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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
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過去2 因縁の森へ



 心臓の移植手術をしてから十四年が経った。


 私は教員免許を取り、今は田舎の中学校でつつがなく教師生活を送っている。


 入院中からデッサンを猛勉強し、高校に入ってからは予備校へも通い、やっとの思いで美大に入ったのが二十一歳の時。大学時代は一年間の海外留学もさせてもらい、多岐にわたる芸術の世界に目移りしていたのも束の間、周りから進路を迫られ、教師になろうと決意したのが、二十三歳の時だっただろうか。


 そして何とか教員試験を突破し、初めて教壇に立ったのが今から約……六年前だ。


 私はどうして教師なろうと思ったのか。売れない画家として自分の世界に閉じこもるのも良し、デザイナーになって求められるものを生み出すのも良し、畑違いのアートに挑戦するのも良し。そんな中、何故か教師と言う職業が頭に浮かんだ。


 今まで教師になりたいだなんて思ったこともなかったのに、いつの間にか強迫観念に近いものが私の頭を支配し、ふと気づけば生徒の前に立っていたのが実のところだった。


 美術教師は主要科目の教師と違い、なかなか採用枠はない。それなのに、よくも私なんかが教師になれたものだと、今でも不思議に思う。



 窓の外を見ると、雪がちらついていた。


「紗夜ちゃーん、なんか変なのになったー!助けてー!」


 六限目の授業中、最前列の女子生徒にアドバイスをしていると、後方の席から学年イチの問題児が気安く私の名前を呼んだ。


 周囲の生徒が不安そうに私を見る。女子生徒から「がんばって」と小声で激励されながら、私は仕方なく問題児の元へ向かった。


 幾度となく教師を泣かせてきた生意気なその男子生徒に、私はどうやって真面目に授業を受けさせようか毎回悩んでいる。今日は最初から出席しているだけまだマシ。前回なんて、授業の終わる五分前に美術室へ入ってきた。


 教師という職業は決して嫌いではないのだけれど、やはり面倒な生徒には憂鬱になる。しかも相手は中学生。可愛いげのない盛りだ。


「どれ?見せて。あれ、上手く描けてる。全然変じゃないよ」

「でっしょー!見てって言うだけじゃ紗夜ちゃん絶対に来てくれないからさー!」


 そうヘラヘラする生徒に、私は内心怒り心頭だった。


「じゃ、これ前に出したら帰っていい?」

「そうね……」


 画用紙をヒラつかせながら私を見上げるこんな生徒には、一刻も早く帰ってもらいたいのが本音。しかし、このまま終わらせるわけにはいかない。


 彼の斜め前に座る生徒をチラリと見る。彼は一心不乱に目の前の鉛筆をデッサンしていた。


「いいわよ。でも、帰ってもいいのは山下くんね」

「え?」


 山下くんは忙しなく動かしていた手を止め、何事かとこちらを振り返る。


「これ、山下くんが描いたものでしょ?だから山下くんは帰ってもいいよ。でも君はだめ。早く描きなさい」


 私は問題児が手に持っていた画用紙を山下くんの机に置き、捨て台詞を吐くようにそのまま教室の前方へ歩きだす。


「紗夜ちゃん、すげー!こんなショボい絵で誰が描いたか分かるんだ!」


 背後から聞こえたその発言は、私と山下くんを同時に貶すものだった。なんとか冷静を保ったまま、私は教壇の前まで来る。


「さて、高田くんが本気の絵を描き終えるまでに、みんなも終らせてしまいましょう。高田くん、あなたの絵は最後にみんなの前で発表するから、お手本になるようなもの、よろしくね」


 私の言葉に、問題児の高田くんが音を立てて椅子から立ち上がる。


「やだね。俺は木炭かコンテじゃなきゃ描かない」


 私が中学二年生の時といえば、教師からやれと言われた最低限のことくらいは素直にやっていた気がするけど、この子は口答えまで出来るらしい。


「分かった。自信がないのなら結構。帰ってもらって大丈夫よ」


 私は何事もなかったかのように再び他の生徒の机を回りだす。一言ずつアドバイスや評価を伝える合間に高田くんを見ると、真剣な目で画用紙に視線を落としていた。


 どうやらプライドの欠片くらいは持ち合わせているらしい。


 終業のチャイムが鳴り、クラスメイトが礼をして出ていった後で、高田くんは私に画用紙を持ってきた。


 私はそのデッサンを端から端まで眺める。実に迫力があって、テクニックの優秀さで言えば、群を抜いてクラスで一番の出来だった。


「そんなにお父さんが怖いの?」

「は?」


 外の雪のせいか、教室の中は耳鳴りがするほど静かだった。


「やめちゃえばいいじゃない。絵も、親子関係も」

「無理だろ」

「そりゃそうだよね。ごめん」

「なんだよ、それ」


 彼の父親は、とある有名美術団体の現役の会員だった。それも、絵だけで豪邸を建ててしまうような画家の、大事な一人息子。


 そんな家に生まれてしまったのだから、それはそれは周囲から重たすぎる期待を寄せられていることだろう。しかしそう上手くいかないのが遺伝というものだ。そんなもの、これまでの人生で飽きるほど見てきた。別にこの子に限った話ではない。


「学校で荒ぶってたって、お父さんには歯向かえないんだから子供よね。でも残念ながら、君に絵描きの才能はないと思うよ?」

「は?」


 今度は、明らかに怒りのこもった声だった。


「私は後天性だから説得力に欠けちゃうけどさ、君の絵はつまんないから」


 ふと先週末、泣きながら私の元へやって来た新米英語教師の顔が浮かんだ。高田くんに完膚なきまでに否定された英単語の発音に自信を無くし、今年度限りで教師を辞めるとまで言っていたっけ。


「そんなの紗夜ちゃんに言われなくたって、こんな公立に通ってる時点で察してるよ」


 散々教師を蔑んできた中学生がそう自嘲する様は、いくら生活態度に問題はあれど、とても不憫に見えた。


 私は校庭に目を向ける。鏡のように室内を映す窓ガラスの向こうには、凍えそうな灰色の世界が広がっていた。この辺りは雪がたくさん降る。土のグラウンドは、どんどん白く染まっていく。


「でも受験はしなきゃなー。どうせ落ちるのに、めんどくさ」

「ああ、大叔父のところね」

「コネで入れてよー、紗夜ちゃーん」


 バカにしてるのか、媚を売っているのか、高田くんは男子中学生なりの精一杯な猫なで声を出す。


「実力を伴った人がコネを使わなきゃ入れないのよ、あそこは」


 私の言葉に、高田くんの笑った目が瞬時に鋭くなったのが分かった。


「否定しなくていいの?コネって部分」

「その上で毎年沢山の受験生が落とされるの、あそこは」

「へぇ」

「父親の才能を継げなかったストレスで好き勝手やってる今のあなたには、私がいくら推薦したって合格は到底無理ね」


 このシーンを客観的に見れば、私はどんなに冷たい教師だろう。そう思うとなんだか笑えてくる。


 べつに新米教師の敵討ちではないけど、同じ絵を描く人間として、好きなことを言えるこの空間は悪くない。教師だって結局は人間だもの。


「親戚なら紗夜ちゃんもあそこで働けばいいじゃん。美術教師をするなら、こんな所にいるよりずっと楽しいでしょ」


 早めにホームルームを切り上げたクラスの生徒が、白いグラウンドに足跡を残しながら帰っていく。空は真っ黒な雲に覆われて、すっかり夜のような暗さだった。


 そんな風景を見つつ、私はつい先週、高田くんのお父さんのパーティーで久々に会った大叔父の言葉を思い出していた。


『紗夜さえ良ければ、来年度からうちの学校で働いてみないか?』


 勧められたお酒でほろ酔いの大叔父は、本気とも冗談とも取れない口調で私にそう言った。


 あれから電話一本掛かってこないということは、来年度もこの学校にいるつもりでいるけど、あの言葉がどうしても気になってしまうのは事実だった。


「あーあ。俺、この先どうなるんだろう」

「残された道なんてひとつしかないでしょう」


 私は立ち上がると、教室の明かりを消して入口の引き戸を開ける。


「死ぬほど努力して、あの学校を受験するの。分かったら早く帰りなさい」


 私の言葉に黙って廊下へ出ていく問題児の後ろ姿を見届けると、私は隣の美術準備室へ入った。


「職員会議まであと一時間か」


 後ろ向きで置いておいたイーゼルを引っ張り出すと、使い古したパレットに親指を通す。


 私もあの学校に行きたい。


 高田くんにそう言えなかったことを、今になって後悔した。



 電子音が時刻を告げる。


 よく集中していたせいでアラームに驚き、手先が僅かに震えた。けれど心臓は冷静だったので、ふっと息を吐く。


「一時間じゃこんなものか」


 私はパレットを足元に置き、伸びをした。


「それ、誰なんですか?」


 驚いた、と自覚するよりも早く、私の腰が浮き上がる。突然背後から話しかけられた声に、アラームより驚き、さっそく心臓が激しく鼓動しはじめる。


 心臓をなだめながら振り向くと、後ろで行儀よく座っていたのは山下くんだった。


「山下くん、いたの」


 美術部の活動日は週に三日で、今日は活動のない日だった。まさか山下くんがここに来るとは思いもしなかったので、私は鍵を掛けておかなかったことを悔やんだ。


「すみません、ちょっと話があって」


 俯く山下くんは、両手をきつく握りしめている。


「話って?」


 私はキャンバスを背で隠すように立ち上がる。


「高田くんの……いえ、進学のことで」


 壁の時計を見る。あと四分で会議が始まってしまう。


「進路のことなら、担任の篠崎先生から聞いているけど。何か問題でもあった?」

「あの、高田くんはどこを受けますか?」

「え?」

「僕も……同じところを受けようかと思って」


 耳まで真っ赤になった山下くんは、更に深く俯いてしまう。


 確か、山下くんの第一志望校は学区内でも一番の進学校だったはず。大叔父の高校も偏差値は高いとはいえ、芸術に力を入れている分、多少は劣るのではないか。


「どうしたの?篠崎先生から、山下くんならこのままいけば合格間違いなしって聞いてるけど」


 そこまで言うと、山下くんは勢いよく立ち上がる。


「ぼ、僕も、高田くんと同じところを受けたくて……それで……」


 真っ赤な顔が、この言葉を言うまでにかなりの勇気が必要だったことを物語っていた。そこを考慮して、私はあえて山下くんの言葉を遮る。


「大事な話なのに、ごめんね。先生これから職員会議なの。今まで待っててもらって申し訳ないんだけど、明日でもいいかな?篠崎先生にも同席してもらうように頼んでおくから」


 山下くんはあからさまにがっかりした顔をして、「篠崎先生には……」と言うも、担任ではない私にだけ言うのは筋違いと思ったのか、最後には黙って頷いた。


「それじゃあ、もう帰りなさい。これから雪が酷くなるっていうから、寄り道しちゃだめだよ?」


 私は山下くんを昇降口まで送ると、小走りで職員室へ向かった。


「篠崎先生、すみません!ちょっといいですか?」


 職員会議後、私は部活に向かおうとしていた篠崎先生を急いで呼び止めた。篠崎先生は恰幅のいい体を軽やかに回転させ、満面の笑顔で振り向く。


「何かご用ですか?あ!また高田がしでかしましたか。すみませんねぇ、またよく言っておくので」


 四十も半ばの篠崎先生は、歳の割に茶目っ気のある性格で、先生にも生徒にも人気がある。


 しかも高田くんに唯一強気で接することができるので、篠崎先生のお陰でこの学校で教師を続けられている同僚も多いことだろう。体も心も器の大きい、とても信頼できる先生だ。


「高田くんもそうなんですけど、今日は山下くんのことでちょっと」


 すると篠崎先生は「では五分だけ待っててくださいね。生徒たちに指示だけ出してくるので」と言って、体育館へ走っていった。


 私は五分間の内にインスタントコーヒーとお茶菓子を準備し、職員室の奥の和室へ篠崎先生を招き入れた。


「すみませんねぇ、コーヒーまで淹れてもらっちゃって」


 篠崎先生はそう言って美味しそうにコーヒーを飲んでくれたので、私はそのタイミングで準備室での山下くんの様子を簡潔に話した。


 話し終えると篠崎先生は「そうですか」と真っ白な歯を見せて笑った。


「そりゃあ、なんというか。うーん……まぁそうですね、簡単に言えば、男のジェラシーってやつでしょうか」

「はい?」


 随分と見当違いな言葉に、思わず上ずった声が出てしまう。


「ですから、山下は先生と高田の仲を勘違いしてるんでしょう」


 私は高田くんとの関係性を、あくまで客観的に振り返ってみた。結果、問題児と問題児にうんざりしている教師、という一ミリもイメージが覆らない結論に至った。


「山下からよく紗夜先生の話を聞いていますが、とても信頼しているようですよ」

「それはまぁ、山下くんは美術部の部長でもありますし、悩みや私生活の話はよく聞いてますが」

「そんな先生がプライベートで高田のお父さんと親しいとなると、それだけでこの年代の子供たちは勘ぐってしまうのですよ」


 そう言ってガハハハ、と笑う篠崎先生に、私は遠慮なく顔をしかめる。


「いや、申し訳ない」

「プライベートで会ったと言っても、集まりで二度ほど顔を合わせただけですし、そりゃ挨拶くらいはしましたけど、親しいってわけじゃ」


 篠崎先生はまた美味しそうにコーヒーを一口飲む。


「で、どうですかね、山下は」

「どうですか、とは?」

「受かりそうですか?先生のところの学校は」


 先生のところの学校とは、私の大叔父の高校のことだろう。


「受けさせる気ですか?」

「そりゃあ、本人にその気があるのなら。で、どうです?一年頑張ってみたとして、勝機はありますか?」


 私は言葉を探す。目の前に山下くんがいるわけじゃないのに、オブラートに包もうとして。


「その……」


 生徒の可能性を、挑戦の前に摘んでしまうのは教師としてどうなのだろう。しかし、私はついさっき高田くんに同じことをはっきり言った。高田くんに言えて、山下くんに言えないこの差はなんなのだろう。もしかしたら、私は高田くんなら万が一にも受かるとでも思ってるんだろうか。違う。それはない。反骨心で実力を磨いたところで、今のままじゃ内申で容赦なく振り落とされるはずだ。


 そう思案していると、篠崎先生が「分かりました」と愛嬌のある笑顔で頷いた。


「紗夜先生、色々とご迷惑をおかけしてすみませんね。明日、山下のためにちょっとだけ付き合ってくださいね」

「こちらこそ、急にお時間をいただいて」


 私は遠慮する篠崎先生から空のマグカップを受け取ると、罪悪感を抱きながらそれを丁寧に洗い上げた。







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