過去5 コンフェッション
私たちのこの関係は、どう言い表せばいいんだろう。
同僚とはっきり切り捨てることはできないし、決して恋人ではない。かといって友人とも全く違う。
私は柊平さんがお風呂からあがるのを待ちながら、すりゴマをほうれん草に和えた。
「うーん、ちょっと甘いかな」
時刻は二十時になったところで、テレビでは聞き慣れたメロディで音楽番組がはじまった。
金曜日の夜、明日からはゴールデンウィークだ。
「お待たせ、なにか手伝おうか?」
「ちょうど出来たところなので、味見してもらえますか?」
春もすっかり進み、お風呂あがりにTシャツ一枚の柊平さんがこちらへ寄ってくる。横へ立つと、洗いたてのシャンプーのいい匂いがふわりと漂い、思わず彼の首元へ鼻先を上げてしまう。
「え、そっち、先?」
ボウルから菜箸でほうれん草を持ち上げている柊平さんが、意外そうに私を見下ろす。
目が合うと、私は一気に顔が熱くなった。
「ちっ、違います!間違えました……」
「せっかくの料理が冷めちゃうから、先に食事がいいな」
柊平さんは手の平のほうれん草を口に入れると、「美味しい」と笑ってくれた。
普段、家でなんて絶対にやらないのに、丁寧に二度揚げしたから揚げを食卓に移すと、私たちは手を合わせた。
お腹が空いていたのか、柊平さんは私が作った料理をテンポよく口に運んでいく。そんな姿を見て、私の体はとても優しい空気に包まれた。生徒に対するものとはまるで違う与える喜びに、私は心が安定していくのを感じる。
「このアーティストさ、何回か俺にCDジャケットを描いて欲しいって頼んできてくれたんだよね」
つけっぱなしにしているテレビでは、学生の間で流行っている若手バンドが、テレビ初披露の新曲を熱唱している。
「凄いじゃないですか。今注目株ですよ、この子たち」
なんでも、まだ十代のボーカルが作詞作曲からアレンジまで、曲作りの全てをこなしているとか。CM起用も多くなってきていて、今歌っている曲は、話題になってる映画の主題歌だ。
「歌詞とか態度とか見てると生意気そうでしょ?でも実際は腰が低くて、最初のコンタクトも直筆の手紙だったんだよね。俺の複製画もスタジオに飾ってくれててさ、一度だけ会ったけど、とてもいい子たちだったよ」
「今どきの子が直筆の手紙って、相当ですよ。描いてあげないんですか?」
曲が終わると、スタジオでは大歓声があがる。そのままCMに突入すると、ちょうど今披露していた曲のCMが流れはじめた。ミュージックビデオの世界観が、確かに柊平さんの描く世界とよく似ている。紙で作られたおもちゃのような夜の森に、青いウサギがいくつも跳ね、奥のステージではタキシードを着たメンバーが、動物たちを前に曲を演奏している。
「今はもうオリジナルを描くほどの熱量がないんだ。描きたくないって訳ではないけど、情熱的に誘ってくれる人たちに応えられるほどのやる気が、どうしても出てこない。せっかくやるなら、お互いのテンションがイコールになった方がいいからね。とても有り難いし、申し訳ないとも思ってるんだけど……。あ、この最後のから揚げ、もらってもいい?」
「どうぞ。でも柊平さんの新作を待ち望んでいる人は沢山いると思うし、私も見たい……かな。これがプレッシャーですよね。ごめんなさい」
私はやわらかな里芋の煮物をひたすら噛み続けながら、あわよくば……と、柊平さんの返事を待つ。
「才能は枯れたと思ってくれて構わないよ。なんて言うの、二十過ぎればただの人?今さら気合いを入れて描いて、酷評されても傷つくしね。生徒を評価する立場の人間が、こんなこと言っていいか分からないけど」
「そうですか……」
ここで「じゃあ描こうかな」と言ってくれなかった柊平さんにがっかりしつつ、私のために描く理由はどこにもないな……と、淡い期待をした自分を嗤った。
「洗い物は俺がやるので」
と言ってくれた柊平さんの言葉に甘えると、私はぬめり一つなくきれいに掃除された浴室で、少し長めに湯船に浸かった。
私たちのこの関係は、なんと言えばいいのだろう。
少し考えたところで、どうせ誰かに説明する機会はないのだからと、思考そのものをストップさせた。
逆上せるギリギリのところでお風呂からあがると、柊平さんが私のために用意してくれたドライヤーでよく髪を乾かしてから、居間に戻る。するとちょうど柊平さんが誰かと電話をしていたので、私は入るのを遠慮して縁側から月夜を見上げることにした。
雲一つない空に、眩しいほどの月が浮かんでいる。柔らかな夜風が火照った頬を撫で、とても気分がいい。
「待たせちゃってごめんね、湯冷めしちゃうから中に入ろう」
いつの間にか電話を終えた柊平さんが背中から腕を回し、耳元で低く囁く。そうしてそのままなだれこむように布団に入ると、また一つ、私たちは言い表しようのない深い関係になった。
翌日、新幹線は定刻通りに東京駅のホームに到着した。
柊平さんの後について改札を出ると、久々に見る大都会の人の多さに圧倒させられた。学生時代はなんてことなかったこの混雑も、田舎暮らしをしている今となっては信じられないくらい息の詰まるものに感じてしまって、よくこんな街でのびのびと生活していたと十年前の自分に恐れ入った。
私たちは駅中のレストランで昼食を済ませると、タクシーを捕まえて三十分ほど東京の街を走る。途中、花屋に寄り、着いた先は大きな総合病院だった。
「ここ、ですか?」
「うん。ここに橘先生がいる」
まさか、想像すらしていなかった場所に、私は戸惑いを隠せない。
「日によって体調の変化が激しいみたいなんだけど、家を出るときに看護師さんに電話をしたら、今日は会話程度なら大丈夫だって言われたから安心して」
「安心してって、橘先生、ご病気なんですか?」
病院特有の匂いの中、柊平さんは大きな病棟の中を少しも迷わず進んでいく。きっとここへ来たのは、一度や二度じゃないはずだ。
「元々は胃ガンだったんだけど、それが全身に回っちゃって、今は脳にまで転移してるんだ。だから、話せない日も多々あるみたいで」
「それって……」
「末期ガンだね。余命ももうそんなにないと思う。会いたかったのなら、ラッキーだったよ」
一昔前の病院とはずいぶんイメージの違う、燦々と日光の差す広い廊下をひたすら歩いた先に、橘先生の病室はあった。
「橘先生、柊平です」
柊平さんはノックとともに名前を告げると、返事も聞かずに引き戸を開ける。
「先生、紗夜さんを連れてきましたよ」
柊平さんに続いて病室に入ると、特別室の大きなベッドに横たわった橘先生が私の顔を見てにこりと笑った。
状況はよろしくないが、とにかく会えた。今はそれで良しとした。
「はじめまして。先生がご病気だったとは知らず、押しかけてしまって申し訳ありません」
記憶の中の先生と照らし合わせると随分と痩せてしまっているけど、それでもそこにいる女性は間違いなく橘先生で、病に侵されてもなお凛とする姿はあの頃と同じままだった。
「あら、バラを持ってきてくれたのね」
私が抱える真っ赤なバラの花束に、先生は目を細める。
「はい。先生のために」
私はそれを先生の胸の上にのせると、先生はほころんだ顔で、幸せそうに顔を寄せた。
「いい香り……最近じゃ花を持ってきてくれる人もいなくてね。ずっと寂しい思いをしていたの」
先生がそう言ったところで、私は病院に生花を持ってきてしまったことに気がついた。その大失態に柊平くんを見ると、「許可は取ってあるよ」と頷いてくれた。
「紗夜さん、素敵なプレゼントをありがとう。とても気分が晴れたわ」
しっかりとした視線で私を見つめる先生に、少しだけほっとした。
「柊平、クローゼットの中に花瓶があったはずなの。外で洗って、このバラを生けてきてくれる?この部屋の流しだと、少し狭いと思うのよね」
柊平さんは先生の言いつけ通りに動き出すと、ガラス細工が美しい花瓶と花束を持って、病室を後にした。
その場に残された私は、先生に勧められてベッドサイドの椅子に腰かける。どうやって話を切り出そうか悩んでいる最中、先に口を開いたのは橘先生だった。
「今日は遠いところ、わざわざ会いに来てくれてありがとう。私も、マリーに会いたかったのよ」
マリーとは、先生が使っていた茉莉子のあだ名だ。その懐かしい響きに、私は息を飲む。
「やはりご存知でしたか。私が茉莉子さんから心臓を譲り受けたこと」
「ええ。それに、いつかマリーが私を殺しに来ることも、知っていたわ」
「殺しに来る……?」
その言葉に、茉莉子が最期、橘先生の姿を見ながら階段を落ちていくシーンを思い出して、鳥肌が立った。
先生は柔らかな笑顔をそのままに、私の胸元に視線を移す。
「あの子の恨みは、死んだからって消えるものではないわね。それに、心臓はまだ生きているし……」
私は確信に近いものを感じて、先生に訊ねた。
「先生が、茉莉子さんを殺したのですね?」
ゆっくりと頷く先生に、私の体の中でなにかが動き出したような気がした。
「ええ、そうよ。でも良かった。あと少しで、二人の命を奪っていたところだった。あの子が身籠っていたなんて、夢にも思っていなかった……」
痛々しいほど痩せ細った手が、ゆっくりと私の胸に触れる。血の気のない冷たいその手を受け入れながら、私は自分の意思とは別の所にある殺意で、今にでもこの手で先生の首を締めつけたい衝動に駆られた。
それを抑えつつ、質問を続ける。
「誰に殺すように言われたんですか。いくら考えても、橘先生が茉莉子さんを殺す理由が見当たりません」
「マリーが、そう聞けと?」
「先生は、あんなに茉莉子さんのことを大切にしてたじゃないですか。柊平さんを振り回してまで、茉莉子さんに絵を描かせたでしょう?」
怒りに震えているのは、私なのか、茉莉子なのか。もうそんなのはどうでも良かった。
とにかく今は、真実を手に入れたかった。
「あの子が死んだ理由は、理事長が個人的な感情で、あなたの命と、柊平の才能を守りたかったからよ」
予期せぬところで私の名前が出てきて、心臓が跳ね上がる。
「どういうことですか?」
「私は好きだったのよ、マリーのセンスも、才能も。だから、どんな手を使ってでも、あの子の力を開花させたかったの。でも、あの人は……理事長は違ったみたいね。力をつけたマリーのことを、邪魔だと思いはじめた。マリーは不幸だったと思う。あなたの体と、適合条件が一致してしまって……」
「それでは、まるで…」
私が人生をかけて真実を探してきた結末は、あまりにも罪深いものだった。
「あなたが倒れなきゃ、マリーも命くらいは助かったかもしれないわね」
それから橘先生は、窓外の夏のように晴れ渡った空を眺めながら、ゆっくりと私に語ってくれた。
「まずは、柊平の生い立ちから話しましょうか。あの子はね、孤児院にいたのよ。生後一年で母親の元を離れて、それからずっと、養護施設で育ったの。決して、両親に捨てられた訳じゃないのよ。ただ彼の両親には、彼の存在を公には出来ない、大きな理由があったみたいなの。そうね、隠し子……と言っても、差し支えはないと思うわ。そんな柊平になにかと援助していたのが、私の父だった。死ぬまで柊平の両親のことは教えてくれなかったけど、どうやら父は、柊平の両親……少なくとも父親とは、よく知った仲だったみたいね」
そこまで言うと咳き込んでしまったので、私は先生の背中をさすりながら水を飲ませた。
落ち着くと、先生は自ら話を続ける。
「私の父は生前、芸術の普及活動を熱心にしていたから、画壇の人脈がとても豊富だったの。だから柊平の父親も、こちら側の人間だと思っているけど……とにかく、小さな柊平に絵を教えたら、みるみるうちに力を伸ばしていったのよ。そして柊平が十一歳の時、とうとううちの理事長が、柊平の才能に目をつけた。柊平が描いた町の音楽会のポスターに、理事長は一目で釘づけになったの。そのシーンは、今でもよく覚えてるわ」
「橘先生は、その頃にはもう大叔父のところで?」
「ええ。私があの学校で働くようになったのは、美大を出て、そう……五年後かしらね。ニューヨーク界隈でフラフラしていたら、ある日突然、父にあの学校へ就職するように言われたの。最初はほとんど教壇に立つことはなかったけど、だんだんと私も歳をとって、生徒に自分の技術をひけらかしたくなったのね。いつの間にか教師ぶって、生徒の前で講釈を垂れてたわ……」
色々と思い出すことがあったのか、橘先生はふっと口元を緩めた。
「それで大叔父は、気に入った柊平さんを自分の学校に入れたんですね」
「ええ。柊平も喜んだわ。そりゃあそうよね、自分の才能を買ってくれて、ある程度は自由にさせてもらえる場所に行けるんだもの。それに、理事長の柊平に対する可愛がり様と言ったら……。なにかと柊平を連れ出しては、まだ高校生というのに、直接画商とまで繋がりを持たせて。その期待の全てに応えていった柊平も、よくやったと思うわ。でもね、一つだけ、柊平は理事長に背いたのよ」
「……茉莉子さんですか」
「そう。マリーが入学して早々に、柊平は彼女の才能に惚れ込んだ。まだ惚れ込むだけならよかった。柊平は、次第に影響されていったの。いくらしっかりしていた柊平も、まだまだ未熟な子供だったのね。その変化を、理事長は許さなかった」
「橘先生は柊平さんのこと、どう思ってたんですか?」
「私?そうね、他の先生たちと同様に、才能に恵まれた子だと思っていたわよ。芸術家なんて、悩み苦しむのが仕事みたいなものでしょう?どうせ苦しむのなら、誰の手も届かない、孤高の存在になって欲しいと純粋に思ってた。私は美術部の顧問を任されていたから、柊平のことを贔屓してるとか、囲っているとか、影で散々言われていたけど、柊平と師弟関係を超えたことは一度もないわ。私と柊平は、キャンバスを通して、お互いを結びつけていた。周りが思っていたよりも、ずっとドライにね」
「茉莉子さんのことも?」
「あの子は、少し違うわね。芸術家として生きていくには、少々弱すぎた。あれでは、世に出る前に潰れてしまう。けれど私の元にいる内なら、彼女が見えているものを、最大限に表現させてあげられるだけの自信はあったわ。だから、わざと嫉妬を煽るようなこともした。柊平にも、剥き出しの女ってものに、触れさせてあげたかったしね。ほら、柊平は母親を知らないでしょう?どいういう生き物から自分が生まれたのか、そのくらい知っていて当然だと思ったの」
「なら……」
「だからね、理事長には、色々と手遅れになる前に、柊平を卒業までイタリアに留学させる計画があったの。もうあの二人を会わす機会がないようにと。けれど、どうしても大学との折り合いもあったし、なかなか留学の時期が決まらなくて。そんな時、あなたのお母様から、あなたの命がそう長くないことと、ドナーがいれば助かるかもしれないという話が入ってきた」
ドナーという言葉に、私は思わず橘先生から視線を外す。
「理事長とは長く一緒に仕事をしてきたけれど、あんなに憔悴しきった姿は、あの時はじめて見たわ。あなたのお母様から連絡を受けてから、何日もろくに食事さえ取れなかったのよ。自分は子供に恵まれなかったから、姪の娘であるあなたのことは、孫のように思っていたみたいね。だから理事長は、自分のことのように悲しんだ。それから間もなくね、生徒の血液を、知り合いの専門家に調べさせたのは。あの人は、とうとう人の道を外れてしまったのよ……」
私は恐る恐る、再び橘先生に目を合わせた。そう命令されるされてるような気がしたから。そのくらい、弱々しい体から強烈な圧が出ていた。
「幸運にも生徒の中に、あなたの心臓に適合した子がいた。その生徒を脳死にする計画があることは、私が教え子に作らせた、あの森のログハウスで聞いたの。それがマリーだったと知った時は、私はショックで息もできなかったわ……」
悲しみとも、怒りとも見てとれる先生の瞳が、私の目を突き刺すように直視する。
「私は泡のように繊細なマリーの才能を、壊さぬように、細心の注意を払って育ててきた。そんな愛するマリーを、己の都合のために、誰かに簡単に消されてしまう気持ちが、あなたに分かる?私は、どうしたって我慢ならなかったのよ……」
消えてしまいたい。
もう何もかもを捨てて、今すぐこの世界から、私という存在そのものを、無かったことにしてしまいたい。
「どう足掻いても、その決意が揺るがないのなら、だったらせめて、この手でやらせてくださいと、私は理事長に頼んだわ……」
橘先生の乾いた頬に、一筋の涙が伝った。




