現在2 探検とゴースト
部屋中に広がる重い空気を打破したのは心美だった。
「なーんだ、あの人、子供がいたのか」
てっきり綺麗な独り身だと思ってたのにな……と、心美はごくりと冷めた紅茶を飲む。
「確かにね。藤堂先生って好きな人の前で冗談は言えても、自分からデートに誘うようなキャラじゃなかったもの」
誰もいないからって、理央までそんなことを言い出す。
「セツナはずっと黙ってたんだね。先生がパパだって」
私はそう呟きながら二人に熱い紅茶を注ぎ足すと、星形のクッキーを指先でもてあそんでから口に入れた。
とても懐かしい味。甘くておいしい。
「私もセツナから父親のことなんて一言も聞いたことないわ。と言っても、こっちもそういう話題は避けてたけどね」
理央が腰まであるストレートヘアをアップにしながら言う。小さな輪郭と目力のある瞳が更に強調されて、芸術的な美しさに私はつい見とれてしまった。
「あら、真由。私のこと惚れ直しちゃった?」
本当に理央はこういう所に目敏い。私は黙って視線を反らす。
理央はお構い無しに続ける。
「藤堂先生もセツナが息子なら、他人ぶってないでもうちょっと父親らしくしてれば良かったのに。先生も茉莉子さんもここの生徒だったんだし、先生に至っては首席卒業でしょ?どうせうちの学校なんてコネで来る奴多いんだしさ、気にすることなんてないのにね」
思い返してみても、先生とセツナの間にあまり関係性は感じられなかった。贔屓されていたわけでもないし、逆に敬遠されていたということもない。あくまで教師と生徒という普通の仲に見えていた。だからこそ私も心美も、二人の親子関係に驚いたのだ。
「でもさ」
心美が言葉を挟む。
「茉莉子さんがセツナの母親だとすると、セツナは先生に育てられたってことになるよね?」
三人は再び黙り込む。
そうだった。美術部に受け継がれている話によると、茉莉子さんは先生が在学中に亡くなっている。確か茉莉子さんは先輩の一つ下だから、ざっと計算するとセツナが生まれて間もなく…ということになる。そうすると茉莉子さんにセツナを育てるのは無理。自然と茉莉子さんの家族か、先生が育てたということになるけれど……。
「だったら柳沢の姓はどこから?」
そういう話になるのだ。先生の姓はもちろん藤堂、そして、茉莉子さんの姓は確か宇野だったはず。
「赤の他人の養子になったのかしら。両家とも育てられないからって。そうするとセツナの遠慮がちな性格も察しがつくわ。きっと義両親の元で肩身の狭い思いをしてきたのよ。窓のない狭い階段下の物置き部屋で、ひたすらデッサンをする日々……そしてある日、入学許可証が届いて……」
理央が妥当な線を言う。どこかで読んだことのある妄想つきで。
「じゃあ、ここへの進学を機に、はじめて父親と会ったという可能性もありか」
心美が私を見る。そうよね、私と心美だけの方が話が早いよね。私も心美に体を向ける。
「セツナが小さかった頃、藤堂先生はずっとイタリアにいたらしいし、そうかもしれない」
「そっか、そうだったね。先生の帰国は……えっとー」
「帰国したのは、私たちが入学する直前だった気がする。セツナに物心がついてからはじめて会ったっていう可能性は、充分にあるよ」
私の言葉に、心美は頬杖をついて唸る。
「それなら私、その感動的なシーンに立ち会ってるわよ」
意外すぎる理央の言葉に、私も心美も驚いて理央の顔を見る。
「あんたってほんとに……。で?」
「あれは確か入学式の後ね。セツナが美術部に用事があるからって、私もついていってあげたのよ。私はまだ部員じゃなかったけど、美術部って遠いし、迷子にでもなったら大変だからって。そうそう!思い出した!二人ともそこで自己紹介をしてたから、当然それが初対面だと思ったのよ。でも……」
理央が天井を仰ぎながら慎重に言葉を選ぶ。
「別に気まずいとか、生き別れた親子の感動の再会!とかっていう感じはしなかったわよ。ごく普通に、これからよろしくお願いしますって。あの感じじゃ先生もセツナが息子ってことに気づいてなかったのかも…」
心美が目を細めて理央を睨む。今にも「つまんないなぁ!」とでも言いだしそうな顔だ。すると心美はおもむろに両手を後頭部で組み、息を吸いながら口を開いた。
「つまんないなぁ!」
その見事なリフレインに、私は思わず鼻で笑ってしまう。やっぱりそう思っていたらしい。
「仕方ないでしょ?私のせいじゃないわよ。事情を知ってれば違ったけどね!」
そんな生立ちのセツナがつい最近亡くなった。産まれてすぐにお母さんを亡くして、次にお父さん、そしてついにセツナ自身まで。
「いつまでもここでこんな話をしたって仕方がないし、改めて家の中を見てみない?よーく見たら置き手紙なんかがあるかもしれないわよ!」
胃の中に物が入って元気になったのか、理央が勢いよく立ち上がった。
まずはお茶を飲んでいた部屋の真向かいの部屋から確認することにした。当時ここは、描きかけの作品を置いておく部屋になっていたはず。
心美がノックをしてからドアを開ける。
部屋には記憶どおり、複数のキャンバスがイーゼルに載った状態で置かれていて、油絵の具の匂いがより一層強く漂っていた。
三人とも中に入り、それぞれの絵を見て回る。近づいてみると、それらにも誇りっぽさは感じられなかった。
「ねぇ、この絵って、もしかして私たちの?」
理央が言う。
「まさか。似てるだけでしょう。この樹の絵って毎年部員に描かせてるやつだし、テクニックも教科書通り。似てても仕方ないわ」
心美はそう返したけれど、私もこの絵には見覚えがあった。
確か、二年生の秋に描いたものじゃないだろうか。試しにキャンバスの裏を確認してみても、名前はないのではっきりとは言い切れないけれど。
「この絵、描き上げた記憶があるんだけどなぁ。私と似た癖の子がいるのかしら……」
「そんなことより、手紙の類いはどこにもないよ。次の部屋に行こう」
首を傾げる私たちを置いて、心美はさっさと部屋を出て行ってしまう。仕方がないので、ひとまず疑問は保留にしたまま私と理央も部屋を後にした。
次は、今いた部屋の隣の部屋へ。
再び心美がドアを開け、明かりを点ける。そこは書庫で、窓のない部屋には天井まで壁一面に洋書が埋め尽くされていた。
私は得意ではないけれど、心美と理央はイタリア語の本もすらすら読んでしまうので、在学中はよくこの部屋で暇を潰していた。あの頃と同じ、懐かしい匂いが鼻をくすぐる。
「蔵書にも変化はないわね」
高い背を生かして理央が上の方まで確認するも、メッセージらしきものは確認されなかった。
「じゃあ、次!」
書庫を出て向かいの部屋へ入ろうとすると、急に立ち止まった心美にぶつかって倒れそうになった。
「ちょ、心美、危ないわね!」
「ごめんごめん、ちょっと、あれさ……」
その部屋は寝室で、在学中は一度も入ったことのない部屋だった。
私たちは心美の指差す方を見る。
「……布団?」
ベッドカバーの上に、布団が3組、きちんと畳んで置かれていた。理央が心美を追い越して中に入る。
部屋にはシングルベッドと、ドレッサー、それにチェストと小さな机が置かれていた。ドレッサーの中には年代物の化粧品が入っていて、私はそれを手に取ってみた。ずっしり重い金属製の口紅は、全体に細かい細工がされていて、つい見とれてしまうほど上質なものだった。藤堂先生は男性だから、これはこのログハウスを作った元美術部顧問のものだろう。いまだにこんなものまで残っているとは驚いた。
「この布団、湿気もないし、ほのかに温かくて、まさに干したてって感じ」
理央が布団を触りながら言う。
「三組って、私たちの分ってことよね?手紙に泊まり込みなんて書いてあった?」
理央の問いかけに、心美がチェストを調べながら「いいえ。でも、日帰りが無理なのは分かってたから、家族には一泊するとは言ってきた」と返事をした。
「真由は?」
理央がこちらを見る。
「この辺で一泊するつもりだったけど、宿は確保してないの。どうなるか分からなかったし、夜遅くても東京まで帰れるなら、空港の近くにでも泊まろうと思って」
「だったらうちに泊まりなよ。どうせ主人も娘もいないからさ」
心美が頬笑む。
「うん、そうさせてもらう!」
心美の家に招待されるなんて、願ってもない幸運だ。家に行ったら、娘の写真をたくさん見せてもらおう。
「そしたら私も行くわ。あなたが娘に変なもの食べさせてないか、チェックしなきゃ!」
仲間外れにされないように、しっかりと理央が口を挟む。
「別にいいけど、変なことしたら追い出すからね?盗聴器を仕掛けるとかさ……」
「しないわよ、そんなこと!」
そんなやり取りをしつつ、三人で部屋の中を丁寧に見て回っても、メッセージや手紙の差出人の手がかりになるような物はなにもなかった。
これで二階にある部屋は全て確認した。
「じゃあ、一階に行きましょうか」
私たちは列になって階段を下がっていく。
上から見ると、リビングには白いカーペットの上に大きなローテーブルがあって、壁際にはクッションがいくつも並んだ五人掛けのソファーがL字に置かれていた。玄関に目を移すと、すぐ横にはトイレがあって、トイレの横の奥まったスペースには薪ストーブが設置されている。
改めて見てみると、インテリアもその配置も、昔と全く同じままだった。
「最初に確認するのはやっぱりダイニングね。きっと『しばらく出かけるので先にお茶を飲んでてください』とか書かれたメモがあるはずよ。ほら、メッセージを置く定番スポットでしょ、ダイニングテーブルって!」
そう理央が自信満々に言うので、
「私だったら最も目立つリビングのテーブルに置くけど。そんな不親切な奴って、ますます誰か気になるわ」
と心美が冷静に返した。
現に私たちはお茶を飲んでから下へ降りてきたんだし、心美の言ってることはごもっともだ。
理央はしゃぎながらこちらを振り返る。
「それはメモに書いてある名前を見てのお楽しみ!」
理央は軽快な足どりで廊下を進み、行き当たると左奥のダイニングルームをつま先立ちで覗く。がしかし、理央は私たちが結果を訊ねるよりも先に、期待が裏切られた顔でこちらを振り向いた。
「ないわ…」
念のため私もダイニングを見回してみたけれど、やはりメモらしきものはない。
「手紙どころか、テーブルの上にごみ一つないとはね」
明らさまにがっかりする理央と私を見て、心美は苦笑しながら向かいのキッチンルームに入っていく。
「シンクもガス台も綺麗ね。それに小窓のサンにも埃がないわ」
諦めきれないのか、ダイニング中をひっくり返しはじめた理央を放っておいて、私もキッチンに立った。
流しの下には鍋やフライパンが並べられ、小さな食器棚にはお皿や茶碗が整然と重ねてある。よく見ると、引き出しには各種カトラリーまで揃えてあった。普段ここでは食事をとったりしないから、こんなにたくさんの食器なんてなかったはずだけど……と、ここでも新たな疑問が生れた。
「水、出してみようかな」
心美が蛇口をひねると、勢いよく透明な水が出た。
「ちゃんと水も出るね。紅茶のお湯はこれを使ったんだね」
「じゃあガスも使えるかな…」
私は心美の横に移動して、コンロのスイッチを押す。
着火音と共に、間もなく炎が上がった。
「ねえ、真由。電気も使えるんだけど、冷蔵庫が開かないの」
「え?」
振り返ると、心美が力いっぱい冷蔵庫の扉を引いている。
「なんで?」
「分かんない……」
私たちの様子を察したのか、ダイニングから理央もやってくる。
「どうしたの?」
「この冷蔵庫、扉が開かないのよ……うううっ」
「ちょっとどいてごらんなさい」
心美と理央が場所を交代する。
「せーの!よっ!」
と、声をあげて理央が引っ張ってみるも、やっぱり扉は開かない。そりゃそうだ。子育て中で筋肉のある心美が引いても無理なのだ。ひ弱そうな理央になんて開けられっこない。
そんなことを考えていると、両腕を伸ばしたまま理央が私を見上げた。
「ひ弱で悪かったわね。不摂生の賜物よ。健康的で筋肉隆々なモデルなんて神秘さの欠片もないでしょう?職業病よ、職業病」
私は時々、私がサトラレなのか、理央がサトリなのか悩むときがある。
「すみません、あの、真由ちゃんと理央ちゃんに残念なお知らせがあります」
心美が横から遠慮がちに手を上げる。
「は、はい……なんでしょう?」
「オーブンも開きません……」
「ええ?」
今度は私が引っ張ってみるも、ロックが掛けられているかのようにびくともしない。
冷蔵庫とオーブンに鍵って、ここはどこの国なのか。
「熊とか鹿に取られないように鍵かけてあるのかしらね」
理央が冷蔵庫に背中を預けて呟く。
「あー、なるほど!」
そう言う心美を、私は二度見した。
冗談なのか本気なのか、その表情からはいまいち判断できない。
「これでもしこの家から出られないなんてことになったら、私たちは餓死して終了です」
理央が体育座りをして、妙なことを言う。
「はい?」
私は聞き返す。
「だから、もしこの家が呪いか何かで密室になってて、窓もドアも開かなくて外に出られない……なんてことになったら、冷蔵庫も開かないし、オーブンも使えないし、三人揃って餓死して人生終了よ!」
「いやいや、なに言って……」
なんでいきなりそんな展開になる?
「だってそうでしょう?おかしな手紙が突然届いて、来てみたら道も庭先も草がボーボー。なのに家の中はとっても綺麗。二階には三人分のお茶の準備がしてあって、製作途中のキャンバスまで並んでる。おまけに、どこを探しても送り主も家主もいない。これって……」
徐々に小さくなる理央の声に、三人の間に不穏な空気が流れる。
「魔女の呪いよ!!」
理央がそう叫んだ途端、三人同時に走り出す。
全速力で、玄関へ向かって!




