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ナップルジャンキーズ  作者: 黒十二色
第一章 ナップルジャンキー
3/11

3 「秋葉原裏路地散歩」

 少食のチャールトンが学生食堂で頼んだのは、カレーの大盛りだった。

 半分以上が残っているが、チャールトンは「飽きた」と言って、しかしそれでも苦痛そうにスプーンを口に運び続けている。

 フゥと一つ息を深く吐いてから、チャールトンは言った。

「そういえばボブズさん、うち、近々パソコンを買おうと思ってるんすよ」

「パソコン? 家にあるんじゃないの?」

「まあ、そうなんですけどね、うちは、来年論文を書くわけじゃないですか。うちの家にあるのは、デスクトップで重たいし、画面までは持ち出せない。だから、外に持ち出せる小型で頑丈で性能の良いものが欲しいんすよ」

 チャールトンは今日も普段と同じ格好だった。

「つまり、大事な仕事に使うわけか」

「仕事っていうか、勉強とか論文とかですけどね」

「何をいう、学生の本分は勉強だろう」

「ボブズさん、それはどうなのかなって、うちは思いますね」

「ほう、ではチャールトンくんの考えを聞こうじゃないか」

「そんなに改まってするような話じゃないんですけどね、うちが思うに、学生は遊ぶのが仕事だと思うんすよ。学生のうちに遊ばないと、大人になってから、これはもう大変なことになる」

「子供のうちに子供らしいことをしないと、コドモオトナっていう生き物になってしまうみたいなことか」

「まあ、そんなとこっすね」

「何かあったの?」

「うちの父親がね、最近、ずっと家にいて昔の動画ばかりを見ているんすよ。やたら古い刑事ドラマばかり見ていて、チャンネル権を独占している。これはきっと、青春時代に青春できなかったことが原因なんじゃないかと思うんすよね。うちは父親の学生時代なんか知らないですけど、きっと独善的で友達がいなかったから遊びのない学生生活を送りやがったに違いないんです。いつも一人で勝手に大事なことを決めて、母親を苦しめてきたのに、勝手に退職した途端に家にずっといるようになって、また母親を苦しめてる。親父元気で留守がいいってよく言いますけど、あれは本当なんだなって思いますよ」

 チャールトンの家庭にも色々問題があるらしい。

「車のハンドルにも、遊びが必要だからな」

「うちは免許持ってないから、それはわかんないですけど」

「働きアリの何割かは、働かないで遊び呆けていることで組織に貢献しているらしいぞ」

「うちもその道を目指そうと思っています」

「そうか」

 チャールトンは完全にスプーンを置いていた。まだ半分以上も白米が残っているにもかかわらず食事を終了したらしい。

「それでですね、ボブズさん。うちは、どういうパソコンを買ったらいいと思います?」

 チャールトンの相談に、私はとりあえず釘を刺す。

「論文とか勉強に使うんだったら、ここ日本ではナップルブックだけはやめておけ。論外だ」

「ナップルはダメか。そういえば、ボブズさん最近ナップルウォッチしてないですね」

「ああ、役に立たないからな」

「まあ、ただで配っていたやつですしね」

 高価だろうが無料だろうがナップルウォッチはいらない。それが私の結論だ。しかし、それはそれぞれのユーザーが決めることである。私にとってはひどく役に立たないどころか、アリッサとの仲に亀裂を生じさせるようなしょうもない物体ではあるけれど、人によってはナップル最高ウヒョーと叫ばせるだけの魅力があるかもしれない。となれば、これ以上こき下ろすことはせずに、

「そうだな」

 と言って、話を右から左に流すことにした。

 チャールトンも、それを察してか、話を本筋に引き戻してくれた。

「それで、うちの新たなパソコンなんですけど、ボブズさん、どんなのがオススメですかね」

 私は、これまでの話とチャールトンの性質を総合して、チャールトンの要望に合致した理想のパソコン像を脳裏に描き出す。

 まず、チャールトンの携帯端末はナップルではない。そもそも日本の大学で勉強用に使うなら、OSはウィンナーズ一択。用途は、文書作成、インターネット、同時に複数の仕事をこなすことを想定。チャールトンは動画を見ながら作業をする習性がある。それなりの画面サイズが必要か。いつもぼろぼろのカバンに雑然と書類や書籍を詰め込んでいるため、カバン内は圧力が非常に高く、ハイレベルな丈夫さが必要。そして、チャールトンは常に金欠である。同じ服をいつも着ているところしか見ないほどに貧乏感がある。チャールトンの携帯端末はナップルではない。やや古めの廉価版携帯だ。

 難しいところだった。お金があるなら、画面は十二から十三インチくらいで、パナソヌックのゲッツノートだとかタフネスブックだとかを猛烈に勧めるところなのだが、そうもいかない。あれは高い。貧乏苦学生には手が出ない。

 ただ、経験上、そこらへんの安いパソコンっていうのは、新品であっても、たいてい健康寿命が短い。技術の進歩についていけず、数年後には通常動作にさえも支障をきたし、文字入力という軽作業にもストレスを感じさせるようになる。数年で買い換えるのを前提で買う分には良いかもしれないが、パソコンってのはただの道具ではない。長く付き合うパートナーみたいなもんだろう。チャールトンにとって、そういう相棒を求める気持ちってやつは、私とは比べものにならないくらいに強い。

 というわけで、より良い性能で、チャールトンの性格にも合っているものといえば、ズバリ五、六年前のハイクラスな中古ビジネスノートではないのか。

「実際に、秋葉原にでも行ってみるか?」

「今からっすか」

「仕事が終わったらな」

 私は研究室に戻り、学生の出席チェックを終わらせるべく、十七インチの四角い外付けモニターと対峙したのだった。



 平日の夕方は、秋葉原の裏路地はあまり賑わっていない。

 それは、ごみのような人ごみを嫌う私とチャールトンにとっては喜ばしいことだった。

 地下鉄銀座線の末広町駅で降り、狭く薄暗い通路の先の階段を上ると外に出る。秋葉原の街を貫く広い街道から少し裏側に入ると、中古パソコン関連の店が並ぶ。「秋葉原のルールは質問禁止だ」とか何とか書いてある紙が貼ってあったりして、いろんな肌の色をした人がいて、ケバブ屋が多かったりして、様々なコスプレをした女の子たちが客引きをしていたりして、ちょっとした違法地域の雰囲気が漂っている。

「ボブズさん、こういうところのパソコンって、大丈夫なんすか?」

 不安そうだった。

「さあな、大丈夫なものもあれば、大丈夫じゃないものもあるけど、この通りにある店はだいたい大丈夫だ。パソコンそのものっていうよりかは、店を見極めるのが第一段階だ」

 私の言葉に、チャールトンはある程度安心したようだが、完全には警戒を解かなかった。

 私は、秋葉原の中古パソコン店に、特に馴染みの深い店があるわけではない。この街で人間関係を築いているわけでは全くないので、店主や店員と気さくに話すこともない。

 インターネットで得た知識と、ブラブラと色んな店に出たり入ったりすることで至極浅い秋葉原情報を得ているのみである。

 私たちは、激安をうたうパソコンショップに足を踏み入れた。

 確かに、そこは本当にパソコンかというくらいに安い。新品ではすでに手に入らない型落ち品の中でも、その上さらに中古の商品が所狭しと並べられている。高いものでも五万円だが、チャールトンのニーズに合った商品に至っては一万円代のものだってある。バッテリーが消耗されていて外部電源をつないでいないと使えないものとか、画面に微細な傷が走っているものなど、ワケあり品も売られていたが、まだまだ現役で使用できるレベルのものも一万円代で売られている。これが俗に言うアキバ価格というやつだ。

 家電量販店で同レベルの性能を持った新製品を求めたら、十五万は下らないだろう。それが、十分の一以下の値段で売られているのだ。

 どうして私が秋葉原の裏路地なんぞを他人に勧めるかといえば、私自身もパソコンの購入を検討しているからだ。ナップルの機体は今の日本では仕事や勉強には使いにくい。やはり使うべきは、ウィンナーズである。

 どうも、この店には今、ウィンナーズのものばかりが置かれているようだ。ナップルのものも無くはないが、その全てがガラスケース内にあり、全てが五万円以上で売られていた。たとえ中古であっても、高級な品物はガラスケースの中に展示されており、すぐには取り出せないようになっているのだ。

 ざっと見たところでは、ナップルの技術の粋を集めたノートパソコン、ナップルブックプロに至っては、古めのものでも七万六千円以上。私の一ヶ月の給料を考えれば、ギリギリ買えるかどうかってくらいだ。毎年の税金や学費も払わなきゃいけない私にとって、いくらパソコンとしては安いからといっても、こんな値段は出せない。携帯も変えたばかりだしな。

 さて、その店には地下もあり、いかにも怪しげな地下に潜ると、パーツごとに売られていたり、ワケあり品のノートパソコンたちが雑にプラスチックの箱の中に突っ込まれている。土埃に汚れたもの、キーボードが失われているもの、画面が割れているもの、完全分解されて見る影もないもの……。症状は様々だが、中古ですら売り物にならない物体たちが激安で売られているのだ。

 この店は日本国内で使用されたビジネス用のものが多く流れてきているようで、家庭用と比べて画面の質は良くないがセキュリティと処理速度に特化した中古パソコンが多かった。

「ボブズさん、ノートパソコンって、三千円くらいで買えるもんなんすね」

 チャールトンは、箱の中で眠る五十台以上の使い物にならない物体たちを眺めながら、そんなことを口走った。非常に危険な思想である。

「待つんだチャールトン。いいか、こいつらはな、ジャンク品といって、初心者お断りの品だ。ある程度の知識がなければ手出しをしてはいかん」

「このままじゃ使えないってことですかね」

「ああそうだ。こいつらにハードディスクとメモリを挿せばそれだけでパソコンとして動くわけではないんだ。システムを再インストールしてあげたり、適切なドライバを探し出してあげたりしなくちゃいけない。それに、安過ぎるやつは、低スペックなものが多いぞ」

「ちょっと何言ってるか分からない」

「このカタカナ語たちが分からないようでは、こいつらを購入する資格はないってことさ」

 チャールトンは納得したようだった。

「ボブズさんは、上級者なんすか」

 私は大いに首を振った。

「いいや、全然だ。私など、初級者の域だし、昇級する気はないな」

 初級者っていうと、どのくらいっすかね。

「そうだな、まあ、デスクトップ……まあつまり画面と分離されている箱型のパソコンを自作したことがあるって程度かな」

 基準は人それぞれあると思うが、ノートパソコンの蓋を開けまくってパーツ交換を頻繁にこなすようになれば、やっと中級者に片足を突っ込んだくらいなんじゃないか。上級者っていうと、もう開発者レベルの神様みたいなもんだろ。

 ふと、チャールトンの手が箱の中に伸びた。

「あれ、ボブズさん、見てください。これは新しそうなのに箱の中に入ってますよ。やたら薄いパソコンですけど、これは一体……。掘り出し物ってやつですかね」

 それは銀色に輝くアルミボディで、現在最も見たくないマークがついていた。

「ふむ、ナップルブックエアーか」

 ナップルブックの中でも最も軽量で持ち運びしやすい種類だ。フラッシュストレージというハードディスクの突然変異種みたいなものを積み、二万二千円の値札が貼られている。もう一つシールが貼られていて、赤字で『通電しない』と記されていた。

「動かないジャンク品に二万円以上の値がついてるな。さすがナップルさんだ。ゴミでも高い」

「動かないんすか、これ」

「『通電しない』って書いてあるだろう。そういうやつは、普通の人間の手では動かない。理系……というか、工学系の人々のために準備された試練だ。はんだごてとか当てて本格的な修理をすることになる。どんなに軽量でも、我ら文系には荷が重いのだ」

「なるほど」

「だいたいにして、そいつはナップルブックだから、初めから選択肢にないやつだぞ」

「ほう、これが噂のナップルブック」

「そいつを選んでも何も良いことない」

 仕事や勉強のための持ち運び可能なモバイルパソコンというジャンルにおいて、絶対にナップルを選ばない最も大きな理由、それは、私がかつて仕事で使おうとしたときに失敗したことがあったからだ。携帯端末はともかくとして、パソコンの方ではナップル製品のシェアは今なお微々たるものだ。地球上のパソコンの九割は、ウィンナーズというOSが入ったパソコンに占められている。

 大抵、現在の日本において、仕事で使われるのは、ウィンナーズである以上、ナップルのパソコンを仕事で使おうとすると、大変なことが起こる。ナップルパソコンで作成した文章ファイルをウィンナーズの方で開こうとしても開けなかったり、ひどい文字化けをすることも珍しくなかった。これは、実際に私が体験して激怒し、それ以上に教授に激怒されたので、この恨みは絶対に忘れない。

 まあ実を言うと、近年はナップルが歩み寄らざるを得ないという形になって互換性が増したのだが、それでも細かなところで差がある。私の仕事は、論文を書くことであり、編集者は自分自身なのだ。細かな差だからといって放置していれば、最悪の場合ページ数の違いや見え方の違いを引き起こすので、これは全く許容できない。周囲の環境がウィンナーズだらけだった場合においては、提出する大事な文書は、ウィンナーズのパソコンで開くことを想定して作るに限るのだ。ナップルも書類作成段階では悪くはない。むしろ快適。それだけに、シェアの低さと互換性の不十分さが残念でならない。

 私とチャールトンはジャンクコーナーを去り、再び地上の整備済みノートパソコン売り場を見て回った。

「チャールトン、これなんか、いいんじゃないか?」

 私は、彼にB5サイズのビジネス用モバイルパソコンを勧めた。古い型のパナソヌックのゲッツノートだ。七年くらい前には三十万くらいで売られていたものが、今や二万円代前半。世の中の進化のスピードを実感させられる。

 アルミのくすんだ輝き、特徴的な丸いタッチパッド、何と言っても丈夫なボディ。世界で戦える強力な武器を持った高級ノートパソコンの金字塔だったものだ。

「良さそうっすね」

 税込で二万一千五百円、チャールトンの週一回の家庭教師アルバイトでも手が届くし、在庫も多いから品切れにもならないだろう。しかし、今日はチャールトンも手持ちがないので、別の日に購入することにした。何でも、二十歳をとうに過ぎた今でも、母親に銀行のカードを握られているとのことだった。

 その後、何軒か中古パソコンショップを見て回った。五軒くらい回った。ナップル製品が多いところや、家庭用のパソコンを多く扱っているところ、大手家電量販店の系列で大規模に色々な種類のパソコンをコレクションしているところ、それぞれ特徴があって魅力的だった。私は、いつものように、どのパソコンを選ぼうかと迷いに迷った末に決められず、今日も仕事用パソコンの購入は保留した。新しいスマホや古いナップル製品に金が使われてしまったから金欠状態に陥っていて、パソコン購入はしばらく後になるだろう。

 陽が落ちて、夕方から夜になるまで秋葉原をぶらぶらした。道を歩いている間、メイド喫茶の店員や、高校制服姿に身をまとった何かの店員の女性たちに何度も声を掛けられた。だがチャールトンはメイドにも女性にも興味がない様子で、心の底から迷惑そうな顔をしていた。

 帰り際、私は大通りに面した雑貨屋に寄った。せっかく秋葉原にやって来て、何も買わずに帰るのもシャクだと思ったのだ。

「ボ、ボブズさん、それ、何に使うんすか?」

「手にハメる以外に使い道ある?」

 私は平然と答えてやった。

「いや……」

 チャールトンは、私の買い物を見てちょっとばかりドン引きしていたな。

 私が街道沿いの雑貨屋で買ったのは、手錠だ。もちろんおもちゃだが、手錠の役割もちゃんと果たせるものだ。

 こいつを、今夜使おうと思う。



「アリッサ、助けてくれ」

 私は哀願した。

 暗闇で何も見えないけれど、背中に感じるわずかな温度から、アリッサがそばにいることはわかる。

「アリッサ。……アリッサ?」

 彼女は無視を決め込んでいる。

 すうすうと、寝息を立てているようであるが、それは演技である。幼い頃からの長い付き合いだ、バレバレであった。

「アリッサ、頼む、手錠を外してくれ」

 私が自分から手錠をかけて拘束してくれと頼んだわけだが、ちょっとばかり事情が変わった。

「アリッサ、アリッサぁ」

 私は彼女の名を呼びながら、ジタバタした。ベッドをがすがすと揺らしまくってやった。

 そうしたら、彼女はベッドから降りたようで、背中から熱が遠ざかった。

 電気がついた。

 アリッサは、ゴミ虫を見るような目で私を見た。

 冷たい二つの目が、仰向けで横たわり、頭上で手をクロスさせる形でもじもじと体をよじり続けている私を見下ろしていた。手錠は、ベッド端の金具に固定されているため、どこかに移動しようとすればベッドごと動くしかない。私がパソコンを買いに行かないための仕掛けだった。

 だけどね、行きたいんだ、トイレに。

 そりゃあ言ったよ、夜が明けるまでは絶対に外すんじゃないぞアリッサとかってカッコつけて言ったよ。

 だけどね、もう無理。我慢の限界だ。

「夜中に騒いでどうしたの、ボブズ」

「トイレだ。トイレに行かせてほしい」

 アリッサは、しばらく無言で私を見下ろした後、自分だけがトイレに行き、戻ってきた。

「アリッサ?」

 彼女は寝間着をめくり上げ自分の腹を掻きながら、こう言うのだ。

「わたしは、ソファで眠ることにするわ。ベッドはうるさいし、もらされても困るしね」

「ちょっ、待ってくれ、少しだけ、ちょっとだけトイレに行くだけじゃないか! 囚人だって持ってる権利だぞ!」

「だーめ。そう言って、外にパソコンを取りに行くつもりでしょう」

 実はとんでもないサディストを恋人にしているのかもしれない。苦しむ私を見て、とても生き生きとした表情をしている。実に楽しそうだ。

「ちきしょう、覚えとけよ、アリッサ!」

 アリッサはビーズソファを二つ組み合わせてインスタントベッドを作り、電気を消し、本当に私を朝まで放置したのだった。

 暗闇が続き、私がのたうつ音ばかりが響き、手首がどんどん痛くなる。尿意には波があるようで、出そうになる時と引っ込んで行くときが繰り返しで訪れていく。

 やがて、脳みそが尿を出すのを諦めたように強烈な尿意からは解放された。とはいえ、我慢のしすぎで膀胱が破裂するのではないかという恐怖からは逃れられず、ストレス状態に変わりはない。

 眠ったら負けだと思った私は、とにかく目を閉じないように努力した。

 どれほどの時が経ったのだろう。カーテンがぼんやりと青白く光り出し、異様に長く感じた一夜が終わった。我慢し切った。私は勝利したのだ。人間としての尊厳を守り抜いた。なんて誇らしい朝だ。

 見上げた手首のあざは、勝利の証。

 ナップルウォッチなんかより、よっぽど美しい勲章である。

 世間から見れば、何の変哲も無い朝かもしれない。だけど、私にとっては、永遠に記念すべき朝になった。

 手錠から解放された私は、一目散にトイレに走った。しかし、なかなか小便が出ない。我慢しすぎると、どうも思い通りにコントロールできなくなるらしい。やっと出たと思ったら、激痛を伴っていた。

 私は洋式の便座に向かって放尿しながら、天井に向けて言葉にならない声で叫んだ。

 さいわい、一軒家だったから近所迷惑にならなくてよかった。

 特別に家を丸ごと貸してくれている親戚には感謝しなくてはならないな。せめて、返すときに綺麗な家を返そうと心に誓おう。

 ところで、今日はアリッサのおかげで放置されることの苦しみを学ばせていただいた。人間は一人では行きていけないんだなと痛感することができた。そう考えたとき、ふと思う。仮に、パソコンが人間と同じように意思を持っているとしたら、どうだろう。きっと放置されるのは苦痛そのものなのではないか。

「だったら、間違って買われたんだとしても、使ってやらないとな」

 私は、寝室に置かれたパソコンたちの前に立ち、黄ばんだ半球から伸びるモニターアームを伸ばしたり引っ込めたりしてみた。その後で、黄ばんだナップルブックのツルツルしたボディを撫でる。今のところ、こうして触って楽しむくらいしか使い道がない。どちらも中途半端に骨董品なので活用法を見出すのは困難に思えた。

「ボブズ、何してるの? ご飯の時間よ」

「わかった。今いく」

 アリッサが呼びに来たので、パソコンたちから離れた。

 さて、アリッサはご飯だと言ったが、テーブルの上には何もなかった。キッチンの台には、パンとハムと卵と野菜。食材が出ているのみであった。

「ボブズ、何をしているの? 早く作ってよ。家事は全部あなたがやる約束でしょう?」

「何だって?」

「コーヒーもいれてね~」

 私は片っ端から食器を叩き割っていきたい衝動に駆られたが、持ち前の忍耐力で何とか踏みとどまる。どうせ散らかしたら、片付けるのは私なのだから。

 アリッサは、ビーズソファに座ってダメ人間丸出しの姿勢でくつろぎながら、ナップルフォンの美しい画面とにらめっこしていた。

 溜息を吐いた私は、朝のニュースを見るためにテレビをつけてから、調理に取り掛かる。

 私は夜を徹しての戦いの果てに聖なる朝を勝ち取った勇者だぞ。それなのに、この仕打ちとは、本当に世の中は世知辛い。



 食後、アリッサは連休で友達と集まって遊ぶ日だと言って、いつもよりしっかりと化粧をキメて出掛けて行った。意外に思われるかもしれないが、アリッサにも友達がいるのだ。私はといえば、大学もバイトも休みな上に、特に用事もない。留守番という名の自宅警備をこなすしかない日だった。

 できれば、今日は人間の尊厳を守った特別な日なのだから、何か特別なことをしたいところなのだ。

 しかし、近頃はどういうわけか資金不足に陥っていて、遊ぶ金など無いに等しい。

 アリッサはアルバイトをしておらず、家で携帯いじってるかゲームしているかのどっちかで、美大生のくせにお絵描きすらもサボっていやがる。どっか上野の路上あたりで、チャチャッと似顔絵でも描いて売ってくれば、ちょっとは稼げるんじゃないかと思うんだが、多分「売り物にするための絵なんて描きたく無い」などと言って本気でキレるから口に出したことは無い。

 私のアルバイトは割と専門的なので、ゆうに時給千円は超えているけれど、それでも二人分の生活費を稼ぎながら、訳も分からず増えていく機械たちの費用も負担するとなると、あっという間に破産してしまうだろう。年齢が年齢なので仕送りという名のサポートも、とうの昔に終わっている。

 ここは節約とモッタイナイ精神で急場を切り抜けるしかない。

 私は、黄ばんだナップルブックの有効活用を目指すことにした。

 もしかしたら、私が知らない間にナップル製品も進化しているのかもしれないからな。古いマシンでも何とかなるかもしれない。

 一体型デスクトップの電源を入れる。次にナップルブックの電源を入れる。

「ブァーン」

「ヴォーン」

 開戦を告げる銅鑼を打ったような音が二度響き渡った。

 私は、数時間をかけ、総力を挙げて二つの置物の性能を調べてみたのだが、はっきり言って、どちらも使いようがない。

 十五年前と十年前の機体は、どう頑張っても現役にするのは無茶だと思う。

 インターネットをするのにも不自由する物体が粗大ゴミでなくて何なのか。

 現在、ナップルブックは六年か七年くらい前のものなら、サポートされている。デスクトップなら、もう少しサポートを長く受けられるようなのだが、十五年も前だと流石に遥か昔にサポート切れになっている。サポート期間はナップル側の都合で変更されることも十分に考えられるけれど、もう誰も使っていないような機体のサポートを再開することは無いだろう。

 要するに、とりあえずこの半球型デスクトップについて言えば、現役復帰は不可能ってことだ。あらゆる性能が今ではオモチャレベルになってしまっているから、何をするにも厳しい。全て分解して中身をごっそり入れ替えるしか使いようが無い。

 では、ナップルブックというノートパソコンはどうだろう。かわいらしい白いポリカーボネート素材のナップルブックはデザイン的には割と長いこと人気を誇っていたから、七年前くらいまで発売されていて、見た目だけから考えるならば、最新の中身にアップグレードできる可能性があった。

 ところが、製造年を調べたところ二〇〇七年、お手上げだ。綺麗に両手が天に伸びるくらいにお手上げだ。十年前の品物を現役のナップル製品として蘇らせるのは絶対に不可能。

 ここから何か手を尽くせるとしたなら、サポート切れのナップルOSから、サポート切れのナップルOSにアップグレードするくらいしか手がない。だが限界までアップグレードしても最新にならず、しかも、そうするにも何千円か支払わねばならないという。ひどい話だ。サポートが切れて久しいパソコンなんて、安心して使えないじゃないか。本当にまともな使い道がない。

 もしかして、この状況は売り手にいっぱい食わされたんじゃないだろうか。残金の減り方から考えるに、この機体に二万円くらい出したと思われる。同じ見た目をしたもう少し新しいものだったら最新のOSにアップグレードできただろうから、勘違いして買ってしまったのだろうけど、ここにあるのは古すぎて文句なしのサポート切れジャンクである。七千円未満の価値しかない。その上、堅牢なナップルだから中身を開けて改造するのも難しい。再起不能レベルに壊してしまう可能性大だ。

 けれども、ナップルブックに関しては、唯一と言ってもいい有効活用法を、とりあえず一つだけ思いつく。インターネット上で無料で配っているOSでも入れれば、それなりに動くとは思うのだ。今は、無料のウナックス系のOSでも、そこそこ仕事をできるレベルの環境が手に入る時代だ。だいたい、世の中のスマートフォンの大半が、この無料のウナックスをベースにしたシステムを採用している時代なのだ。

 けれども、ナップルブックにそれを入れてしまうならば、ナップル製品である必要がない。もっと安い値で、もっと良い環境を手に入れることができるし、何より、ナップルの魅力はOSと機体が一緒になってこそ生まれる圧倒的な使いやすさなのだ。ナップルのマシンとOSは一緒になっていないといけないと私は思う。人間の心と体がバラバラになってはいけないのと同じだ。

 はてさて、ゴミを摑まされた恥ずかしいやつは誰なのだろうか。アリッサは、あなたでしょボブズと言い張って聞かないだろうが、パソコンを買うのに入念な下調べをする私が、ゴミに二万円も出すような愚かな買い物をするとは到底思えないのだが。




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