過去4 分身⑤
ドアを開けると、梅原部長をはじめとする何名かの先輩たちが、キャンバスを前に筆を動かしている真っ最中だった。
その傍でスツールに座る、件の藤堂先生がこちらを振り返る。
「あ、柊理央」
「どうも……」
部屋の中は春の暖かな光が大きな窓から差し込み、窓の外も、キャンバスの中も、満開の桜でいっぱいだった。
思わず、綺麗だわ……と月並みの言葉が浮かぶ。
「何か用かな?」
「あ、はい。首席の柳沢くんを連れてきました」
流れでこうなってはいるが、断じて私が連れてきた訳ではない。そう訴える目でセツナを見ると、ふいと目を逸らされてしまった。
「ああ、柳沢くんか……」
立ち上がった藤堂先生に、セツナは軽くお辞儀をする。
「はじめまして、柳沢刹那くん。僕は美術部顧問の藤堂柊平といいます」
「柳沢刹那です。よろしくお願いします」
「今お茶淹れるから、少し見学していきなよ。理央もおいで」
「あー、はい。お邪魔しまーす」
気を利かせてくれた部長が、追加で私の分の椅子を持ってきてくれると、藤堂先生は机の上に二人分の紅茶とサンドイッチを出してくれた。
空腹だったことを思い出して、私はさっそくそれに手をつける。肉厚のカツにちゃんとキャベツの千切りまで入った、手作りのカツサンドだった。
「柳沢くん、悪いけど、これに記入してくれる?」
「はい」
セツナの前に出されたプリントを覗くと、一番上に太字で『入部届け』と書いてあり、その下には沢山の質問が書かれていた。
好きな画家に、得意なジャンル。将来どんな芸術家になりたいか、何を表現していきたいか……。
「僕の時も同じものを書かされたけど、長くて困っちゃうよね、ごめんね」
「いえ」
セツナが真剣に書いている最中、手持ち無沙汰な私は、藤堂先生に誘われて、部屋の奥にある準備室を見せてもらうことになった。
「うわー、画材が沢山!」
「凄いでしょう」
部屋の棚一面には、贅沢なほど沢山の画材が所狭しと並べられていた。
「美術部の最大の旨味は、ほぼ無料で絵が描けるってところかな。お陰で抱えられる部員数は、かなり限られちゃってるけどね」
「え?最大の旨味は、ほぼ進級試験がないところでしょう?」
「そんな話、どこで聞いたの?」
「クラスメイトが……」
あれ、違うのか?
「残念ながら、進級試験はここの部員だろうと首席だろうと、全員受けなきゃならない。美術部にいるくらい実力があるなら、まず落ちることはないし、落ちたら一生の恥だ……ってことだろうな」
「なんだ。ちょっと入ろうかと思ってたのに」
「入ったらモテるぞ。恋人がいない美術部員は稀だ」
「入ります」
「で、君はどういう人なの?さっきスカート履いてたけど、トランスジェンダー?」
棚に寄りかかって腕を組む藤堂先生に、私は目を合わせながら微笑んだ。ああ、だから個室に連れてきたのか……と、少しドキドキしたから。
「トランスジェンダーの定義が、精神と肉体の性の不一致とするならば、私は違いますよ」
私は私が何者であるかを考えながら、丁寧に説明した。
「私は紛れもなく男だし、好きな相手も女の子。女になりたい訳でもないし、一生男として生きていくつもりもあります。ただ、綺麗なものが好きで、それを追い求めているだけ。私には、他の人より自由に性別を往き来できる素質があるってだけです」
「なるほどね」
「言ってること、分かります?」
「女装をするのは、その方が自分が美しくいられるから。一人称が私なのも、その方が自分のことを輝かしく表現できるから……という感じかな?」
「そうそう、そういう感じ。制服のミニスカートにオーバーサイズのカーディガンって可愛いでしょ?今しかできない格好だし、我慢するよりやっちゃった方がいいと思ったの。それに、その辺の女子に実力差を見せつけるのも楽しいしね」
「在学中は、もう男になることはないの?つまり、表現的に」
「さぁ?今日を含め、基本はずっと男の格好だったから、女装生活をはじめてみないことには分からないです。もしかしたら女装もすぐに飽きるかもしれないし」
「なるほど」
「これって、処罰対象とかになります?両親にバレると面倒なんですけど……」
「それは理央の実力次第だよ」
「実力次第……?」
「ここはそれなりの成績さえ残してれば、何をしたって文句は言われないよ。要は、その個性をいかに周りに認めさせるかだ。力さえ持っていれば、何にだってなれる」
何にだって……?
「だから入部しておいで?力を得るには肩書きも必要だからさ」
そう言って藤堂先生は準備室を出て行くと、一階から何かの用紙を持ってきてくれた。
「ごめんね、いくら僕が勧めようと、入部するには試験が必要なんだ。だから、これ、持っていって」
渡されたのは、『入部希望』と書かれた、氏名とタイトル欄のある画用紙だった。
「試験って言っても、期限までにこの紙にデッサンを描いてきてくれるだけでいいから。はい、良かったらお友達の分もどうぞ」
「ありがとうございます」
「夜にでも、ゆっくり描いてみて」
「はい」
やっと面倒な入部届けを書き終えたセツナと共に部室を後にすると、私は桜の木の下から部室見上げた。
周囲では、五、六組の先輩たちがレジャーシートを広げて、のんびりお花見を楽しんでいる。
藤堂先生の私に対するあの物言いは、絶対に脈アリだ。あの人を味方につけることが、学校生活を自由に送るための最短ルートだと思った。
顔面蒼白な紗夜ちゃんの顔を見て、やっぱり少しだけ罪悪感が生まれた。
いくら美脚に自信があるとはいえ、
いくら私が中性的な顔立ちとはいえ、
いくら世間の性別に対する壁が低くなってきたとはいえ、
入学早々、男子生徒が華麗にスカートを翻すのは、
少々パンチが強かったかもしれない。
「ひ、柊くん……?」
寮では生徒たちから称賛の嵐だったこのスカート姿も、教師という立場からすれば、非常事態以外の何物でもないことは明確だった。
だから朝一番に職員室の前で、私は紗夜ちゃんに「ということで、よろしくお願いします」と深々と頭を下げているのだ。
一応、昨日の私を反省しての、この行動だった。
「待って待って!ちょっとこっち来て!」
一言終えたあとそのまま教室の方へ向き直る私を、紗夜ちゃんは腕を掴んで職員室の奥の部屋へ引きずり込む。道中、他の先生たちに「おおー!」と言われると満更悪い気もしなくて、女優気取りで「どう、似合うでしょ?」と若いの男性教師にウインクすると、満面の笑みでウインクし返された。
「柊くん、困るよー」
二人きりになった途端、泣き顔に近い表情を間近で見せられ、思わず紗夜ちゃんのことを可愛いな……と思ってしまったのは、単に私が思春期だからだろうか。
「なんでスカート?っていう話ですが、私はトランスジェンダーではないです。強いて言うなら、ジェンダーフルイド?この格好がいいと思ったからこうしてるだけです。校則違反をしているつもりはありません」
端的に言うと、紗夜ちゃんに大きくため息をつかれた。
「でもねぇ……」
殆困り果てた顔で、紗夜ちゃんは腕を組む。その時、昨日嗅いだ『禅』の香水の香りが微かに鼻先を通った。どうやらあの香水は紗夜ちゃんがつけているらしい。母方の叔母と同じ香水だ。上品で、柔らかないい香り。
「紗夜ちゃんがどうしてもダメだって言うなら、男子用の制服に着替えてくる……?」
私が一歩下がると、紗夜ちゃんは
「うーん、確かに校則にはそうハッキリ書いてないけど。でも異性の制服で登校を許可するってどうなんだろう、私一人で決められることじゃないしなぁ」
とボヤいた。
「紗夜ちゃんに迷惑かけるつもりはないの。ただ自分らしいスタイルを試してみただけ。だから……」
そこで言葉を遮るように誰かにノックされ、紗夜ちゃんがまた大きなため息をつきながらドアを開けると、そこにいたのは学年主任の先生だった。
怒られると思ったのか、紗夜ちゃんはとっさに「うちのクラスの生徒がご迷惑おかけしました」と謝罪の言葉を発する。
ああ、もう本当に諦めようか。
紗夜ちゃんのそんな姿を見て、そう思った。自己の嗜好を守る為に、他人を犠牲にする訳にはいかない。私にだって、そのくらいの良識はある。
「紗夜ちゃん先生、柊のことだけど、校長から許可が出てるから大丈夫だよ」
「え?」
予想外の許可に、私と紗夜ちゃんの声がシンクロして、お互い目が合う。
「スカート、OKなんですか?」
私から改めて確認を取る。
「うん。ただ、行事と校外授業の時はスラックスとネクタイ着用ね。あとはみんなもかなり着崩してるから、良しとするって」
私は思わず両手を上げる。
「良かったー!昨日、藤堂先生が校長先生に言っておくって言ってくれたんだけど、自分で頑張れ的なことも言われたから、どうしようかと思ったのー!」
私が素直に喜びを表現すると、紗夜ちゃんはまた深いため息をこぼした。
「柊、頼むからあんまり紗夜ちゃん先生のこと困らすなよ?」
「困らせたくなかったから、真っ先に職員室へ来たんですよ!」
「もう!充分に困ったんだからね!」
そう言って紗夜ちゃんが私を追いかけ回そうとする素振りをしたから、私は悲鳴をあげて職員室を逃げ出した。
そのまま大勢の生徒がいる校舎へ入ると、何故だか拍手喝采で迎えられた。
我らのアイデンティティが守られた。
気のせいか、一様にそんな目をしていた。
美術部の合格発表は、桜も散った四月下旬に行われた。
今回は合格者の名前を紙に張り出すということはしないので、合否は各自で担任へ聞きに行くことになっている。私は部活帰りのセツナを迎に行くついでに、藤堂先生のところへ直接結果を聞きに行くことにした。
「セツナー、帰るよー」
二階のアトリエで先輩たちに混ざってデッサンをしていたセツナを呼ぶと、私は彼が帰り支度をしている間に、藤堂先生を探す。
「あ、センセー!」
一階の講義室へ行くと、ホワイトボードのイラストを消している藤堂先生の姿を見つけた。
「やあ、理央。ルームメイトのお迎え?」
「そう。あと、合否を聞きに来た」
藤堂先生は渇いた布巾を仕舞うと、私に居直る。
「おめでとうございます。合格でございます」
「わぁ!ありがとうでござる!」
「なんだよ、それ」
「タダで絵が描けるー!ってことですね」
「心美ちゃんと真由ちゃんも合格だから、明日からさっそく来るように伝えてもらえる?仲いいんでしょ?」
「一言で言うなら、只ならぬ関係ですね」
「なんだよ、それ。画材は全部こっちで用意しとくから」
「油絵もかけたりして?」
「どうぞ」
「へぇ、授業なんてまだ鉛筆しか持たせてもらえないのに」
「一年生は基礎中の基礎からはじめるからね。僕たちの時も、梅雨がはじまる頃までろくに筆も持たせて貰えなかったよ」
そんな会話をしていると、中階段を飛ぶように降りてくる足音が聞こえ、セツナが部屋に顔を出した。
セツナは藤堂先生にぺこりと頭を下げると、私に「帰ろう」と一言だけ言って、先に出て行く。
「先生、また明日」
「だから先生じゃないってば」
「では、柊平さん。おやすみなさい」
「うん。おやすみなさい」
なんだか主婦みたいな挨拶ね……と部室を出ると、私はセツナと並び、暗くなりつつある家路を急いだ。
「今夜は何を食べようかしら」
「どうせまた魚でしょ」
「今日は鮭のホイル焼きと、金目の煮つけとで迷ってるのよねぇ」
本当は私の行動の大部分に否定的なのに、それでもちゃんと横を歩いてくれるセツナに、私は心美と真由に対するような親しさを感じはじめていた。




