白ワイン
憧れの先輩のヘルプにつき、行き届いた美しい接客を目の当たりにし、自分の不甲斐なさに改めて気づく。華やかな世界で、またも人生の挫折を味わうことになるのか?と不安よりも諦めが先に過ぎる。どうしようもない自分に優しく声をかけてくれるのは、やっぱり…。
「なつみさん、サキさんのヘルプ。」
「はい。」
水曜日の夜9時過ぎ、店内はもう賑やかだ。
エスコートのシンジ君はヒソヒソ声で続けた。
「高田様はサキさんの太客だからね。2名でご来店。お連れ様の隣に座っちゃって。」
指示通りに、2人組のお客様のテーブルについた。
「はじめまして、なつみと申します。」
恰幅の良い年配の2人組は、とっくに出来上がっている。
「なになに、固いなぁ。リラックスしていいんだよ。
高田さんはさ、こんな怖そうに見えても優しいんだから。そう、僕もね。アハハッ。」
「あ、はい。なんか、私…。」
太客と聞いたから、私は少し緊張していた。
正直、早く一杯飲みたい気分だった。
「なつみさんね、新人よ。入店して、あら?でも、もう2か月経ってるのかしら?」
「ミサちゃん、ボケボケか!コラ。」
「いやーん。まだそんな歳じゃないってば。」
「そうかなぁ、ミサちゃんは年増でも美人だからさ、ボケても可愛いなぁ。」
「年増?まあそうね。私ももう、54…いやよ、年齢の話しなんてしちゃ。」
「熟女、いいじゃない!」
「熟女クラブ、showerへようこそ。」
ミサさんは、私の方を見て小さくウィンクした。
「ミサちゃんは、showerで一番色っぽいよなぁ。」
「もう、高田様ったら。」
ミサさんのトークで、私の緊張も少し和んだ。
「私、週2くらいしかお店出ていないので、2か月経っても成長しなくて。すみません。」
「謝らなくていいんだよ。なつみさんって謙虚。可愛いじゃない?幾つ?」
「はい、今年で36歳になります。」
「そうなの?全然熟女じゃないじゃない。でも、いいなぁ、これくらいの年齢も。」
川田様が舌舐めずりしたのを、私は見て見ないふりをした。
「高田様が平日にいらっしゃるなんてお珍しいものね、うふふっ。」
そう言ってサキさんは、高田様の膝に手を乗せて首を傾けた。
「ふん、なつみか。なつみって感じでもないよなぁ、大人しそうな顔して。」
「そう、キャスト皆んなでは、小柄だからチイちゃんってあだ名で呼んでいるのよ。」
「チイーちゃん?」
私の耳元で、鳥が鳴くような突拍子も無い声をだしたから、ビックリした。
「いい子なのよ。川田様、宜しくお願いよ。」
そう言って、高田様のタバコに火を付け、テーブルの上を整えている。
笑顔で話しながらの所作は滑らかに美しい。
私がお客なら、多分サキさんを指名するだろう。
ただ座って膝の上のハンカチをいじっている私とは大違いなのだ。
「チイちゃん、いいじゃないの。そう呼ぼうよ。僕、川田っていいます。川田のおじちゃんね、宜しく。」
そう言って、右手を出してきた。
握手するのかと、私からも手を差し伸べるると、ギュウッと少し痛いくらいに手を握られた。
「…チイです。」
「アハハ、チイって、チイだけだとまるで子供のあだ名みたいだなぁ。アハハ。酒は飲むのかい?」
「はい。あまり沢山は飲めないのですけど、私、高級なお酒だったら悪酔しないみたいなんです。」
「ハハッ、高級なお酒か。面白いじゃないか。ワインは好きかい?」
そう言って、高田様が身を乗り出して私を睨んだ。
白髪になった長い眉とカールしたまつ毛の奥に、茶色に濁った眼球には鋭さがあった。
「…はい。あの、私、白ワインが好きです。」
「そうなのよね、チイちゃんは白。ねぇ、高田様も白ワインがとってもお好きなのよ。」
サキさんは嬉しそうに、また小さくウィンクした。
「じゃあ、飲もうよ。高田さんの好きなの。あれ、なんだっけ?」
川田様は、さっきからずっと私の太腿を撫でていた手を万歳みたいに挙げて、
「カナちゃーん!メニュー持ってきてよ。」
「はい。おもちしました。」
小走りにカナさんがやってきた。
「まだ、乾杯してないもんな、チイちゃん。」
「カナさん、メニュー見なくてもね、いいの。高田様はね、アレよ。モンラッシェ-Montrachet。」
直ぐに、なで肩でゆったりとした大きなグラスが並べられた。
何時もワインを飲んでいるグラスの雄に3倍くらいの大きさである。
美しいグラスに注がれる液体の何と煌びやかな輝き!
「わぁ。綺麗…。」
私は、目の前のキラキラ揺れ光る金色にうっとりし、ため息をついた。
「ほらチイちゃん、早くグラス持って!」
「あ、はい。すみません。」
「乾杯!!」
『美味しい。』
私は、こんなに美味しいワインを初めて飲んだ。
「どうだ、上手いだろう?」
そう言った高田様は、もうグラスを空にしていた。
「はい。こんなに美味しい白ワイン、生まれて初めててです。本当に、美味しいなぁ…。」
「チイちゃん、素直でいいなぁ。」
川田様もご満悦な表情だ。
「ふん、場内指名だ。チイ!好きなだけここで飲んでいけ。川田も、気に入ったようだよ。」
「わぁ、とっても嬉しい。有難う御座います。」
「僕ねえ、髪がショートで、小さい女の子ってタイプ。好きなんだよねぇ。」
「良かったわね、チイちゃん。高田様も、川田様もお優しくて素敵なのよ。」
「おう、サキちゃんは、俺だけを素敵って言わなくっちゃ。」
高田様は、2杯目を飲み干して、サキさんの首筋に鼻を押しつけていた。
「あら、やだぁ。もう。」
結局、私はラストまでサキさんのテーブルについていた。
白ワインは4本開け、チーズやフルーツ、チョコレートで私はお腹いっぱいになった。
高田様も、川田様も、お腹が一回り膨らんで見えた。
満足な笑みのお2人に、お見送りできたので嬉しかった。
この仕事を楽しいと感じたのは、今夜が初めてかもしれない。
サキさんは、エレベーターへ一緒に乗り込んだ。
「チイちゃんは、いいわよ。高田様、私が送って行くから。」
私は、エレベーターのドアが閉まるまでの間、深々お辞儀をした。
数秒ではあったが、頭を下げすぎて急に気分が悪くなってきた。
ふらついた足で、閉店した明るい店内を洗面所に急いだ。
「チイちゃん、お疲れ様!」
「酔いました…。」
笑顔の店長に肩を貸して貰い、ズルズルと歩いた。
『ヘルプの私が、沢山飲んで食べて売り上げも良かったんだから、甘えてもいいだろう。』
「チイちゃん、結構飲めるじゃない。」
思った通り、店長はご機嫌だ。
「いや、あぁ、高級なお酒も、やっぱり飲み過ぎは駄目、…う、気持ち悪い!」
「ハハハッ」
トイレのドアの向こうから、店長とカナさんのクスクスと笑い声が聞こえた。
「チイは、子供だなぁ…」
「今夜は、ラッキーでしたけど、もっと頑張ってもらわないと…」
「また売上の為に、呑んでもらうよ。なぁ、ハハッ」
「ですねぇ。アハハッ…」
私は、お腹が引っ込むほどに苦しんだ。
さっきののぼせ上がった自分が恥ずかしかった。
「私って、本当笑える…。」
やっと落ち着いて更衣室に入ると、数人のキャストの中にサキさんを見つけた。
「サキさん、今日はご馳走さまでした。」
「ううん。チイちゃんには、沢山飲ませちゃったね。大丈夫?」
「いえ、私は何も出来ませんから。」
「もうね、3年経つかな。高田様は何時も色々なお客様を連れていらっしゃるの。優しくて、そう、川田様は久しぶり、まだフリーよ。名刺渡した?」
「はい。LINE交換は出来ませんでした。」
「そう、これからでいいんじゃない?また、いらっしゃった時、お席につけたらいいわね。」
「はい。」
入店して2か月経つというのに、私は私を指名してくれるお客様を一人として作れていない。
不甲斐ない自分を思うと、また胃が痛くなる。
「サキさん、お先に。」
「チイちゃん、お疲れ。またね!」
キャスト達は、先程の華やかなドレス姿から、カジュアルな普段着に着替え、ゾロゾロと更衣室を出ていった。
「じゃあね、お疲れ様。」
「お疲れ様でーす。」
私は、窮屈なドレスを脱いで無造作に丸めてバッグの中に仕舞った。
さっき洗面で汚してしまったし、それでなくとも、私は毎回ドレスは持ち帰って家の洗濯機でガンガン洗う。
洗濯に耐えるドレスだ。
頭の中で色々な事がグルグル回るからフラフラしていたから、ストッキングを脱いで、裸足のままブーツを履いた。
靴下を履くのも億劫な程に、悪酔いしていた。
「チイちゃん、送りでしょう?お家、一緒の方向よね?」
「あ、はい。私、サキさんと一緒に帰るの初めてかも。」
顔を上げると、淡いベージュ色のセミロングコートにボリュームのあるワインカラーの毛皮を首に巻いてにっこり微笑むサキさんが立っていた。
仕事が終わったのに、細いヒールの光るロングブーツを履いている。
私は、地味なダウンコートに、1年を通して履き潰しているデニムを履いて長靴の様なブーツを履いていた。
恥ずかしいほどに、サキさんとは真逆の色味の無い地味な格好をしていた。
「綺麗なコート、サキさんにお似合い…。」
「有難う。去年のよ、これSALE品なのよ。」
どこまでも、屈託ない謙虚で美しい女性だなと思い、私はまた溜息をついた。
「あら、大丈夫?気持ち悪いの?」
「いえ、私本当に…大丈夫。いや、大丈夫じゃない。もう、こんな自分が嫌なんです。」
「あら、何を言い出すと思えば。」
「私、何もかも上手く出来なくて…、この仕事向いて無いっていうか…」
「ね、チイちゃんは考えすぎなんじゃないかな?」
「変な事言って、ごめんなさい。」
酔った頭の奥から、今までの不甲斐ない自分が、コミックを早回しで捲るように思い出された。
サキさんは、私の頭を優しく撫でてこう言った。
「チイちゃんの良い所、あるわよ。真面目で頑張り屋さん。素直で嘘つかないでしょう。それに、とっとも可愛いわよ。美味しいものを食べている時の笑顔、癒されるわ。ね、一杯あるでしょう、チイちゃんの素敵な所。」
私は、サキさんの声を聞いているそばから泣きそうになっていた。
「さ、帰ろうか?」
「はい。」
真っ暗な自宅に着くと、電気をつけずに服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びた。
下手な化粧、下手なトーク、何もかも上手くいかない自分、嫌いなだけ嫌いな自分、熱いシャワーでも流すことなんて出来ない。
堪えても流れて止まらない涙と、食いしばっても漏れる嗚咽。
自分が恥ずかしくて仕方なかった。
憧れのサキさんを想うと、どうしようもなく涙がながれた。