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小さな囚人

作者: 藤阪つづみ

 人間、なんとかなると思ったときが一番危ない。そして俺は今、その言葉の意味を身をもって思い知らされている。

「まずい。完全に迷った」

 途方に暮れてカーナビの示す現在地に目をやるも、画面上の地図には何もない。ただただ、らくだ色の何もない画面の中央に、小さな矢印があるだけだ。

「もう夕方だってのに、どうすんだよ……」

 俺はひとり、運転席で頭を抱えてつぶやいた。明日からの連休は久々に実家で過ごそうと考えていた矢先の不幸だった。

 出張先が偶然にも実家から直線十キロ程度の場所だったため、俺はそのまま家には帰らず、両親の住む実家へと向かう旨を連絡していた。「あの辺は道がややこしいから高速を使え」という父親の忠告は無視した。高速なんかに乗ったら料金はとられるし、えらく遠回りになってしまう。たいした距離じゃないし、地図に従って行けば問題ないだろう──そう高を括っていた一時間前の自分をぶん殴りたい。

 道は想像以上に険しかった。地図の上では一本線がするっと描いてあるだけなのに、実際は舗装すらまともにされていない、ひどく荒れ果てた山道だった。

 こんなところで日が暮れてはたまらない。いっそ、電波が繋がるうちに恥をしのんで助けを呼ぶか……そう考えていると、ふと目の前に小さな看板が現れた。

 看板といっても、1枚のベニヤ板に黒いペンキで乱雑な文字が書かれているだけである。傍から見たら看板というより、単なる落書きされたゴミだ。だが、その板は驚くほど真新しかった。昨夜は大雨で、辺りの土はまだ湿っているというのに、まるでつい数分前にホームセンターで買ってきたかのように白く、カラカラに乾いていた。その異様さに、俺は思わず車を停めた。

 ──これは誰かが、今日のうちに置いていったに違いない。

 だとすれば、この看板の情報も新しいはずだ。ということは、この先にはきっと、誰かがいる。

 もちろん、落ちついて冷静に考えれば、そんなに都合のいいことはありえないと判断できただろう。だが、不安な気持ちで山道を走りつづけ、憔悴しきった俺の脳は、すっかりおかしくなってしまっていた。

 俺はゆっくりと車を降り、看板が指し示すほうへ、ふらふらと道なき道をまっすぐに進みはじめた。



 草と小枝をかきわけて山の中を一分ほど歩くと、突然、地面が平らになった。

 目の前には学校にあるような背の高いスライド式の門扉と、その両脇を固めるコンクリートの白い壁だった。壁はまっすぐ左右に延びて、はるか先の方でようやく直角に折れている。壁の高さは俺の目線よりもだいぶ上まであり、中の様子はよくわからなかった。

 門まで近づき、そっと覗くと、中には大きなクリーム色の建物があった。三階建てで、屋上もある。一見すると、病院か学校のようだ。少し古びてはいるが、廃墟という感じはしない。ただ、門の向こうは気味の悪いほどに静かだった。

「どなたですか」

 いきなり背後から声がした。俺は飛びあがり、ヒイッと情けない悲鳴を漏らした。ついさっきまで人の気配など感じなかったのに、いつの間に近づいてきたのだろう。

 おそるおそる振り返ると、そこにいたのは少年だった。見たところ、小学校二年か三年くらいの背丈だ。少年というよりは、男児というほうが適切かもしれない。上半身には真っ黒な古臭い詰襟、下半身には黒い半ズボン、それに白いソックス、黒い革靴という、レトロすぎるいでたちだった。

 その顔は不気味なほど色白で、生気がない。まさか幽霊だろうか。

「ああ、ええ、その、少し道に迷って……誰か、大人の人っているかな」

「行き先は?」

 少年は眉ひとつ動かさずに尋ねた。

「いや、だから大人を……」

「行き先は?」

 少年は語気を強めて言った。そして早く言え、とでも言わんばかりにこちらの顔を覗きこんでくる。しかたがないので、俺は実家がある地区の名前を口にした。すると彼は間髪入れずに、妙に大人びた口調でこう答えた。

「ということは、車ですね。ここから高速にでる道もあるにはありますが、規定でお教えすることはできないんですよ。まあ、少し仲間と相談してみます。少しお待ちください」

 少年はそのまま門を引き、中の建物に入ってしまった。俺はそこではじめて、彼が右手に箒を握っていることに気がついた。きっと、表の掃除をしていたのだろう。

「お待たせしました」

 しばらくすると、少年は戻ってきた。その手に箒はなく、かわりに白い紙コップを持っていた。

「この道に詳しい者が、案内するそうです。今、地図を探しているところなので、もうしばらくお待ちいただけますか」

 差しだされたコップには茶色い液体が入っていた。持ってみると、温かい。香りからして、麦茶のようだった。肌寒いこの時期に外で待たせることに罪悪感を感じたのだろうか。

「あ、どうも」

 案内してくれるということは、きっと、あの建物には運転免許をもつ者がいるのだろう。俺は安心し、コップの茶を一口飲んだ。



 そこで、俺の意識は途切れた。



 次に目覚めたとき、俺がいたのは実家のすぐそばにあるコンビニの駐車場だった。どうやら、運転席で眠りこんでいたらしい。辺りはもう真っ暗だった。

 なんだ夢かと俺は安堵し、車を発進させた。

 ところが翌朝、車を見てみると、あちこちに擦り傷や泥汚れ、落ち葉のくずなどがこびりついているのがわかった。どうも、険しい山道を走っていたのは現実だったらしい。しかし、だとしたら、どうやって無事に帰ってきたのだろうか。

 様々な謎を残しつつも、こうして俺の遭難事件は終わった。

 日々の生活に追われる中で、俺はあの山道のことも、少年のこともすっかり忘れ去ってしまっていた。

 やがて数年後、俺は当時付き合っていた彼女にプロポーズし、盛大な結婚式をあげた。その一年後にはかわいい息子が、さらに三年後には娘が誕生した。仕事も順調に進み、すべてが順風満帆だった。



 しかし、不幸というのは突然訪れるものである。



 その日は乾燥していて、風が強かった。

 俺は前日から出張していて、自宅にはいなかった。

 朝方、親戚から「お前の家が燃えている」と連絡があった。

 俺が駆けつけたとき、自宅はすでに全焼し、炭と化した家の骨組みがわずかに残るばかりだった。

 妻子の姿は見当たらなかった。後日、三つの真っ黒な塊を目の前に出され、それが妻子だと告げられた。



 信じられなかった。



 それ以降のことは、よくわからない。

 いつの間にか、仕事はやめていて、いつの間にか、実家暮らしになっていた。

 何を聞いても、何を食べても、何を見ても、よくわからなかった。

 毎日、夜になると、自分を責める声が脳内にこだまし、たとえようのない痛みが絶えず心臓を貫いた。

 それは、まさしく地獄だった。

気づくと、俺は電車に乗って都会へ移動し、都会の賑やかな街を徘徊していた。目的などない。ただ、どこへ向かうのかもわからない群衆たちに紛れることで、やまない心のざわつきをごまかそうとしていた。



 ふいに、上着の裾に違和感を感じた。誰かが裾を引いている。見ると、そこには小学生くらいの少女がいた。喪服に見間違えるほど黒いセーラー服を身にまとい、白いハイソックスと黒い革靴をはいている。顔は血の気を感じないほど白く、無表情だった。

 少女は何も言わずに俺を見上げると、どこからともなく小さな白い封筒を取りだし、ずい、とこちらに差しだした。俺がそれを受けとると、彼女は踵を返し、あっという間に人ごみの中に消えていった。

 何が起こったのかすぐには理解できず、俺は往来の真ん中で、呆然と立ちつくしていた。

 どん、と通行人に肩をぶつけられてようやく通行の邪魔になっていることに気づき、慌てて近くの建物の陰に隠れると、とりあえずその封筒を調べてみた。外側には何も書いていない。封はされていなかったので、中をのぞいてみると、一枚の紙切れが入っていた。



 大切な人に会いたい方へ

 期限:本日の日没まで



 紙の中央には、黒い明朝体でそう書かれていた。そして、その下には小さく地名らしきものが書いてある。よく読むとそれは、とあるバスの停留所の名前だった。

 何よりも目を引いたのは、「大切な人」の文字だった。

 わざわざ「大切な人に会いたい方」などと書いているということは、「大切な人」に会わせてくれるのだろうか。

 その紙がいったい何を表しているのか、なんのために俺に渡されたのか、理由はわからない。あきらかに胡散臭いし、犯罪に巻きこまれる可能性だってあった。しかし、俺はどうしても「大切な人」の四文字が気になってしかたなかった。どうせ、生きているかどうかも定かではない身だ、誰の「大切な人」に何をしやがるのか、この目で見てやろう──そう思い、俺はそのまま、ふらふらと電車とバスを乗り継ぎ、指定された停留所へと向かった。



 その地域はひどい田舎だった。汚い単線の列車の終着駅から、2時間に一本しかないバスに乗り、ガタガタの細い道を一時間も走る必要があった。

 変わりばえのしない車窓にも飽きてきたころ、とうとう目的の停留所の名前がアナウンスされた。ふと前方に目をやると、小さなバスマークを掲げた停留所が見える。そして、その隣には──あのときの少女がいた。いや、正確にはあのときの少女と同じ服装の少女だった。

 俺がバスのタラップを降り、バスの扉が閉まると、彼女は小さく頭を下げた。

「お待ちしておりました」

 その顔は、封筒をよこした少女とは違った。同じ服を着ているだけの別人らしい。あのときの少女と違い、彼女はにっこりと笑みを浮かべていた。しかし、それは子供が見せる朗らかな笑顔ではなく、どちらかというとスーパーやコンビニのレジで見るような、訓練された営業スマイルだった。

「はじめまして、リンドウと申します」

「は、はじめまして」

 それが苗字なのか名前なのかはわからなかった。が、そんなことはどうでもいい。俺は慌てて、自分も名乗ろうとした。しかし彼女はそれを遮ってこう言った。

「本名は結構です。個人情報ですから」

 そして、口角をあげたまま、淡々と続けた。

「どなたを何年分買いますか?」

「は?」

 俺は口を半開きにして固まった。「買う」だと? 何をだ?

「会いたい人がいるんでしょう? その方のお名前をどうぞ」

 彼女は口だけ動かしてそう告げた。その口ぶりはまるで、俺のすべてを見透かしているかのようだった。

「それは、もちろん……」

 俺は言われるがまま、妻と子供たちの名を口にだした。彼女は甲高い相づちを打ちながら、大きく首を縦にふった。

「三名ですか。では、何年ずつ?」

「『何年ずつ』?」

 俺がそう繰りかえすと、リンドウはにんまりと口を曲げて笑ったまま、頷いた。そして、その笑顔を一寸も崩さずに続けた。

「あなたの会いたい人に会わせてあげましょう。何時間でも、何年分でも」

 そこまで言い終えると、急に真顔になり、声を低くして囁いた。

「ここまで来るということは、どうせその人は死んでいるんでしょう。あなたが四十年と言えば、その方は蘇り、四十年生きる。五十年と言えば五十年生きる。上限はその方が百歳になるまでです。さあ、どうしますか」

 まさか。俺は耳を疑った。死んだ人間が蘇るだと。そんなことがこの世でありえたら、科学も歴史も宗教も、この世におけるすべての秩序がひっくり返ってしまう。

 これまでの俺ならば、到底そんな怪しい話は信じなかった。しかし、このときの俺にとって、彼女の言葉は救いの神の手に感じられた。

「妻を六十二年、息子を九十年、娘を九十三年。全員百歳になるまで」

 そう伝えると、リンドウは黒いバインダーを差しだした。どこにでも売っていそうな安物だったが、そこに挟まれた紙は一風変わっていた。薄い縦長の和紙に、ガリ版で刷ったような掠れた赤茶色の文字が縦向きにずらっと並んでいる。米粒のようなその字を読もうとしたとき、リンドウが口を開いた。

「時間は後払い方式です。買った年数は、あなたの寿命が尽きたあと、あなたが生きることでお支払いいただきます。よろしければ、この紙にサインを」

 俺が生きる。それだけで妻子を取りもどせるというのか。その程度で家族に会えるのなら、迷うことなど何もない。

 俺はリンドウに言われるがまま、出された黒インクに人差し指をつけ、おずおずと和紙の上に大きく自分の名前を書いた。



 はっと気がつくと、俺はかつての自宅の、自分のベッドの上にいた。

「あっ、起きた!」

 娘が無邪気に俺の顔を覗きこみ、笑っている。

「ママ、パパ起きたよ!」

 夢か。これは、夢なのか?

 カレンダーを見ると、その日は家族の命日の翌日だった。聞けば、家は火事になどならず、俺は無事に出張から帰ってきていたらしい。

 俺は娘の頭を撫で、息子を抱きあげ、そして妻を抱きしめてようやく、自分が今いる場所が現実であることを実感した。

 ああ、本当に会えた。

 ただただ泣き崩れる俺を、家族は不思議そうな顔で見ていた。



 あの停留所での出来事の記憶は、何年もの時を過ごすうちに薄れていってしまった。

 俺は一時、夢を見ていたんだ。家族を失うという最悪の悪夢を。

 家族は死んでなどいない。ずっと生きていたのだ。

 いつの間にか、俺の中の記憶はそう書きかえられていた。



 やがて、俺は年をとり、大病を患った。

 余命宣告をされたので治療を打ちきり、自宅で趣味に没頭し、妻に支えられながら仲良く過ごした。

 子供たちも、孫を連れて頻繁に会いにきてくれた。

 そしてある夜、いつものように床についた。

 いつも通り、新しい朝がくることを信じて。



 次に目を開けたとき、そこは知らない場所だった。

 大勢の喪服を着た人々が、ざわざわと何かを話している。

 その中には、妻の姿もあった。

 俺は妻の名を呼ぼうとしたが、声がでなかった。



「こんにちは、──さん」



 名前を呼ばれて振りかえると、そこには少年がいた。

 黒い詰襟に黒い半ズボン。俺はその独特の服装に見覚えがあった。

「お前は……?」

 その少年の背丈は、見た目のわりに、やたら高かった。俺は周囲の大人たちを見た。妻を含む大人たちの背丈は、当然みな少年よりも大きい。だが、少年の目線は常に俺と同じだった。

 どういうわけか、俺はこの少年と同じ背丈になっているらしい。

 慌てて視線を下に落とすと、なぜか俺は彼と同じ黒い詰襟を着て、黒い半ズボンを履いていた。その手も足も、子供のように小さかった。

 混乱する俺に、少年はぺこりと頭を下げた。

「はじめまして、僕はショウイチと申します。寿命が尽きたようですので、お迎えにあがりました」

 やけに色白のその少年は、薄い唇でにこりと微笑んだ。



 凍りつく俺に、ショウイチは淡々と説明してくれた。

 俺は一度、家族を失ったこと。リンドウという少女のもとで契約書にサインしたこと。そして、俺は今死んでいるということを。

 ショウイチに促されるまま、棺桶を覗きこむと、そこには確かに年老いた「俺」がいた。

「奥さんが起こそうとしたら、すでに布団の中で冷たくなっていたんですって。小説みたいよね」

「余命宣告されていたんですってね。まあ、長生きしたし、大往生じゃない? 孫にも恵まれて、いい人生だったわよね」

「自宅で眠るように死ぬなんて、いいじゃない。今どき幸せよ」

 そんな親族の話し声が、どこからともなく聞こえた。俺は何も信じられず、黙って棺に眠る自分を呆然と見つめていた。

「あら、あの子たちは?」

「さあ。お孫さんじゃないの」

 話し声がするほうを横目で見やると、見知らぬ女性たちがこちらを見ていた。誰だこいつらは。こんな得体の知れないやつに死に顔を見られると知っていたら、家族葬にするよう遺言を残しておいたのに。

「そろそろ、行きましょう。部外者であることが知れてはまずいですから」

 ショウイチがそう囁き、俺の腕を引いて外へと連れだした。



「これから、あなたには『買った時間』の返済をしていただきます」

 葬儀場をでると、開口一番、ショウイチはそう言った。

「あなたは、奥様とお子様の寿命を余分に買いました。その対価を支払っていただくのです」

 そう言って、彼はそのまますたすたと駐車場を横切って、車道へ向かった。この葬儀場は広い道路の脇にあるらしく、目の前を猛スピードの乗用車がビュンビュン走っている。危ないぞ、と声をかけようとすると、ショウイチは「こっちですよ」と、道路脇の街路樹に手をかけて、こちらを振りかえった。俺が跡を追うと、ショウイチは俺に、街路樹の根元の土を踏むよう指示した。よくわからないまま、俺はコンクリートがくり抜かれ土が剥きだしになっているエリアに足を踏み入れた。

 刹那、目の前の空間が歪んだ。

 その歪みがおさまったとき、俺がいたのは葬儀場ではなかった。

 妙に湿っぽい、枯葉の混ざった土。生い茂る背の高い木々。どうやらここは、森か山の中らしい。ふと横に首を振ると、そこには──コンクリートの壁に挟まれた、大きな門があった。俺は、その光景に既視感を覚えた。

「嘘だろ?」

 何年前のことだったか、どうして辿りついたのだったか、もうほとんど覚えていない。だが、俺はこの景色をはっきりと思いだした。俺は、ここに来たことがある。夢の中で道に迷って、そしてここにやってきたのだ。

「夢だ。あれは夢だったはずなんだ」

「どうかされましたか?」

きょとんとするショウイチに、俺は途切れ途切れに「あの夢」の話をした。話が終わると、ショウイチは少し考えるそぶりをし、ぽつりと呟いた。

「ああ。『あれ』があなただったんですね。ずっと前、突然この付近にやってきて、僕に道を訊いた人がいました。覚えていますよ」

 門をくぐって敷地へ入ると、そこにはクリーム色の四角い建物があった。正面の大きいガラス張りの観音扉を押し開けると、そこは小さな部屋だった。正面と左側に小さな鉄製のドアがあり、右側には背の低い木製のカウンター、手前には大きな黒いソファがあった。まるで病院の受付のようだ。

「来客ですか?」

 正面のドアが開き、誰かがにょきりと顔をだした。黒いセーラー服をまとったその小さな少女に、俺は心あたりがあった。

「あんた、バス停の……!」

 俺は慌てて、もはや夢とも現ともつかぬ過去の記憶を引っ張りおこした。真っ黒なセーラー服で、妙に大人びた営業スマイルを見せていた、田舎のバス停で出会った少女。

「リンドウ、さん……」

 本人を目の前にして呼び捨てにすることもできない。途切れ途切れに名を絞りだすと、彼女はにっこりと微笑んで頷いた。きっと肯定の意思表示だろう。そして、一ミリも笑顔を乱さずに軽やかに告げた。

「お久しぶりですね。と言っても、私はあなたを覚えていません。何せ、毎年二、三人はどなたかにお会いして、契約手続きを行なっていますから。でも、ここに来られたということは、あなたも『契約』をしているはずですから、私とも会っているのでしょうね」



 その後、俺はふたりの導きでホワイトボードのある別室に通され、この場所についての「説明」を受けた。

 ふたりによると、俺が車で山に迷ったのも、妻子が一度火事で亡くなったのも、ど田舎のバス停で謎の紙切れにサインしたのも、現実の出来事だという。

 俺はこのリンドウに会い、契約書にサインし、ある契約を結んでいた。

 それは「死者を蘇らせるかわりに、自分の死後、余分に生きて労働奉仕する」というものだ。俺はすでに妻の寿命を六十二年、息子の寿命を九十年、娘の寿命を九十三年買っているので、合計二百四十五年もの間、ここで「労働」させられるという。そして、どうやらリンドウやショウイチもまた、同じように生前に「契約」をしてここへ来たらしい。その口ぶりから、ふたりとも死後、結構な時間をこの施設で過ごしているらしい。

「労働って、具体的には何をするんですか?」

 彼らが年上であることがわかったので、俺は敬語で尋ねた。ようやく、彼らが年不相応の話し方をする理由もわかった。彼らの精神年齢は、俺なんかよりもはるかに上だったのだ。

「たいしたことはありません。この建物を毎日掃除して、『契約』の手続きをして、契約者の情報を管理する。あとはたまに来る命令に従うくらいですね。普段は自由ですから、結構楽ですよ」

 ショウイチは柔らかく笑い、小さな幼い顔にえくぼをつくってみせた。

 俺は自分の手を見た。小さい。足も細い。視線も低い。

「俺も今、子供の姿なんですか」

「ああ、まだ確認されていませんでしたか」

 リンドウは立ちあがり、近くの壁にかかっていたカーテンを持ちあげた。そこにあったのは窓ではなく、大きな姿見だった。

「どうぞ」

 言われるがまま、俺は鏡の前に立った。そこにいたのは、これまでよく見ていた皺だらけの爺さんでもなく、やや太りぎみだった中年のおっさんでもなく、結婚前のとぼけた若者でもなく、八歳くらいの子供だった。過去に何度かアルバムで見た、子供の頃の俺だ。

「ここの職員は皆、子供の姿なんですよ」

 リンドウがカーテンを降ろして言った。

「理由はわかりません。大昔から、ずっとそうなんです。専門家によると、『成人だと自由に活動できるため奉仕を怠る恐れがあるから』というのが有力な説なんだそうです」

「専門家だって?」

 間髪入れずに問いかえすと、リンドウはええ、と頷いた。

「労働は短時間ですから。余った時間は好きなことをできるんです。『上』の命令と最低限の規律さえ守っていれば、何をしても構いません。だから、その時間を使って、我々の存在理由や歴史を研究している人もいるんですよ」

「『上』?」

 俺がくりかえすと、ふたりは顔を見合わせて笑った。

「これについては、説明の必要はありません。じきにわかりますよ」



 はっと目が覚めた。日光が俺の顔をあぶっている。ああ、昨夜うっかりカーテンを閉めるのを忘れていた。俺はゆっくりと身をおこし、ぐっと両腕を伸ばした。

 さて、今日は予定が入るのだろうか。



 制服に着替え、軽く髪を整える。朝の身支度はこれだけだ。

 最近は、もう何も食べなくなった。ここへ来てすぐの頃は食べていたが、人間とは怠慢なもので、必要のないものにはすぐに執着しなくなる。食べなくなると、老廃物もでなくなる。したがって排泄も入浴も必要なくなる。おかげで毎日、気楽なもんだ。

 今日は午後の掃除当番なので、午前はすることがない。こういうとき、俺は決まって図書室へ行く。図書室はこの施設で最も大きな部屋で、いたるところに本棚が設置され、その全てに面白い本がぎっしりと並んでいる。そして、毎月のように新しい本が増えていくのだ。

「おはようございます」

 図書室の入り口で聞きなれた声がした。ふと足を止めて声がした方を見ると、そこにはショウイチがいた。図書室のカウンター席に座っている。彼は図書委員をやっていて、週に何日かは決まってカウンターにいるのだ。図書委員は仕事ではなく有志のボランティアで、読書好きの物静かな人が多い。

「朝からトオルさんに会うなんて珍しいですね。今日はお休みですか?」

 トオルというのは、俺の名前だ。しかし本名ではない。ここの職員は本名を名乗ることを許されず、お互いにニックネームで呼びあっている。

 ここへ来て間もない頃、ショウイチは自分の生い立ちを少しだけ話してくれたことがある。彼も太平洋戦争で家族を失っており、家族を蘇らせた代償としてここへ来たという。ショウイチというのは、彼の長男の名前をもらったそうだ。その話を聞いて、俺も息子の名を名乗ることにした。勝手に名前を借りて申し訳ないと思いつつも、一から名前を考えるよりも楽だったし、何より、他人に呼ばれることに抵抗がない。今では本名のほうを忘れそうなくらいだ。

「おはようございます。そうなんですよ。掃除当番でもないし、事務仕事も終わったし、今のところは『命令』もないし、読書でもしようかと思いまして。ショウイチさんこそ、珍しいじゃないですか。普段は午後のシフトなのに」

「ああ、これは朝の図書委員が『外働き』に行くことになったので、その穴埋めなんです」

 俺は驚いた。図書委員をやるようなおとなしい人が、外働きへ行くことなど、めったにないからだ。

「朝の担当って、ミズキリさんですか? あんな内気な人が、なんでまた命令もなしに外に。よっぽど欲しいものでもあるんでしょうか」

「いえ、どうしても行きたい場所があるので、貯金をしたいのだそうです。彼の寿命は、残り五年しかありませんから」

「なるほど、いいなあ。俺はまだまだ外には出られないので、うらやましいです」

 「外」とは、文字通り施設の外のことだ。この場所で一定期間過ごし、会える肉親が死に絶えた職員は、申請さえすれば外で働くことを許される。身体は二十歳前後の姿になり、架空の経歴を書いた履歴書を用意される。つける仕事は低賃金のアルバイトのみだが、それでも外の空気を吸いたい者は喜んで行くらしい。あとは、好きなものを食べたり、旅行したりする機会に備えて貯金をしたい者もいるそうだ。一部の好奇心旺盛な者は、貯めた現金で外部の書物やデジタルの情報を集めて回っており、それらを善意で図書室に寄贈してくれることもある。

 ちなみに、この施設内にいる限り、現金は必要ない。筆記用具だろうと、壁掛け時計だろうと、食事だろうと、すべて必要な日の前日までに「申請」さえすれば、必ず望んだものが枕元に支給される。ちなみに、自分で何かを書きあげて「申請」すると、翌日にはそれが一冊の本になって返ってくる。その本は新書として図書館の目立つコーナーに置かれ、他の職員がそれを読みに来ることもある。職員の中には、この出版を楽しみに生きている者もいるらしい。

 それらがどのような経緯で用意されるのかはわからない。それを知る者はこの施設の中にも存在しない。ただ、昔から「そういうもの」だったのだ。

 ただし、食事や消耗品の種類はあらかじめ決められており、レパートリーも極めて少ない。それで、自由に欲しいものを手に入れるために「外働き」によって現金を得ようとする者が一定数いるのだ。もっとも、食事に関しては生存に必要ないため、よほどの変わり者以外はあまり欲しがらない。食べてしまうと、排泄の必要があって面倒なので、皆嫌がるのだ。

 俺たちの身体は気味の悪いつくりで、睡眠以外は何も必要としない。食事は不要だし、性欲も存在しない。そして、どんな怪我を負っても死なないようにできている。ただ、痛覚だけはきちんとあるので、日々の生活には気をつけなければならない。水に溺れても、大岩の下敷きになっても意識が飛ばず、苦しみ続ける羽目になるからだ。

 そういうわけで、ここの住人は毎日、職員としての「仕事」をし、空き時間には本を読んだり、あるいは書いたり、時には絵を描いてのんびりと過ごしている。欲望という生きるための本能を失った俺たちに争いの理由はない。施設の中は、常に平穏そのものだった。

「ところでトオルさん、その本は返却されるんですか?」

 俺はあっと声をあげて、脇に抱えていた本をカウンターに置いた。あやうく忘れるところだった。

「すみません、お願いします」

 ショウイチはその厚い布張りの本を手にとり、ちょっと驚いた様子でその題名を指でなでた。

「これは『上』についての研究論文ですね。こういうのも読まれるんですか」

「ええ。最近ちょっと興味がありまして」

 「上」とは、俺たちの支配者のことである。何者なのかはわからない。少なくとも人間ではないだろう。俺を含め、職員が「上」について知っているのは、声だけだ。この場所にこんな建物を造ったのも、俺たちを他者の寿命と引き換えにここへ連れてきたのも、消耗品や食事を供給してくれるのも、この「上」と呼ばれる存在だとされている。職員の中には、この「上」の正体について、真剣に研究を続けている者も多く、図書室に行くと、彼らによって書かれた興味深い研究論文を読むことができる。

 そんな「上」の声をどうして俺たちが知っているかというと、彼が声によって俺たちに命令を届けるからである。

 彼──まあ彼女かもしれないが、とにかく彼は、ある日突然、脳内に語りかけてくるのだ。それは絶対の命令で、俺たちはその指示に従わなくてはならない。

 たまに、「上」の支配を嫌がって施設を出ていく者もあるが、彼らはたいてい二度と戻ってこない。いったいどこでどうして生きているのか、知る者はいなかった。この施設を出れば職員から「浮浪児」となり、「上」に支配されることはなくなる。しかし、それと同時に「上」の庇護を受けることもできなくなるのだ。いくら自由でも、庇護のない状態で、こんな子供の身体で、まともに生活ができるとはとても思えない。少なくとも、俺はここを出るつもりはなかった。ここでの暮らしは悪くないし、自由で幸せな人生はもう充分に堪能していたからだ。

「い……っ!」

 いきなりキン、とこめかみに痛みが走った。俺は痛みに顔を歪め、目尻のあたりを押さえた。間違いない。これは……

「トオルさん、まさか緊急命令ですか!?」

「はい、多分……」

 そう、この痛みは緊急命令の合図だ。

 普段なら実行する日の前日までに「命令」があるのだが、ごく稀にそうではない場合がある。それが「緊急命令」だ。読んで字のごとく、何の前触れもなく突然命令がやってくるのだ。

 ショウイチも俺に緊急命令が来たことを悟ったのか、黙ってこちらを心配そうに見ている。俺はその場でしゃがみこみ、目を閉じて、頭の中に語りかけてくる低い声に集中した。低い声は、俺にある行動を命じると、頭痛とともにすうっと消えていった。

「すみません、俺、ちょっと」

 急いで立ちあがると、ショウイチはにこりと笑って、先ほどの本を掲げた。

「ええ、大丈夫です。本の返却処理は終わったので、元の位置に戻しておきますね。気をつけて」



 俺は掃除用具の倉庫に行き、大きな屋外用の箒を引っ張りだしてきた。幸い、今日は遠くへ行く必要はないようだ。

 戸口から外へ出る前に、ふと、いつものワープゾーンのほうを見た。ワープゾーンとは白い線で丸く囲まれたマンホールくらいの大きさの床で、使う必要があるときは白く光っているのだ。命令によっては、このワープゾーンを通じて見知らぬ場所へ行き、訳もわからぬまま命令に従って誰かに手紙を渡したり、誰かと話をすることもある。だが、今日はワープは必要ないようだ。

 どういうわけか、建物の外を掃除するよう命令がくだったので、俺は箒をかついで大きな門を少しだけ開け、外に出てその辺の落ち葉を集めはじめた。ここは大木だらけの山の中で、今は十一月だ。集めても集めても、木枯しが吹いて新たな葉をよこしてくる。

「こんな作業に意味あるのか?」

 俺はぽつりと呟いた。ここの職員は命令がない限り建物の外へは出ない。命令に従った外出にはワープを使うので、玄関を通ることもほとんどない。ましてや門の外なんて、危険すぎて出ようにも出られない。勝手に外出すると「浮浪児」と見なされて職員の資格を剥奪されてしまうので、皆建物の中に引きこもっているのだ。だから、門の外を掃除する必要など、全くないのである。

「あの……」

 二十分ほど掃除を続けていると、突然誰かのか細い声が聞こえた。コートを着た二十歳くらいの女性が、よろめきながらこっちへやってくる。

「ああ、人だ! よかったあ。私、車でここまで来たんだけど、道に迷っちゃって。誰か大人の人はいないかな?」

 相手は俺を子供だと勘違いしているらしく、やたらと馴れ馴れしく話しかけてきた。それから彼女は、俺のすぐ後ろにある施設のほうに目をやった。

「ねえ、これ学校? それとも病院かな」

 ──ああ、そういうことか。

 俺はひとり、納得した。この人には「見える」のだ。

 この施設は深い山奥にあるが、近くに県道がある関係で、ときどき誰かが迷いこんでくる。この場所と、それを示す看板は本来、一般人には見えないようにできているらしいが、たまにこうして「見える」人間がいる。そして、そういう人間はのちに「契約」をする可能性が高いのだ。

 この人も大切な人を一度失うのか。可哀想に。

 俺は彼女を哀れみつつ、無表情を装って尋ねた。

「行き先は?」

 彼女は困惑の表情で俺の顔を覗きこんだ。まあ、さっきの質問の答えではなく、こんな意味不明なことを言われれば、誰だってこんな顔になる。しかし、俺はそれ以外のことは言えない。この手の迷い人は、行き先だけを聞いてすぐに送りかえすのがルールなのだ。

 なんとか行き先だけを聞きだすと、俺は施設に戻った。中では、他の職員がすでに紙コップを持って待機していた。彼もまた、緊急命令に従ったのだろう。

「迷い人ですか?」

「ええ。行き先も聞きました。車です」

「承知しました。どうせ、いつもの場所で乗り捨てているのでしょう。すでに別の者が向かっています」

 俺はコップを受けとると、女性のもとに戻った。白い紙コップに入っているのは麦茶だ。季節にあわせて温度を変えているので、今の時期は湯気がたっている。俺はコップを差しだし、脳内で指示された通りの言葉を、一語一句間違えないようにくりかえした。

「この道に詳しい者が、案内するそうです。今、地図を探しているところなので、もうしばらくお待ちいただけますか」

「わあ、ありがとう」

 女性は麦茶をひとくち飲むと、そのままパタンと倒れてしまった。完全に意識が飛んでいることを確認すると、俺はポケットから白墨を取りだし、彼女の周りをぐるりと一本の線で囲んだ。ここは山の中腹なので、本来なら線など描ける土壌ではないのだが、「上」にもらった専用の白墨を使うと、綺麗に線が引けるのだ。

 彼女の周りを線で囲ってしまうと、彼女の身体はぱっと白く光り、そして一瞬にして消えてしまった。今頃、彼女の車も含めて目的地に到着している頃だろう。眠りから覚めたら、この施設のことは夢だと思うに違いない。

 ああ、そういえば。俺も、はじめてここへ来たのは車でだった。

 俺は思わず空を仰いで目を細めた。ちょうど今くらいの、肌寒い時期だった。あの頃は若くて、怖いもの知らずで、人生で一番自由だったような気がする。

「俺が自由に外に出られるようになるまで、あと何年だったかなあ」

 木枯らしが吹いて、新たな木葉を散らしていく。早く戻らなければ。あまり長く外にいると、施設を出たと見なされて浮浪児にされてしまう。俺はため息をついて、踵を返した。


(終)

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