プロローグ
本田家は、京都では高級住宅地とされる、南禅寺界隈のいっかく、八百八十八坪の敷地に16LDKの邸宅と離れを構えている。
本田家の先祖は長州藩士で、幕末は幕府に隠れて英国に留学し、帰国後は時流に乗って、明治維新の元勲に名を連ねた。
抜群の英語力と人脈を駆使し、主に外交畑で活躍した知る人ぞ知る大物だった、名を主税と書いてちからと読む。
主税が道楽で、当時はやりのジャパネスク様式の屋敷を建てたものが、今も残る本田邸だ。
本田家の主婦・実里の朝は早い。
十一月も半ばを過ぎたある木曜日、辺りはまだ夜闇に包まれていた。
四時きっかりに目覚めた実里は、コーラをコップに一杯ぐいっと煽ると、寝室に隣接している浴室の、猫足のバスタブに湯を張り、洗面代わりに烏の行水の様な短い入浴で、しゃきりと目を覚ます。
次いで歯を磨き、髪をドライヤーで乾かし終えるまで正味三十分。
洗面所の鏡には、五十五歳とは思えない年齢不詳の美女が一人映っていた。
実里はふと身支度の手を止め、少女の様にあどけなく微笑んだ。
それは見ている者がいたならば、はっと目を見開いて、魅せられる程の力を持っていた。
実里は本田家の先代当主の一人娘で、洛北の明星神社の次男・葛城徳仁を婿養子に迎え、二男四女の子をもうけ、今は専業主婦をしている。
手慰みにしている株のデイトレードで、月曜日から木曜日までの四日間で百万円前後を稼ぐ。そこから証券会社の手数料や、約二十パーセントの税金が差し引かれ、彼女の手元に残るのは、月に三百二十万円程度だ。
夫の徳仁は、日本に進出する海外企業や、海外に進出する日本企業をサポートする、エージェント業務を生業としており、多数の大企業の役員に名を連ねている。
妻が遊びでしている株のあがりには、いっさい口を出さなかった。
そのため、実里は自分の稼ぎを全額小遣いにすることが出来た。
といっても、物欲の薄い実里は、家族に高額な贈り物をする他、慈善団体に寄付をしたりと、慎ましい事この上ない。
だが、そんな実里にも道楽があった。
それは、読書だ。
ちょっとした図書館規模の蔵書が、うず高い書棚にずらりと並ぶ様は、いっそ壮観だった。
中でも、三百冊を超える著書を誇る、作家の林智継の本は、彼女の書斎の特等席に陳列されていた。
林は京大の元・准教授で、今は妻子と共に英国に移り住んでいた。鉄道模型の日本における第一人者としても名をはせている。
実里の書斎の書棚のそれを見て、家族や友人知人は「ファン」なのだなと推量するのだが、実里にそう問うと、彼女は困った様に苦笑を浮かべて、首をかしげながら「ううん……」とつぶやくのが常だった。
「ファン」と呼ばれるには好意に欠け、「アンチ」と呼ばれるには、後ろ向きな熱情に欠ける。
強いて言うなら、実里にとって林智継は、喉に突き刺さった魚の小骨の様な存在なのだ。
そこに存在するだけで気になり、取り除こうとあがいても、取り除くことができない異物、それが林智継なのだ。
いつしか実里は、好悪の判断をやめた。
ルーチン作業の様に、林智継の小説やエッセイを出版される度に読み、本棚に並べていった。
それだけの話なのだ。
そのはずだった。
実里は身支度を終えると、家族のために朝食とお弁当作りにいそしむ。
そして家族が起きてくる前に、洗濯をすませ、トイレ・バスルームを掃除し終える。
本田家では朝食は午前六時半からと決まっており、独立して独り暮らしの長女・美都子以外の、家族全員が集まる。
朝食はパン食派の本田家では、それに合わせてイングリッシュ・ブレックファースト風のメニューが並ぶ。
家族の好みを知りつくした母は、卵やベーコンの調理法から、サラダに添えるドレッシングや、飲み物の嗜好に至るまで、完璧な朝食を作り上げる。
朝食を食べ終え、家族がおのおのコーヒーや紅茶のカップを手に、おしゃべりを楽しむ。毎朝の変わらぬ幸せな光景だった。
家族を職場や学校へそれぞれ送り出すと、実里は手早く食器や調理器具を洗い、食器乾燥機に放り込む。
次いで書斎のノートパソコンの前に座る。
株式市場の開く午前九時を目前に、作家の林智継の毎日更新されるブログをチェックする。
それを一読して実里は眉を寄せた。無意識に唇をかみしめている。
それはブログの終焉を告げる、淡白な文字列だった。
実里の心に「やはり」という思いと、「どうせまた気が向いたら再開するに違いない」という思いが去来する。
林は過去に引退を宣言して、読者の前から消えていた期間があった。
だが、しれっと小説の新作シリーズを発表し、なし崩し的に復活しブログも再開した。
だからだろうか、林智継のブログ終了の報についての、SNSでのファンの反応は冷静なものだった。
実里はむしろ、きっぱり引退を口にした方が、復活の可能性が高いと踏んでいる。
林は天邪鬼だから、人の思惑の上を行きたがる傾向なのだ。
なにはともあれ、実里の毎日のルーチンのひとつが失われた。
その僅かな不快感が、実里を思わぬ方向に導くのだが、まだそれを彼女本人も知らなかった。