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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
22/107

現在3 失われた記憶③


 三人がかりで探して、ようやく見つけた茉莉子さんの絵を引っ張りだしたのは、それからずいぶん時間が経った頃だった。

 『業火』とつけられたタイトルには相応しくない物静かなその絵は、ログハウスのリビングとおぼしき部屋の中央で、少女がうつ伏せで倒れている姿が描かれていた。両手で絨毯を握りしめている様子から、絵の中の少女は何かに葛藤しているようにも見える。

 確かこの絵、前にも見たことがあったかも?と記憶の中を探すも、一致するものは出てこなかった。

「さすが茉莉子さん。描写がとことん細かいわね……ここなんてフローリングの傷まで再現されてる。ニュアンスもそうだし、とても高校生が描いたものとは思えないわ」

 理央が感心しきりに言う。

「茉莉子さんって入学した時から先生たちに一目置かれてたんだよね。これを見ると納得だね」

 真由が理央に賛同してうんうんと何度も頭を上下させる。

「そうだ、この辺に藤堂先生の受賞作もあるわよね?ついでにそっちも見たいわ」

「出してみる?ちょっと探すことになるけど」

 私は理央のリクエストに立ち上がると、茉莉子さんの絵があった棚の、更に奥の棚に手を伸ばす。

 立て掛けられたキャンバスをいくつか見ていくと、意外にもすんなり藤堂先生の絵は見つかった。

「あ、これだ。理央、ちょっとそっち持って」

 二人で慎重に取り出すと、それを茉莉子さんの絵の隣に置く。

「わぁ~」

 真由が目を輝かせ、間近で筆のタッチを観察しはじめる。

「藤堂先生って本当に幻想的な絵を描くよね。生活感のある風景だって、ちゃんと自分のフィルターを通して描くから、どれもおとぎ話みたいだし、統一性がある」

「いわゆる藤堂印……ね」

 藤堂印とは、藤堂先生のファンなら知らない人のいない言葉だ。

「こんな画力で十年以上もオリジナルを描いてこなかったんだから、勿体無いことこの上ないわね。さぞお稼ぎになられたでしょうに」

 理央が肩をすくめる。

「藤堂先生って、大学を出てからずっとイタリアで絵画修復師をやってたんだよね?なんで絵を描かなくなったんだっけ?」

 真由が聞きながら私を見る。

「えっとー……なんだったかしらね……」

 考えながら理央が首を傾げる。

「茉莉子さんのことじゃなかったっけ?」

 私はなんとなく、脳裏をよぎったことを口にしてみた。

「そうだっけ。言われてみると、そんなような気もするね」

「十四年も経つと、こんなに忘れるのもなのかしら。まぁ、忘れようとしてた部分もあるけど。一体私たちは、どれだけのことを忘れてるのかしらね」

 理央の言う通り、忘れていることにすら気づけていないことが、私たちにはたくさんあるのだろう。それを全て思い出せたら、十四年後の世界に戻れるのだろうか。

「じゃあ、そろそろ上に戻りますか」

 そう言って私は絵を元の位置に戻そうとキャンバスを持ち上げる。

 ふとキャンバスの裏面が目に入った、その時。

「あっ!見て、これ!」

 作品の裏に薄れた字で書かれてあったのは、何かのメッセージだった。


【あなたの仇は私が討ちます。どうぞ、安らかにお眠りください】


 裏面の上部には、白チョークの文字でこう書かれてあった。やや乱雑な上、所々粉が飛んで薄くなっている部分があるので、誰が書いた文字かは性別すら判断がつかない。

 そして、更にその下には


【運命の日に、隠れ家で待つ】


 と、マジックか何かで書かれたようなイタリア語が、几帳面に整った文字で書いてあった。

 三人で目を凝らす。

「なに、これ?」

「茉莉子さんへのメッセージ……?」

「どういう意味だろう……」

 三人それぞれが疑問を呈し、顔を見合わせる。

「仇って、さっき紗夜ちゃんが言ってたことと関係あるのかな」

「茉莉子さんが突き落とされたってやつ?」

「うん。その仇を討つってことじゃない?」

「なるほどね。じゃ、これは紗夜ちゃんが書いた可能性もありか。授業の時とだいぶ筆跡が違う気がするけどね」

 私は試しに藤堂先生の絵の裏も見てみたが、何も書かれていなかった。

「じゃあ、この下のイタリア語は……?」

 真由が指差す。

「さぁ?うちの学校じゃ、生徒でもこのくらい書ける子少なくないし、特定は難しいわね」

「こっちなら、藤堂先生が書いたものだよ」

 私は二人にそう断言する。

「そうなの?」

「うん。私よく藤堂先生とイタリア語で手紙のやり取りをしてたから、この文字は藤堂先生の字で間違いない」

「あら、何よその話し。初耳だわ」

 理央が興味津々な目をこちらに向ける。

「心美と藤堂先生っていつも一緒にいたイメージだけど、文通もしてたんだね」

 続けて真由がニヤニヤしながら私の腕を指でつついた。

「単なるイタリア語の練習だけどね。内容も日記みたいなものだったし」

 私は紗夜ちゃんが書いたとおぼしきメッセージより、藤堂先生が書いた方の言葉が気になった。

 運命の日に、隠れ家で待つ……?

 これも茉莉子さんへ宛てたメッセージなのだろうか。しかし、わざわざ収蔵庫に保管されてしまうこの絵の裏に書くというのは、どういう意味があるのだろう。

 それとも違う誰かに宛てたものなのだろうか。

 例えば、紗夜ちゃんとか……?

「この運命の日って、なんだろうね?」

 真由が小首をかしげる。

「そもそも、誰にとっての運命の日なのかしらね。そこが分からないことには見当もつかないわ」

「そうだね」

 分からない以上、ここにいても埒があかない。

 全員そう思いはじめたのか、誰ともなく二枚の絵を片づけると、収蔵庫の入り口へ向かった。

「次は教室に行ってみる?」

 真由が扉を閉めながら聞く。

「そうねぇ……でも私、お腹が空いちゃったわ」

 理央がお腹をさする。

 そういえば私もまだ昼食を取っていなかった。

 本来の時間なら、もうとっくにおやつの時間も過ぎているだろう。緊張続きで忘れていたが、確かにそろそろ何か食べておきたい。

「どこかでご飯食べられないかな?」

 校舎には小さなコンビニがあるが、土日は閉まっていたはず。寮へ行ったって、卒業生に食事を提供してくれるとは思えない。そもそも人と出会えないのだ、注文すら不可能だろう。

「ねえ、ログハウスに戻ってみない?まだクッキーもお茶も残ってるし、そんなものでもいいから胃に入れておきたいわ」

 理央の提案に、私も真由も賛成する。この非常事態。メニューにどうこう文句は言ってられない。

「なら、その前にもう一度、部室へ行っておきたいんだよね。本当にここが過去か調べたい」

 私が言うと、二人も頷いた。

「そうね。さっきはろくに部屋の中も見てないし」

 私たちは一階へ上がると、やはり誰の姿もない職員室の前を通りすぎ、真っ直ぐ美術部へ向かった。

道中、部室棟の部屋の中も覗いてみたりしたが、案の定どこもかしこも静まり返っていた。

 せめて今日が何日なのかを知りたい。

 そうすれば、藤堂先生に会える可能性も生まれてくるかもしれないのに。

 十四年前の秋。今頃彼は、どこで何をして過ごしているのだろう。

「とりあえず、先にアトリエかしらね?」

 部室の前に着くと、今度は堂々と一階の入り口から中へ入り、室内の階段を使って二階へ上がった。アトリエのドアの前に立つと、念のためノックをしてみる。

「さっそく誰かに会えたらいいね」

「そしたらダッシュで寮から食料を運んでもらうわよ」

「中にいるのが理央じゃなきゃいいけど。いくら請求されるか分からない」

 真由が絶望の表情で呟く。

「だから私とは会えませんって!さ、行くわよ!またまたお邪魔しまーす!」

 理央が威勢よく開けると、期待も虚しくやはり中には誰もいなかった。

 しかし、最初に入った時と劇的に変わっている所が一ヶ所あった。

「ああ!懐かしい絵!!」

 アトリエのほぼ中央に、未完成の油絵がイーゼルに載せられた状態で置かれている。

「藤堂先生の絵、ここにあったのね!」

 それは藤堂先生が、部活動を放ったらかして話し込んでいる私たちを描いた風景画で、当時ヨーロッパの有名な絵画展で絶賛された作品だった。私が先ほど収蔵庫で探していた、まさにその絵だ。

 真由がはしゃぎながら近づいていく。

「やっぱり藤堂先生の絵だなあ。日本の高校生じゃなくて、中世のわんぱくなお姫様が三人でお喋りしてるみたい!」

「お喋りっていうか、えげつない戦術を練ってる雰囲気だけどね……」

 理央が苦笑する。

「ところでなんで、この絵がここに?」

「そうだよね。これ未完成だしね……」

 確かこの絵が初めて先生以外の目に触れたのは、パリでの展覧会だったはず。私たちだって最初に見たのは帰国後、学校の展示室で公開された時だった。それは間違いない。

「じゃあ先生が意図的にここへ置いたということ?私たちが職員室へ移動した後に?」

 三人が目を合わせたと同時に、何かとても軽いものが落ちる音が聞こえた。


 床に目線を落とすと、キャンバスの裏に何か四角い物が落ちている。

 真由が拾い上げてみると、それは封筒だった。

「手紙みたいだけど、宛名も差出人も書いてないね」

 水色の封筒は封が切られていて、中には何枚かの便箋と、うさぎのキャラクターのメモ用紙が入っていた。

 理央が「読んでみる?」と聞く。

 誰かの手紙を勝手に読むのはマナー違反でしょう、と言っていられる状況ではないので、真由が代表して便箋を開いてみた。

 中には紗夜ちゃんから藤堂先生へ宛てた手紙が、いくつも入っていた。


【文化祭お疲れ様でした。昨日、後夜祭の後にセツナくんから事情を聞きました。柊平さんが父親であることも、あなたが密かにセツナくんへプレゼントを送っていたことも、ここへの入学を養父母を通して後押ししてくれていたことも、ちゃんと知っていました。感謝しているようですが、やはり複雑な心境であることには間違いないようです。セツナくんももう子供ではないですし、一度直接お話ししてみてはどうですか?そのときは私も同席します。】


【昨日はありがとう。久しぶりに柊平さんと一緒にいられて嬉しかったです。ところで最近、理央ちゃんの様子がおかしいことに気づきましたか?多分、お母様と弟さんがここへ面会にいらした直後からだと思います。私も心配しているのですが、どう切り出そうか悩んでいます。良かったら柊平さんからも話を聞いてあげてください。】


【この前話をしたこと、やはり大叔父に聞いてみたいと思います。次はいつ会えるか分からないですが、このままではいられないので。もし事実なら、私たちの関係はどうなりますか?】


【真由ちゃんとクッキーを焼きました。心美ちゃんのとは味が違うので、良かったらこちらも召し上がってください。美味しかったら、真由ちゃんを褒めてあげてね】


【展覧会に出す絵の完成が間に合いそうで良かったです。あの絵だけは、何があっても手離してはいけないですね。仕事が終わったら家で待ってます】


【柊平さんはとても特別な存在です。セツナくんも、まりこ会の三人も、きっとあなたがいるから前を向ける。私もそう。ずっとそばにいたい。】


【ログハウスは言われた通り閉鎖します。いつの日か、あの子たちが真実を手にできますように。】


 真由が全てを読み上げると、三人とも絶句し、しばらくその場に立ち尽くした。

「これって……」

 その言葉の後が、誰も続かない。

 紗夜ちゃんから藤堂先生へ送った手紙なので、当たり前だが、話が見えるものもあれば、分からないこともある。

 しかし手紙の内容よりも、藤堂先生が柊平という名前だったことの方が、私にとって一番の衝撃だった。

 収蔵庫で藤堂先生の名前を見たときには全く気づかなかった。まるで下の名前だけ消えてしまっていたかのように。

「しゅうへい……くん……」

 そうだ。

 私たちは藤堂先生のことを、柊平くんと呼んでいたんだ。そんなことまで忘れていたとは、私たちは一体どうしてしまったのだろう。

 柊平くん。

 柊平くん。

 理央の苗字と同じ字を持つ、藤堂柊平くん。

 懐かしい響きが引き金になって、私はいくつかのエピソードを思い出した。一つを思い出すと、あれもこれも、泉のように次々とよみがえってくる。

「そうだったね。私たち、確かに柊平くんって呼んでた」

 真由が目を細めながら便箋に目を落とす。

「嫌ね、藤堂先生なんて他人行儀な呼び方」

「そもそもあの人、教員免許持ってないしね」

 三人は口先だけで笑う。それぞれ頭に思い浮かべるエピソードは違えど、それがこれまで思い出してきた記憶とは全く温度の違うものであることは確かだった。

「忘れてたけど、これで色々と思い出したわ。でも思い出話は後にしましょう。まずは、ログハウスへ帰るわよ」

 一階のPC室と講義室を覗き、誰もいないことを確認すると、私たちは裏門から石畳みの道へ出た。辺りはほんのり夕方の色合いを見せて、ひんやりとした北風が頬を撫でていく。

 今は何時頃なんだろう。できれば夜になる前に解決してしまいたい。

 娘の柔らかな笑顔を思い出しながら、私は二人の後に続いた。





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