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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
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過去3 はじまりの春②


「はぁ、疲れた……」


 予定されていた全ての仕事を終え、ふと気がつくと、夕日が寮を照らしていた。


 腕時計を見ると、もう五時もすっかり過ぎている。いつの間にか日が延びたな……と思うのと同時に、空腹でめまいがした。


「紗夜ちゃん、お疲れ!」


 一緒に作業をしてくれていた、顔なじみの新三年生に駄菓子を手渡されると、嬉しくて涙が出そうになった。本来なら私が渡さなくちゃいけないのに、あいにく飴の一つもない。


「しかし一年の担任は大変だよね。明日もつきっきりで引越しの手伝いだもんね」


 そう言うと彼はポケットから更にお菓子を出して、手のひらに載せてくれた。久々に手にした馴染みのある駄菓子に、私は幼い頃を思い出す。


「そう言ってくれるのは有り難いけど、受験生を受け持つ先生の方がよっぽど大変だからね」

「そんなことないですって。あとは俺たちのこと追い出すだけですから」


 高らかに笑うその横顔に、追い出すまでが苦労の連続なのよ、と心の中で呟く。でも言葉にするのは止めておいた。それを知るのは大人になってからでいいから。


「紗夜ちゃん、ぶっちゃけ今度の三年の中で、将来的に生き残れるのって、何割いると思う?」


 この質問は、何回問われても身構えてしまう。パーセンテージで表したところで、この子たちには何の意味もない。どこまで諦めずに追い続けるか。結局はそこだろう。


「そんなこと、大学生になってから考えなよ」

「紗夜ちゃんは?やっぱり画家になりたかった?」

「そうね、大学の時は画家より画商の方が興味あったかな。自分で目をつけた画家を売り出すのって面白そうでしょ?でも結果的に教師になって良かったよ。画商になるための勉強も、成績をつけるにあたり無駄にならなかったしね。どの世界でもそうだけどさ、職種なんて一つだけじゃないんだから、色んなものを知ってから考えればいいんだよ」


 なんて、いかにも教師っぽいことを言いながら、私は一年後にはここを去っていく彼と暮れゆく森を眺めた。


 この子がいつかこの学校に戻ってきてくれたら。そう思うと、和泉先生みたいに長く勤めるのもいいな……と思った。柊平さんと再会した時の和泉先生の喜びようときたら、こっちまで泣けてしまうほどだった。柊平さんのことは二年、三年と二年間受け持ったらしく、再会してから今日に至るまで、毎日気の緩んだ顔で彼の思い出話をしてくれる。


 そんな立場になるのも、悪くない。


「戻ってきてもいいよ。今度は私の後輩として」


 そう言うと、彼は笑いながらまた駄菓子を手渡してきた。


「お菓子、いくつ持ってるの?」

「紗夜ちゃんが欲しいだけ」


 そのためにも、この一年は頑張ろうと夕陽に向かって強く決意をした。





 約束の時間まであと三分ある。


 急いで集合場所に行くと、柊平さんは既に到着していて、樹の幹に身体を預けながら何かの本を読んでいた。昔と変わらず哲学関係の本だろうか。近づきつつ見てみても、難しい外国語でよく分からなかった。


「遅れてごめんなさい、仕事が立て込んじゃって」

「いや、いいよ。忙しいのに呼び出した俺の方が謝らないと」

「これから行く場所は、ここから遠いですか?」

「森の中を少し歩いてもらうことになるけど、充分歩ける距離だから遠くではない。大丈夫かな?」


 連れて行きたい所がある、と柊平さんに言われたのは昨日の夜のことで、それが何処にあるのかも、どんな場所なのかも聞かないまま、私は見栄を優先してお気に入りのブーツを履いて来てしまった。


 森の中とは、どの適度の森だろうか。


「急斜面でなければ、大抵の場所は歩けると思います」

「じゃあ、行こうか」


 柊平さんは手に持っていた小さな本を上着の内ポケットにしまうと、私を先導するように歩き出す。その後ろ姿に素肌の背中を思い出して、私は顔が熱くなった。


 見たというとこは、見られたということ。


 そのことに気がつくと、今度は身体中が熱くなった。



 柊平さんと再会という名の出会いをしたのは、五日前の決起集会でのこと。部屋に入ってきた藤堂先輩が和泉先生と熱い抱擁をしている姿に、私は驚きで膝から崩れ落ちてしまいそうだった。


『藤堂柊平はこの学校の伝説的なOBであるから、いつここへ顔を出してもおかしくない』


 心のどこかでそうは思っていても、画家の道を捨て、フィレンツェの有名な工房で絵画修復師として活躍している話を耳にしていると、ここで会うことは期待しない方がいいと考えていた。


 それが、この急展開。


 決起集会が終わり、麓の町で宴会がはじまっても、先輩は先生たちの輪の中心にいた。下っ端の私が話しかけるなんて以ての外。遠くからたまに様子を伺うことが、私にできる精一杯だった。


 先輩は談笑する先生たちに相槌をうちながら、注がれたお酒を次々に飲んでいく。顔色一つ変えない飲みっぷりに、その都度周りの先生たちから歓声が起こった。


「藤堂先生、かなり強いね!」

「俺、イタリアでワイン漬けにされてきたんですよ?ビールなんて水です」


 そう言うと、次からは熱燗が運ばれてきて、先輩は「これは酔うやつ……」と言いながらも、相変わらずのペースでお酌に応えていった。


 半ば強制的に二軒目に連れて行かれ、お店を出たのは午後十時。ご機嫌で千鳥足になる先生たちが三件目を探している後ろで、私は帰ろうかどうしようか迷っていた。


「今日はもう帰られますか?」


 急に横から話しかけられたので、私はびっくりして一歩退く。顔を上げると、ついさっきまで先生たちに囲まれていたはずの先輩が、私のすぐ隣を並んで歩いていた。


 心臓が一度、苦しいほどに大きく脈打つ。


「仲のいい先生が帰ってしまったので、どうしようか迷ってて……」


 先輩が行くなら行ってもいいんですが……などと、小心者の私は心の中で願望を呟いてみる。


「この近くに馴染みのレストランがあるんですよ。確かこの時間はまだ開いてた気がするんですが……」


 先輩は私を見ず、真正面を向いたまま小さな声でそう言う。誘われているとは、すぐには分からなかった。


「少し、付き合ってくれませんか?」

「え、え!?……あ、はい……」


 はじめて二人の視線が交わると、先輩は他の先生たちに挨拶もせず、私の腕を引いて細い路地へ入っていった。地元の人しか知らないであろう細道をいくつか曲がると、住宅街の外れにそのレストランはあった。ランプに灯され、煉瓦の壁と木製のドアだけが暗闇に浮かび上がったそこは、今にも魔法使いが食事を終えて出てきそうな雰囲気の、秘密の隠れ家のようなお店だった。


「ここのオニオンスープが美味しいので、是非飲んでもらいたいんです」

「それで私を?」

「さっきは全然話せなかったから」


 石の階段を三段上がると、先輩は年季の入った鉄製のドアハンドルを引く。


 こんな時間にも関わらず、私たちを快く迎え入れてくれたのは、私の親世代と見受けられる上品な女性だった。店内は薄暗く、テーブルのステンドグラスのランプが手元を仄かに照らしている。


 時間が遅いからか、店内には私たちの他は誰もいなかった。女性にコートを預けると、私はクッションの効いた椅子に座らせてもらう。注文したオニオンスープとガーリックトーストが運ばれてくると、先輩に勧められ、私はさっそく木のスプーンでトロトロとしたスープを口に運んだ。玉ねぎの優しい甘味に、自然と笑みがこぼれる。


「美味しい……」

「口に合って良かった」


 それ以降、私と先輩は何を話すでもなく、ゆっくりとスープを味わった。


 無言でいるのに、この居心地の良さは何なのだろう。


 たっぷりの時間をかけて完食すると、お腹の中から暖かな幸福感で満たされた。


 緩みきった私の顔を見て、先輩は微笑む。


「お酒、全く飲んでなかったね。先生たちにお酌ばかりして……」

「元からお酒は飲まないんですよ」


 せっかくのムードが台無しになるのが怖くて、病気のことも移植のことも言わなかった。


 私は遠慮がちに先輩と目を合わせる。この優しい瞳を独占できて、この上ない贅沢を感じた。


「藤堂先生はお強いんですね。ちょっと羨ましいな」

「教諭ではないから、先生じゃなくていいよ。柊平とでも呼んでください。ところで……」


 先輩は背筋を伸ばすと、やや言いにくそうな素振りを見せながら、私にこう尋ねた。



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