現在4 鍵の、鍵
私たちは黄昏時の森を歩く。
歩きながら、何がタイムスリップだ、と鼻で笑った。
そんなことあり得ない。世界的に有名な天才科学者だって、未だに人を運べるタイムマシンなんて作れないのだ。それなのに、そこら辺に私たち三人を一気に十五年前まで運べる機械なんて、技術なんて、あるものか。
そんなことが、信じられる訳がない。
でもついさっき、確かにこの耳でセツナと紗夜ちゃんの声を聞いた。あれは夢でも機械でもない。確かに当時のセツナが、扉のすぐ向こうで話していた。紛れもない肉声だ。
でも、と思い直してみる。
この世界が夢じゃないとは言い切れない。
元来、私は夢を見ている時に「これは夢だ」と気づける人間ではないのだ。今だって、本当の私は眠りこけていて、現実世界では、まだ「今日」になっていないということも充分にあり得る。いや、そっちの方がよっぽど現実的だ。
だとすると、私の後ろをついてきている真由と心美は、私が勝手に想像し、映像化した、大人になった二人ということになる。
他人に関心のない心美が結婚していて、母性愛に溢れる真由が独身という設定に違和感はあるけど、自覚さえしてなかった深層心理ではそう思ってたのかもしれない。
ともかく、この状況はしばらく変わりそうにないのだから、びびってないで前に進もう。今はそう思う他ないのだから。
「あら?」
異変に気づいたのは、石畳みの道を曲がり、山道を半分ほど来た時だった。
空腹にはあまりにも刺激的な香りが、何処からともなく匂ってくる。
私は後ろをついてくる真由と心美を振り返った。
「ねぇ、美味しそうな匂いがしない?」
「えー、そう?」
一列になり、私のすぐ後ろを歩いていた真由が、大きく息を吸い込む。
「あー、確かに。なんかいい匂いがする!」
何歩か進むと、一番後ろを歩く心美も同調した。
「うーん、これは餃子とトンカツの匂いね!これ、主婦の勘!」
「ハンバーグの匂いもする気がする!これ、独身の勘!」
心美と真由が楽しそうに匂いの正体を鼻から推理する。
「しかもチーズハンバーグね。あと、うっすら筑前煮も。あ、味噌の香りもするわ……けんちん汁……?」
先頭を歩く者として、私もそのくらいは嗅ぎ分けないと。あくまで勘だけど。
「お腹が空きすぎて、幻聴ならぬ幻嗅が始まったのかも」
真由がため息混じりに呟く。
「三人同時に?まさか!これは確かに匂ってるわよ!もう少しだから頑張ろう!」
心美がエネルギー切れで足取りが重くなっている真由を押しながら、先を急かす。ログハウスが目視できるまで近づくと、そこから香りが漂ってきているのは明白だった。
「料理してるのは、柊平くんかしら?」
私の言葉に、心美は無言で私たちを追い抜き駆けていく。鍵のかかっていない玄関を開けると、急いで靴を脱ぎ、乱暴にそれを蹴飛ばしながら中へ入っていった。
「柊平くん、中にいるのかな?」
真由が私のコートの裾を掴む。
「会えるとは限らないけどね」
「会いたいな、柊平くんに」
「そうね。変なこと続きのついでに、会ってみたいわね」
たとえ夢だったとしても、死んだ人間が目の前に現れたら、私はなんと声をかけるのだろう。考えてみても上手くイメージできなかった。
私たちが部屋に上がった時には、既に息を切らした心美がソファでぐったりしていた。目の前のローテーブルには、誕生日とクリスマスがいっぺんに来たようなご馳走が並んでいる。
「わぁ!美味しそう!」
真由が目を輝かせながらテーブルを見下ろす。
そこには私たちの予想通りの料理が、ところ狭しと並んでいた。餃子にトンカツにハンバーグ、筑前煮にグラタン、けんちん汁。それから、しっかりポテトサラダまで。
組み合わせがちぐはぐなのは、これらが全て私たちの好物だからだ。心美が揚げ物、真由が洋食、そして私が和食。それぞれの好みが、バランスよく揃えられている。
「この丸いのさ……」
心美がソファに寝そべりながら、テーブルの真ん中に置かれた、フライが乗った大皿を指差す。
「きっと牡蠣フライよ」
牡蠣フライの横にはタルタルソースの入った小鉢が置いてある。これも、心美の大好物だ。
「で、柊平くんはいなかったのね?」
「うん、室内は一通り探したけど、どこにもいなかった」
「そう……」
やっぱり、ここでも会えなかったか。あつあつの湯気が出ているほど出来立ての料理を置いて、あの人はどこへ行ってしまったのだろう。もしくは、ここでもまだ会うべきタイミングではないということか。
「ねえ、冷蔵庫の中にビールがあったけど、飲む?」
いつの間にかトレーに缶ビールとグラスを載せた真由が、ご機嫌で廊下から出てくる。
「冷蔵庫、開いたの!?」
心美が勢いよく立ち上がる。
「うん。手を洗ったついでに開けてみたら、普通に開いたよ」
いつになく食べる気満々の真由に、私と心美で笑い転げる。誰より怖がりのくせに、空腹が限界に達すると、怪しい空間でも一人で行動できてしまうらしい。
「私、飲むわ。飲まなきゃやってられない!」
心美が缶を開け、器用にグラスに泡を作る。
「ねえ、これ、食べてもいいんだよね?」
真由が私に確認を取る。
「せっかくだし、食べようか?」
他に食べるものもないし、誰かが現れて怒ってくれた方が、よっぽど事態は好転する。
席に着くと、誰ともなくグラスを合わせて乾杯した。
不思議な夜の幕開けに。
今日まで生きながらえた、私たちに。
たらふくご馳走を食べると、三人並んでカーペットに横になった。緊張つづきの体が一気に緩んで、眠気さえ起こりはじめている。
「あー、幸せ」
いつもならせっせと片づけに取り掛かっているであろう心美も、今は夢心地で天井のファンを眺めている。
はぁ、お腹いっぱい。
久々に食事で生きていることを実感した気がした。
「いっぱい食べたねー。ということは、これは夢じゃないってことだね」
私の横でうつらうつらしている真由が、そんなことを言う。
それに「どうして?」と私は聞く。
「だって夢の中だと絶対に食べられないじゃん?食べる直前に起きちゃうから」
「そうだねー」
向こうからのんきな声で心美が笑う。
「待って、私は普通に食べるわよ?」
「え!理央、夢の中でご飯食べられるの?」
真由が驚いた顔をする。
「食べられるわよ。味もするし、満腹にもなるし」
「えー!信じられない!」
二人揃って起き上がる。
「じゃあ、これが理央の夢なら、本当に夢の可能性もあるってことじゃん!」
無理にでもそういうことにしてしまいたいのか、やや興奮気味の真由が心美を見ながら言う。
「なんでこの私が理央なんかの夢に……。まぁいいわ。私は絶対に洗い物はしないわよ。どうせ夢なんだから、今日だけは絶対にしないわよ!」
主婦の意地なのかなんなのか、心美はそう言うと向こう側を向いて再び横になった。
「じゃあ理央、もういいよ?」
真由が仰向けになっている私を見下ろす。
「はい?」
「お腹いっぱいになったから、もう起きてもいいよ?……きゃあっ!」
私は真由の細い手首を引くと、勝手知ったるでいとも簡単にカーペットへ組み敷いてやった。腰に体重を乗せて逃げられないようにすると、邪魔な長い髪をシルバーの飾りがついたヘアゴムで束ねる。
「私の夢なら、何してもいいってことね?」
「ちょっと待った!違う違う!」
真由が本気で焦るものだから、私は急に冷めて、真由から下りた。
ふと心美を見ると、薄目で私を睨みながら「バカね」と口だけ動かした。冗談よ、冗談。そう目で返すと、ふいとまた向こうを向いてしまった。
「もう。理央、ビックリするじゃん」
「真由が悪いのよ?」
「私、流産したばっかりだから焦ったよ……」
真由のその言葉に、即座にこちらを振り向いた心美と目が合う。
「なに、その話し」
「別に。妊娠したと思ったら、すぐにだめになっちゃったってだけの話し」
「独身って言ってなかった?」
真由が嫌そうに私の目を見る。
「別に独身だって子供は作れるよ」
心美は重たそうに起き上がると、真由の横に座った。
「体、大丈夫なの?」
「うん。体のダメージはない。ただ、次の妊娠は少し間を空けなさいって」
「相手は?」
「えーと……」
真由が気まずそうに私の方を見るので、「いいから言いなさいよ」と続けさせた。
「会社の子。少しだけ人を雇えるようになってね、去年の春から勤めてもらってる子」
「子って、相手いくつなの」
心美が眉をひそめる。
「専門学校の新卒で入ってもらった」
「若いね。で、もちろん彼には言ったんでしょう?」
「妊娠が分かってからすぐに言ったよ。結婚の話しも出てた……けど……」
そこで真由が急に歯切れの悪い返答をした。
私と心美は顔を見合わせる。
デリケートな問題なので、これ以上立ち入るか悩んだ。学生の頃ならいざ知らず、今の私たちはお互いの住所さえ知らない間柄なのだ。
「嫌なら言わなくてもいいけど、話したいなら聞くよ?」
心美が真由に寄り添いながら、子供をあやすみたいに優しい声で言う。
「うん、ちょっと自分でも最低だなって思うことなんだけどね」
すると真由は両手を握りしめ、ゆっくりと語り出した。
「私ね、人生で一番……ものすごく頑張って、今の会社を軌道に乗せたの。何年もろくに休みがなくて、朝から晩まで仕事のことばっかり考えて、大学の友達とも疎遠になって……それでも、なんとかこの会社を大きくしようって、持てる全ての力を注いできたの。それで、なんとか顧客がついて、人を雇えて、最近じゃ地元のローカル番組にCMも打てるようになってね、やっとここまで来られたって自信がついて……。そこで一息ついて、ふと辺りを見回したら、彼が一生懸命に私を支えようとしてくれてることに気がついたの。そしたら自然と、少しずつ一緒にいる時間が増えていって……」
私も心美も、相槌を入れずに聞き入る。
窓の外は、完全に夜になっていた。
「彼のことは、特別に大切な存在だと思ってた。でも、妊娠が分かった時は絶望しかなかった。産まれるまでに半年、無事に産めても、そこから最低でも数ヶ月は子供につきっきり。そのうえ、出産までに入籍もしなきゃならない。頼れる仲間は沢山いたけど、正直こんな小さな会社一つ潰すには、充分すぎる時間だと思った。だからこの子さえいなきゃって、日に何度も後悔してたの。だから、流産した時は……心底ほっとした……」
そこまで話すと、真由の目から大粒の涙が一粒落ちた。
「それから一週間は、彼と顔を合わせないようにしてた。お互いの仕事や出張を上手く組んで、直接話さなくていいようにって。でも、いつまでもそういう訳にはいかないから、やっと会うことにしたの。きっとそこで、結婚のことも白紙に戻るだろうなって思った。少し残念だったけど、これでいつも通り仕事が出来るって、生活の全てが元通りだって、私、強がりじゃなく、安心した」
涙がもう一粒落ちた所で、私は真由の目元を指先で拭った。昔のように暖かくて、子供のように柔らかな肌だった。
「彼とは流行りのカフェで待ち合わせたの。こういう話は、周りが騒がしいくらいの方がいいだろうと思って。でも彼ね、私の顔を見た途端に、人目もはばからずに大声で泣きはじめたの。突然だったから、私も周りのお客さんもビックリ。店員さんも大丈夫ですかって、もう一枚お手拭きを持ってきてくれて……。そこにいても迷惑だから、すぐに出て、彼が泣き止むのを待ちながら二人でしばらく歩いた。それでふと気づいたら、小さなお寺の、可愛らしいお地蔵さん前にいて。私、何十年か振りにお地蔵さんに手を合わせたんだけど、その時に彼、なんて言ったと思う?私の妊娠が分かってから、毎日欠かさずそのお地蔵のところにお供え物をして、元気に生まれてくるように手を合わせてたんだって……」
本格的に泣きだしたのは、心美だった。
私は立ち上がって、ティッシュボックスを心美の膝の上に置く。そこから一枚抜き取って真由の目を乱暴に拭くと、へへへ、と小さく笑ってくれた。




