方のない様子で、理央の頭をぽんぽんと軽く撫でる。理央はその手を贅沢にも払い退けると、柊平くんに一歩詰め寄った。
「そりゃ、あっちこっち出張してる人には珍しくないかもしれないけど、私たちからすれば、天むすなんて滅多にお目にかかれない物なんですからね?」
間近に並ぶ二人の横顔を見て、私は理央の背が、柊平くんの目の高さに追いつくほど伸びたことに気がついた。柊平くんの背は私より頭一つ分大きい。ということは、私が近くで理央の顔を見ようとすると、顔を上に向けねばならないということだ。ずっと同じくらいの背丈だと思っていたのに、いつの間にか私だけ、成長が止まってしまったらしい。
「また買ってくるって。ああそうだ、せっかく三人集まったなら、ちょっとお使い頼まれてくれないかな?職員室まで、ロールキャンバスとクロッキー帳を取りに行ってきてよ」
いい加減に私たちのことが面倒になったのか、単に仕事の邪魔だったのか、私たち三人は柊平くんに部室を追い出されると、言われた通りお使いをしに、台車を押しながら職員室へ向かうことにした。
外に出ると穏やかな青空に綿あめみたいな雲が一つだけ浮いていて、それはせわしなく山の向こうへ流れていくので、きっと上空は風が強いのだろう。
入学式の頃はあんなに色素の薄かった空も、今では幾分濃い青をしている。最近の暖かさで、徐々に自分本来の色を思い出しているのかもしれない。
「心美、ぬーけーがーけー!」
部室から少し離れると、真由が私の腕に絡みつく。
「言ってくれたら邪魔しなかったのに。ねぇ、理央?」
真由にそう言われ、ミニスカートから惜しみなく生足を晒している理央が、ちらりと私を見る。
「そうよ。密室で何やってたわけ?もう付き合ってるとか?」
「別にそういうんじゃないから」
私はできるだけ軽くあしらおうと、片手を振って断言してみせる。
「そういうのじゃなかったら、何よ?ねぇ、真由?」
「心美が柊平くんのこと好きだってこと、もうとっくにバレてますもんねー」
「ねー、私たちに嘘はつけないですよねー」
「ねー!」
底知れぬ好奇心の二人に、私はうんざりを通り越して、この高校を二人に紹介したその瞬間から後悔をした。
「あーもー本当にうるさい。興味はあるけど、恋愛感情とかじゃなくて、尊敬の方だから」
「そんけい……?」
「小学生の時から好きだったの、柊平くんの絵。本当にそれだけ。もういいね!」
そう言って振り切るように駆け出すと、ゴロゴロと騒音を立てて、台車を押しながら二人が追いかけてくる。
「どういうこと?それ、どういうこと!?」
「前から柊平くんのこと知ってたなんて、一度も聞いたことないよー?」
毎年必ずリレーの選手に選ばれていた俊足の私を、大して足が速くもない二人がものすごい形相で追いかてくる。そのうちの片方は自分と半分血の繋がっている人間であろうとは、思いたくない光景だった。
私は大声を張り上げる。
「だから!たまたま小学生の時に柊平くんの絵を見ただけ!」
「なんで今まで言ってくれなかったのよ!柊平くんのことだって、ずっと知らないフリして!」
「入学式で名前を聞いた時に、はじめてあの人が藤堂柊平だってことを知ったの!」
「だったらその時に言ってくれてもいいでしょ!」
「そんなに重要なことじゃないから言わなかっただけ!」
「重要よー!あんたはいつもそう!秘密主義もいい加減にしなさいよー!!」
大声で叫びながら追いかけっこをする私たちのことを、運動部の生徒たちが不思議そうに眺めてくる。私にはそれが堪え難いほど恥ずかしくて、中三の体育祭の時より本気のスピードで裏庭を駆け抜けた。




