第三話 実里の幸せ
話は前後するが、夕飯の支度をしている母の実里を、手伝っていた百合は、何十度目かの母のため息に、手伝う手をとめた。
母本人は気が付いていないのだろう。
百合はふいにこう言った。
「お母さま、今幸せ?」
ほんの一瞬の間を置いて、流れる様に答えて実里は微笑んだ。
「そやねえ。家族が全員健康で、希望の職に付いたり、学校の希望の進路にすすんだり。幸せやと思うわ」
百合はぎゅうと眉を寄せた。
「それは家族の幸せで、お母さまの幸せやないわ。私はお母さまの幸せについて聞いてるの。はぐらかさんといて」
百合は十七歳、欺瞞が許せないお年頃だ。
実里は自分の言葉の何がそんなに、思春期の娘を傷つけたのかと困惑した。
それはもはや家族という他者のためにだけ存在する、専業主婦の職業病だったのかもしれない。
実里にも自分の幸せだけを考えて、生きていた時代があった。
実里が京大で、工学博士号を取得していることを、知っている者は今は少ない。
まだ実里の母が生きていた頃、実里は子供を母に預けて、研究室に籠りっぱなしで、家には寝に帰る様な有様だった。
研究室に泊まることもしばしばで、お世辞にも家庭的とは言えなかった。
自分は一生涯研究の道で生きていくのだと信じていた。
だが彼女の所属する研究室では、今でいうパワハラ、セクハラ、マタハラが蔓延していた。
誰もが振り返る程の美貌、加えて子持ちの人妻である実里は、格好のターゲットだった。
口にするのもおぞましいほど、卑猥な言葉を浴びせかけられ、妊娠中の腹をあげつらわれた事すらあった。
育ちのいい彼女は、それまで、他人の悪意に晒されたことがなかった。
まだうぶだった実里は、なすすべもなくじっと耐えていた。
なんとか博士号を取得した頃には、精も魂も尽き果て、研究職の道をきっぱりと諦めた。
実里が独身だったなら、あるいは男性だったなら、今頃研究職についていたことだろう。
そして専業主婦になった実里は、精力的に家事・育児・親の介護に打ち込んだ。
生真面目な実里は、研究にかけたのと同じ熱量で、家族に尽くしぬいた。
学生時代、省みる事がなかった家族に懺悔する様に。、
実里は気づいてしまった。
作家の林智継が、実里にとって喉に突き刺さった、魚の小骨なのは、実里がついにかなえることが出来なかった夢をかなえて、それでいながら、「自分は大学教員になりたいと思った事がない」と、嘯くからだ。
実里が夢見てついぞ得られなかったものを、望まずしてたやすく手に入れて、それをいらなくなった玩具の様に、いとも簡単に捨てて見せた。
その事への焼けつくような憧憬と嫉妬、それが林智継へ向けられた感情の正体だった。
そして今度は作家という肩書すらも、いらなくなった玩具の様に捨て去ろうとしていた。
読者の前から、実里の前から消えるなんて、なんという事だろう!
そこで実里はふと思った。
自分は作家になりたいのだろうかと。
林はお金のために大学教員になり作家になったと、常々公言している。
一方、実里はお金のために働いた事がなかった。
裕福な家庭に生まれ、夫も高額所得者で、実里自身も株をお金のためではなく、ゲーム感覚でしている。
用があるのは、お金ではなく、株の遊戯性そのものだ。
その副産物であるお金には、興味が薄い実里には、お金のために嫌な事をするという、発想そのものがない。
実里にとってお金は、必要なときに必要なだけ湧いて出る、お手軽なものにすぎない。
おそらく、林智継と実里はリアルで会えば、決定的に噛み合わないだろう。
それが、本というワンクッションおけば、間接的にではあるが、思考が伝わるのだから、ある意味不思議な事だった。
そんな事を考えていたら、夕食にする予定の、ビーフシチューを焦がしてしまった。
だが、実里の心は踊っていた。
作家になりたいと自覚して、前から気になっていた「竜馬」について調べたくなったからだ。