過去2 因縁の森へ⑥
「うわー!天井が空だ!」
「素敵!」
三年生の校舎も吹き抜けになっていていて、天井に嵌め込まれたガラス屋根から青空が見えた。
他の学年と同様に建物の片面にまとめられている教室は四階まであり、バルコニーのついた様はまるでパリの古いアパートのよう。
この学校は全体的にアール・ヌーボー建築を採用しているので、どの校舎にも至る所に花や植物のモチーフが施されていた。建築工程を考えただけでも途方に暮れてしまいそうな、そんな手の込んだ校舎になっている。
「三年生の教室は広いですね」
教室の数で言えば二年生の校舎と同じなのに、各階に設けられた教室の数は三つだった。
「三年生になると圧倒的に製作時間が増えるのと、大きな作品も一人で作ったりするようになるので、この位の広さが必要なんです。理科室や音楽室なんかは二年生の校舎にあるので、三年生の校舎はアトリエと言っても過言ではないですね」
「なるほど」
確かに教室の中には、いくつものイーゼルが出しっぱなしになっている。
「そうだ。この校舎の四階に時計塔へ登れる階段があるので、行ってみましょう」
そう関谷先生に誘われ、私たちは目の前の狭い階段に目を移す。この急な鉄骨階段を四階も上がるとなると、そこそこの重労働だ。決して不摂生をしている訳ではないけど、ためらってしまうのが本音。学生たちは日に何度もここを上っているのだろうか。
「安心してください。三年生の校舎にはエレベーターがあるので、それを使いましょう」
「エレベーター!?」
「校舎にエレベーターがあるんですか!」
姉弟揃って驚きの声を出す。
「はい。大きかったり、重かったりする作品を上げ下げするには、必要不可欠なんですよ」
「大事な作品を落としたりしたら大変ですもんね」
私たちは歩き出す関谷先生に着いていく。
「しかし凄い校舎だな。さすがの俺もこんな環境ならゲーセンもコンビニもなくていいかも」
「さすがにゲーセンはないですけど、コンビニみたいなものならありますよ。軽食と雑誌、お菓子類はひと通り取り揃えてます。あと、小さいですが画材屋もあります。その都度、街まで買いに行くのは大変なので」
「まじで!俺も中学生なら狙ったのになー」
調子に乗る弟に、私は哀れみの視線を向ける。
「倍率、八倍よ、八倍。チューリップすらまともに描けないあんたには、どう頑張っても無理」
「でも姉ちゃんだって同じようなもんだったじゃん?急に上手くなったけどさ。だから俺にもチャンスある!」
「中学生なら、ね」
私はそう言いながら、ふと二人の教え子の顔を思い浮かべた。
一年生校舎からぐるりと一周し、職員室へ戻る渡り廊下の手前で左に折れると、業務用サイズのエレベーターが三機並んでいた。間もなく開いたドアに乗り込むと、エレベーターは静かに上昇をはじめた。
「そういえば、生徒を見かけないですね。普通の学校って日曜日でも誰かしらいますよね?」
弟の問いに、関谷先生が振り返って答える。
「今日は大大掃除の日なので、今頃みんな寮の片づけをしてますよ」
「ああ、そうか。寮にいるのか。大大掃除?」
「うちの寮は生徒本人にそれぞれ掃除や洗濯をさせているんですけど、月に一度、全員で一斉掃除をする大掃除の日が設けられているんです。部活の遠征で不在にしてる生徒以外は強制なので、清掃時間内に校舎にいる生徒はいません。そして年度末の今月……今日が、一年に一度の大大掃除の日なんです。新年度に向けて部屋の入れ替えがあるので、それこそ朝から晩まで大忙しです」
「生徒は洗濯も自分で?」
私が聞く。
「はい。コインランドリーがあるので、それを利用します。こちらで行うのは食事の提供と、共用施設の管理ですね」
四階に着いたエレベーターを降りると、関谷先生が廊下の突き当たりにあるドアを開ける。その向こうには狭くて急な階段が、陽の差す上の階まで続いていた。
「ここが時計塔です。狭いので足元に気をつけてください」
慎重に階段を登ると、時計塔から外の景色が見えた。敷地全体を見渡せるほど高い位置にあるので、今歩いてきたところを一望することができる。
「上から見ると壮観だな~」
窓枠に腕を乗せて、弟が呟く。
視界左手にあるのが二年生の校舎、正面が一年生の校舎、そして右手が職員室という立ち位置になっている。それらに囲まれるように中央の中庭には芝生の上に木やベンチが置かれ、一年生の校舎の向こうには体育館が見えた。その様は、さながら森の中にあるお城といった感じだ。
「こんなところで学べたら、それは想像力が掻き立てられるでしょうね」
「学生がヨーロッパ留学をしに来た気分になれるようにと建てたらしいです。アール・ヌーボーを採用したのも、無機質になりがちな近代のビルに対抗する為だとか」
窓から入る春風が、爽やかに三人の間を通り過ぎる。
「さて、全体像も把握できたので、職員宿舎までご案内しましょう」
私たちは来た道を戻ると、渡り廊下から職員室の建物へ入った。
私は螺旋階段を下りながら、ガラス窓越しに中庭を眺める。こんな素敵な場所が自分の職場になることに、興奮が止まらなかった。
この学校に来て初めての夏休みが終わり、いよいよ校内コンクールの審査に入ろうとしている九月半ば。私は職員室校舎の地下の収蔵庫で、夜な夜な探し物をしている。
「うーん、年代的にはこの辺りなんだけど……あっ、これだ!」
山ほどある作品の中から、やっと目当てのものを探し当てたのは、もう日付が変わろうとしていた頃だった。
私は傷をつけないように、キャンバスをそっと取り出す。
作者名は宇野茉莉子、作品名は『業火』。
これで間違いない。
それは森の奥にあるログハウスで突っ伏す、彼女自身を描いた校内コンクールの出品作品だった。
「この絵が、あのときの絵か……」
私は何歩か下がり、それを隅から隅までじっくり鑑賞する。かつてこの心臓が激情に駆られて描いたものだと思うと、それはひときわ特別なものに感じられた。
それから私は、その絵の横にもう一つの絵を置いた。
茉莉子が最優秀賞を受賞した年の、前年の最優秀賞。
作者名は藤堂柊平、作品名は『刹那』。
私は名前と作品名が彫られた金色の板を指でそっとなぞる。
幾度となく夢の中で会い、いつの間にか私自身が夢中になってしまった彼が、まるでそこにいるかのようだった。
「藤堂先輩、私は茉莉子の仇を討つ為にここへ来ました。とても険しい道のりで、こんなにも長い時間がかかってしまった。けれど、必ず真実を見つけるので、世界のどこかから見ていてください」
私はしっかり二枚の絵を目に焼きつけると、夜に紛れるように収蔵庫を後にした。
「紗夜ちゃん先生。この後、大丈夫だったりする?」
生徒たちを寮へ帰した後、職員室で事務仕事をしていると、三年生を受け持つ和泉先生が申し訳なさそうに私へ声をかけてきた。ここへ来てから三日で定着した自分のあだ名に、私は元気よく振り返る。
「和泉先生、お疲れ様です!分かりました、これが終わったらすぐに向かいますね」
「毎日毎日、残業でごめんね」
「全然構いませんよ」
私たちは何日か前から、手の空いている先生たち総出で、山のように送られてきた受験願書をファイリングするという作業に取り掛かっている。
願書の封を開けると、まず受賞歴を確認する。そこでタイトルの大きさや数によって五つのグループに振り分けられ、そこから今度はデッサンを吟味し、最終的に十組のグループに分けられる。そして試験当日は、そのグループ毎に違った課題で実技試験を受けることになる。
六名ほど職員が集まった会議室で黙々と作業をしていると、どこからかそろそろ休憩を取ろうと声が上がったので、一気に場が和んだ。残業の日は麓の町から仕出し弁当が届けられるようになっているので、私は急いで給湯室にお湯を沸かしに向かう。
お茶の準備を済ませて戻ると、別の会議室で校内コンクールの審査をしていた先生達も集まって談笑していた。その中のベテラン教師が、とある願書のファイルを開いて呟いた。
「この子、いいな」
その言葉に、何名かの先生が集まる。
「へぇ、うなじのデッサンか。なかなか色っぽく描けてますね」
「この髪の絶妙なほつれ具合、アレンジかしら」
「母親を描いたのかな?それとも先生とか?」
「えっと、この子の名前は……」
私もつられて覗くと、デッサンの横の履歴書には『柊理央』と書かれていた。
「へぇ、ひいらぎさんとは珍しい名前ですね」
「有名な子かしら?」
「あれ、受賞歴がないね」
「本当に?今まで表立って描いてこなかったのかな」
「見てみて、こっちの子も凄いよ」
すぐ隣で違うファイルを開いていた和泉先生がデッサンを差し出す。
「あら、本当に。鉛筆デッサンなのにまるで色があるようだわ……」
「立派な入道雲ですね。最近描いたやつかな?」
「名前はえっと、櫻井心美か。あ、さっきの柊理央と同じ中学ですよ」
「へぇ、これだけ画力のある子が、学年に二人も」
二人の学校名を確かめると、思い当たる節があった。
「その学校だったら、確かもう一人いますよ」
私は急いで自分がまとめていたファイルを開く。
「各務真由さん、やっぱり二人と同じ中学です」
私が持つファイルに先生たちが頭を寄せたので、見やすいようにテーブルへ置いた。
「あら。この子もいいわね。他の二人より劣る……というか、平凡な絵だけど、しっかりイメージを掴んでるわ」
「この子はちらほらコンクールに出していますね。あ、これ金賞だし」
「この分だと三人一緒に入学ってこともあり得ますよ。ここの美術の先生ってどんな人だったっけな?」
先生たちの評論会を聞きつつ、私はあちらこちらに置かれたファイルを覗いて回った。
ここを受験するだけあって、どの子もなかなかの出来だ。
「紗夜ちゃん先生、お弁当運ぶの手伝ってー!」
戸口から呼ばれて、私は顔を上げる。
「はーい」
山下くんはいいとして、高田くんはちゃんと履歴書を送ったのだろうか。運ばれてきたお弁当を並べながら、私はそんなことを心配していた。
無事に二人と学校で再会したのは、紅葉の葉が染まり始めた十月下旬のことで、二人とも背が伸びて、少し大人っぽくなっていたのが印象的だった。どちらも受験のクラス分けではそこそこのランクにいたので、どうやらあの塾代は無駄になっていなかったようだ。
私は二人を試験会場へ送り出すと、大掃除を支援すべく学生寮へ向かった。
今年の受験倍率は、十倍だった。
そして十二月。予定通り合格発表が行われた。
残念ながら、山下くんも高田くんも入学が叶うことはなかった。落とされた理由は分からない。しかしここで三年間を過ごすには、どちらも不適合だということだろう。
私は二人に手紙を書き、それでもこの道を進んでくれたら嬉しい、と伝えた。
そうして厳冬を乗り越え、春が来た。
私は少しずつ茉莉子について調べながら、ここでの生活に順応していっている。
そんな折、不意に運命的な出会いがあった。
新年度を迎えるにあたり、職員たちで決起集会を行ったときのことだ。
校長先生が、会のはじめに一人の男性を部屋に呼び入れた。
「はじめまして……ではない先生もいますが、藤堂柊平といいます。ここの卒業生です。四月からこちらでお世話になることになりました。教員免許はないので単位に関わる仕事は出来ませんが、先生方のフォローはできるだけしたいと思います。よろしくお願いします」
一斉に湧き起こった大きな拍手が、耳に入らないくらいの衝撃だった。
先輩が、
私の前に現れた。