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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
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過去3 はじまりの春③


「紗夜先生の描いた絵が見たいんですが、見せてもらえませんか?」

「私の……ですか?」

「はい」


 今までとは違う、熱の込もった強い視線が私の目を貫いていく。


 オニオンスープは、そのことに対する対価か何かなのだろうか。そんなことにこのスープ程の価値があるかは定かではないけれど、どうして私の絵なのだろう。


 得体の知れない不安が、うっすらと私を包む。


「別にいいですけど……と言っても、この学校にはまだ一年しかいないので、あまり数はないんです。それでも良かったら」


 断れる空気ではなかったので、私は渋々頷く。


「本当に?ああ、良かった」


 ほっとする先輩を見て私は思った。


 もし先輩が私の絵を見たら、気づいてしまうだろうか。私が茉莉子さんととても似た絵を描くことを。その時、先輩はなんと言うだろう。


 万が一に、もう宇野茉莉子という存在自体を忘れている可能性もあるけど、私はそのことが気掛かりだった。


 こんな事態は想定してなかったんだから、今さら焦ったところで仕方のないことだけど。


 お店を出て、外まで見送りをしてくれたシェフに必ずまた来ることを伝えると、二人で繁華街まで戻り、私はタクシーを拾って職員宿舎へ帰った。部屋に戻り、明日の支度を終えて布団へ入ると、ふと先輩から別れ際に言われた言葉が頭をよぎる。


「やっと一緒に仕事ができて嬉しいよ。紗夜先生」


 やっと、とは……?


 徐々に濃くなる漠然とした不安を抱きつつ、私は浅い眠りについた。



 体育館地下の倉庫には、久しぶりに学生気分に浸っている私がいた。生徒を評価する立場になって久しい分、実力者に自分の作品をまじまじ見られるのは恐怖に近いものがあった。


 私はこの一年で描いた作品を何枚か出すと、それらを柊平さんの前に並べて置いた。構図は様々。学校の風景画に、生徒のデッサン、それから、駐車場に停められたトラックを描いたものもある。どこかへ出品する作品ではなかったので、どれもが気楽に描いたものだ。


 その一つ一つを、柊平さんはキャンバスに穴が空くほど真剣に見て回る。そして最後の一枚を見終えると、私へ振り向いた。


「ありがとう」

「はい」


 その後に続くであろう感想を待ってみても、柊平さんから発せられる言葉は何もなかった。


 ……それだけ?


「ごめんね、忙しいのに連れ出しちゃって」

「はい……」


 手際よくキャンバスを元の場所へ戻していく柊平さんを見ながら、ひとまず昨夜の不安が徒労に終わったことに感謝した。


「紗夜先生、なんか緊張してた?」

「そりゃあ……まぁ、柊平さんに見られるとなると、大抵の人は緊張するでしょうね」


 二人で体育館を出て、暖かな中庭に出る。


「俺は単なる修理屋。評論家じゃないよ」

「十年以上フィレンツェで巨匠たちの絵を素手で触れてきた……というか、修復してきた、超有名な元画家の修理屋さんっていうのが、緊張感を生むんですよ」

「説明が長いね」

「柊平さんはそのくらいの人ってことです」


 ベンチに座り、芽吹く時を今か今かと待っている白樺に目をやる。この幹一本で厳冬を乗り越えるのだから、たいしたものだとつくづく思う。目覚めはもうすぐそこだ。


「一度、ウフィツィで紗夜先生を見かけたことがあるんだよ」

「え?」

「あの日、ちょうどうちの工房で直してた絵を搬入する日でね。ある部屋だけ立ち入り禁止になってんだ。そこに、君が迷い込んだ」


 私は、イタリア界隈でふわふわと旅をしていた頃のことを思い返す。そうだ、確かにウフィツィ美術館で迷子になったことがある。迷い込んだ先で修復師たちが真剣に作業をしていたから、慌てて逃げ帰ったんだ。


「その時に、スケッチブックを落としたでしょ?」

「え……?ああ……はい!」


 言われた通り、メモ帳代わりに使っていたスケッチブックを、私はあの日フィレンツェの街で失くした。まさか美術館の中で落としたとは、予想もしてなかったけど。


「あれが紗夜先生のものか確かめる為に、今日は絵を見させてもらったんだよ」


 そう言って柊平さんはにっこり笑う。


 なるほど、そういうことだったのか。しかし、あんな絵だけで判断するとは……。


「たまたま親交のある銀座の画廊で、拾ったスケッチブックと描き方がよく似た絵を見つけたんだ。そこで紗夜先生の名前を知って、偶然にもここで出会えた。あのスケッチブックは、さぞかし紗夜先生に会いたかったんだろうね」


 私はスケッチブックの中身を思い出してみる。


 見られて恥ずかしいものを描いた記憶はないけど、きっと柊平さんからすれば、どれも素人の落書き程度に思っただろう。


「そのスケッチブック、うちにあるから近いうちに取りに来て」

「はい」


 持ってくる、とは言わなかった柊平さんの真意は、昨日の夜に判明した。




 柊平さんの家は、オニオンスープを飲んだレストランから歩いて五分程の、住宅街から少し離れた場所にある平屋の一軒家だった。


 周りは畑で、すぐ裏は小高い山だ。


「散らかってますけど、どうぞ」

「お邪魔します」


 通された居間は散らかっているというよりも、いたるところに美術道具や作品が置いてある、こじんまりとした和室だった。半分開いたふすまの向こうには、イーゼルやキャンバスなど、大きな道具も置かれている。


「これって全部柊平さんの画材……?」

「いいや、違うよ。ここは昔から、うちの先生たちが入れ替わり立ち替わり使ってきた家なんだ。和泉先生も独身の頃に少しだけ住んでたことがあるらしい。大抵は片づけないで出て行くから、どんどん溜まってこの有り様。処分してもいいけど、上質なものもたくさん紛れてるんだよね」


 台所でさっそく鍋の支度を始める柊平さんに倣い、私も手を洗う。


「教員住宅?私、ここは紹介されなかった」


 スーパーの袋から白菜を取り出すと、葉をばらして水で洗い、包丁で芯と葉に切り分ける。柊平さんはその間に、土鍋に出汁を取りはじめた。


「こんなに維持管理に手間のかかる家、女性には勧められないよ。それに、この裏山はたまにクマが出るって聞くし」

「クマ……?」

「ヒグマじゃないよ。ツキノワグマ」

「ああ、じゃあ安全な方ですね。花咲く森の道の」

「紗夜先生って都会っ子?全然安全じゃないよ。お逃げなさいなんて言わないし、イヤリングも拾ってくれない。ビンタでもされたら普通に死んじゃうよ」

「えっ、怖い」

「学校の周辺はあまり出ないけど、敷地が高い塀で囲まれてるのは、獣除けでもあるんだよ」

「そうなんだ。知らなかった……」


 土鍋が温まったところで、切った鶏肉と白菜の芯を入れる。柊平さんがカセットコンロをセットし終えたところで、居間のテーブルに鍋を運んだ。


「柊平さんは、ここから毎日通ってるの?」

「うん。少し遠いけど、慣れればなんてことはないよ。真冬でもここの人たちは除雪が上手いから心配ない」


 柊平さんが食器棚から取り皿と割り箸を取り出す。


「この家では、一人で家事を?」

「もちろん。学校にいる時から洗濯と掃除はやってたから、どうってことない。食事は外が多いし、別に大変なことじゃないよ」


 鶏肉に火が通ってきたところで、きのこやネギをたっぷり入れて蓋を閉める。ポン酢や飲み物を準備し終えると、鍋は食べ頃になった。


「では、いただこうか」

「いただきます」


 二人でお行儀よく手を合わせると、私から率先して柊平さんの小皿に具材を移してあげた。なんだか彼女になったみたいで気恥ずかしくなる。先に結婚していった友達は、こんな気分で日々を過ごしているのか。会うたびに文句を言うほど悪くないじゃないか。


「シメはうどん?雑炊?ラーメン?」


 あらかた食べ終え、席を立ちながら聞いてくる柊平さんに、「ラーメン!」と答えると、「えー?普通は雑炊でしょ」と返ってきたので、冗談で言い合いになった。結局ラーメンとご飯を入れたハイブリッドなシメにすることになったけど、これがなかなか美味しくて、またやろうとささやかな約束を交わした。


 和やかな食事が終わると、二人で洗い物をして、ヨーロッパでの生活を話ながらコーヒーを飲んだ。途中でスケッチブックを取りに来たという大事な目的を思い出し、私たちは居間の奥のアトリエ兼物置部屋に移った。



「はい、これが拾ったスケッチブック」


 見覚えのある、あの頃より少しくたびれたスケッチブックを手に取り、パラパラと中をめくってみる。


「わぁ懐かしい。確かに私のです。ずっと持っててくれて、ありがとうございました」

「どういたしまして」


 久々に見る若い頃の絵に、一人できゃっきゃと盛り上がりながら最後のページまで辿り着くと、途端に二人の間に沈黙が訪れた。


 それは最後のページに、制服を着た柊平さんのスケッチがあったから。


 今まですっかり忘れていたけど、パリに留学したばかりの頃、孤独な夜になんとなく描いてみたものだ。


 私はどう言い訳をしようか悩んだ。


「学生時代に、どこかで会ったことがあったかな?」

「これは……」


 全身に嫌な汗が浮かぶ。私はまるで、大罪が暴かれたかのように狼狽した。


「回りくどいことはやめよう」


 そう言うと柊平さんは、私の胸元のボタンを外していった。意図が見えて、私は全身を硬直させた。


 あと少しで下着が見えてしまう。そこまでブラウスを開けると、柊平さんは露わになった胸の、真ん中にある大きな傷にそっと触れた。


「紗夜さん、俺はあなたに会いに日本へ戻ってきた。どうしても一目会いたくて、ずっと探していたんだよ」

「それは……」


 そうだったんだ。


 柊平さんは最初から全部知っていたのか。


 茉莉子の心臓の在り処も、私がここにいることも。


「絵の描き方は、“彼女”から教わったんだね?」


 恐る恐る見上げると、そこにあったのは愛しい人を見つめる、至極優しい眼差しだった。


 茉莉子を見ていた時の、あの表情。


 ここに座っているのが茉莉子じゃないことが、今はとても申し訳ない。


「紗夜先生が元気でいてくれて安心した。あの子の才能も、守り続けてくれてありがとう」


 違う。私はこんなことを言われるような人間ではない。勝手に死にかけて、人の心臓を横取りして、なおかつその人の才能まで盗み取った卑劣な人間だ。


 本来の私は、今頃どこにいるのだろう。絵を描くことが苦手で、運動ばかりしていたあの頃の私は、茉莉子の肉体と共に燃やされてしまったのだろうか。


 これもみんな、生きたいと願ってしまったことへの罰かもしれない。


「私なんかで、すみませんでした……」


 かすれた小さな声が、二人の間に情けなく響く。


「違うよ。紗夜先生で良かったんだ。あの子もそう思ってるはずだ」


 吉井さんにはじめて記憶の話をした時から今日まで、たったの一度も泣かなかったのに、今はどうしても涙が止まらなかった。しゃくり上げる訳でもなく、ただただ涙が一滴づつ、次々にこぼれ落ちていく。


 柊平さんの大きな手がそれを受け止めてくれたから、私ははじめて、私が私でいることを少しだけ許されたような気がした。




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