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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
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プロローグ②


 病院のドアの向こうは幸せに満ち溢れていた。


 少なからず、私の目にはそう映った。


 だから私が、その境界線のこちら側にいるのは当然のことだと思った。



 春というより初夏に近い、湿気を含んだ暖かな風が私の髪を優しく撫でる。


 終わってしまえばなんてことない妊婦生活だった。多少の眠気と怠さはあったものの、それ以外は普段の体と何も変わらず。


 たった九週間の母親体験。そのお陰で、私の人生は激動の真っ只中にある。



 生理が来ないと気づくより少し前に、若干の体調の変化に気づいたのは先月のことだった。季節の変わり目は何かと不調に陥りがちだけど、今回のは少し違う気がした。


 生理周期はずれても二日。そんな私が本格的に妊娠を疑ったのはその翌週のことで、体調管理のアプリと自分の記憶で生理が三日遅れていると確信した私は、行き慣れない隣街のドラッグストアへ車を走らせた。


「神様、お願い…」


 願いは虚しく、妊娠検査薬にはうっすらと陽性反応。


「どうしろって言うの…」


 手足が一気に冷たくなった私は、しばらく呆然とその線を見つめていた。


 焦る気持ちを必死に落ち着かせ、医師から正式に妊娠を告げられたのは、それからまた一週間後のことだった。



 恋人は九つも年下の二十代前半。やっと一人で電話応対ができるようになった、可愛さが売りの若手社員。


 どうしてそんな子と子供なんて作ってしまったのかと聞かれれば、返す言葉もない。結果として、そうなってしまった。


 勿論、彼に愛情がない訳じゃない。ただ、子供ができました、はい結婚しましょうなんて簡単に言える歳の差ではないし、私にもキャリアがある。何より彼の今後の人生を考えれば、尚のこと無かったことにしてしまいたいのが事実だった。


 とはいえ、産むにしろ産まないにしろ子供の父親は彼であり、こうなってしまった以上、彼にこの事実を言わなければならない。たっぷり時間をかけて小さな決意をした私は、なるべくお互いに痕が残らないよう、努めて冷静に、よくある事のように妊娠を告げた。



 これを機に別れるかもしれない。それでもいい。遅かれ早かれそうなることは予測していたから。


 しかし、真剣に聞いていた彼の口から飛び出してきた言葉は、意外なものだった。


「真由ちゃん、おめでとう!」


 おめでとうって……と、驚く私に、彼は笑顔で続ける。


「その子が産まれるまでに入籍と、結婚式と、新婚旅行もしないとね。忙しくなるね」


 てっきり産まない道を選ぶと思っていた私の予想は大きく裏切られ、突如、出口の見えない真っ暗なトンネルに押し込まれる感覚に陥った。


「待って待って、私たち、九つも歳の差があるんだよ?私、もう三十歳を越えてるんだよ?」

「それがどうしたの?真由ちゃんの歳で子供を産むのは普通のことだよ?」

「そうだけど…」


 彼が事の重大さを理解しているのか否か、その時の私には判断がつかなかった。



 それから彼は毎日私の家にやってきた。玄関先で食べ物を差し出し、変化の見られないお腹の大きさを確かめると、もう夜も遅いからとすぐに帰ってしまう日もあった。


 結婚の意思はまだ固まっていなかったけど、道ですれ違う家族の姿はよく目につくようになった。


 ああやって私の人生も幸せの型通りに進んでいくのか。是が非でも欲しいわけじゃないけど、決して悪くもなさそうだ。


 そう思い始めた矢先の流産だった。


「大丈夫よ、また産めるから」


 初老の、気の強そうな女医さんに慰められながら、私は確かに安堵していた。


 良かった。これで私の日常は守られた。


 子供を失った悲しみよりも先に、私はそんなことを感じていた。



 その日から、今日で一週間。


 流産の処置後、私の体に異常がないか再び検査をしてもらい、ついさっき晴れて健康な三十代女性に戻ることができた。


 彼とはこの一週間会っていない。もしかしたら彼は傷ついているかもしれない。そう思うとどうしても会わせる顔がなかった。


 人生にはこんな風に突然、不運な嵐に見舞われることがたまにある。


 あの時もそうだった。


 嵐に襲われている最中だけが辛いわけじゃない。それを知っているから、私は憂鬱な気持ちになっているんだ。



 彼と待ち合わせをしたカフェまで、ここから歩いて五分。


 五分間だけ、私は凪いだ心にぷかぷか浮かんだ。



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