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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
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過去1 紗夜と茉莉子④


 梅雨も末期になった頃、顧問の先生に呼ばれて、先輩を含んだ美術部員の八人でログハウスへ行きました。私は二度目でしたが、他の人たちは何度か来たことがあるようでした。冬に訪れた時と違い、一階のリビングには夏用のラグが敷かれていました。


 い草の座布団に座り、私たちはさっそくクロッキー帳を開きます。先生はそれぞれに鉛筆を配り終えると、こう言いました。


「今から三分ずつ時間を計るから、三分以内に相手の瞳を描きなさい。いいわね、瞳だけよ。眉も鼻も口も描いちゃだめ。それじゃあ計るわよ」


 返事をする間もなく先生がストップウォッチを掲げたので、私たちは慌ててペアを組みます。お互い短時間で描き上げねばならないので、目線を合わせるタイミングが重要でした。忙しなく座る場所を変え、自分以外の全員を描き終えた時には、どっと疲れが押し寄せてきました。


 先生はそんな私たちに冷たい麦茶を出すと、「しばらく休んでいきなさい」と言って、一階の部屋へ引っ込んでしまいました。


「先生、何のつもりで描かせたのかしらね」


 麦茶を飲みながら部長が呟きます。「どうせ趣味だろ」と三年生の先輩が答えます。趣味?と聞くと、「あの人は人間が大好きなんだよ」とその先輩が教えてくれました。


「特に感情を映す瞳が大好きなんだ。なんでも眼球のホルマリン漬けをいくつも持ってるとか」


 そんな噂話をしているうちに夕方になり、その日は目的も聞かされないまま解散になりました。


 梅雨が明け、夏休みに入る直前になっても、私はコンクールの絵に着手することができないでいました。“紅蓮”という色に、何のインスピレーションも湧かなかったのです。


 ある日の夜、寮の部屋を抜け出し、星を見るために森のなかを歩いていると、先輩が先生と一緒にログハウスへ向かっているところを見つけてしまいました。私は驚き、気がつくとログハウスの窓の下に張りついていました。激しく鼓動する胸をおさえつつ、そっと中を覗きます。中には裸の先輩と、その体を抱き寄せる先生の姿がありました。それ以上は見ていられなくて、私は全速力で寮へ戻りました。


 いよいよ夏休みに入っても、私は何も手につかない状態が続きました。コンクールの締め切りを思うと帰省などできる時間はなかったので、毎晩、寮母さんから母の電話に呼ばれることになりました。


 ある日、暇を持て余して部室で紅茶を飲んでいると、先輩から麓の町の夏祭りへ誘われました。夏休み中で他の生徒の目もあまり気にならないということで、私は気分転換も兼ねてついて行くことにしました。


 花火を見終えると臨時バスで学校の手前まで戻り、そこからは夜道を二人で黙って歩きました。


 私は沈黙を破るように、コンクールの絵は出来上がりましたか?と先輩に聞きました。すると、


「今年は不参加だよ。あれは一度受賞すればいいものだからね」


 と絶望的な答えが返ってきました。


 もしかしたら今年もまた自分を描いてもらえるんじゃないか。そんな期待は一瞬で吹き飛び、こちらが勝手に期待していただけなのに、心臓がえぐられるような苦しみに襲われました。それと同時に、先輩の言葉の全てに、行動の全てに、先生の悪意的な企みを感じたのです。


 強烈な疎外感と孤独感に、私は満足に息さえできませんでした。


 二人で人目を避けるように裏門へ入ったとき、私は駄々をこねて先輩を部室へ連れ込みました。自ら奥の物置き部屋に入ると、先輩も無言でついてきました。


 私たちは薄闇の中で静かに向き合います。月明かりが濡れた瞳を照らし、善とも悪とも知れない夜に二人一緒に落ちていくようでした。


 先に動き出した先輩に全てを委ね、その吸いつくような肌に足を絡めた時、ようやく私は気づいたのです。


 先生に最も愛されていたのは自分なのだと。


 今年のお題に紅蓮を選んだのも、ログハウスへ私を連れていったのも、先輩のヌード画を見せたのも、全てはこの夜のためだったんだと。


 その優越感にどっぷりと浸りながら、私は先輩と共に夜が更けていくのを体中に感じていました。


 そうして制作活動に没頭すると、あっという間に夏休みは終わり、一息つく間もなく文化祭当日を迎えました。



 なるほどね。確かに百色で紅蓮になってる。


 彼の絵の前に立つと、私は無意識にそう声を出していました。コンクールの入賞作品がずらりと並べられた廊下は、生徒や家族で大にぎわいでした。


 惜しくも二連覇を逃してしまった同級生の作品を見るために来たものの、どこを探しても本人がいなくて残念です。彼の絵のタイトルは「無秩序」で、宣言通りに無数の色で見事な炎を表していました。こんなに緻密な塗り方じゃ、普通の人間なら優に半年はかかるはず。すぐ隣にいた父も、たいしたもんだと感心しきりです。母は今も体育館に残り、最優秀賞を取った娘の作品を飽きずに見ていることでしょう。


 父と二人で校内を歩いていると、偶然にも中庭で顧問の先生と会いました。深々と頭を下げる父に、先生は気分よく接します。「私にとっても娘同然なんですよ」そんなことを言いながら先生の真っ赤な唇の口角が上がり、私へ視線が向けられます。


『あなたの出来には満足よ』


 先生はそう目で合図をすると、すぐに他の生徒の家族の元へ行ってしまいました。



 文化祭終了後、キャンプファイアもパーティーも欠席して寮の書物庫で編み物の本を読んでいると、二人分の食べ物を持って先輩がやってきました。


「具合が悪そうだけど大丈夫?」


 そう心配そうに顔を覗く先輩に、課題が終わらなくて徹夜続きだったとピースサインで返します。


 吐き気に襲われつつも、やっと小さなサンドイッチを食べ終えたところで、私は先輩に言いました。


 この前、最優秀賞を取ったら一つだけ願い事を聞いてくれるって約束しましたよね?


 先輩は頷いて、「何にする?」と訊ねます。


 両手を握りしめ、私は願い事を言葉にしました。


 先輩の未来に、私も一緒にいさせてください。一時離ればなれでも構いません。先輩がどんなに遠くへ行っても、必ずついてきます。だから……


 最後の方で目から涙が溢れると、先輩が指で拭ってくれました。


「約束する。ずっと一緒にいよう」


 先輩のその言葉に、心に未来への決意と希望が湧いてきました。


 それからほどなくして雪が積もりはじめると、先輩は一ヶ月半の長期外出で、学校から大荷物を持って出かけて行きました。帰ってくるのは一月下旬だということ以外は、あえてなにも聞かずに別れました。


 味気ないクリスマスをやり過ごし、何かと理由を付けて年末年始を一人で過ごすと、何点かの傑作が生まれ、そのうちいくつかは先生が買い取ってくれました。


 初めての稼ぎに味をしめ、先生のコネを使って画商との繋がりが出来はじめた頃、先輩から手紙が届きました。


【明日の午後九時に着く。二人で会いたいから、部室の外階段の上で待っててほしい】


 久しぶりに会う先輩のことを考えながら、浮かれた私は八時半には厚着をして待ち合わせ場所へ向かいました。


 雪の舞う中でしばらく待っていると、背後から物音がしました。


 私は先輩だと思い、笑顔で振り返りました。










 初夏の強い日差しの中、私は凍えていた。


 指先がかじかみ、唇は震え、あの日の吹雪が身体中に凍りついていくかのよう。


「今話した夢は、心臓の前の持ち主の記憶です」


 私はこれまでなんとなく感じていたことを、断言するように口にした。改めて言葉にすると、それしか考えられなかった。


「夢なんかじゃないんです。これは、ちゃんとした記憶なんです」


 囁く私の肩を、吉井さんがそっと抱いてくれた。きっと、私が今にも泣きだす顔をしているから。


「分かってるんです。私のせいで彼女が死んだわけじゃないって。でも……本当に幸せそうで、健康で、才能も未来もあって……それなのに、なぜだか今は私が生きてるんです。彼女じゃなくて、死ぬはずだった私が生きてるんです……」


 これ以上は堪えきれず、私は吉井さんの胸で声をあげて泣いた。もう誰も運命を変えることはできないのに、私には到底この理不尽さを受け入れることはできない。


 まるで強盗にでもなった気分だった。


「割りきれなんて言わないよ」


 吉井さんは涙で濡れた私の顔を両手で包み、これまでで一番優しい顔をして真正面から向き合った。


「その夢が本当に記憶なのかは分からない。けどね、今だってその心臓は生き続けているの。この事実は変わらない。これからは、あなたがその心臓と共に生きていくのよ?」

「でも…」


 しゃくりあげながら、許しを乞うように吉井さんを見る。

「一人に一つしかない大切な心臓を貰えたの。こんなラッキーなことないのよ。今抱えているその辛さは、簡単には消せないと思う。だからね、せめてドナーのためにも、紗夜ちゃんは幸せになろうね」


 そよ風が涙をすくい、こうして私は新たな人生を歩き出した。


 私はこの時、吉井さんに二つのことを話さなかった。


 それは記憶の夢の中で彼女が最期に見た人物と、彼女が妊娠していたということ。






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