偽物娘アンの幸福な不幸
「これをいただくわ」
お嬢様が言った。当然でしょって口調で、あんまり堂々としてるものだから、凶暴な筈の男が怯んでる。胸の中がこそばゆくなり、あたしの顔が変に歪んだ。
「あら。お前、笑っているの?」
笑うってどうやるの?
そう聞いたら、お嬢様がふっと息を零した。途端に胸のこそばゆさが強くなり、鳥のお化けみたいな音が弾んで出てくる。
「いひっ、ひひっ」
「下手ねぇ。これでも笑える?」
お嬢様が顔のベールを持ち上げた。あの男が、あたしがぶたれる時とそっくりな声を張りあげる。お嬢様の半分はツルツルで、もう半分はでこぼこしていた。ビー玉より青い目が一つ、あたしの目をじっと見ている。
「まだ痛い?」
「いいえ」
「ひひっ、うひっ」
「お前、頭が悪いのね」
召し使いを一人残し、お嬢様が建物の外へ出た。あたしは初めて馬車に乗る。戻ってきた召し使いは鉄錆みたいな臭いがした。
「今日から、お前はアンよ」
「いひっ!」
アンになったあたしはお風呂に入る。鏡で見た自分の顔に驚いた。
「うひひ、半分おそろい」
それから屋敷で暮らしてる。読み書きは苦手だけど、お嬢様が教えてくれる。ドレスは窮屈だけど、お嬢様が選んでくれる。
「ひひっ」
若い男が訪ねてきた。あたしは喉に包帯を巻いて寝台で話を聞く。喋っちゃ駄目だと、お嬢様と旦那様から言われてる。
「元気そうだな、アンジェリカ。君のしぶとさには驚いた」
「……」
あたしの仕事は完璧だ。時々、面倒臭そうに奴が来る。困厄者のジムだから仕方ないと言っていた。ジムの話は嫌味ばかり。そのうち妙な事を言い出した。
「僕との結婚は諦めろ。愛する人と出逢ったんだ」
「?」
「だが、君の父上は僕を息子同然に思ってる。これからも顔を合わせることになるな」
また来るみたい。がっかりしたけど、あたしの話を聞いたお嬢様は嬉しそうだ。旦那様は怖い顔で、息子は一人きりだと唸ってた。ジムは二度と来なかった。夜逃げでもしたんだろうか。
「お前は不幸ね」
あたしの髪をブラシでとかして、歌うようにお嬢様は言う。
「うちの家督は弟が継ぐわ。わたくしはいずれ寡婦館へ居を移す」
胸がザワザワする。体が震えた。頭がわんわん痛みだす。
「あたしはどうなるんですか?」
「お前も来るのよ。一生、わたくしの側にいるの。可哀相なアン」
なんだ、連れてって貰えるのか。寡婦館が何か知らないけど、掘っ立て小屋でもかまわない。
「ひひっ、うひひ」
お前は馬鹿ねと、お嬢様が笑った。
【蛇足】
・寡婦……未亡人や、離婚した独り身の女性。お嬢様は未婚なので、作中では独身くらいの意味で使っています。