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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
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プロローグ①


 目黒川沿いから見上げた空は、いつもより早く雲が流れている。


 やっといい季節になったと思ったのに、この感じではあっという間に汗が流れ落ちる嫌な季節になってしまいそうだ。



 リビングの隅に洗濯物を干し終えた私は、ベランダに出てタバコに火をつける。


 すぐ下の道では、大学生らしい男女が交互にカメラのファインダーを覗き込んでいて、女の子がはしゃいだ声でしきりに男の子に話しかけていた。


 葉桜なんか撮って何が楽しいのだろう。


 私は南風に煙を吹きかけた。



 律儀に今年も春が来た。



 去年とも、一昨年とも何も変わらない、焼き増しの春だ。

 もう新たな予感も芽生えないほど平凡な季節の片隅で、私は淡々と日々をやり過ごしている。


 小学校に通う娘はいいなと思う。毎年春になれば新しい生活が始まり、精神も肉体も一年前とはまるで違う。無意識でも、きちんと階段をひとつ上り、一皮剥けた真新しい自分になれるのだ。


 季節のうつろいに、私はいつから無感情になったのだろう。


 そう言ったって、私にも娘のような春はあった。


 幼稚園に入った春の記憶はないが、小学校に上がった春はよく覚えている。幼なじみだった理央と、やっと箱から出せたランドセルを背負い、霞がかった淡いピンク色の世界の中、私たちはまるで一人前だと認められた気分で、校門の前に並んで立っていた。何もかも自分のために準備された新品の道具たちに触れては、思わず笑みがこぼれたものだ。


 中学の入学式は一転、季節外れの粉雪が舞っていた。数年ぶりに理央と同じクラスになり、入学式の後は二人で体育館の大きなストーブの前で凍えていた。そこで出会ったのが真由だ。寒がりな三人。そこから六年間ずっと同じクラスになるとは、夢にも思わなかった瞬間だ。


 高校の入学式は、示し合わせたように桜が満開だった。言葉の響きの割に面白味のないオリエンテーションの最中は、視界いっぱいに狂い咲く桜をずっと眺めていた。かなりの老木だというのに、枝も透かさず咲き誇っているその姿は、今でも鮮明に覚えている。


 私以外にもその桜を眺めていた人がいた。


 名前なんてすっかり忘れてしまったのに、桜を思い出すと必ず彼のシルエットも一緒に頭に浮かんでくる。噛みすぎて味をなくした、なんの感情も湧かない、遥か遠い記憶。


 社会人になった年の春は、とにかく忙しかった。業務とビジネスマナーを覚えることに必死になると同時に、仕事というのはこんなにも他社の人間と絡み合うのかと驚き、なるほどこれで経済は回るのか、と改めて社会というものを理解した。


 年中行事の花見では、頭上を見上げる暇もなかった。



 主人と出会ったのが冬、結婚したのが秋、娘を産んだのが夏。


 私の人生はそうして、春を単なる通過点にしていったのかもしれない。



 十年前、結婚と同時にこの古くて小さなマンションを購入した。


 あまり自己主張のしない主人が、結婚したら目黒川の桜並木のそばに住みたいと熱心に説得してきたので、私は素直に頷いた。


「僕が責任を持ってローンを支払う。君が働きに出なくてもいいように頑張って稼ぐ。だから、家族で桜を見ながらここで暮らそう」


 瞳を輝かせながらそう夢を語った主人は、今や多忙で桜の存在にすら気付かない。桜はおろか、娘が起きている姿さえ滅多に見られないのなら、いっそのこと郊外まで移り住めばいいのにと、私はいつも心の中でポツリと呟く。そうすれば今ほど残業もせずに済むし、私だって気安い商店街で心置きなく節約できるのに。


 しかし、私に主人の夢と努力を否定する勇気はない。


 植木鉢と娘のおもちゃでいっぱいになったベランダで頬杖をつきながら、自分の無気力さに辟易した。



 軽快なバイク音が聞こえてきた。いつもの時間帯に、いつもの彼が我が家に手紙を届けに来たのだ。



 所帯を持ってしまえば、やってくる手紙の内容なんて想像を越えない。私は請求書に書いてある金額の確認をしたいがためにタバコを消し、薄手のカーディガンを羽織って外に出た。



《櫻井 心美様》



 十年ぶりに目の当たりにした、かつての自分の名前に、私ははっと息を飲んだ。




読んでいただきありがとうございます!

全60話程度です。

よろしくお願いします。


【追加と訂正】

1話辺りの長さを考慮して、話数を増やして細切れにしたいと思います。

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