エピローグ(after the prologue④)
コーヒーを飲み終えると、玄関のチャイムが鳴った。
こんな時間に誰がなんの用だろう?そんなことを思うよりも先に、不気味な不安がこの身を包む。来訪者はなぜ、夜間使われるはずのないこの家に俺がいると分かった?
急かすような二度目のチャイムで立ち上がると、意を決して玄関ドアの前に立った。
幽霊だったらどうしよう。それよりも逃亡中の犯罪者や変質者だった時の方が恐ろしい。何か武器になりそうな物でも持ってドアを開けた方がいいか。でも最悪ツキノワグマだとしたら、何を手に持ったところで一発アウトだ。
「はい、今開けます」
恐る恐るドアを開けると、そこには予想に反して一人の青年が立っていた。
「ご無沙汰しています。夜分遅くにすみません」
深くお辞儀をする青年に、思わず呼吸が止まる。
「君は」
顔を上げた青年に、これが夢か何かではないかと自らの頬を触る。
目の前にいるのは、間違いなくセツナだ。
しかも、明らかに大人に成長したセツナ。
「僕が誰か分かりますか?」
困ったような、微笑むような、そんな顔で彼が聞く。
「セツナ……だろう」
「はい。今日はお願いがあって、十四年後の世界から来ました」
十四年後?
にわかには信じられないが、しかし年相応に見えるセツナを、俺は部屋に招き入れた。
セツナはコーヒーを一口飲むと、満足そうにマグカップをテーブルに置く。
いまだパニックに襲われているのは、タイムスリップを信じられないからか、セツナと面と向かって一対一だからか。
とにかく今は、彼の一挙一動を黙って見守っている。
「そんなに驚かせるつもりはなかったんですが、絶対に会えると確信できるのが今夜しかなくて。忙しかったですか?」
「大丈夫。コーヒーを飲んでいただけだよ」
つい数時間前に会ったセツナより随分と社交的なセツナに、この状況がどうであれ安堵した。この感じなら、ちゃんと社会生活は送れているはずだ。
「それで、十四年後の世界では何をしているの?仕事は?結婚はした?」
っていうかこの子、俺が生みの親ってこと分かってるんだよね?そんなことを頭の片隅で考えながら、社会人として常識の範囲内で質問を投げかけてみる。
「あまり時間がないので詳しくは言えませんが、大学を出てからはずっと紗夜先生と二人で暮らしていました。結婚はしていません。仕事は紗夜さんと二人で、小さな絵画教室をやっていました」
「そうなの」
そうか、紗夜さん、常々念じていた俺の気持ちを察してくれたのか。
「まりこ会は?元気にしてる?」
その質問で、セツナの顔が明らかに暗くなるのが分かった。
「分かりません。理央と真由ちゃんは卒業してから会っていませんし、心美に至っては高二の冬に姿を消してから、どうしているのか不明です」
「不明?」
姿を消したって、どうして。
「今の三人はバラバラです。あれだけあった絆も簡単に壊れました。……あなたのせいで」
「どういうこと?」
セツナが俺を見る。その瞳に浮かぶ色の複雑さに、また一つ不安が体を覆う。
「あなたはもうすぐ死にます。それも、大層酷い死に方で」
俺は黙ってセツナを見つめる。
「あなたが死んでいくのをそばで見ていました。もうすぐ息絶える……そんな時、その場に心美が現れた。そして心美は未来すら捨てて、あなたのために手を汚した」
「あぁ」
そうか。未来の俺はそんなヘマをするのか。
よりによって一番大切にしている生徒二人に、無様な去り際を見られてしまうなんて。
「その事に関して、責めるつもりも説教をするつもりもありません。だから一つだけ、心美たちの気持ちを汲んであげてください。あなたが死にたいのなら、死ぬことで救われるのなら、こちらがどれだけ引き止めたくても受け入れます。でも決して忘れないでください。あなたを逝かせたのは、あなたへの愛情があったからです。心美も紗夜さんも、あなたを失って悲しんだ全ての人が、いつもあなたのことを想っていたんですよ」
セツナの物言いに、事の重大さがひしひしと伝わってくる。
けれど止められない。もう雪崩は起こってしまった。十七年前に、あの日の夜に。
俺は知っていた。いつかあの人に茉莉子を奪われることを。けれどまさか命まで。危うく子供まで。
だから誓った。あの人を最大限に傷つけてやろようと。
ついこの前、新作を見せた時のあの人の嬉しそうな顔は忘れない。一気に地獄へ突き落としてやる。殺すなんて容易いことはしない。じっくり、骨の髄まで苦しめばいい。
そう思うと楽しくて、夜さえ眠れない。
「それで僕に何をして欲しいの?そのために来たんだろう?」
「今までの経験上、タイムスリップで結末を変えることはできません。けれど、 “未来を変える” ことなら可能かもしれないと思い当たりました。まりこ会の三人をタイムスリップさせます」
「他人をタイムスリップさせることもできるの?」
「分かりません。でも僕が過去で “三人がタイムスリップをした事実” を作ってしまえば、もしかしたら、と思うんです」
「なるほどね」
「なので、あなたは明日の夜、三人もしくは三人のうちの誰かに会います。その時に、今度は彼女たちを救ってあげてください。まりこ会は三人でいなきゃ幸せになれないんです」
確かにな、と思った。あの三人の関係は特殊だ。お互いがお互いの欠けたものを補い合って生きている。だからいつもそばにいないと、それぞれの心のバランスが崩れてしまう。
「分かった」
「その為に、三人にはここであったことの全てを思い出してもらいます。そうじゃなきゃ意味がない」
「三人は高校時代のことを忘れてるの?」
「恐らく。理央が今、芸能人をしてて」
「芸能人?」
「インタビューでこう答えていたんです。友達は昔から一人もいない。学生時代のことも全く思い出せない、と。それを見た紗夜さんがショックで思い詰めてしまって、体ももう限界だったし、この機会を逃したら三人はずっと孤独のままだと思って、僕が代わりに頼みに来ました」
「待って、紗夜さんの体が限界って?」
「亡くなりました。ついさっき」
「……どうして」
「心臓病だったんです。医師の言うことには、移植とは関係なく、全くの偶然みたいです」
「そんな」
茉莉子、一体どういうことなんだ……。
「無念を抱かせたまま紗夜さんを母に会わせる訳にはいきません。ご協力、よろしくお願いします」
「分かった」
色々と衝撃的で、とにかく今はそれしか言えなかった。
セツナが玄関で靴紐を結んでいる。
初めて実感する、息子を送り出すという行為の寂しさに、思わず心の中で自嘲した。
「どうしてセツナはタイムスリップができるんだろうね」
セツナが困った顔で振り返る。
タイムスリップができたなら、俺はどこへ戻るだろう。茉莉子と出会った日か、結ばれた日か、一度だけ幼いセツナを抱いた日か。
できることは何もないかもしれないけど、俺にも欲しかったな、その素敵な能力が。
「それじゃあ、もう行きます」
「うん。紗夜さんのこと、よろしくね」
「はい。あぁ、そうだ。来年から命日に花を手向けることができなくなっちゃいます」
「僕、今までやってもらってたの?」
「はい。ですけど、タイムスリップに力を使わないといけなくて。その、もう “ここ” には来られなくなっちゃうんです」
「そうなの」
「はい」
「今までありがとう」
頷いたセツナの手がドアを開ける。
「じゃあね、セツナ」
「さようなら、お父さん」
ドアは呆気ないほどすぐに閉じ、それと同時に彼の気配もすっと消えた。
お父さん?
そうか、俺は
セツナのお父さんか。
一人残された後、俺はさっそく準備をはじめる。
三人がちゃんとここへ来られるように。
未来が少しでも変わるように。
紗夜さんの亡骸を木の根元へ横たわらせ、寒くないようにしっかりと毛布をかける。
魂は抜けてしまったけど、まだ柔らかくて暖かい。
長年愛してもらった紗夜さんと離れるのは惜しいけど、彼女の無念は晴らさねばならない。
崖の先端で足を止める。
よし、ここなら即死は免れそう。
死ぬことの恐怖は少しだけ。
そよれより、ちゃんとタイムスリップができるかが不安だった。
実は父が死んでからというもの、どう頑張ってもタイムスリップができなくなっていた。
けれど、もしかしたらこの命にかえるほどの後悔なら、と、今日に限ってはなんとなくの確信がある。
夜風が背中を押す。
振り返ると我ながら大変な人生だったな、と思いつつ、僕は緊張しながら父の元へ向かった。
≪終≫