現在9 黎明の森
呼び鈴は押さなかった。
鍵の掛かっていない我が家へ入るように、私は一切の躊躇なく玄関を開ける。
靴を脱ぎ、揃え、リビングの中央へ。
家の中をぐるりと見渡し、一呼吸。
さっきと変わったところと言えば、食べ散らかした食器が綺麗に片づけられ、テーブルの上はピカピカに拭き上げられている。
上げ膳据え膳って最高!
悪びれもなく満足していると、気配と共に足音が聞こえた。
やっと来た。
心臓の高鳴りに神経が研ぎ澄まされ、緊張がピークに達する。
「久しぶり、心美」
聞き終える前に見上げると、吹き抜けの二階から柊平くんが私を見下ろしていた。
懐かしい顔に、思わず目を細める。
「なかなか来ないから心配してたんだよ。ご飯も冷めちゃうし、迎えに行った方がいいのかなって。道順、ちゃんと覚えてた?」
「………はい?」
柊平くんと会えた時は、もっと偶然的で情緒的で感動的な再会だと思っていたから、こんな風にまるでいつも電話でもしているかのような口振りで言われてしまうと、私は色々と用意していた、深くて重い言葉たちを全て捨てざるを得ない。
「軽っ!」思わずそんな言葉を口走ってしまいそうには、拍子抜け過ぎる再会だ。
うん?あー……いや、違う。
この人から言わせれば、半日前にも確かに “私” に会っていた。毎日毎日、判で押したような学校生活の中で、やっぱり今朝も私の顔を見て会話を交わしていた。柊平くんにとってみれば、この再会はそんな程度のことなのだろう。十五年分歳をとった私など、大した変化ではないかもしれない。従って、責められる筋合いはどこにもない、と。
でも私は真反対だ。
自ら決断したからって、綺麗サッパリ気持ちを断ち切れるものじゃない。その証拠にこの十五年間、私は毎日必死で柊平くんのことを忘れてきた。
あー違う。
違う違う違う違う。
そうじゃない。
「柊平くんはなんで私たちがここへ来ることを知ってたの?」
そう。この場面ではこれが正解。ピンポーン。
「セツナから聞いてたんだよ。今日まりこ会が来るって」
「………は?」
階段を降りてくる柊平くんの姿を目で追いつつ、私はふと手紙のことを思い出していた。旧姓で届いたあの手紙。まさか、セツナが?
「タイムスリップができるんだってさ」
「タイムスリップ……セツナもしたの?」
目の前にやって来た柊平くんは無遠慮に私を覗き込む。負けたくないので視線は反らさずに。しかし、あまりの近さに頬が熱くなるのを自覚した。
記憶のままだ。瞳の色も、肌も、男性の割に潤った唇も。そして、この安心する柔らかな匂い。
「心美、綺麗になったね」
「……ありがとう」
あーだめだ。調子が狂う。
「セツナ “が” できるみたいだよ。何度か過去へ行ったことがあるらしい。それで心美たちのことも、ここ……過去へ誘導した」
ということはつまり、
「私たち、セツナに誘導されてタイムスリップをしたの?」
「彼曰くね。座って待ってて。今コーヒー淹れてくるから。懐かしくて泣くぞ?」
「さっき飲んだよ。真由が淹れてくれた」
「それは真由ちゃんのやつだろ?プロのとは違う」
「どうせマシンのボタン押すだけでしょ」
「押し方にコツがあるんだよ」
人差し指を立たせ、機嫌のいい時にだけ見せる茶目っ気たっぷりの柊平くんがキッチンへ消えると、私はどっとソファへなだれ込んだ。
疲れた。あんなに再会を望んだ人なのに、今の数分間だけで集中力が途切れるほどのエネルギーを使ってしまった。
もう帰りたい。十五年も拒絶し続けたんだ、向き合った反動は大きいに決まっている。
しかし、これからどうする。
私は柊平くんに何を言えばいい。
何を言ったら彼を死なせずに済む?
私は何を後悔している?
どこをどうやり直したい……?
「心美、起きて」
顔を上げるとテーブルにマグカップが置かれていて、そこからゆらりと湯気が上っていた。
またこの匂い。私は起き上がると、湯気のうねりを目で追った。
「今、いくつになった?」
柊平くんは向かいのクッションに腰を預け、熱そうにコーヒーを一口飲む。
「女性に歳を聞くの?」
マグカップをテーブルに置きながら、ごめんごめんと頭を掻くと、柊平すくんはしげしげと私を見つめた。
「幸せそうで安心したよ」
「問題はあるよ。他人同士が一つ屋根の下にいるんだもん。でも、人並みの幸せはもらってる」
「結婚したのか」
「うん。娘はもう小学校に通ってる」
「そうか、心美、母親になってたのか」
目尻に皺を作って、柊平くんはまた一口コーヒーを飲む。
「娘の写真は?その前に名前か」
「内緒。この時代では私はまだ子供だし、そういう目で見られたくないもん。「君は将来あんな顔をした娘が産まれて、名前はこう」なんて会う度に思われるの、気持ち悪い」
手持ち無沙汰でコーヒーを飲むと、熱くて舌先を火傷した。
「僕のことは “そういう目” で見てるのに?」
「知ってたんだ」
「心美は分かりやすいから」
「セツナのことも、そのくらい分かってあげられたら良かったのにね」
柊平くんが私の目を見る。
嫌味じゃない。これは率直な意見だ。他人のことより身内のことの方が分かって当然。
しかし……
「でもなかなか心の奥の奥は見えないよね、近すぎると尚更さ」
ふと思った。このまま娘が成長していって、もっと彼女の世界が広くなったら、家族はバラバラになってしまうんじゃないだろうか。
仕事や世間に身を置く主人と、自分の居場所を見つけた娘。
そうしたら私はまた独りになる。歩き出す第一歩をどの方角にするか、またそこから考えねばならない。
人知れずここを出て、独りきりになった世界の中で主人と出会った様に、また誰かと身を寄せ合うことはあるのだろうか。そうしたらきっと私はまた何かを失って、そうやって私の人生は同じところをまわり続けるのだろうか。
「セツナは知ってたんだよ。自分の父親が柊平くんであること」
私は思い出していた。
柊平くんを埋めた後、小さなバッグを抱えて正門に立っていた、あの寒い朝のことを。