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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
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過去6 邂逅


 入学して早くも二ヶ月が過きた。


 一学期の中間テストを終えたばかり私は、テストの出来に一喜一憂するクラスメイトを横目に、そそくさとカバンに荷物を入れ、真由と理央に捕まるよりも先に教室を飛び出した。


 時刻は十二時を少し過ぎたところ。


 今ならまだ間に合うかもしれない。


 私は突風のように玄関を抜け、部室を目指して校舎の際を駆けた。学食のところで先輩に声をかけられたような気もするが、それも無視して私は走る。


 だんだんと重くなる足に力を込め、 部室へ続く一本道に入ると、更に加速をつけた。


「あっ!」


 視線の先に人影を見つけ、 私は嬉しくなって思いきり息を吸う。


「柊平くん!」


 遠くに小さく見える柊平くんに、私は走りながら大きく手を振る。私の声に気づいたのか、柊平くんは手を振り返してくれると、その場にとどまって息が上がる私を迎えてくれた。


「おかえりなさい、柊平くん」

「ただいま。テスト、どうだった?」

「問題ないと思う」


 急いで息を整え、私たちは外階段を上った。



 柊平くんが回したドアノブが難なく回るのを見て、鍵が掛かっていないと知った私は、とてもがっかりした。つまり、もう中には部長がいるというとだ。


 ドアを開けると、案の定、梅原部長がイーゼルを引っ張り出しているところだった。


 あんなに早く走ってきたのに、三年生は校舎が近くてずるい。


「あ、先生。おかえり」

「ただいま。テスト、どうだった?」

「んー、まぁまぁかな」


 今さっき私にしたのと同じ質問をする柊平くんにも、私はがっかりした。これ以上がっかりしたら、もう夢も希望も持てない。


 期待した私が悪いのかもしれないけれど、こんな展開じゃ、とてもつまらないじゃないか。


 梅原部長はイーゼルを組み立てながら、柊平くんを見る。


「フランスはどうだった?」

「なんか暑くてさ、向こうで半袖のシャツ買っちゃったよ」

「モナリザの?」


 そんな部長の質問に、


「僕、アイラブパリス派だから」


 と柊平くんが返すと、次の瞬間には二人で笑い転げはじめた。


「パリだよ?絶対モナリザでしょ!」

「モナリザはバリエーションが山みたいにあってさ、いつも迷って結局決まらないんだよ」

「いつもって!」


 ゲラゲラと笑う部長とは裏腹に、なにが面白いのか一ミリも理解できなかった私は、三人分の紅茶を用意するために、一階の給湯室へ行くことにした。


 寸胴の薄いグラスに誰かが朝一で作って冷やしておいた紅茶を注ぎ、冷蔵庫からレモンも取り出すと、半分は絞り、半分は薄切りにしてグラスに飾る。先輩お手製の紅茶シロップをそれぞれのグラスにたっぷり三杯入れたところで、自分が用意したものが牛乳ではなくレモンだったことに気がつき、一瞬思考が停止した。


 レモンティーは甘さが控えめくらいが美味しいのに、これじゃジュースだ。


 ミスをしたことに苛立ちながら二階のアトリエに戻ると、部長の姿はもうなくなっていた。


 テーブルに置いたグラスの中で、琥珀色のレモンティーが、陽の光を反射してキラキラと輝いている。


「部長は?」

「帰ったよ。イーゼルの調子が悪いから、ネジをはめに来たらしい。そんなの言ってくれれば、僕がやるのにね」


 柊平くんはグラスを取ると、 優雅な動作でストローに口をつける。


「うん、絶妙な酸味だ。心美の作るレモンティーが一番好きだよ」

「今日のはちょっと甘すぎると思う。先輩たちに作るミルクティーには多めにシロップを入れるから、癖でついいっぱい入れちゃった」

「疲れてたから、甘くて美味しいよ」


 開け放たれた窓から、風にのって遠くの喧騒が入ってくる。やっとテスト期間から解放された、楽しく晴れやかなランチタイムに、みんな心からはしゃいでいるのだろう。


 まるで違う世界のようだと、私は二人きりの静かな空間で深く息を吸った。


「そうだ。はいこれ、お土産」

「お土産?」

「名古屋名物の天むすだよ。お昼まだでしょう?食べていってよ」


 いい香りのする和紙を開けると、中から小ぶりのおにぎりが五つも出てきた。端っこには、とり天まで添えられている。


「わぁ!美味しそう!エビ天が入ってる!柊平くんは?」

「僕は移動中に食べたので」

「一緒に食べればよかったのに」

「ここを一週間も空けてたから、色々とやらなきゃいけないことがあるんだよ。食べてる間にやっちゃうから、ちょっと待ってて」


 柊平くんが奥の部屋へ消えるのを見届けると、私は天むすをてっぺんから食べはじめた。


 はじめて食べた天むすは、瞬く間に私の胃に収まっていき、食後にゆったりレモンティーを飲んでいると、ダンボールを抱えた柊平くんが開けっ放しにしてあるアトリエの扉から入ってきた。


「そのダンボール、なに?」

「絵の具だよ」


 柊平くんは重たそうに奥の部屋へ入ると、大きな音を立ててそれを机に置く。


「今から仕分けるの?」

「そう。発注してたの、すっかり忘れてた」

「私も手伝うよ。天むすのお礼に」

「悪いね。けっこう手間なんだよ、これ」


 私と柊平くんはダンボールを開けると、中身を一つずつ確認しながら、種類ごとにそれぞれの引き出しに絵の具を入れていく。


 絵の具は大まかな種類だけでも、パステル、アクリル、透明水彩、ガッシュ、ポスターカラー、日本画用、版画用、そして油絵の具……と、用途によって様々な種類があり、そのうえ更に、特色の違うメーカー毎に、間違えずに棚に入れなければならない。


 定番のものなら外見をぱっと見てどの種類の絵の具かすぐに分かるけれど、海外製の珍しいものだと、一目ではなかなか見分けがつかないから面倒だ。


 オーバーな例えをするならば、透明水彩で描いている最中に、突然ポスターカラーがパレットに出てきたら、間違いなく大問題になってしまう。だからこの作業は、間違う訳にはいかない重要な作業なのだ。


「えっと、これは」

「それ、アクリルだよ。寒色は右の方に。あと、固形は基本的に奥側ね」

「はい。あ、これターナーだ」

「ターナーはそっち」


 テキパキと指示を出す柊平くんを見て、本当にここの先輩だったんだな、と実感した。


 私が柊平くんの絵をはじめて見たのは小一の夏、父の知り合いの画廊に行った時に見た、スロバキアの古城の絵だった。


 ややイラスト調に描かれたそれは、今にもお姫様が塔の窓を開けて挨拶をしてきそうな、幻想的な世界観だった。その絵に触発されて、母にわがままを言い、テーマパークに連れて行ってもらったことがある。とても楽しみにしていたものの、絵の中のお城とテーマパークのお城とではあまりにも雰囲気が違っていて、結局、終始はしゃいでいたのは理央の方だった。


 それから数年後に同じ画廊で見た絵は、お城の絵とは打って変わり、死体の転がる瓦礫の山の上で、ボロボロのドレスをまとった女性が天を指差しているものだった。晴れやかな天の様子と、おどろおどろしい下界の雰囲気が妙なコントラストをしていて、恐ろしいのに見入ってしまう、そんな作品だった。父が用事を済ませている三時間もの間、私は片時もその絵の前から離れられなかった。


 私がこの学校に是非とも来たかった理由は、全寮制であることと、なによりこの藤堂柊平が通っていた学校、というのが、大きなポイントだった。


 別に本人に会いたいとか、指導をしてもらいたいとか、そんな願望はなかった。ただどうしても、あの作品を作った人と同じ景色を見て、同じ空気を感じたかった。


 だから、私のすぐ横であの藤堂柊平が生きて動いている様は、非常に不思議な感覚だ。


「ねえ、プライベートな質問をしていいかな?」


 黙々と作業をしていた柊平くんが、立ち上がって私を見る。


 “あの天才が、私だけを見ている”


 二ヶ月が過ぎても、一対一はやっぱり慣れない。


「はい。どうぞ」

「ものすごくデリケートな話だから、 言いたくなかったら言わなくていいよ」

「分かった」


 柊平くんは癖で、壁に寄りかかりながら足を交差させる。


「心美と理央の関係性を知った上で聞くね。どうして心美は家を離れたの?つまり、どうして理央の元から離れたの?」




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