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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
28/107

現在4 鍵の、鍵②


「その時はじめて自分の過ちに気がついた。お腹の子は彼の子でもあったんだって。あの時の私はただただ妊娠に驚いて、彼がそんな風に子供の誕生を望んでいてくれたことも分からなかった。私、自分のことばっかり考えてた。それでね、その時に、改めてプロポーズしてくれたの。子供がいなくても一緒になろうって」


 ぐしゃぐしゃになった酷い顔で、心美が真由の頭を撫で回す。


「真由、良かった。本当に愛してくれてたんだね」

「うん。でもね、返事はまだしてないの。若いのにとても愛情深い人だとは思う。でも不安なの。本当にこの人でいいのかなって。この人は、私でいいのかなって」

「どうして……」

「愛するって気持がね、どういうものか忘れちゃったみたいなの。だから自分の気持ちが分からない。こんな気持ちのまま、彼と一緒にはなれない」


 真由の沈んだ顔を見て、また一つ、過去の記憶が蘇ってきた。


 冷たい雨が降る校舎、泣き続ける真由、翼と引き換えに失くした、最愛の母。


「ごめん、なんか変な話になっちゃって。そうだ、キッチンにコーヒーがあったから、温かいの淹れてくるね!」


 真由は両手で涙を拭いながらそう言うと、席を立ってキッチンへ走っていった。


 心美もやっと落ち着くと、鼻をかんで大きなため息を一つつく。


 女というのは、好意を抱いている人間に対してやたら共感する生き物だと誰かが言っていたっけ。そんなことを思い出して、私は思わず鼻で笑った。軽蔑したからじゃない。心美がちゃんと、女性として成長したのが嬉しかったからだ。


「理央のせいだからね」

「可愛い顔して顔を近づけてきたのは真由でしょ」

「ったく……」

「で、あんたは?」

「は?」

「あんたは、問題なく出産できたの?」

「ああ。うん、先生に少し小さいとは言われてたけど、問題なく生まれてくれたよ。安産だったし、今も順調に育ってる」

「そう」


 心美とこんな話をするなんてなんだか奇妙だし、心美の会ったこともない娘に対してわずかでも興味を持ったことは、もっと奇妙なことだった。


「理央に会わせようか……帰ったら」

「そうね、一度くらい会ってみてもいいかもね」


 少し浮ついている、この居心地の悪い感情はなんだろう。たとえ一滴でも自分と同じ血が通っているから、こんなことを感じるのだろうか。


「お待たせしました。熱いから気をつけてね」


 真由からマグカップを受けると、さっそく鼻腔にコーヒーの香ばしい匂いが広がる。


「ああ、なんて素敵な香りなの……」

「一気に飲むと火傷するよ、猫舌理央ちゃん」


 そう心美が小馬鹿にするように頬笑むから、私はつい口許にカップを近づけた。


「だめだよ、理央。理央用に冷たい牛乳も持ってきたから」

「さすが真由ね!」


 私は受け取ったミルクをマグカップにたっぷりと入れると、空気を含ませるようによーく搔き回す。頃合いをみて一口飲むと、あの頃慣れ親しんだ味が一瞬で顔の周りいっぱいに広がった。


 インスタントじゃない。これは柊平くんが修復師時代から研究し、後味にまでこだわって配合した、いわば世界に一つしかない柊平ブレンドだ。


「懐かしい味だね」


 真由が柔らかく笑う。


「別にものすごーく美味しいってわけじゃないけど、ここでしか味わえないものだから格別だね」


 頬杖をついて味わう心美も、幸せそうに頬笑む。一気にアルコールが飛んでいくような優しい風味に、私たちは自然とため息を漏らした。


「別にものすごーく美味しいってわけじゃないけど、やっぱり私にとって特別な味だわ」


 そう言いながら私はふと時間が気になり、目で時計を探した。けれどどこにも見当たらない。


「ねえ、ここに時計ってなかったっけ?」


 私が聞くと、二人も辺りを見回す。


「そういえばないね。元々なかったっけ?あった気もするけど、なかった気もする」


 真由が心美に尋ねる。


「さぁ、その辺は記憶にないわ。二階に置きっぱなしだった鞄さえ見つかれば分かるのにね。と言っても、この世界の時間を示してるとは思えないけど」


 お抹茶をいただいてるかのようにカップを傾ける心美に、「なによ、その言い方。まるで鞄がないみたいじゃない」と聞くと、「うん。なかったよ、さっき見たときは」と驚くべき答えが返ってきた。


 私と真由は二階に視線を送る。大したものは入ってないとはいえ、まさか鞄までなくなるとは思わなかった。念のため財布だけでも身につけておいて良かった。


「心美、それ、もうちょっと早く言ってくれても良かったよ」

「そうよ、そんな大事なこと。食べ物に目が眩んでたのね」


 あ……。今、故意に柊平くんの名前を避けたのは気のせいだろうか?


 一足先にコーヒーを飲み終えた心美は「はいはい」と呟いて立ち上がると、おもむろに玄関の方へ向かって歩き出した。


「荷物、探すの?」


 真由も心美に続いて立ち上がる。


「違うよ。絵を見てみようと思って。ほら、さっき紗夜ちゃんの手紙に、【ログハウスは言われた通り閉鎖します。いつの日か、あの子たちが真実を手にできますように……】って書いてあったでしょ?柊平くんの命令でここが閉鎖されたのなら、何かを保存するためかもしれないし、“あの子”たちが私たちを指してる可能性もあるじゃん。きっとあの頃気づけなかった何かが、ここにあるかもしれない。で、考えたの。柊平くんは何を保存したかったんだろうって。そしたら、やっぱり絵しかないかなぁって。あれから十四年も経ってるんだもん。ここを使い続けてたら、作品をしまわれちゃう可能性もあるでしょ?」

「それが玄関の絵なの?絵なら他にも沢山あるじゃない」


 仕方がないので、私も立ち上がって二人に付き合うことにした。


「とりあえず玄関のやつから確認する。二階の絵は一時的に保管してある生徒の絵だし、私たちが自由に見れて長期間飾ってるとなると、真っ先に思い当たるのはやっぱり玄関の絵だから。それに、この作者……ね!」

「ってことは、この絵の中になにかあったり?」


真由が聞く。


「だったら面白いよね」


 心美と真由で玄関に飾られてる柊平くんの絵を取り外そうとしたので、私は「待って、それきっと重いから私が外すわ」と二人を脇へ避けさせ、渾身の力を出して絵を外した。


 それを床に置くと、三人で隅から隅まで様子を確認する。


 相変わらず秋の風景になっている他は、どこにも異常は見つからなかった。


「全く、わざわざこんな重い額縁に入れるなんて、さすが泣く子も黙る藤堂作品だわ」

「理央、今度は裏にしてくれる?」

「えー、もう力入らないわよ」

「美しいベッドシーンの為でしょう。筋トレだと思いなさいよ」

「…………」


 私は嫌がる筋肉に鞭を打ちながら、額を裏返しにする為に片側を持ち上げた。すると、


「ちょっと!これ!」


 僅かに浮かした裏側を覗き込みながら、心美が声を上げた。


「当たりじゃない?」


 心美と同じ体勢になる真由も、声が高くなる。


 やっとの思いで額を裏返すと、そのほぼ中央に茶封筒がガムテープで止められていた。


 貼られてからあまり時間が経っていないであろうそれを慎重に剥がすと、封を開けてみる。


「中はなに?」


 心美と真由が私の手元を覗き込む。私は中に入っていた便箋を取り出すと、封筒の底に残った小さな固い何かを手の平に落とした。


 どうやらメモリーカードのようだ。


「これ、なんだろう」

「メモリーカード?まず便箋の方を読んでみよう。理央、貸して」


 代表して心美が中身を読み上げる。


【これが僕の知り得る全てのことです。柳沢刹那】


 それだけ言うと、心美は顔を上げる。


「……え、それだけ?」

「そう。ほら」


 心美が差し出してきた便箋には、本当にその一文しか書かれていなかった。


 紗夜ちゃんから柊平くんへ宛てたメッセージだったから、てっきり柊平くんが何かを残したのかと思ったけど、手紙にはセツナの名前が記されている。


 セツナは誰に宛ててこれを書いたのだろう……?


「これっていうのは、これのこと?」


 真由が私の手の中にあるメモリーカードを指差す。


「だろうね。えっと、PCは……」


 心美が私たちを見る。


「さっき探してた時は、どこの部屋にもなかったわよ?あるとしたら柊平くんのアトリエ部屋だけど、そこにもなかったわ」

「じゃあ、職員室?」


 真由の言葉に、私と心美は大げさに嫌な顔をする。こんな真っ暗な中を歩いて学校まで行くなんて、冗談じゃない。


「そんな嫌そうな顔をされても、職員室まで行かないと中身が分からないでしょ?」


 私は悩んだ。このままずっとここに居続けるか、夜の森の中を歩いて何かを知るか。


「真っ暗って言ったって、まだせいぜい六時くらいだよ。深夜って訳じゃない」


 問題なのは時間ではない。外が暗いか、明るいかなのだ。


「真由だって怖いでしょ?」

「怖いよ。怖いけど、いつまでもここにいたって……」


 ついに諦め顔になった心美が、ソファーに掛けておいた上着を羽織りだす。


「そりゃそうだ。仕方ない、行ってみよう。行って、メモリーカードの中身を見たら何かが分かるかも。今はそう信じるしかない」


 そう言って心美が私に向かって上着を投げてきたので、私も嫌々それに腕を通した。


「まあ、こっちが動いてたら誰かに会えるかもしれないし」

「そうだよ。柊平くんだって毎日ここへ来てた訳じゃないし、誰かに会うなら向こうの方が確率いいって!」


 そうして私たちは、再び森へ踏み出した。


 晩秋の夜だというのに、それほど気温が低くないのが幸いだった。真っ暗な道でも歩けるようにそれぞれ一つずつ懐中電灯を持ち、行く先を照らす。こうして歩いているうちに、また一つ、昔のことを思い出した。


「ねぇ。昔、柊平くんが言ってた『日が落ちた後にログハウスにいると、魔女の呪いにかかる』って話、あれってやっぱり、橘先生のことかしら?」


 頭に浮かんだことをそのまま口にすると、すぐ後ろを歩いていた真由が私に引っついてきた。


「ああ、確かにそんな話もあったね。でもあれって、暗くなる前に寮へ帰れっていう脅かしでしょう?ここから寮まで歩くと、結構時間かかるから」


 一番後ろを歩く心美が、真由とは真逆の態度で平然と返す。


「柊平くんはなんでそんなこと言い出したのかしらね。魔女って……」

「さぁ?橘先生が怖かったからじゃない?相当手荒い指導をしてたって噂だしね」


 私は歩きながら、昔のことを最初から思い出してみることにした。




 そう。あれは、入学式の朝……




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