現在3 失われた記憶
私たちは美術部の建物から外に出て、職員玄関を目指すことにした。
言葉少なく後ろをついてくる真由と理央は、あの頃のようにぴたりとくっつき、束の間で春から秋へと変わってしまった森を見回している。
私は混乱する頭で、今に至るまでのことを振り返ってみた。
まず最初に、手紙が届いた。すぐに義両親へ相談すると、気になるのなら従った方がいいとのことで、娘を預ける日の予定を調整してもらった。
次に今日。娘と別れ際のハグをしてから電車に乗り込み、最寄の主要駅へ着いたのが十二時を過ぎた頃。駅前の大きなスクリーンでは、若いアナウンサーが短いニュースを読み上げていたっけ。確か、桜の名所の賑わいを伝えていたと記憶している。
それからバスを乗り継いで一時間。ここへ着くと真由と再会し、それから間もなく理央とも合流した。三人でログハウスに入ったのが十五分後くらいだろうか。
手紙の差出人を探しながら異変を感じて外に出るまでが、恐らく四十分ほど。そして、美術部の部室に入ってから外へ出るまでの間はわずか五分足らず……という具合だろうか。
春先と晩秋は、確かに様子が似ている。湿った紅葉が地面に落ち、冷たい風が過ぎ去っていく。しかし、部室に入る前と出た後では、明らかに雰囲気が違っていた。
これは紛れもなく秋だ。芽吹こうと力を溜め込んでいる森の様子では無い。
一体なにをどうすれば、こんな現象が起こるのか。
私はあり得ないことを目の当たりにしてしまった絶望感に浸りながら、職員玄関へ入った。
「鍵、開いてる?」
「うん。灯りもついてる」
真由がおっかなびっくり私の後に続く。
「ここら辺でゾンビにでも襲われたら、これは夢だって確定するのにね」
理央が余計なことを言うものだから、真由が更に恐がって私の背中に張りつく。
広間に出ると、ガラスの壁から中庭の様子がよく見えた。活力を失いはじめた芝に、真っ赤な楓が落ちている。
「紗夜ちゃんって今はどのクラスの担任してるんだろう」
「片っ端から開けてみよう。職員室なら誰か一人は必ずいるはずだし」
そう言って私は一番手前の一年生の職員室を開けた。
「失礼します。……あれ?」
予想に反して室内はがらんとしていて、誰もいない。手前のデスクに湯気の立つコーヒーカップが置いてあるので、誰かいるのは確かだったが、たまたま席を外しているのだろうか。
「失礼しまーす!卒業生の柊でーす」
私が開けたドアを閉めたところで、理央が隣の二年生の職員室を開ける声がした。
「あら。誰もいないわね」
私も覗きに行くと、やはりそこにも誰の姿もなかった。ただ、こちらの部屋もPCのモニターがついているものがあったので、直近まで誰かいたのは確からしい。
すると今度は三年生の職員室から軽いノック音が聞こえた。見ると真由が鳴らしていたようで、中から返事がないのか、もう一度ノックをしている。
仕方がないので何の反応もないままドアを開けると、やはりその部屋も先生たちは不在だったようだ。
「うーん、ここにもいないなぁ」
真由が困った声を出す。
「そんなまさか、誰もいないなんてことないでしょう?」
理央が真由の背後から部屋を覗く。
「だっていないもん。ね?」
三人で中に入り、奥の給湯室まで覗くも、やはり誰もいない。しかしエアコンからは温風が出ていて、勢いよく吹き出す加湿器の水量も満タンだった。
どの部屋もタイミング悪くたまたま誰もいないということなのか?
「職員室に誰もいないなんて……今までこんなことなかったよね?」
真由が不安そうに言う。
「土曜日ならイベントでもないだろうし」
理央が顎に指を添える。
「仮に本当に季節が巡ったとして、秋にある週末のイベントといえば文化祭だけど、仮に文化祭だとしたら、どこもかしこも人でいっぱいのはずよね」
三人は後ろを振り返り、中庭を見る。確かに季節は秋だが、文化祭にしては秋も暮れている様子に見えた。
「これからどうする?上の会議室でも覗いてみる?」
理央の提案に、私と真由は頷く。
「そうしよう。職員会議してるかもしれないし」
建物の中央を旋回する絨毯の敷かれた大きな螺旋階段を登っていくと、二階の廊下から校舎が見渡せた。
久々に見る校舎に、私は懐かしさを感じずにはいられなかった。この円になった校舎を、二年間で一体何周したのだろうか。目が回るほど多忙だった学生時代を思い浮かべると、なんだか笑えてきた。
「心美、なにぼーっとしてるの、置いてくわよ」
理央に呼ばれ、私は左手の廊下へ進もうとした、その時だった。
「教えてください!大……」
確かに誰かがそう叫ぶ声が聞こえた。
私は驚き、ぎょっとして振り返る。
声がしたのは理事長室の方向だ。
「真由、理央!」
私は会議室を開けようとしてる二人に声をかけ、今聞いたことを説明した。すると理央が先頭に立ち、確認しようと歩き出す。
廊下を右へ折れると、突き当たりが理事長になる。重厚な木の扉の前で止まると、中から話し声が聞こえた。三人はそっと扉に耳を当てる。
そこで、また金縛りに襲われた。
体全体が扉に吸い寄せられたように指一本動かない。先ほど美術部の物置部屋で起こった金縛りと、全く同じ現象だった。
焦る気持ちを抑えつつ、私は部屋の中の会話に耳を傾けた。
「いいから、座りなさい」
「お願いします!本当のことを言ってください!」
中にいるのは、紗夜ちゃんと、恐らく理事長だ。どうやら二人きりらしい。
「分かった、紗夜の話はちゃんと聞こう。だから、まずは座りなさい」
大声をあげている紗夜ちゃんとは違い、理事長の方は至って冷静な声だった。
私は理事長の人物像を思い出しながら、二人の会話の続きを聞く。
「私、夢に見てたんです。移植の直後から、ずっと、宇野さんの……」
「さっきから言っている、宇野さんとは?」
「そこの絵の、あの少女のモデルです!」
「ああ、彼女か……そうか、宇野さんといったっけ。うん、確かに彼女のことはよく覚えているよ」
そこの絵とは、理事長の壁に掛けられた絵のことだろうか。
理事長室には在学中、数度程度しか入ったことがなかったが、確かに大きな油絵が飾ってあったような記憶がある。しかし、構図までは思い出せない。暗く、青い、ぼんやりとしたイメージしかなかった。真由と理央は分かるだろうか。
「私、彼女の最期の記憶を知ってるんです」
「最期の記憶……?」
「彼女が事故にあう直前に、彼女の背後に立っていた人間の顔を知っています。そして、その人が宇野さんを階段から突き落としたことも分かってます。それで……亡くなった宇野さんの心臓が……私に……」
彼女……
事故……
突き落とした……
宇野さんの心臓が私に……?
一体何の話だろう。
話が読めずに、私は苛立ちを覚える。
しかしその話に、なぜか心に引っ掛かるものがあった。
「紗夜、それはただの夢だ。そんな事故もあったが、あれは帰りを急いでいた宇野さんが、階段から足を滑らせただけで……」
「夢じゃありません!確かに校舎や教室の風景は曖昧で、私の記憶に留めていたものは殆どありませんでした。けれど、美術部の部室や、中庭や、学生寮の書庫のことはよく覚えてるんです。それに、ログハウスのことも……」
「それは」
「錯覚なんかじゃありません」
「大体、紗夜の心臓が宇野さんのものだったとは限らないじゃないか。仮にそうだっとして、心臓が記憶を伝えるというのは無理があるだろう?」
「移植をした後、臓器から記憶や趣味嗜好がレシピエントに移ることは現実に何例も報告されています。それに、確認しました。先生に……」
「先生……?」
「宇野さんが在学中に、美術部の顧問だった橘先生に……」
そこで二人の会話が切れた。と同時に、金縛りからも解放された。
自由になった体で、三人は顔を見合わせる。
何をどこから言おうか思案していると、理央が立ち上がり、理事長室の扉をノックした。
「卒業生の柊です。理事長、お話があって伺いました。開けて頂けませんか?」
理央の勇気ある行動に、私と真由は目を合わせる。しかし、しばらく待っても理央の言葉に返事はなかった。痺れを切らした理央がもう一度ノックをしても、結果は同じ。
「私のこと、忘れたのかしらね?割と濃いキャラだったはずだけど」
珍しく客観性のある自己評価をした理央が扉を押すと、それは呆気なく簡単に開いた。
中には誰もいない。
「やだ。かくれんぼかしら?」
真顔で言うと、理央は中へ入っていく。
「あら?無いわね、絵が」
理央に続いて、私と真由も部屋の中へ入る。
遠い記憶の中にある、右側の壁に掛けられていたはずの大きな油絵は、額ごと取り外されていた。
「私、あの絵のことはよく覚えているはずなんだけど、どうも詳しく思い出せないのよね」
理央が小首を傾げて、今は何もない壁を見る。
「どうして思い出せないのかしら」
考えに耽る理央を横目に、真由が聞く。
「紗夜ちゃん、橘先生って言ってたよね?」
「うん。確かに言ってた」
「茉莉子さんが誰かに突き落とされて、亡くなって、紗夜ちゃんに心臓が移植されたって言ってた」
「うん」
「私、ここの所が何かモヤモヤするの。こんな話し初めて聞いたのに、何か引っかかるものがあるというか。そこに橘先生も絡んでるんじゃないかな」
そう言うと今度は真由が黙ってしまった。
これでは先に進まないので、私は二人に声をかける。
「橘先生って、今どこにいるんだろう。私たちの時はもういなかったから、今さら探しても遅いかな?」
それに真由が反応する。
「でも紗夜ちゃん、さっき橘先生に確認したって言わなかった?」
「じゃあ、今どこにいるか調べてみる?」
理央が顔を上げる。
「調べるって、どこを?」
「学校のデータベースに、教員の情報くらいあるでしょう?」
「じゃ、職員室ね。行こう」
部屋を出て行く二人に続き、私も歩き出す。
ふと部屋の奥にある、理事長室専用のエレベーターを振り返った。
紗夜ちゃんは私たちの存在に気がついて、どこかへ逃げてしまったのだろうか。まさかこの不可解な現象の全ては、理事長の仕業なのだろうか。だとしたら、これもあの事に関わることなのだろうか。
一体私たちに、今さら何をさせようとしているのか。
考えれば考えるほど、私は疑心暗鬼に囚われていった。
私たちは螺旋階段を足早に下り、目の前にある二年生の職員室に入ると、モニターがついているPCを勝手に拝借してキーボードを叩いた。
検索結果は期待を裏切るものだった。
橘先生の備考欄には、『病死』と書かれていた。
備考欄を読み上げた後、理央がこちらを振り返る。
「病死だって。しかも、亡くなった日付は十五年前になってるわよ」
ということは、紗夜ちゃんが橘先生から何かを聞いたのは、十五年も前の話になる。それを今頃、あの熱量で理事長に問い詰めた……?
「これじゃあ、橘先生には頼れないね」
真由が残念そうに呟く。
「そうね。とにかく紗夜ちゃんを見つけないことには、前に進まないってことだわね」
理央がそう言いながら、手持ち無沙汰に画面を何往復もスクロールしている。
私は考える。紗夜ちゃんを捕まえるにあたり、どこをあたればいいだろうか。さっきのように逃げられたんじゃ、素直に探しても会うことはまず困難だろう。先回りするにしても、紗夜ちゃんの行動なんて読めない。それに見つけたとしても、また金縛りに襲われてしまったら意味がない。
金縛り……。
あれはどうやって三人の体を硬直させているのだろう。超音波?電磁波?万が一にも体に悪いものだったら、絶対に許さない。
「なんだか茉莉子さんって、色んな所に出てくるよね」
ぽつりと呟いた真由のこの言葉に、私はまたもや引っかかるものがあった。
「確かにそうね」
理央が詳細を語るより早く、私も頭の中でそれぞれのシーンに茉莉子さんを見つけた。
まず、藤堂先生の昔の恋人であった茉莉子。
そしてセツナの母親である茉莉子。
美術部に在籍して、ログハウスを行き来していたであろう茉莉子。
何か事情を知っている橘先生の教え子である茉莉子。
そして、紗夜ちゃんに心臓を提供した茉莉子。
こう考えると本当に、物語の核となるのが茉莉子さんのような気がしてくる。
「私、茉莉子さんの絵が見たいわ」
理央がPCの画面を元通りにしながら言う。
すると真由が、「茉莉子さんくらいの人なら、収蔵庫に何か保管してあるかも?」と返した。
収蔵庫とは、大きな賞を取った作品や、専門家から評価を得た作品を収蔵している部屋だ。確か校内コンクールの受賞作品は、開校以来のものが全て揃えてあるはず。
しかしあの部屋は、生徒はおろか、教師でさえそう簡単には中に入れないと聞いている。鍵の保管庫を開けるにも、鍵が必要だったはずだ。
「でも収蔵庫っていくつも鍵が必要だよ?まさかあの部屋の鍵が開いてるなんてことは、万が一にもないし」
真由が腕組をしながら理央を見る。
「なら、あるわよ?」
理央が胸を張る。
「あんたまさか、収蔵庫の鍵も盗んだの!?」
私は驚いて理央に詰め寄る。さすがに収蔵庫の鍵なんて盗んだら大問題になるし、下手をしなくてもバレたら警察に直行だ。
「違うわよ。まさか収蔵庫の鍵なんて持ってないって。それに、持ってたって何に使うのよ」
使い道がなくても“一応取っておく”あんたが何を言うか。
「ここ、職員室よ?鍵ならそこにあるじゃない?」
理央が自慢気に言いながら、鍵の保管庫を指差す。そしていくつかの鍵をポケットから取り出し、中から一つを選ぶと、保管庫を開けた。
「えーっと、しゅうぞうこ……収蔵庫……あったわ!」
理央は目当ての鍵が見つかると、嬉しそうに振り返る。
「あんたが今おもむろに取り出した、学年主任しか持っていないはずの保管庫の鍵は何なのよ」と言うのをぐっと我慢し、私は理央から鍵を受け取った。
「真由が怖かったら、行くのやめるけど?」
後ろから私たちの様子を見ていた真由を振り返る。
「ううん、大丈夫。私も久しぶりに心美と理央の絵が見たい!」
まだ子供のような真由の笑顔が愛らしくて、私と理央は真由の頭をぐちゃぐちゃに撫でた。
揉みくちゃにされながら、真由が言う。
「今度は金縛りがなきゃいいけど」
「本当にね。あれ、どういう仕組みなんだろう?」
「うちの学校で幽霊話なんか聞いたことないわよね。まぁ、部室にまつわるのはあったけど」
理央が言ってるのは、美術部に言い伝えられている話だ。どんな内容だったかは、やっぱり思い出せない。
「はぁ?幽霊で金縛りとか勘弁してよ」
「とか言ってさ、心美だって真っ青な顔してたじゃない?」
「そりゃ、いきなりあんな状態になれば誰だって……」
「季節の変化も金縛りも、実はマジシャンが何かのトリックを使って、とかならいいね」
真由が全く期待をしていない目で言う。
「そうね。最後に理由も一緒にネタバレしてくれると、すっきりするんだけど」
私たちは職員室を出ると、さっきよりも大きな声を出しながら移動した。幽霊なんて非現実的。そう強く思っていても、誰の姿もない校舎が不気味なことには変わりなかった。
三年生の職員室の真横にある、地下へ続く階段の入り口まで来ると、理央は階段の手前にある扉を開け、階段の灯りをつけた。そしてまずは一人で、周囲の音を聞きながら慎重に下っていく。私は辺りを充分に見回してから、先に真由を地下へ行かせた。後ろ手に扉を閉めると、耳鳴りがするほど静かになった。
階段を下りて地下室の廊下を少し進むと、左手に鉄の扉が現れ、そのやや上部に“収蔵庫”と書かれたシルバーのプレートがつけられていた。
「ここね。開けるわよ」
私は先ほど理央から受け取った鍵でその扉を開ける。音もなく静かに開いた重たい扉の向こうには、山のような数の作品が棚に整列されていた。
「ああ、中はこんな感じだったっけ」
私はふわりと降ってきた収蔵庫の記憶にそう呟く。
「え、心美、入ったことあるの?」
真由が驚きながら聞く。
「あったと思うんだけど、誰と何のために来たのかよく思い出せないんだよね」
私はスチール棚の間を通りながら、茉莉子さんの作品が置かれている場所を探していく。コンクール作品とその他の作品が年代毎に同じ場所に置かれているので、場所はすぐに見つかっても作品を見つけるのには一苦労しそうだった。
探している最中で、真由の声が棚の向こうの方から聞こえてくる。
「あった!あったよ!心美と理央の絵!」
あんまり楽しそうなその声に、私の後ろにいた理央はすぐに引き返して真由の元へ向かった。




