過去3 はじまりの春④
裏門から続く石畳の道を左に曲がり、五分ほど獣道のような小道を進むと、突然目の前が開けた場所に出た。
長らく放置してあったであろう前庭の向こうには、夢で何度も見た、あのログハウスが佇んでいる。
ここにあったんだ……。
私は心の中でそう呟く。
この一年、必死で探したのに見つからなかったのは、学校からこんなに離れた場所にあったから。
なんとなく、茉莉子があえて道順を隠したんだと直感した。きっと私に、好き勝手なことをさせないために……?
「橘先生って知ってる?俺が在学中に美術部の顧問だった先生なんだけどね。ここは、その人が教え子に作らせたアトリエなんだ」
柊平さんが入り口の鍵を開けながら、私を手招く。
「どうぞ」
「失礼します」
玄関を入るとすぐに、大迫力のバラの油絵が目に飛び込んできた。
赤い壁に赤い布、赤い花瓶に赤いバラ。一言で赤と言っても、これほど多様な色合いがあるんだと、そう見せつけてくるような作品だった。色のニュアンスと筆使いで、見事なまでにそれぞれの質感を表し、バラの花弁をうまく浮き立たせている。しわを寄せるベルベットの光沢なんて、本物と見間違うほど滑らかだ。
記憶の中にこの作品はなかったから、きっとあの後に飾られたものなのだろう。すごい。引力があるみたいに目が吸い寄せられる。
「この絵は、どなたの作品ですか?」
「橘先生だよ。俺が三年の時かな、橘先生の誕生日に、美術部員全員で贈ったバラなんだ。とても気に入ってくれて、こうして作品に残してしてくれた」
「そうなんですか。この絵、花弁の湿り気さえ感じる」
「うん。当時から橘先生に花を描かせたら、右に出る者はいないってくらいの得意分野だったからね」
そうか。橘先生は花の絵が得意だったのか。橘先生の絵といえば、柊平さんの裸体画しか知らなかったから、なんだか意外だった。
そういえば、あの絵はまだ残っているのだろうか。
私は柊平さんに続いてリビングへ入ると、L字になったソファに腰かけた。
「昼間はずっとここの掃除をしてたんだ。学校の方を手伝えなくて、申し訳ない」
「大丈夫です。なんとか明日の引越しにも間に合いそうです」
「良かった。ちょっと待ってて」
「はい」
ふと見上げると、吹き抜けの二階の窓から柔らかな光が差し込んでいる。なんて素敵な家だろうとあちこち観察していると、柊平さんが「インスタントだけど」と言ってコーヒーカップを2つ置き、私の隣に座った。
「橘先生がまだ現役で教師をしてた頃、ここでたまに部活動をやってたんだよ」
私はコーヒーを飲みながら、茉莉子が窓の下から部屋の中を覗き込むシーンを思い出した。
抱きしめ合う二人、或る夜の秘め事。
「彼女が教師を辞めてからは、ここも空き家同然だったんだけど、今回俺が学校に戻るにあたって、橘先生からこのログハウスを譲り受けたんだ。だからまた機会があったら、ここで部員の子たちと絵を描きたいなと思ってる」
少し濃いからか、コーヒーのほろ苦さが口いっぱいに広がる。
「素敵ですね。静かだし、きっと生徒たちものびのび描けますよ」
こんな風に感傷に浸りながらここに座っていると、まるで茉莉子本人になったような気持ちになる。
私は高校生で、目の前には大好きな先輩。
これを飲み終えたら、描きかけの絵の続きを描くことになっている。課題の締め切りが近くて二人とも少し焦っているけど、その焦りがなんだかとても楽しい。
「じゃあ、紗夜先生に家の中をざっと案内しておくよ」
柊平さんが立ち上がったので、私はすぐに現実世界へ頭をシフトした。
「いいんですか?私なんかにこんな貴重な場所を教えて」
「うん。来年から美術部の方も手伝ってもらおうと思ってるから。ほら、紗夜先生、今は何もやってないでしょ?」
「え……?」
美術部といえば、我が校が誇るエリート軍団だ。そんなところに、私程度の教師が関われるはずがない。歴代顧問の経歴を見れば一目瞭然。私では実績も経験もまるで足りない。
「さすがに私が美術部に携わるというのはちょっと……」
「何事も経験だよ」
そう腕を引っ張って私を立たせると、柊平さんは私の手を握ったまま、ぐんぐんと一階の廊下へ歩いていく。
柊平さんには私が茉莉子から記憶の一部を受け継いだことは話してなかったから、「間取りなら知ってますよ」とも言えず、私は見覚えのある部屋を、説明を受けながら一つずつ見て回った。
だから二階の奥の部屋に入った時には、柊平さんを突っぱねるように、自然と足が止まってしまった。
この部屋は、橘先生に柊平さんの裸体画を見せられた場所だった。
あの時の茉莉子の感情がよみがえって一瞬怯んだものの、すぐに我に返る。
あの時の絵は今どこにあるのだろう。純真無垢な少女にあれだけの嫉妬心を抱かせた絵だ。どんなものか是非ともこの目で見てみたい。
私の視線は、自然と部屋の奥の扉に吸い寄せられる。あんな小さな収納部屋にあの絵が置いてあるわけがない。そうは思っても、開けてみたい衝動にかられた。
それにしても、 茉莉子の純粋さを上手く利用するとは、橘先生も相当な切れ者だ。生徒の神経を逆撫でして“目”を開かせるとは、本当にここは芸術のためなら何だってする場所なんだ。
「紗夜先生、どうかした?なんか怖い顔してるけど」
私の異変に気がついたのか、柊平さんが振り返る。
「なんでもないですよ」
私はなるべく興味を表に出さないように、出来るかぎり軽く返す。本当は今すぐにでも家中を引っ掻き回して、あの絵を探したいのに。
「それじゃあ今日はもう日も暮れるし帰ろうか」
「そうですね」
今日のところはお預けか。
二人で下に戻り、カップを片づけて外に出た。
柊平さんと真っ赤な夕陽に照らされた石畳を歩きながら、私は茉莉子の記憶のことを柊平さんに打ち明けるべきか迷っていた。
私の目的を果たすには、知っていることを全て話してしまった方がいい。けれどそれは同時に、柊平さんへの重大なプライバシーの侵害にもなる。
それに、考えたくはなかったけど、茉莉子が死んだ原因に柊平さんが絡んでいないとも限らなかった。
進むか、立ち止まるか、微妙なところだった。
「紗夜先生、話したいことがあるなら言ってごらん?」
「え?」
「俺に何か言いたいことがあるんだろう?」
「私、そんなに分かりやすい顔してます?」
うん。と、柊平さんは私の顔を覗き込む。
「かなり分かりやすいよ。決起集会のときも俺のことしか見てなかったし、ずっと目が輝いてた」
「それは他の先生も一緒です」
夕日に照らされた柊平さんが、堪えきれずに笑い出す。
「紗夜先生が一番あからさまだった」
「そうですか?」
「それで、何を聞きたいの?」
二人の足音が、リズム良く森に響く。
「橘先生のこと……です」
「橘先生がどうかした?」
「会いたいんです。どうしても。あ、あの花の描き方を……教えて欲しくて……」
咄嗟についた嘘に、柊平さんは少し考えた素振りを見せた後、「分かった。少し遠い場所にいるけど、新学期が落ち着いたら行ってみよう」と言ってくれた。
「いいんですか?」
「うん。ただ、先生と話せる保証はないけどね」
「そんなに忙しい方なんですか」
「まぁ、会えば分かる」
「ありがとうございます」
やった、と思った。橘先生と直接話ができれば、きっと私がこの学校へ来た最大の目的が達せられる。事は順調に進んでいる。そう安堵した。
誰もいない裏門へ着くと、一瞬だけ夕陽に伸びる影が一つになる。
「今日もお疲れ様でした。また明日」
頬を赤らめた私はそうお辞儀をして、裏門を背に歩きだす。すると柊平さんに、「紗夜先生、ちょっと待って……」と手首を掴まれ、何かと思って振り返った。
「はい?」
「子供がいたんだ。お腹の中に……」
突然何を言い出すのかと思った。けどそれが、すぐに茉莉子のことだと思い当たった。あんなに必死で隠していた妊娠を、まさか柊平さんが知っていたとは意外だった。
「知ってたんですか?茉莉子さんが妊娠してたこと……」
私の台詞に、柊平さんは驚いた顔をする。
「紗夜先生こそ、なんで知ってるの……?」
二人に間に、駆け引きにも似た無言の間ができた。せっかくだ。この際だから、私は賭けに出ることにした。
「茉莉子さんの心臓から教えてもらったんです。それで、その子がどうしたんですか?まさか、生きてるんですか?」
質問で返されないように語尾を強めの口調で言うと、柊平さんはしばらく俯いて考えた後、再び私と目を合わせた。
「この春、高校生になる。名前は柳沢刹那」
今度は私が驚く番だった。
ついさっき面接をした彼が、茉莉子のお腹にいた子…?茉莉子が亡くなった時は、おそらく妊娠五ヶ月程度だったはずなのに、よく無事だった。
「今までずっと、茉莉子さんと一緒に亡くなってしまったとばかり思ってました。柊平さんが育ててたんですか?」
「いいや、俺は彼と会ったことはない。それに、本人にも実の親については話してない。今さら父親面をする気も資格もないから、紗夜先生、どうか彼のことを見守ってやってくれませんか……」
柊平さんの真剣な眼差しに、私は黙って頷くことしかできなかった。
あの子が生きていた。
私は心臓に手を当てる。
茉莉子、聞いた?あの子が生きてたよ。
「頼みます……」
「分かりました。気にかけておきます」
「ありがとう」
これも運命なのかもしれない。
茉莉子が密かに育んでいた命が、明日この学校に、私たちの元に、やってくる。




