寝不足
どうしようもない程に、母親くらいに歳上の女性を好きになってしまった。
もう、どうしようもないのだ。
「おはよう御座います。」
「あ、おはよう。10分には、待機してね。」
「はい、すぐに着替えて来ます。」
更衣室のドアを開けてカーテンをすり抜けると、女の体臭に化粧品の香りが混ざって、ムワッと鼻をついたから目眩がした。
「おはよう御座います。」
「それでさ、行ったの。しかたないでしょ、一回くらい付き合ってあげないとさ。」
「あぁ、わかるよ。でも、神谷さんってさ、あんなお爺ちゃんと何処行くのよ?夜中にさ、食べないでしょ。じゃ、やっぱり?」
「ちょっと、待ってよ。まさかでしょう?」
「だよねぇ。」
露出し過ぎなドレスの後ろファスナーを、苦しげな表情でひっぱり上げていた蘭さんは、私を見下ろして、
「ちょっと悪い、ファスナー上げてくれない?」
「あ、はい。少しかがんでもらえたら、届かないから。」
「あぁ、チイちゃん、おはよう。」
この店のキャストは、殆どが高身長だ。
平均より低身長の150cm無い私は、皆から小さい意味でチイちゃんと呼ばれていた。
160cm越えに13から15cmのヒールを履いているから、私から見たら皆巨人並みだった。
「ちょっと、まってね。ふぅーっ。」
蘭さんが、息を吸い込みお腹を凹ませた。
私は、出来る限りの力を指先込めたが駄目だった。
「あ…がらない。」
「ちょっと。」
更衣室の奥から、サユリさんが大股でズカズカやって来たと思ったら、
「かして。」
ファスナーとドレスの端を鷲掴みにした。
「はい、いくよ!」
「ふっ!」
サユリさんの掛け声と共に、ファスナーが勢いよくズバッと上がった。
蘭さんは頬を赤らめて言った。
「息、止めなくちゃ上がんないわ。やばいの私、最近背中が!」
どっと笑い声が渦巻いた。
この店で働くようになってまだ間もないが、皆それぞれ個性的ではあれ、新人の私に優しく接してくれていた。
和やかな雰囲気は、ドアをノックする音で遮られた。
「時間。準備できたキャストは早く出てね。」
エスコートガールのカナさんだ。
何時も穏やかな人柄なのに、今日はなんだかイライラしているように聞こえた。
「ほら、とばっちり受けないように気をつけよう。」
「昨日ラストのお客様と、ね。店長に怒られてたよ、さっき階段でねー。」
「まじで?店長もイラついてたら最悪じゃない?」
「大丈夫、店長はさっぱりしてるから。きっと毎度の事だろうし。」
「ねぇ、口紅新しい色?いいね。」
「でしょう?300円だよ。」
「安!」
ドヤドヤと御一行が出て行くと、私一人になった。
この店は素足禁止だから、慣れないストッキングに苦労していた。
ガチャっと、ゆっくりドアが開いた。
「おはよう御座います。あ、チイちゃん居たの?」
この店では、大先輩にあたるミサさんだった。
酔っているのか、頬を赤らめてニヤニヤ笑っていた。
私は、さっとドレスで前を隠した。
「ねぇ、チイちゃんさ、痩せたね。」
「え、そうですか?…そうかも知れない。」
「ふふ。今ね、常連のお客様と同伴だったの。少し飲み過ぎちゃったわ。生理中って、何時もより酔っ払うでしょう?」
「はい。そうですね。私も、同じです。」
「でしょうー。」
私の肩に酔った熱い息を吹きかけて、もたれかかって来たから、私はドレスが床に落ちて、また下着姿丸出しになった。
「あ。これ、こんなとこホクロ発見した。」
「あの、酔ってますね?」
そうっと、ミサさんの肩を両手で押し上げた。
その時だ、私は半開きな油ぎった卑猥な唇を見て、吸いつきたい衝動に駆られた。
「あぁ、水飲みたいわ。」
ミサさんがスツールにどかっと座り、部屋の隅を指差した。
私は直ぐに冷蔵庫からペットボトルを取り出して、紙コップに冷えた水を入れて渡した。
一気に飲み干したミサさんは、何やら鼻歌を奏でた。
私は、急いでドレスを着て身嗜みを整え終わると、フロアに出た。
数ヶ月前、長年働いていた会社が倒産した。
祝儀袋や香典袋など、水引などの飾り付けがされた紙製品を専門に扱う会社だった。
最近、そういった物が中々動かないことは分かっていながらも、昔のやり方を通した社長だった。
時代の流れに上手くついて行けず、負債は増える一方であった。
私は、事務をしながら経理も手伝っていたので、倒産の一年以上前から、会社の状況が思わしくない事はわかっていた。
会社が無くなっても、実家に帰ることは考えていなかった。
両親と兄夫婦が数年前に古い実家を二世帯にリフォームして住んでいて、私は何かと気を使う事があるから、お盆や正月くらいしか顔を出さなかった。
会社が倒産した事は、両親にも兄にも内緒であった。
そんな事を言えば直ぐに、やれお見合いしろ、結婚しろと騒ぐのが目に見えていたから。
もう、ここ数年、付き合った男性など居ないし、内気な性格だから友達も少なかった。
会社とアパートを往復するくらいの毎日であったのに、会社が倒産してからはインドアに拍車がかかり、引きこもりに近い状態であった。
私は、失業保険と少ない貯金の切り崩しで何とか細々と暮らしていた。
そんなある日のこと、同じ会社で働いていた唯一の友人からメッセージが届いた。
一人暮らしの母が体調を崩し、長女の私を頼って来たから、実家の秋田に戻ることになった。
もうそろそろ落ち着かないとと思っていた矢先であったから、二つ返事で東京の生活を終わりにすると伝えた。
帰る前に一度、銀座でランチでもしながら会って話したい。
との事であった。
私は、もう2か月も美容院に行っていない。
身嗜みを整えて出かける場所など無いので、化粧もしない。
元々が、あまりお洒落に興味もないから、(銀座でランチ)のワードに動揺した。
とりあえず、美容院を予約した。
ほったらかしの重たいショートヘアが、久しぶりに綺麗にカットされ、季節に合ったカラーを試した事もあり、出来上がった鏡の中の自分は別人の様だった。
そのまま、駅地下のブティックに寄った。
若い店員に話しかけられ、(銀座でランチ)のキーワードを告げると、思いがけない色味の洋服を勧められた。
髪の色明るく変えて、似合う服も変わった。
『あぁ、女子会ってお金掛かるな。』
と思いつつも、気分は少し好転していた。
銀座でランチと張り切って出かけたが、実際には何処にでもありそうなカジュアルな雰囲気の小さな洋食屋で食事をした。
話す内容は、共通の話題である倒産した会社の事と、友人の母の体調についてくらいであった。
食事が終わり、店を出ても友人は話し足りないのか、お茶しようと言うので、直ぐ横の喫茶店に入った。
話す事は、さっきとら殆ど変わらなかった。
秋田の実家でこれからどうしようか不安が募り胃が痛い。
もう決めたことだけど、本心は、まだ東京に居たい。
仕舞いには、きっと私はあっちで結婚するだろうと涙ぐむ始末であった。
話の途中から、華やかな女子会を想像していた自分が馬鹿に思えていた。
夕方になり、友人と分かれた後、私は一人で街をぶらついた。
せっかく偶にお洒落して、化粧までしてきたのだから、華やかな都会の夜の街を歩いてみたくなったのだ。
銀座なんて滅多に来ないから、何処をどう歩いたのか、いつの間にか大通りから横道に外れていた。
光り輝くネオンが連なる歩道を当てもなく歩いた。
綺麗に髪を整えて美しい着物を着た女性や、カラフルなドレス姿の女性とすれ違うと、とても良い香りがして私はうっとりとそれを楽しんだ。
もう帰ろうかと思った時、若い男に声をかけられた。
「君、何処のお店の子?こういう仕事、興味ないかな?」
「あの、私…。」
私は、その場を走って逃げ出した。
角を曲がり、そして足を止めた。
『なんで逃げる必要がある?』
周りを見渡すと、今までの自分にはまるで無関係だった華やかな夜の世界が広がっている。
そこは至極妖艶で、私にはまるで異次元であった。
『やっぱり、私には場違いだな。』
駅への道すがら、ティッシュを配っていたから一つ貰った。
ホームの隅、ティッシュで口紅を全て落とした。
『私も、これからの事、ちゃんと考えないとな。』
車窓に写った自分の顔は、なんだかやつれて見えた。
昨晩は、いつもにも増して寝付きが悪かった。
嫌な夢を見た。
それなのに空が白むと、ぱっちり目が覚めるから、寝不足で体は重い。
銀座から帰ってきて、冷蔵庫にあった白ワインを半ば焼け酒のように飲んだ。
記憶は薄らで、今、冷蔵庫を開けてみると、ボトルは殆ど空になっていた。
『少し飲み過ぎたかな。昼の仕事、ちゃんと見つけないとな。』
冷えた炭酸水を一気に半分飲んだ。
苦い舌をベーっと出して鏡を覗くと、目を晴らした自分に会った。
『泣いたんだね。』
私は、めちゃくちゃに歯磨きをしてから、またベッドに潜った。
『まだ、眠い。』
今、起きていても目の前をさっきの夢の残像がちらつく。
幼少から、目覚めた後も、見た夢の要所要所を覚えていて、気になった部分をノートに書き留めたりしている。
全く、何の役に立ちそうもない事柄に、時間を費やすことは性分であった。
『だから、それが何なのだ?』
厄介な私は妄想にふける。
そして、ただ自由に妄想に生き、そこで好き勝手を楽しむ。
頭で考えて、思考で止まって、欲は永遠に止まず、ストーリーは時に際どい。
現実は?と言えば、至ってシンプルなのだから、益々患うのだ。
『不甲斐ない私など、きっと何時ものように上手くいかない。』
諦めは、毎回のことである。
ほとんどの現実を、もうとっくに諦めたのだ。
『バイトは夕方からだから、時間はまだたっぷりあるよね。』
やらなければいけないリストは、明日に延期すると決める。
嫌な気持ちにならないように、現実を色々と思い出さないようにと、深呼吸をして目を閉じた。
この近辺ではトップクラスの人気店 最近流行の熟女クラブ shower。
(銀座でランチ)の帰り道に貰ったティッシュの裏に、この店のホステス募集のチラシが入っていた。
私は、悩みながらも店に電話を掛けて面接まで取り付けた。
想像以上に緊張した面接だったが、優しい年配の男性と30分も話しをすると、こう言われたのだ。
「貴方、この仕事、向いてるよ。」
私の中の本当の私も、飛び上がるほどにびっくりした。
シャンデリアの鈍い灯りの下では、熟女はより妖艶に照らされて現実離れした空間を彩っていた。
ゴールドとワインカラーが混ざった豪華な絨毯を、ぎこちなくヒールで降りて行く。
胸の奥が圧迫されているような、変な気分だった。
サキさんの唇から覗く前歯なんかが目の前にちらついて、酔ってもいないのに、頬が火照った。
「なつみさん、タイムカード押しといたから。こっちおいでよ。」
私と同時期の募集で入店した仲良しのマキさんだった。
「おはよう。有難う、あれ今日出勤だったの?」
「急に店長から入れるか?ってメッセージ来て、断れないから。ま、稼げるし。それに平日だし。」
「そうなんだ。」
「もう、コートの中にドレス来て来ちゃった。一番乗りでトイレで化粧してさ。」
「そっか、いいね。」
仲良しのマキさんだけは、裏でも私のことを源氏名で呼んだ。
回転と共に、お客様がゾロゾロと来店して来た。
今夜は、月末だったからか平日の割に団体客などもあり、フロアはすぐに満席に近い状態になった。
待機ソファーは、私とマキさん二人になった。
「なかなかさ、お客様捕まえるの難しいよね。」
「そうだね。私、入店して一か月、週3回のシフトだけど、LINE交換したのって4人しか居ないよ。」
「私なんか、まだ2人だよ。」
「向かないかなぁ、私。」
弱気の私にマキさんは、私の膝を撫でながら言った。
「やだ、辞めないでね。せっかく仲良くなったんだからさ。」
柱の向こうから、カナさんがこちらを見ていた。
「しー、ね?」
「あ、うん。」
そう言ってたマキさんは、次の月から来なくなった。
他の店に移ったらしい話は、常連客から聞いた。
「なんか、そっくりな子がいるから、マキちゃん?って聞いたらさ、ここではユミリンでーす。だって、笑わせてくれるよなぁ。アハハハ。」
屈託なく笑い飛ばしてくれるお客様で良かった。
こんな仕事をしていると、たった2カ月くらいでも色々な人と出会う。
良い出会いも、良くない出会いも、時間とともに変化して、逆転することも多々あり。
人間不信を飛び越えてからは、人間好きになった自分がいた。
私は、また夢を観た。
さっきの続きじゃない、楽しい夢だ。
あの人に会う、夢の中で。
我がままな夢…。