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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
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過去2 因縁の森へ④


 三学期の終業式を終えた放課後、私は山下くんと美術準備室で会うことにした。どうせなら高田くんも一緒に、とも思ったけれど、予想通り終業式には顔を出していなかったので、私は篠崎先生に頼んで山下くんだけ呼んでもらった。


 私が彼にしてあげられることはあまりない。しかし教師の端くれとして、できる限りのことはしてあげたいと思う。だから今日は彼のために、最後に色々と用意してきた。


 来年度の顧問へ引き継ぐいくつかの書類を準備していると、山下くんが約束の時間きっかりにやって来た。


「せっかく早く帰れるのに、呼び出しちゃってごめんね」


 私は山下くんに、買っておいた缶ジュースを手渡す。学校内でジュースを飲むのは罪悪感があるのか、山下くんは勧めてもなかなか口を開けなかった。


「先生、本当に行っちゃうんですか?」


 手の中で缶を転がしていた山下くんが、それを止めて私を見る。その目にはうっすら涙が浮かんでいた。


「山下くん」


 今までの教師生活の中で、こういうシーンが無かったわけじゃない。けれどそれらはみんな、多感な女子生徒の涙だった。男子生徒からこうして泣かれてしまうと、さすがに心動かされるものがあった。こうして別れを惜しまれるのは、教師冥利に尽きる。


「山下くんもあの学校を受けることにしたんでしょう?先生、先に行って待ってるからね」

「受かるだなんて思ってません。もしかしたら、受験さえさせてもらえないかも」


 山下くんの悲観的な言葉に、私は少し戸惑う。


「受けるって決めたなら、そんなこと言わないの」

「高田くんとは次元が違うから。それに、受けようと思ったのは、先生に……」

「私に、なに?」

「その……」


 私は山下くんの言葉を待ちながら、鞄から大叔父の学校に関するいくつかの書類を取り出す。どうやら続きを切り出せそうになかったので、私はそれらを山下くんの目の前に並べた。


 これで少しでもやる気になってくれれば。


「この紙に受験に必要なものが全部書いてあるから、大事に持っておいてね。それと、願書を出す時にデッサンが一枚必要だから、期限までに一番出来のいいものを選んでおくこと。新学期から坂口先生が美術部の顧問になってくれるから、私からもよく頼んでおくね」


 私が話しだすと、山下くんは書類を手に取って聞き入った。


「この学校は他の私立校より随分と早い時期に入試をするから、時間はあまりないものだと思って。山下くんは内申はとてもいいけど、絵の方の実績が少ないから、とにかく今はテクニックを向上させること」


 続けざまに言う私の説明に、山下くんは鞄からノートを出してメモを取る。


「それと、美大を受けるならそれなりの予備校があるんだけど、今回は高校受験だから、予備校じゃなくて絵画教室を探してみたの。隣の市になっちゃうんだけど、私の大学の後輩がやってる教室があったから、良かったら覗いてみて。入試の実技は鉛筆デッサンのみだから、それまではデッサンだけに絞って練習してね」


 山下くんは私から地図を受け取ると入念にチェックして、ここなら通えそうだと頷く。その教室は、山下くんの家からだとバスで約一時間程度の場所にあった。遠いけれど、受験のためには仕方ない。


「願書の締め切りが八月末日で、入試は二学期の中間テストが終わった辺りで毎年行われているの。願書に入れるデッサンの時点で合否は決まらないけど、実技の評価には大きく関わってくるから、最初から気を抜いちゃだめよ」

「入試の実技とは、具体的にどんなことをするんですか?」

「確か、何組かに別れて静物画のデッサンをするの。何を描くかは、振り分けられた教室によって違ったはず。でも、花とか果物とか、普段から身近にあるものに限られると思う」


 山下くんは、それも丁寧にメモに残す。


「学科は英、数、国。あと、面接はないから心配しなくて大丈夫」


 教師の前だと緊張して強張ってしまう山下くんに、これは朗報だった。


「倍率はどのくらいですか?」

「それは願書を締め切ってからじゃないと確定しないけど、そうね……毎年七、八倍ってところかしら」

「は、八倍……?」


 その数字に、山下くんは絶句する。


「高校入試だととんでもない数字だけど、国立芸大の倍率に比べたら全然だから。それに、今は倍率のことはいいから、自分の強みを磨いてね。山下くんで言えば内申、成績、それから描写の繊細さ」

「自分の強み……繊細さ……」

「とにかく今は前だけ見て頑張ってね。山下くんの力は、短い時間だったとしてもいくらでも伸びると思うから」


 私は山下くんの肩に手を乗せる。その小さな肩は、まだまだ子供のものだった。


 正直に言えば、今の山下くんでは入試時の様々な条件下でデッサンをさせるには、何もかもの実力が足りない。けれどそれもいい経験だと、私は山下くんの背中を思いきり押すことにした。仮に望み通りにならくたって、本当にその道に進みたいのなら、大学からだって遅くはない。


「先生、僕……」


 山下くんがそう言い出したところで、背後の扉がノックも無しに突然開いた。


 驚いて視線を上げると、そこに立っていたのは高田くんだった。


「今、外で聞いてたんだけど。紗夜ちゃんさ、そいつが本当に受かるとでも思ってるの?」


 高田くんは片方の口角を上げて、バカにした顔で山下くんを見下ろす。山下くんは気まずそうに視線を落として、その場でじっとしていた。


 私は心の中で思いきり顔をしかめる。


「高田くん、終業式にはいなかったのに、どうしてここにいるの」

「どうせ山下と進路のことでも話し合ってると思ってさ。面白そうだから覗きに来た」


 本当にこの子には、最後の最後まで腹が立つ。


「だったら邪魔だから出て行って」

「質問に答えたら出てくよ」

「それを高田くんに言って何になるの」

「そいつの為だよ。早くしてくれる?俺これから予定が入ってるんだよ」


 扉の木枠に寄りかかって腕を組むその様は、とても中学生には見えない。一体どっちが教師で、どっちが生徒なのか。ここで教師らしく彼の態度を叱るのも選択肢だけど、この場を長引かせるのは嫌だった。


 可哀想に、山下くんは俯いて座っている。すると高田くんは、


「美術部の部長だからって、こんなほぼ自己流で描いてきた奴が、到底受かるとは思えないよね」


 と、真っ直ぐに私を見た。視線を反らせたら負けだと思った私は、目を合わせたまま答える。


「確かに現時点では難しい。けど、絶対に無理とは言えない。私も受験対策で描き方を教えてきたわけじゃないし、山下くんのこの素直さなら調子よく力をつけられるかも。悪いけど、本心からそう思ってるよ」


 下を向いていた山下くんが、一瞬だけ私を見たのが視界の端で確認できた。


「ふーん、やっぱり難しいって思ってるんだ」

「だから……」

「でも、絶対に無理とは言えないんだ?それが本心なんだ?」


 高田くんは真っ直ぐ立つと、そのまま部屋に入ってきて、山下くんの前で止まった。そして私が山下くんに渡したプリントを取り上げ、それらをざっと読みはじめた。


 私は暴力沙汰になりやしないかと、山下くんを守れるように身構える。けれど、しばらくして高田くんが放った言葉は、想像と全く違うものだった。


「こんな無名な奴の絵画教室に行かせたって時間の無駄だから、俺が教えてやるよ」

「え?」


 山下くんが驚いて、高田くんを見上げる。


「合格ラインまでいかせる保証はしないけど、少なからず、他の受験生に笑われない程度には上達させてやる」


 私は何が起こっているのか分からず、高田くんの後頭部を凝視した。


「だから山下、これから毎日俺んち来い」

「でも……いいの?」


 山下くんが、遠慮がちに立ち上がる。


「お前の上達しない下手くそな絵、小三の時からずっと見せられてきたからな。そろそろ我慢の限界なんだよ」

「よ、よろしく……」

「俺、言うこと聞かないやつには容赦なしで殴るから。本気で習いに来いよ」


 そう言うと、高田くんは踵を返して、今度は私の前に立った。背丈は私と同じくらい。いつもとは違う、真剣な眼差しがそこにはあった。


「高田くん、本当にいいの?」


 高田くんのテクニックさえ身につけられれば、確実に山下くんにも光が差す。それは間違いない。


「紗夜ちゃん、俺はやっぱり画家の子供なんだよ。悔しいけどさ……」


 そう言うと、高田くんは皮肉っぽく笑った。


「ガキの頃から親父と比べられて、いつもお前はダメだって周りから否定されてきた。だから絶対に同じ道には行かないって決めてたんだけどさ、やっぱ……どうしても、才能とか、絵の具の匂いに惹かれるんだよね……」

「高田くん」


 感動していると高田くんはここで、瞬時にいつもの悪ガキの顔に戻った。嫌な予感がした。


「だからさ、これは山下の塾代の前払いってことで」


 そう思ったも束の間、不意に高田くんが私に唇を重ねてきた。その瞬間、映像がスローモーションになる。中学生なのにニキビ一つない、きめが細かくハリのある肌が、視界いっぱいに広がる。


「ちょ、ちょっと!」


 私は口に手を当てて、慌てて三歩後ろへ下がる。


「毎度あり」


 そう平然と片手を上げると、高田くんは颯爽と部屋から出て行ってしまった。山下くんは、耳まで真っ赤な顔で目を丸くている。


「あ、あ、あれが、内申を下げるっていうことだから!山下くんは気をつけてね!」


 そんな奇妙なアドバイスが、私の中学校教師としての最後の生徒指導の言葉になった。





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