プロローグ③
意識なら一分前からある。
周りの気配も香りも、なんとなくいつものそれだと分かっている。
まぶたを透かす強烈なオレンジ色は今日も快晴をアピールしていて、私は一刻も早く顔を洗い、入念に日焼け止めを塗りたくなった。
しかし裏腹に、私は朝日を遮るために壁に向かって寝返りを打つ。
それを実行に移せないのは、昨晩の私に原因がある。
一軒目は友人が開いた飲み屋のオープニングパーティーだった。
カクテルを作るためだけに生まれてきたと言っても過言ではない友人の、念願の独立一号店。カウンター越しにハグをすると、耳元で「ずっと忙しくてごめんね」と囁かれ、別にいいよと素っ気なく返したら、名残惜しそうに髪を撫でられた。
その後、そこで意気投合した、いかにも遊び人そうな色黒の男とほろ酔い気分で新宿のダイニングバーへ移動し、ただ笑えるだけのお喋りをした。料理はどれも写真映えだけを狙った細々としたもので、店内の雰囲気もムードが盛り上がるようにかなり気合いが入っていた。私にもたれるように座り、遠い知り合いの業界人の話をする男のこれらのチョイスに、私の人を見る目もまだまだ衰えていないと満足した。
アルコールの減るスピードが緩んだところで、男の友人と合流してカラオケ店へ入った頃には、もう軽く零時を過ぎていたように思う。最初に聴いた歌ならよく覚えている。男の友人が一曲目から尾崎豊を歌ったから。選曲しかりカラオケマナーしかり、ギリギリ平成生まれって、それ絶対にウソだろう。ずば抜けた歌唱力がなければ、入店早々部屋から引きずり出しているところだった。そのあと私は何を歌ったのだろうか。対抗してプリプリでも歌ってやったのだろうか。
ふと気づくと、自分の匂いが染みついたベッドの中にいた。
嫌な予感がするときは、大抵当たるものだ。
どうしてだろう。私は嫌なことへの感度が他人よりずっと高いのかもしれない。
そしてそんな朝は、大抵知らない顔の男が隣で寝ている。厳密に言えば知らない顔ではない。昨夜出会った、真新しい知り合いの顔だ。
「理央、いい加減に起きろ」
背中側のベッドが沈み込む。私はその声にほっとして、ゆっくりと瞳を開ける。振り向くと、いつもの顔が不機嫌そうに私を見下ろしていた。私とそっくりで、そっくりでない二卵性双生児の弟だ。
玲央がいるということは、この部屋に真新しい知り合いはいないということ。珍しく嫌な予感は外れたらしい。
「昨日の私、優等生だったね」
「何を言ってるんだ。理央が玄関先まであの軽薄そうな男を連れてきたから、俺が追い返したんだよ」
「あー。そう」
上体を起こすと、スポットライトのような日差しが不摂生な体めがけて強烈に降り注ぐ。その勢いに敗れ、私はすぐに枕の中の夜に帰ろうとした。
「だから、起きろって」
強引に腕を引かれながら、私は本日のスケジュールを頭の中で確認する。確か今日は午後イチでちょっとした撮影があるくらいだったはずだ。朝日が襲ってきている最中に無理に起こされる理由はない。
「警察が来てる」
玲央の言葉に一瞬、何かぼんやりとした遠い記憶の影が脳裏をよぎった。
「……は?」
「だから、警察が来てる」
昨日の夜、あれだけ接待したのにも関わらず私の体にありつけなかったということで、さっそく食い逃げか何かの罪で訴えられたのだろうか。
だったら私じゃなく、勝手に追い払った玲央を訴えればいいのに。
「さっさと服着て。玄関で待たせてるから」
頭に大きな『?』マークを点けたまま、私はたまたま手に触れたTシャツを頭から被った。
「朝早くにすみません、警視庁の染谷といいます」
ドラマと同様に警察手帳を胸元から取り出した染谷さんの横で、同伴の刑事が軽く会釈をする。
「はぁ。お疲れ様です」
玄関に置いてある時計の表示はちょうど九時三十分。早朝だと言ったのは、私の都合を察したからかもしれない。
冗談なんて言ったこともなさそうな二人の刑事の鋭い目つきに、私は食い逃げ以外の罪を思い浮かべた。えっと、なにか重犯罪を犯したことがあったかしら。
「突然で申し訳ないんですけど、柳沢刹那さんのことはご存じですか?」
「……は?」
「柳沢刹那さんです。彼の手帳にあなたの名前が書いてあって、ここを訪ねたんです」
私は長いあいだ踏み入れていない雑草だらけの記憶の中で、その名前と合致する人物をすぐに探し当てた。
「柳沢刹那なら、高校のクラスメイトです。卒業してからは一度も会っていませんが……」
私の返答に、刑事がわずかにホッとするのが分かった。
なぜ今になって彼のことを聞かれるのか。彼がどんな悪さをしようと、今の自分には何も関係ない。
そう口を開こうとした時だった。
「亡くなられたんです。今のところ事件性はないと考えてます。お手数なんですが、ご遺体の確認をしてもらえますか?その時に二三、お聞きしたいことがあります」
「は?」
ああ、私は起きてから数分のうちに何回「は?」と言ったのだろう。
「彼の親族を探しているのですが、なかなか見つからなくて……」
「そっちじゃないです。死んだって言いませんでした?今」
ほらね。嫌な予感は大抵当たるものだ。
玲央の車に乗って、警察署から家に向かっている。
BGMは安室奈美恵の『PLAY』。
「あー、この感じだとベビドン行く前に着いちゃうわね」
私はブランチ代わりのスムージーを飲みながら、手持ち無沙汰に車窓の景色をじっと見ている。この狭い密室の、非常に重たい空気はなんとかならないものか。
「柳沢刹那、ってさ」
玲央がステアリングを切りながら静かに口を開く。警察が家に来てからもうすぐ二時間。よくここまで質問するのを我慢していたと思う。でも私は、柳沢刹那について答える気は更々ない。
「高校の同期生。それだけ。なんで私だったのかは分からない」
「そう……」
私の学生時代のことに関して、玲央はこれ以上無理に聞いてきたりはしない。後ろめたさがあるから。部外者だから。気分のいい話でないのは分かっているから。
「ねぇ玲央、来週末お休み頂戴」
こんな時の玲央ほど、わがままを聞いてくれる時はない。
「うん、調整しておく」
ちょうど十曲目が終わったところで、車は家に着いた。




