過去5 コンフェッション②
先生はそこで言葉を止め、奪った命で縛りつけられる私を、惨憺たる相貌で見つめた。
会話が止まった病室の中は、ここが地獄の果てであるかのように静まり返る。
「ありがとうございました」
私は蹌踉と立ち上がり、頭を下げた。これだけ聞ければもう充分だったし、弱りきった橘先生に、これ以上語らせるのは酷だと思った。
けれど先生は目を離さずに、私に命令する。
「まだよ。座りなさい」
「でも……」
「マリーが死んだのは、あなたのせいではないわ。でもあなたには、全てを聞く責任があるでしょう。そのために、ここへ来たのでしょう」
先生は自らの手で涙の線を拭うと、唸り声を出して体を起こそうとする。私がとっさに抱きかかえるように支えると、折れてしまいそうなその華奢な体から、沈澱された念が伝わってくるような気がした。
先生は自分の余命を知っているのだろうか。
もしかしたら、私にこの事実を伝えることは、人生最後の使命だと思っているのかもしれない。そう思うと、私の足は否が応にもその場にとどまった。
「マリーを殺すのに与えられた期間は、一ヶ月。その間、理事長は柊平をヨーロッパに行かせた。その方が邪魔が入らないし、私もしっかり別れの準備ができるからって。本当はね、年始早々には、あなたの元に心臓が届くようにしたかったの。けれど、昼に決意をしても、夜になるとどうしてもためらってしまう……。そんな日々が続いて、柊平の帰国日も、あっという間に近づいてきた。そしてあなたに残された時間も、もうほんの僅かだった」
私は息も絶え絶えだった当時のことを思い出す。
いよいよ死を覚悟して眠りについた夜。ちゃんと目が覚めて、ほっと胸をなでおろした朝。
大事な稼ぎを私の為に使わせてしまった父に、毎日疲れた顔もせず看病してくれた母。そして、まだまだ甘えたい盛りの大事な時期に、半ば両親を奪ってしまった弟には、今でも感謝しきれない。
退院して家でお祝いをした日は、本当にみんなが幸せだった。ようやく苦労の日々が報われたと、これ以上ない幸福に包まれていた。
その裏で泣いている人がたくさんいたことは、ちゃんと知っているはずだった。
知っていたはずだけど……。
「いよいよ柊平が帰ってくる前日、私は重い腰を上げて、ようやく動きだした。柊平の筆跡を真似てマリーへ手紙を出し、夜になったら、部室の外階段まで来るように伝えたの。私は凍えそうな闇夜の中、アトリエに潜んで待った。その時が来るまで、永遠のように長い間……。マリーは約束の時間より少し早くに、なにも疑わずその場所へやって来た。私は脂汗をかきながら、震える体をやっとのことで動かした。その瞬間は、無だった。感情も、周りの音も、空気すら、なにもないに等しかった。マリーは落ちていった。とっさに振り返って、私の顔を疑問符のついた表情で見つめながら……」
ふぅーと、先生は深く息を吐いた。
まるでたった今もう一度、茉莉子を突き飛ばしたかのように。
「私はすぐに救急車を呼びながらマリーに駆け寄った。その時よ、マリーのお腹の大きさに気がついたのは。後から聞いた話だと、私はすっかりパニックになっていて、救急隊に何度も何度も、子供を救うように迫っていたみたい。病院に着いた時には、もうマリーに脳波はなかった。私は理事長から、誰もいない病院のロビーで、深く感謝されたわ。マリーの心臓はまだ動いていたから、これで全て、願った通りに事が進むと」
「赤ちゃんは……セツナくんは……」
「マリーの両親には、最後まで伝えなかった。お腹の傷は、治療痕だと言い通した。誰にも言うなと、理事長が指示をしたから」
「柊平さんは知ってました」
「そうね。父親は柊平しか考えられなかったし、柊平にマリーが亡くなったことを伝えたら、真っ先に子供のことを聞いてきたわ。驚いたけど、彼には事実を伝えた」
「でも、茉莉子さんは柊平さんに妊娠したことは伝えていませんでした」
「柊平の観察力なら、もしかしたらマリーの変化に、勘づいてたのかもしれないわね」
力なく微笑む橘先生に、私はもう感情を示す気力すら失っていた。
「以上よ。私があなたに言わなければならなかったことは」
「どうして橘先生は大叔父の指示に従ったのですか。茉莉子さんの命に比べたら、私の病気なんていくらでも放っておける」
「歯向かえなかったのよ……愛していたから」
そうして先生は天井に視線を移すと、自虐的に口元を歪めた。
「別に、理由なんてないわ。何十年も、特別に可愛がってくれたんだもの、仕方ないでしょう。それに、あそこで生きていく以外のことは、どうしても考えられなかった。柊平のこともそう。私は、私のことが一番可愛かったのよ。でも結局は罪悪感に押しつぶされて、数年後には学校を去ったけれど。柊平とも、こんな風になるまでは、ずっと関わりを絶っていたし、こうして死んでいくのも、当然の報いだと思ってる」
私は心臓と記憶を共有してから今までずっと、茉莉子は橘先生に突き落とされた、可哀想な被害者だと思っていた。だから、私が代わりに、茉莉子の分まで精一杯生きていこうと心に決めていた。
けれど蓋を開けてみれば、茉莉子が死ぬ羽目になった原因は私で、もっと言えば、橘先生にここまでの罪を背負わせてしまった、諸悪の根源でもあった。
「先生……先生は、被害者でしょう」
私は生きていくだけで人を不幸にしていく。家族、茉莉子さん、柊平さん、セツナくん、そして、橘先生。
今まで一体、どれだけの人の人生を狂わせてきたのだろう。
「全ては、もう過ぎてしまったこと。残っているのは、あのころ誰もが抱いていた苦悩の、杳々とした残像だけ……」
橘先生は、優しい瞳で私の頬を撫でる。
「私に残された時間は、とても短いの。だから紗夜さん、一つだけ、頼みごとを聞いてもらえないかしら」
「はい……」
「柊平に、手料理を作ってあげてくれる?手の込んだものでなくていいの。あなたが毎日、お母様に作ってもらっていたような、日常的なものでいいから。それを、温かなうちに、柊平に食べさせてあげてちょうだい」
その願いの真意は分からない。けれど、それで先生の気持ちが楽になればと、私は深く頷いた。
「ありがとう。私にできることは、ここまでね」
言い終えると橘先生はゆっくりとベッドに体を沈め、私が見守る中、静かに眠りについた。
私は先生の穏やかな寝顔を目に焼きつけると、なんとか足を立たせ、病室を後にした。
花瓶を持って出て行ったはずの柊平さんは、長い廊下の向こうにいた。私はこれからどうすべきか考えながら、ゆっくりと柊平さんの元へ歩きだす。
面会前は「やっぱり犯人は橘先生でした。私、ついに真実を見つけたんです!」くらいのことは言えると想像していたのに、まさか「茉莉子さんを死に追いやった原因は紛れもなくこの私でした」なんて、柊平さんに合わせる顔もない。
私は、このまま柊平さんを残してそっと帰ってしまおうか……と卑怯なことを考えた。けれど同じ職場に勤めているのだから、明日にでも会う機会はあるわけで、橘先生との最後の約束も守らなければいけない以上、どうしてもここから逃げるわけにはいかなかった。どうしても……。
暑いほどに照りつける都会の陽射しに、私の心は更に色濃く影を落とす。長い長い廊下を、私は絞首台に向かう死刑囚のような気持ちで歩いた。
いよいよ目前に迫った柊平さんはソファーに深く座り、ぼんやりと中庭の風景を眺めていた。バラの花束も花瓶も、その近くにはなかった。
「話は済んだ?」
「はい 」
私の返事に立ち上がると、柊平さんは私に向き直る。
「もう、橘先生に聞きたいことはない?」
「はい」
「紗夜さん」
「はい」
「俺の顔を見てごらん」
頭上から、それは優しい声が降ってくる。
「今は、見れません」
うつむいた顔から、私の意思とは関係なく、重力に負けて涙が一滴、ぽたりと落ちる。それは二人の足元で陽の光を反射して、嫌味なほどキラキラと輝いた。
「紗夜さんが橘先生と何を話してきたのかは聞きません。涙を流すような話だったとしても、所詮、人は他人の痛みなんて分からないから、聞いたところで俺が紗夜さんを助けてあげられる術はない。でもね」
柊平さんの細くて長い指が、昨夜と何ら変わることなく、私の頬をふわりと包む。
「紗夜さんは来られたんだよ。俺や、橘先生のところまで。探し求めた結果は予想と違ったのかもしれない。けど、それはすごいことでしょ?リンゴさえろくに描けなかった子が、今では芸術家の卵に絵の描き方を教えてるんだよ」
柊平さんは手に力を込めて、私の顔を無理矢理上へ向かせる。私は涙で視界が滲んで、柊平さんがどういう表情をしているのか、よく分からなかった。
「茉莉子に絵を教えもらっただけで、ここまで来られたわけじゃないだろう。必死に勉強して、ヨーロッパまで一人で旅をして、沢山悩みながら、紗夜ちゃん先生になったんだろう?」
我慢できずに嗚咽が漏れる私を、柊平さんが抱きしめる。私は柊平くんの胸の中で、涙を止めようと必死にもがいた。
泣いていいのは私じゃない。
私には、泣く資格すらない。
「茉莉子の心臓が紗夜さんにいって良かったって、あれは絶対に嘘じゃないから」
陽だまりの病院の中で、私はただ、嵐がすぎ去るのをじっと待った。
帰りの新幹線の中では、ほとんど眠りについていた。
小刻みに小さな夢をいくつも見ては、その都度目を覚まし、柊平さんから「大丈夫?」と声をかけてもらう。悪夢もあれば、それなにり幸せな夢もあって、起きた時に柊平さんと目が合うと、やっぱり心の奥の方でほっとした。
「あの、柊平さん」
「はい」
次の駅で下車というところで、 病院を出てから初めて会話らしい会話をした。
「カツサンドの件、どうでしたか?」
「ああ、あれね。うん、どうということもなかったです」
「と、言うと……?」
すっかり目がさえた私は、柊平くんからドーナツを貰い、一気に半分を頬張る。甘くてじゃりじゃりとした砂糖が、暇を持て余す胃を刺激した。
カツサンドの件とは、セツナくんの大好物であるカツサンドを、密かに作ってプレゼントしようという柊平さんと私の計画だ。入学式の後、セツナくんが必ず美術部へ来るのは分かっていたし、セツナくんがカツサンドを特別に好んでいたというのは、養父母から仕入れた、信憑性のあるネタだった。
あれからもうすぐ一ヶ月が過ぎようとしているのに、何かと忙しくて結果を聞くのが今頃になってしまった。
「なんかさ、理央がさ、全部食べちゃったんだよね」
「理央……柊理央?」
「あの二人、真逆な性格なのに気が合うみたいでさ、はじめて部室に来た時も、二人だったんだよ」
「じゃあ、セツナくんからの反応は、なし?」
「はい」
がっかりと言うより、また柊くんの名前が出てきて、どっと疲れが押し寄せる。
「なんか、すみませんね、うちの理央が……」
「いえいえ、何だってそう簡単には行きませんから」
普段は苗字で呼んでいるのに、気取ってファーストネームを使ってみると、なんだかしっくりきてしまった。私も理央と呼んでみようか。その方が、多少のやんちゃも可愛いと思えるかもしれない。
「セツナくん、ちゃんと真面目に授業受けてますよ。なんでもそつなくこなすので、他のクラスメイトから一目置かれてます。最初は少し浮いてたんですけど、あの理央くんがつきまとってるので、今ではすっかり打ち解けてクラスのまとめ役です」
まとめ役……とは言ってはみたものの、実際のところは無口な王様と言った方が的確で、他の生徒はどれだけ嫌な役が回ってきたとしても、セツナくんに見つめられれば即答でオッケーしてしまうような、そんな立ち位置だった。
でもお父さんへの報告なのだから、このくらいオブラートに包んだ方がいいと思い、そのまま訂正はしなかった。
「そうですか。それで、心美ちゃんの様子はどう?」
「ここみちゃん……?あ、櫻井さん?どうかしました?」
柊平くんから予想外の名前が出てきたので、私は慌てて彼女の情報を思い出す。彼女も美術部員だ。私のクラスの美術部員は全員で五名。そのうちの一人、櫻井心美。
「うん、別にどうってことはないんだけど、少し気になってね」
「気になる、ですか。特に変わったところはありませんよ?」
「本質的に、俺に似てるところがあるんだよね、あの子。だから少し気になるんだ」
似てる……とは、具体的にどういった部分なのだろう。それを訊くよりも前に、新幹線はホームに滑り込んだ。
橘先生が亡くなったのは、それから半月後のことだった。
最期は大叔父と柊平くんに看取られ、安らかに旅立っていった。




