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ナップルジャンキーズ  作者: 黒十二色
第一章 ナップルジャンキー
2/11

2 「増えるナップルデバイス」

 スマートフォンと呼ばれる種類の携帯端末は、すっかり我々の生活に浸透したとあらためて思う。そして、今なお猛スピードで進歩していることに素直に驚く。以前に使っていた端末よりも、はるかに動かしやすく、音声入力の精度も上がった。ナップル製品の持つ画像の綺麗さや端末の高いデザイン性も他社が模倣し、またソフト面の充実と手厚いサービスも各社が行うようになり、ナップルの優位性は崩れつつある。そりゃあ焦って時計を配り出すわけだ。ナップルで出来ることは、他の端末にも出来る。あえてナップルを選ぶ必要はカッコつけ以外にないように思えた。

 数日をかけて、私は、ひとしきり周囲の人間にナップルウォッチを見せびらかした。そして、まだ肌寒さの残る五月の夜に、そいつをデスクの引き出しにしまいこみ、固く封印した。これで目に見える場所からナップル製品がなくなった。アリッサの携帯はナップルだから完全に消せたわけではないけれど、少なくとも今、私の視界にはナップル製品がない。清々しく誇らしい気分だ。私はナップルの販売戦略に乗せられなかったことに喜び、拳を握る。役立たずの時計は何かの記念日にでもアリッサに渡すことにしようなどと打算的な思考を繰り広げながら、真新しいナップルではない携帯端末でアラームをセットして、眠りについたのだった。

 その翌日からだ。奇妙な変化が訪れたのは。

 広い広い世界から見れば、その日はいつもの通り、何の大きな事件もない朝、雲ひとつない晴天の五月の爽やかな朝、何日か前の凶悪事件をニュースにするしかないような、何の変哲もない平日だった。だが、私にとっては、なんと言えばいいのやら……悪夢の始まりとでもいうべき朝だった。

「なんだこれ。増えていやがる」

 私はベッドで起き上がるなり、自分の両腕に向かって吐き捨てるように言った。

 なんと私の両腕には、真新しい新品の時計が巻かれている。時計は外して引き出しに入れて眠ったはずだったのに、その時計が左腕に巻き付いているばかりか、なんと右腕にもあって両腕に装着されているのだ。

「おいおいおい、こいつはいったい、どうなっているんだ。このようなものが、二つも必要なのだろうか。いったい、誰のしわざなんだ! サンタの季節には早過ぎる!」

 片腕でよいはずの時計が両腕にあることに対して、私は怒りを抑えきれなかった。

「おい、アリッサ! おい!」

 キッチンで包丁を不規則に響かせているアリッサを呼びつけた。

 しかし強気なアリッサは、聞こえているのに無視を決め込んだ。

 私は仕方なくベッドから這い出て、ボサボサの髪を掻きながらキッチンへと向かった。

「アリッサ、お前がやったんだな?」

「はぁ?」

 眉間にくっきりとした皺が寄った。実年齢から十歳くらい老いてアラサー後半に見えるくらいに、顔面を崩して不快感を表現している。

 包丁がズドン、とジャガイモを切り裂いて、まな板に落ちた。

 私は危機を察した。逆鱗を撫でまわす前に対処しないと取り返しのつかないことになる。

「いいや、何でもない。何でもないんだ」

「何? ボブズ、あなた何か隠し事でもしているの?」

「そういうわけではないんだ」

 私は両手を上下に振って空気を抑え込み、「落ち着け」のジェスチャーを見せる。怒りかけのアリッサをなんとかなだめようと必死だった。

 そんなとき、アリッサの目に留まったのは、私の両腕に装着された二つの時計。

 アリッサは目をむき出しにして、両腕の黒いものを次々に視認した。

「何? どうしたの、この時計、同じの。二つ目」

 本当に何も知らない様子で、アリッサは純粋に驚いていた。

 私は、そんなアリッサの姿に戸惑った。てっきり、悪戯なアリッサが自分にナップルウォッチ二台目を装着したのだと思っていたからだ。

「どうなってんだか私がききたい。起きたら両腕が、この有様だったんだ」

「そういえばボブズ、あなた夜中に一度起きて部屋を出ていったわね」

「夜中に? そんな覚えはないが、本当に?」

「ええそうよ。わたしも意識がもうろうとしていたから、はっきりとは言えないけど、音からするとガレージの方に行っていたみたいだったわ」

 心当たりは無い。

「ガレージなんて、車くらいしかないのにな」

「あなた、まさか……」

 アリッサはそう言った後、いくらか考え込み、そして、

「わたしに黙ってこんな高価なものを買って! しかも内緒にしていたのね! なにそれ有り得ない!」

 キンキンと甲高い声でわめきだしたアリッサを止められる者は、地上のどこにもいないのではないかと思った。それでも、なんとかなだめようと、取り繕うように語りかける。

「待て、待て、待ってくれ。違う、違う。買ってない。買ってないんだ。買ったおぼえのない時計が、私の両腕についていたんだ」

「あなた最近ちょっとおかしいわよ! わたしは知っているんだからね。あなたが夜な夜な出て行って、車のトランクに変な機械を溜め込んでいることも!」

「変な機械? そりゃ何だ?」

「変な機械は変な機械よ。わたしに機械の細かいことがわかるわけないでしょ? ほんとうにもう、すっとぼけて!」

 私はすぐさまガレージへと向かった。包丁を持ったまま目をむいて怒り狂うアリッサの前から逃げたかったという気持ちも勿論あったが、同時に、変な機械とやらを確認しなければならないという気持ちも大きかった。

 ガレージには、庶民的な四人乗りの車があった。大学四年の時に、中古で買ったやつだ。三十五万ほどかかった。そんな上等なもんじゃないが、アリッサと書籍を載せることができれば十分だ。

 さて、中を確かめてみたところ、運転席に異常は見受けられない、助手席も問題ない、アリッサが言っていたトランクも開けてみたが異常はない。しかし、後部座席に古いデスクトップパソコンが鎮座していた。ど真ん中にドーンと座っていた。

 もしこれで隠そうとしているんだとしたら、へたくそすぎる。見つけてくださいと言わんばかりに白っぽいパソコンが置かれている。長い年月を経て黄ばんでしまっているモニタフレーム。モニターに伸縮自在のくすんだ銀色のアームがついており、アームの下には安定感のある半球型のボディがどっしりと構える。モニタと本体が一体になっている型だ。その外観は、ひまわりのようであり、テーブルランプのようでもあった。ずいぶん昔、十年以上前に発売された機体で、かつては三十万近くしたものだが、日進月歩の世の中。今ではきっと五千円を下回るだろう。インターネット閲覧にも支障があるくらいの時代遅れの低スペック機に成り下がっているということは、つまり私の持っている真新しい携帯端末にも劣るし、両腕にはめている小さな時計よりも処理速度が遅いかもしれない。しかもその上、消費電力が多く、広いスペースをとるものだから、どう考えても粗大ごみになる以外使い道がないもののように思えた。

 確かに、私はこのパソコンの発売当初に購入を検討したことがあった。当時まだ付き合っていなかった幼馴染のアリッサが画家やクリエイターを目指していると聞き、常にグラフィック系に特化しているナップル製品を買い与えようと計画したことがあったのだ。結局、本体もさることながら、中にインストールするお絵かきソフトウェアまでもが尋常じゃなく高価だったため、私の小遣いでは絶対に買えなかった。そうして憧れるだけ憧れた末に購入を諦めたという経緯がある。

 そう、諦めたのだ。だから、これがここにあるはずはない。

 私はこれを買った記憶は全く無かった。それなのに自分の車の後部座席のド真ん中におとなしく座っているということは……。考え込んだが、すぐに考えるのをやめた。

 恐ろしくなったのだ。

 もし本当に、恋人のアリッサが言うように、自分が夜中に抜け出してこの骨董パソコンを買ってきたのだとしたら、自分がもはや正気を失っていることになるし、自分とアリッサ以外の誰かが車の中に置いたのだとしたら、それこそ誰もがゾッとする話だろう。

「どちらかといえば、泥酔してわけわかんなくなったとき、無意識のうちに調子に乗って買ってしまったと考えるのが妥当か」

 私が自分に言い聞かすように独り言を放ちながらガレージから戻ると、アリッサはリビングにある丸っこいビーズソファに尻を沈み込ませ、自分のナップルフォンをいじくっていた。

「アリッサ。私が間違っていた。もう機械集めはやめにする」

 私が身に覚えのないことに対する反省を口にすると、アリッサは意外そうに振り向き、

「やけに聞き分けがいいじゃない。あなた、機械に操られているんじゃない?」

 皮肉や冗談を含んだ戯れの言葉だったが、今の私にとっては、ちっとも笑えるものではない。本当に機械に操られている恐れすらあると思ったからだ。

「ボブズ、あなた今日はお休みよね。無駄遣いを許してあげる代わりに、家中の掃除をよろしくね」

「掃除か。気が向かねえな……」

「デイソンの強力コードレスクリーナーを買ってくれるんだったら、私がやってもいいわよ」

「あれは確かに憧れだ。でも値が張るからなあ。私としては、同じ値段を払うなら全自動掃除ロボが欲しいところだ。あのランバとかいう、かわいい丸っこいやつ」

「あら、あなたが今回、余計な無駄遣いをしなければ、両方とも買えたんじゃないかしら」

 私は黙るしかなかった。黙って真新しい携帯端末で「掃除の効果的なやり方」を検索し、黙って掃除機を取りに行った。またアリッサを怒らせてしまわないように、颯爽と取り掛かったのだった。



 掃除の合間に、私は本当に自分が二台目のスマート腕時計や置物デスクトップを買ったのかを調べることにした。相変わらず知るのを恐ろしいとは思っていたが、どうやって入手したのかを知らねば、安心して生活できるはずがないからだ。

 私はナップル製品とは対極の無骨なデザインのノートパソコンの前に座り、まずはメールの履歴を確認し始めた。

 二つの品が盗まれたか拾いものだった場合は、今頃私のところに何らかの良くない連絡が来ている恐れがある。さらに面倒なのは知らない誰かからの譲渡品だった場合だが、メールの履歴を見た限りでは、いずれの痕跡も無かった。

 次に探したのは、領収書の類だ。高い買い物をしたのなら、ほぼ必ずレシートや保証書が残るはず。それさえあれば、どこで買ったのかが明らかになり、自分が寝ている間に何が起きたのかを把握することができると踏んでいた。

 見つからなかった。

 だが、諦めず再びパソコンに向かい、インターネットで確認してみたところ、銀行口座からナップルウォッチと置物デスクトップの相場分を合わせた額よりやや多い、七万三千円ほどが引き落とされていることがわかった。履歴は消されているようで、どこでどんな風に買ったのかは、謎のままだった。

 けれど、やはり購入したのは自分自身と考えてよさそうだ。

「一体、何が起きているんだ……」

 私は呟き、ナップル製品のように真っ白な天井を見上げた。

 それから、掃除が一通り終わって、洗濯もやらされて、昼食も作らされて、そのあとになってようやく私は自由時間を得た。

 そこで私は、車の中にいつの間にか置かれていた大福に画面がくっついたようなナップルパソコンを引っ張り出し、起動させてみることにした。どういうわけかうっかり買ってしまったようだが、買ってしまったからには有効活用しなくてはならないだろう。買うだけ買って眠らせていたら、それこそアリッサが怒り狂うというものだ。

 アリッサ自身が財産を眠らせておくのが得意なのだが、自分のことは棚に上げて、私の無駄遣いばかりを責め立ててくるのだから、まったく理不尽というしかない。

 思い出しむかつきをコーヒーで鎮め、私はナップルパソコンにケーブルを挿し、電源らしきスイッチを押し込んだ。

「……」

 動かなかった。

 うんともすんとも言わなかった。

 壁のコンセントには、ちゃんとプラグがささっている。本来なら、これで何らかの反応をしないとおかしいのだが、どうも故障しているらしい。

 まあ製造されて十年以上が経つ物体だ。年月相応にひどく黄ばんでいるし、丈夫そうな見た目をしていても中身に何らかのガタがきているのだろう。

「どれ、ちょっと確認してみるか」

 私の実家は町工場だ。父が言うには、「パソコンや新幹線の部品を作るための部品を作る工場で使われる部品の部品の部品を作っている」らしいのだが、私はまだその実態を知らない。それでも、工場と名のつくものを実家にもつ男のプライドにかけて、動かないパソコンは何とか修理してやりたいと思う。

 血が騒ぐとでも言うのだろうか。

 そうして、スチールのアーム部分を掴み、重たい機体をひっくり返してみた。底面には、美しく磨きあげられたアルミ板があり、ナップルマークが刻まれている。小さな字でアルファベットと数字が入り混じったシリアルナンバーも記されていた。

 この板を何とかして外すことで、中身のハードディスクやらDVDドライブを取り出してみることができるはずだ。一番の目標はパソコンのデータ格納庫であるハードディスク。そいつを引っ張り出すことができれば、故障の原因特定に一歩近づく。

 私はナップルウォッチが眠るところの隣の引き出しを開け、そこに入っていたプラスドライバーを用意し、いざ分解を試みる。

 無理だった。

 プラスドライバーでは開かなかった。

 星のような形をした穴のネジで組み立てられており、一般家庭に備えられている普通の十字ドライバーやマイナスドライバーでは開帳不能なのであった。

「だめだこりゃ」

 私はドライバーを机に放り投げた。

「アリッサの言う通り、これは確かにひどい無駄遣いだ」

 もっとも、本当に私がこんなゴミを購入していたならの話だが。

「何なんだ一体」

 こんな不可解な買い物を私がするとは思えないし、アリッサにもそんな素振りはない。私は腕組みをしながら、ナップルジャンクパソコンをにらみつけたのだった。

 そして、言ってやるのだ。

「お前は残念だがゴミに出してやるからな」

 粗大ゴミに貼る用の紙を叩きつけ、いつでも外に出せるよう、黄ばんだそいつを玄関横のクローゼットに忍ばせてやった。



 翌朝、まさに目を覚まそうとした時、目覚ましの音色に違和感をおぼえた。

「なんだ……」

 新しく手に入れた端末で目覚ましアラームを設定しているはずだが、どうも変だ。いつもと違う。元気の出る感じの、弾むような曲。私が設定したはずのものとは違う曲で、なんだか少し古い感じの、立体感の無い音。そう悪い音ではないけれど、安価なスピーカーが出すような音だ。それに、バイブレーションの震え方も雑で上品さに欠けている。なんとなく洗練が足りない。

 ベッドを出て、ぼやけた視界で音をたよりに歩く。二メートル先のテーブル上で掴み取ったのは――、

「知らない端末だ……」

 いや、知っている。その端末を知識としては知っているし、実際に店頭で触ったこともある。手に取った時のつるつるした肌触り。背面も含め、全面ガラス張りの高級感。ナップルフォン4Sと呼ばれる機体だ。

 一気に目が覚めた。

 その手の中にすっぽり収まるサイズの携帯端末は、バイブレーションと共に鳴り響いていた。本来鳴り響くはずの、アラームを設定した新しい端末は沈黙しており、かわりに手のひらサイズの四角い物体が声を上げているのだ。

「おかしい。どうしてまた買った記憶の無いナップル製品があるんだ」

 呟き、目覚ましアラームを止めた。操作自体は、さすがにわかりやすいナップル製品だ、簡単に止められた。もしかしたら、アリッサがナップルフォンを使っているから、少しは使い方がわかるだけかもしれない。ともかく、すぐに音を消せたのは幸いだった。ベッドで静かに眠っているアリッサを起こしてしまったら、また端末が増えていることに激怒するに違いないからだ。

 それにしても、不可解だった。どうしてナップルフォン4Sが我が家にある?

 ああ、しかし、それでも、混乱してばかりもいられない。動かなくては。何とかアリッサの目から新たなナップル製品を隠蔽しないといけない。私は、アリッサが目を閉じていることを確認して、ふぅと安堵の溜息を吐いてから、顔を上げた。

 視界にあったのは、さらなる異常だった。

 玄関そばの収納に放置していたはずの、あの黄ばんだデスクトップが白いテーブルの一角を支配しているではないか。しかも、キーボードやマウス、そして前日には無かった専用の丸いスピーカーが二つ接続された完全な状態で置かれている。

 私は、ナップルフォン4Sを持ったまま自分の頭を抱えた後、身体を上から下までぺたぺた触って確認した。昨晩眠った時と同じ服装だ。こんなお休みモード全開の格好のまま外に出て買いに行ったとは考えにくい。

 私は、汗がにじむ額を腕でぬぐおうとした。そうしたら、コツンと頭の上にぶつかった。腕に巻かれたそれは、ナップルウォッチ。今日も両腕にナップルウォッチ。いつでもどこでもウェアラブル。

 またしても知らぬ間に巻かれていたことによって、至極残念な気持ちになったのだが、それと同時に、三つ目の時計が巻かれていないことに安心した。そんな事を考えてしまった自分が、ひどくナップルに毒されているのではないかと考え、また落胆し、焦りにも似た気持ちを抱いた。

 落ち着きたい私は、眠れるアリッサを起こさないように注意しつつ、台所へ行って水を飲み、再び寝室の現実に対峙する。

 二本目のナップルウォッチ、テーブルに置かれた古いナップルパソコンと、六世代くらい昔のナップルフォン。一気に増えたマシンたちの謎は、手がかりが少なすぎてとにかく謎だった。

 私は、新しいマシンに何か手がかりがあるのではないかと思い、シンプルなデザインの椅子に腰掛けて、古いナップルデスクトップを起動する。そうっと半球状の後ろ側、押しにくい位置にある電源ボタンを押し込んだ。するとパソコンが排気を始めた。このマシンは山のてっぺんからモニターアームが伸びているのだが、そのアームの周辺に直径一センチ弱の丸い排気口が二十個くらい開いている。下から吸われた空気たちが中身のプロセッサやハードディスクたちを冷やし、頂上から出てくる仕組みになっているらしい。

 しかし、なかなか画面がつかない。おかしいと思ってもう一度電源スイッチを押そうとした時だった。

 ブォオオオオオオン!

 大音量の重厚な起動音がベッドを振動させた。

「え、何?」

 飛び起きたアリッサ。

 とっさに小型スマートフォンを寝巻きのポケットにぶち込む私。

 何だこの音は。まるで自分は生きているんだぞとでも言うような主張の強い大声は。

 毎回、起動するたびにこんなけったいな産声をあげるのか。

 ナップルパソコン最低だ。アリッサがこちらを睨んでる。

「ボブズ」

 冷たい声がした。私は彼女に何とか正気を保ってもらおうと、落ち着いた声で語りかけようとする。

「あ、アリッサ……」

 しかしアリッサは、私の腕を思い切りつねった。私はあまりの痛みに、思わず喉の奥から声を出した。ひどいことをするが、これで夢でないことが更にはっきりした。

「ボブズ! 機械を集めたりいじったりするの、やめるって言ったはずよね!」

「やってない、やってないんだ!」

「もう我慢の限界よ、今すぐ全部の機械を捨ててやるわ!」

「何もそこまですることは……」

 半球型のボディを持った機械は、ブオオオオと激しい風切り音を響かせている。劣化によって冷却機能が弱まっているだけなのかもしれないが、必死に存在を主張しているかのようで、何だか悲しい。

 いくら大昔のマシンでも、処理スピードが遅くとも、メモリが512MBしかなくても、OSやアプリケーションが最新にできないからネットサーフィンするにも不便でも、それでも、まだ画面がついて音を出しているものを簡単に捨てるのは忍びない。せめて、まともな使い道を模索してから廃棄すれば良いのではないだろうか。たとえそれが絶望的なミッションだったとしても、チャレンジを失ってしまったら、その先には死に等しい停滞しかないのだ。

 そんなことを考えていたところ、思考を見透かされたのか、アリッサは言うのだ。

「まあでも、あるものは最大限に活用しないとね。じゃあせめて、そのパソコンを私の学校の課題とかに使えるようにして、私にプレゼントしてよ。そうしたら許してあげる」

「のぞむところだ」

 私はアリッサを怒らせまいとして、とんでもない安請け合いをしてしまった。

「もし出来なかったら、どうなると思う、ボブズ」

「その時は、一週間、すべての家事を私が引き受けよう」

 そしたらアリッサは満足そうに頷いた。

「ところでボブズ」

「何だいアリッサ」

「何かをポケットに隠しているでしょう」

 私は、君が恐ろしくてならないよ。



 結論を言おう。私は失敗した。

 正確に言えば、すでに失敗していたと言う方が正しい。アリッサによって出されたミッションを受託してしまった時点で、私の敗北は決定していた。

 アリッサは、要するに私に、このように言ったのだ。

 ――十五年以上前のパソコンを、現役バリバリで、絵やイラストで使えるようにしなさい。

 そんなの、無茶だ。

 美麗なグラフィックを見慣れている現代の美大生が合格点を与えられるような絵画ソフトを動かすには、それなりの性能が要求される。一応、画面は映像を映し出しているとは言え、筐体と同様に映像も黄ばんでしまっている。老朽化でパソコン内のあらゆるものに交換が必要と思われる上、そもそも古すぎて対応しているソフトウェアが非常に少ない。もうあとは、パソコンボディを丹念に拭いたり磨いたりして、元の白さを取り戻してやることくらいしか手は無かったが、拭いても拭いても黄ばんだままで、これも挫折した。

 私はニヤニヤしているアリッサにパソコンを差し出して、風呂掃除に取り掛かったのだった。

 そう、普通に考えれば、分かることだ。この日進月歩の世の中で、大昔のパソコンを現役にすることの大変さ、まして独自路線を歩んでいた時代のナップルパソコンをどうにかするには、資金が掛かるのだ。ナップル製品の中を開けるのは危険だし規約違反になるから修理に出さないといけない。そうなれば、万単位の出費が見込まれる。治ったとしても、最新のシステムにはアップグレードできない。性能だって限界まで上げても快適にはならないだろう。これはもう、白旗を高らかに掲げると言うもの。

 私はパソコン再生を諦め、洗濯物を取り込むと、パスタを作る仕事に取り掛かった。賭けに負ければ家事をすべて行うのが約束だ。時間が足りなくならないうちに、効率よく作業しなくてはな。

「男は、賭けの約束を守るのだ」



 次の日、私が目をさますと、アリッサが恐ろしい顔で私を見下ろしていた。

 私の両腕にはナップルウォッチが巻かれている。外して寝たはずなのに、また今日も二つの時計がある。嫌な予感がして、白いテーブルをみた。ナップルのノート型パソコン、ナップルブックが堂々と置かれている。都会化の波が押し寄せた我が家の寝室。机の上にナップル製品の建物がまた建って、また机が狭くなってしまった。

 今度の新しい機械は、ナップルらしい角の丸い四角形の筐体。分厚くて重たくて、どこか温かみのあるポリカーボネート素材のナップルブックは、隣にあるパソコンと同様に黄ばんでいた。シンプルで洗練されながらも、どこか可愛らしい印象を受ける。画面は今はついておらず、真っ黒だった。

「ボブズ、何か言うことは?」

「わからない。身に覚えがない」

「何ですって?」

「いいか、アリッサ、考えてもみろ、私は、パソコンを次々に手に入れることがアリッサに嫌な思いをさせるのを理解している。そんな私なら、もっとコソコソとやるはずだ。不利益しかないことを堂々とやるほど愚かじゃない」

「それは、浮気をバレないようにやりますよっていう宣言?」

「そんなことは一言も言っていないだろ」

「わたしには、そう聞こえた!」

 アリッサの怒りゲージが、勝手にどんどん高まっていく。何を言っても高まるし、何も言わなくても高まる。

「アリッサ、私は君を愛しているんだぞ。アリッサが一番大事なんだ。君を怒らせたいわけがないじゃないか」

「昨日はね、ずっと起きていたの。夜の間、ずっとね。そしたらあなた、どうしたと思う? まずはね、こそこそとベッドを抜け出したのよ」

「何だって?」

 私は驚き、目を丸くした。

「ベッドを抜け出したボブズが最初にやったのは、両腕にナップルウォッチを巻くこと。それから暗い部屋で、パソコンの前に座ってニヤニヤしていたわ。一時間くらいパソコンで何かをしたあとに、今度は部屋の外に出て行ったの。四十分くらいで戻ってきて、そこからボブズが、あのどこからか持ってきた白いノートパソコンを机に置いて、セッティングをし始めたの。ボブズが少しいじったら、ナップルのマークが出たまま動かなくなった。あなたは作業を終えたとばかりに立ち上がって、ベッドの方に来たわ。その時、わたしと目が合ったけど、気にする様子もなく布団に入って来て、そのまま眠ったの」

「そんなバカな」

「わたしは、その後もずっと起きていて、ノートパソコンの画面を見ていたわ。そうしたら画面が切り替わって宇宙の画面になった。しばらく見てたら画面が消えた。そして今に至るわけ。わかる? 今言ったの、全部あなたがやったことなのよ」

「ありえない。そんなこと」

「証拠があるわ」

 そう言って、アリッサが見せつけて来たのは、アリッサのナップルフォンだ。画面には、録画した動画が映し出されているようだ。

 初めの方は真っ暗で何が何だかわからなかった。ただ引き出しを開ける音と、ナップルウォッチ二つをはめるような音が確かに聞こえた。動画が進んでいって、やがてはっきり見えてきたのは、私が、暗闇の中でパソコンをしている光景。見たことのないような表情だった。何かを企んでいるようなニヤニヤ顔だ。背筋が寒くなった。

「そんな……本当に私が……」

 いや、待て。アリッサは美術系である。私は美術のことはあまり詳しくはないが、このくらいの映像は、コンピューターグラフィックスとやらを使えばどうとでもなるのではないか。

 いや、そう大掛かりなものでなくとも、映画の特殊メイクでみたいなもので、体型の似た誰かを私の顔に仕立て上げることができるのではないか。暗い部屋なんていうのは雨戸を閉めてしまえば、たとえ昼間だって、いくらでも再現できる。

 ならば、まだ私がやったと決めつけるのは早計だ。

「アリッサ」

「何よ、ボブズ」

「私を縛ってくれないか?」

「はぁ?」

 仮にアリッサが犯人だとしたら、理由は何だろうか。ナップル製品が欲しくてたまらなくなってしまって、私の口座から金を引き落として買っているのをさも私のせいにさせるためか。あるいは私を犯人に仕立て上げて家事をやらせるためか。それとも私と別れたいからその口実作りのためか。

 ナップル製品が欲しいのなら、あんなジャンクまがいの使えない中古品を買ったりするだろうか。ノーだ。

 家事が面倒なら、やらなければいいだけの話だ。そうすれば私が勝手にやることをアリッサは知っている。だから、これもノーだ。

 だったら、私と別れるための口実を作るためなのだろうか。それはノーだと信じたい。

 しかし、口実作りではないにしても、このまま機械が私の知らぬ間に増え続けるという不可解な現象が長く続いてしまうようでは、別れを切り出されてもおかしくない。アリッサと別れたくはない。私がやっているわけではないかもしれない。けれど、もしかしたら私が犯人なのかもしれない。そうしたらもう、縛ってもらうしかないじゃないか。

「今すぐにとは言わない。今日の夜、寝る前だ。もし私がアリッサの言うように、夜な夜な機械を求めて彷徨う夢遊病になってると言うなら、もし本当にそうだったら、私は、君の言うことを何でもきくよ」

「神に誓って?」

「誓うとも」

 私は彼女の頭にキスをして、両腕の時計を外し、大学に向かうための支度に取り掛かった。




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