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ナップルジャンキーズ  作者: 黒十二色
第一章 ナップルジャンキー
1/11

1 「二〇一七年春」

 私がまだ成人したばかりのころ、大学院にホリイさんという男の先輩が居た。

 なぜ過去形なのかというと、いつしかパッタリと姿を見なくなったからだ。

 ホリイさんは、背が高くて、眼鏡で、少し猫背で、いつも襟付きのシャツを着ていた。

 家電全般をこよなく愛していて、ドドバシカメラや、ピークカメラ、ダーマヤ電機などのポイントカードを財布の取り出しやすいところに並べて入れているほどだった。

 私もパソコンを触るのが好きで、趣味みたいにしているから、家電屋にはよく足を運ぶけれど、先輩のマニアぶりには、ほんの少し、若干かなりドン引きだった。

 そんなホリイさんを最後に目撃した日は、思い返してみれば、もう四年近くも前。ナップル社が新しい薄型ナップルフォンを日本に参入させた日だった。丈夫さと引き替えに驚きの薄さと画面の大きさを手に入れた端末に、多くの人々が行列をなしていた。

 当時、二十歳のスーパー貧乏大学生だった私は、新しい携帯電話なんて夢のまた夢、手の届かない雲の上の存在だと思っていたし、いわゆるガラケーってやつに慣れ親しんでいたから、新しいマシンに安易に飛びつくような無様なマネはしなかった。ナップルの新製品を求めて外まで続く長蛇の行列を横目に見ながら、ダーマヤ電機の店舗内に足を踏み入れた。

 ダーマヤ電機の中は、白くて、明るくて、鏡が多くて、活気があった。一階部分は、天井が高く、オシャレ倉庫みたいな雰囲気だった。

 目的の場所は、調理家電売り場。電子レンジや電気炊飯釜を買いに行ったのだ。親戚の持っていた一軒家を丸ごと貸してもらえるという奇跡的な幸運に恵まれて、一人暮らしの準備を始めたばかりだったのだが、これから重たい荷物を運ばねばならないこともあって、私は贅沢なことに少々憂鬱な気分に染まりかけていた。

 そんな時だ。ホリイさんと最後に会ったのは。

 ホリイさんは、わくわくした顔で行列の中にいて、私と目が合うと、手を振ってきた。

 私も紙袋を提げた手で、小さく手を振り返した。

 それだけ。

 あれから三年以上、ホリイ先輩とは会っていない。先月くらいに、銀座の近くで見たと言っている先生がいて、その先生が言うには、「死んだ魚のような目をして歩いていた」とのことだ。

 一体どうしてしまったのかわからないけれど、とにかく私は、以来数年、ホリイ先輩の姿を見ていない。


  ☆


 さて、時は二〇一七年春。

 突然だが、私は、手首に時計もどきを巻きつけて生活している奴らを嘲笑っていた。インチキ商法に騙され、機械に操られた情けない人種だと差別して侮蔑していた。

 スマートウォッチ……そんなものは全くスマートじゃない。そう確信していた。生涯身につけてやるものかと拳を握りしめていた。時計は時計で良い。時を示す以外の機能なんていらない。スマートさってのは、そういうもんだろう。

 友人と話す時にそういう先端時計の話題になることがあれば、「ダサい」「ダサい」と連発し、スマートウォッチと呼ばれる物体を製造した会社の携帯端末の便利さや画面の美しさを褒めちぎりながらも、時計らしきソレは否定した。

 そんな私が、ナップルウォッチを手に入れたのは無料で配っていたからだった。

 ナップルウォッチをゲットした帰り、恋人と並んで賑やかな新宿の街を歩いていると、彼女は、ふと私の腕に巻きついたものに気付き、

「ボブズ、その時計、どうしたの?」

 アリッサは、もともと大きな目を更に見開き、その後、不審なものを見るような目で私の顔を覗き込んだ。

 一緒に暮らしている恋人のアリッサは、都内の大学に通う二十五歳の年上の女だ。べらぼうに絵が上手いのだが、絵が上手いだけでは上手くいかないようで、割と長いこと浪人して、この春ようやく新入生として美術大学に通い始めた。出会ったのは、東京と千葉の境界近くの海抜ゼロ地帯にある地元の町で、早い話が、俗に言う幼馴染というやつだ。

 私はアリッサの問いに、正直に答える。

「この時計をどうしたかって? タダで配っていたからもらっただけだ」

 するとアリッサは、あからさまに不満そうな口調で言うのだ。

「ボブズ、あなた言っていたわよね。ナップルウォッチは全然スマートじゃないからいらないって。わたしが使ってみたいって言った時、買ってくれなかった」

 そうして、いつものようにむくれた。

 私は内心慌てながらも冷静を装って、

「待つんだアリッサ、そうは言ってもな、アリッサは機械を買っても放置しておくばかりで、初めのうちは珍しがって色々触ってみるけれど、結局しばらくしたら、ほとんど使わなくなるだろう。違うか? 何年か前に買ってやったナップルパッドはどうした? 机の引き出しの中で未だに冬眠しているじゃないか」

「でも、それとこれとは話は別。あの板、もう古いし、薄いくせに重いんだもん。いつも身につけられる時計型だったら使いたいわ。わたしにちょうだいよ」

 この女は何を言っているんだとは思ったが、ここでご機嫌をとっておくことが後になってプラス方向に働くのではないか。どうせ機種変更の特典としてタダ同然で手に入れたものなのだから。――そう、私は先を見通せる男なのだ、無料でアリッサの機嫌が良くなるのなら、安いものだろう。年上の女を怒らせると本当に怖い。そう思った私は、ナップルウォッチをアリッサにくれてやることにした。

「わかった。だが、すぐには渡さん。私が使い方を覚えてから、お前に教えてやる」

「本当? 嬉しい! ボブズ大好き!」

 飛び上がったアリッサは繁華街の真ん中で、私の腕に抱きついてきたのだった。悪い気はしない。私以外では耐えられないくらいに性格や言動がキツいけれど、アリッサはスマートで美しい自慢の恋人なのだから。



 私は、ナップル製品をあまり好んではいなかった。

 ナップル社の哲学が、自分には合っていないと感じていたからだ。

 堅牢で、安心で、美術品のようで、おしゃれで、コンパクトで、心地よい丸みを帯びていて、どんな人間にとっても使いやすい。それが嫌だった。

 機械ってのは、じゃじゃ馬みたいなもので、自分の好きなようにカスタマイズして、苦難を乗り越えて制御して、そうして初めて自分の乗り物にすることができる。私にとって、コンピューターは野生動物と次第に心を通わせていく過程を楽しめるような、自然との対話を疑似体験できるような、そういう場なのだ。

 だから、老若男女を問わず、万人共通の使い心地の良さを追求しているナップルのコンセプトには共感できなかった。誰にでも使えるシンプルさというのは、確かに大事なことではある。人々が求めている機能を誰よりも早く実現するのは見事な目標である。だが、コンピューターのメインコンセプトにそれを据えられると、途端に何かを押し付けられ、自由を奪われたような気分になってしまう。枠にはめられ、生き方を限定されていくような感じがする。自由なのは機械の方で、人間が自由になれるわけではないことをかえって強く意識させられる。混沌を楽しめるのは開発者だけで、ユーザーは上澄みだけを有無を言わさず飲まされる。それが嫌だった。

 だから、機械音痴のアリッサにはナップル製品を与えるけれど、それなりに機械を扱える自分用には、ダサいナップル製品など買おうとも思わなかった。

 そう、大学の帰りに寄った新宿のドドバシカメラで、春の新生活応援キャンペーンなんてものをやっていなければ、一生ナップルウォッチには縁がなかっただろう。

 大学院で東洋古典めいたものを専攻する私が、家電屋に足しげく通うのは、きっとバランスが取りたいからなのだと思う。普段、古い漢字の文章にばかり触れている一方で、進み続けていく「今」から置いてきぼりにされたくない。自己分析は私の専門ではないが、何か理屈をこねるなら、そういった理由で、大学帰りには、いつも一人で家電屋巡りを行っていた。

 ふと、同い年くらいの若い男たち三人組が、背中の方で雑談しながら同じ方向に向かって歩いていた。その背中からの会話が、とても気になった。

「なあ、ナップルウォッチって、どうなの?」

「最近流行ってるとか言うけど、つけてるやつ一度も見た事ないよね」

「そりゃそうだよな、あんなダサいの誰がつけるんだって話だよ」

 全く同感だった。ナップルウォッチはクソだ。

 でも、もしかしたら、この会話が引き金になったかもしれない。私はここで「ナップルウォッチ」という単語を耳にすることによって、機種変更特典のスマートウォッチ配布キャンペーンに吸い寄せられていったと考えることもできる。

 三人組は、なおも雑談を続ける。

「ほんとさぁ、ナップル製品って、ダサいよな。本当ダサい。しかもナップルって海外のブランドだぜ、普通、国産だろ。愛国心は無いのかって話だよな」

 これについては、反論したくなった。日本製だろうが海外製だろうが、良いものは良いんだ。ナップルだって、新しい時計は知らないが、少なくとも携帯端末では売れる理由がある商品をちゃんと作っている。私はナップルの哲学が嫌いだから絶対に買わないが、ナップルフォンは画面解像度と操作のわかりやすさにおいて非常に魅力的な商品だ。安易に馬鹿にしないでもらいたい。

 そもそも、この男たちが普段使っている端末のパーツだって、全部が全部日本のみで製造されているわけでは絶対にない。「国産」という魔法の言葉は、多くの場合、海外製のパーツを国内で組み立て、国内で製品としての産声をあげたものというだけの話だ。国産製品というのは、一から十まで国内製どころか、一の時点ですでに海外発と言っても過言ではないのだ。むしろ、ナップル製品の方がかえって――。

 このへんにしておこうか。まあ、他にも言いたいことはたくさんある。到底語りつくせるものではない。しかし、ただの通行人相手に、こんな呪いの言葉を浴びせても何のメリットもない。時間を大切にしたい私は、国産新型スマートフォンとやらが発売されたばかりのドドバシカメラ店内に足を踏み入れた。

 国産を宣伝文句に物を売るのはやめたらいいのにと思いながらも、明るい店内をうろついていると、いつもとは違う風景に出会った。どうやら、店内のナップル製品コーナーに特設ブースが設置されているようだった。天井から吊るされた看板には、桜並木を背景に『ナップル新生活応援フェア』と書かれている。高級感とは程遠い、ナップルにしては、らしくない風景だ。さほど活況というわけでもなさそうで、皆が素通りしていた。若くて小さな可愛らしい女性が、小さめの声で呼び込みをしている。

「ナップルウォッチお配りしていま~す」

 私も普段だったら素通りしていたかもしれない。だが、この時は食いついた。

「すみません、配っているっていうのは……」

「あ、はい。只今、キャンペーンで、お配りしているんですよぉ」

 ドドバシ女子店員さんは、そう言って自らの腕をまくって見せた。その左腕には、黒いバンドにくっついた、黒い画面があった。

 女子店員さんが操作すると、漆黒の背景に鮮やかなアイコンがいくつも浮かび上がり、店員さんの人差し指の動きに合わせて滑らかに画面が切り替わっていた。小さな黒い板の中に、生き物が潜んでいるかのようだった。

 ドドバシ店員さんは、どんなもんだと言わんばかりの顔だった。

「それを、今配っているんですか?」

 私がたずねると、笑顔がチャーミングな女子店員さんは嬉しそうに言うのだ。

「はい、ドドバシカメラの店内でナップルフォン、もしくはスマートフォンを新規に契約していただいた方に、数量限定で、無料でお配りしております」

「無料? 無料って、あの無料?」

「そうです、あの、無料です」

 驚いた。衝撃だった。普通のものを買えば、七万円以上はするというのに。一番安いやつを買っても三万円くらいはするというのに。

 ちょうど、私は携帯を新しくしようとしていた。たった一年使っただけ。さほど長く使われた携帯ではなく、機能にもそれなりに満足していたが、もともと古い機体だったこともあり、OSのバージョンが少々時代遅れになってしまった。そのため、使えないアプリが出てきてしまった。ならば最新アプリに対応したものに変えようと思い、多少無理してでも最新機種にしてやろうと考えていたところだった。

 なんとも素晴らしいタイミング。渡りに船というやつだ。

 私は大急ぎで最新の携帯端末の契約を済ませ、その新しさに感動する間も無く、ドドバシ女子店員の前に舞い戻った。

「お待ちしておりました」

 女子店員は言うと、親切丁寧に商品の説明をしてくれた。無料であるかわりに、補償やサポートがつかないこと、色は黒しか選べないことなどに私は首を縦に振り続け、携帯の契約と合わせて本日二度目のサインをして、ついにナップルウォッチが自分のものになった。

 早速、女子店員さんの小さな手によって箱から出してもらい、装着してもらった。

 冷たいアルミの感触が、私の体温を少し吸い取った。そして私が腕を持ち上げると、時刻が表示された。それは、この東京、新宿の時間ではなく、おそらくアメリカ西海岸あたりの時間だろう。

「転売とか、しないでくださいね」

 私は、そんな冗談にハハハとわざとらしく笑い、

「そんなナップルさんを敵に回すようなことは絶対にしないですよ。シリアルナンバーでわかってしまうだろうし」

 私はそう言って、女子店員を安心させたのだった。

 誤解してもらいたくないのだが、私はスマートウォッチが欲しくなったわけではない。むしろ、見かけばかり良くて実は不要なものだということが証明したかったのだ。一応、使ってみないことには、安易に批判し切ることはできないからな。

 その後、時計を正しく設定し直してからアリッサと夕食を共にし、新しくなった携帯を自慢してウザがられ、車に乗って都心から離れた西の方にある我が家に一緒に帰った。しばしアリッサと一緒に動画を見るなどしてくつろいでから、寝室でパソコンを起動した。このパソコンも、もちろんナップル製ではない。国産を謳うメーカーの、角の四角いノートパソコンである。日課のネットサーフィンをしていたところ、SNSやニュースサイトに昼間のキャンペーンのことが載っていた。どうやらナップルウォッチ配布キャンペーンは、都内数カ所の量販店で開催されていたようだ。秋葉原、新宿、池袋など、大きな量販店がひしめき合うところでは、ほぼ全ての店舗で実施されていたらしい。こんなにも大規模な無料配布とは、ナップル社の激しい焦りを感じる。

「よほど売れてないんだな、ナップルウォッチめ」

 無理もないなと思う。一日使ってみただけではナップルウォッチの全てはわかるはずもないが、こんなほんの小さな感動に何万円も払う人間は希少だろう。

「あるいは、私が他にナップル製品を持っていないから、価値がわからないだけかもしれないけどな」

 私は、一日の疲れを溜息と共に吐き出して、新しいスマートフォンとナップルウォッチを充電器に繋ぎ、アリッサが眠るベッドに潜り込んだ。



 ナップルウォッチを左腕に巻き始めてから数日が経った。しばらく使ってみて、やはり失望させられた。

 マニアレベルとまではいかないが、それなりに先端技術に詳しいと自負している私は、ナップル製品のクオリティについて、実のところあまり期待していなかった。だがしかし、それにしたってできることが少なすぎる。

 時計にしても端末にしてもナップルパッドにしてもノートパソコンにしてもデスクトップにしてもそうなのだが、ナップル製品は、お年寄りから子供まで誰もが活用できるシンプルな操作画面と、色再現度と粒子の細かさに優れたディスプレイパネルが魅力あるくらいで、スペックはそれほどでもなく、総合的に見れば大したことがないという印象だ。

 実際、それは必ずしも間違いとまでは言えないものだろう。携帯端末に求めるものは人それぞれだ。私のニーズからすれば、ナップルフォンやナップルパッドの処理速度はほんの少しだけ物足りないものであったし、カスタマイズの自由度も満足できるものではなかった。

 ナップルウォッチもまた、私の欲求を満たすものではなかった。確かに、様々な便利機能はある。血圧や心拍数を計測してくれるし、歩数計の役割も果たす。側面についたホイールのようなものを回すことでスマートフォンのような画面になって専用アプリを使用できる。でも、あまり使えるものがない。なぜなら、ナップルウォッチは、ナップルフォンという携帯端末と連携することを前提に設計されているからだ。ネットで調べたところによれば、ナップルフォンがあれば電話やメール機能を時計で済ませることができるらしい。あとナップルフォンで再生する音楽のコントローラーにもなるらしい。つまり、時計そのものに価値があるのではなく、時計が他のデバイスと連携する能力を持っていることに価値があるのだ。

 ということは、だ。はっきり言ってしまえば、他にナップル端末を持っていない私にとって、これはただの毎日のように充電が必要な健康腕時計といった感じなのだ。

 おそらくナップルの目的は、時計を無料配布することによって、ナップルフォンに無理矢理に興味を持たせ、やがて購入させることにあるとみた。そんな商法に乗せられてたまるか。

 そして、これからもナップル製品はやっぱり身に付けない。軟弱なデザインのナップルウォッチなんていう未来の押し売りに積極的に乗っかる気は、最早さっぱり無くなった。

 ……そうは言っても、この時計のような物体は、とりあえずの話のタネにはなる。アリッサにプレゼントするのは、大学院の仲間に見せびらかしてからでも遅くはないだろう。

 と言うわけで、翌日。

 私は早速、アルバイトに行くのにナップルウォッチを巻いて行った。

「おはようございまっす」

 そう言って古い本に満たされた研究室に入ってきたのは、チャールトンだった。

「おう、お疲れ」

 私はナップルウォッチのくっついた左腕を見せつけるように挙げて、挨拶を返した。

 チャールトンは自習コーナーとなっている大きな机に重たそうな鞄を置くと、キャスター付きの椅子に座った。そして、一息ついてから言った。

「今日はボブズさん担当なんすね。誰か来やしたか?」

「大学院の方は君以外は誰も来てないね。学部の方の学生が、授業の課題をやりに来たくらいだ」

 そういえば、思い返してみると今朝からここに来た学生たちは皆、眼鏡をかけていた。

 チャールトンも眼鏡をかけているが、実は、この研究室には眼鏡男や眼鏡女が珍しくない。集合写真を撮るときに、私一人だけが裸眼という場合すらあったほどで、それはもう驚くべき眼鏡率の高さなのだった。

 私は、そんな眼鏡だらけの研究室でアルバイトをしている。研究室と言っても、漢字文学に関連した書籍や辞書を集めた図書室のような場所であって、何かの化学実験をしているとか、数式と見つめ合うとか、そういうことはしない。泊まり込みもできない。

 たとえ仲間と宇宙について思いを馳せたりだとか、哲学まがいの思考実験の類はすることはあっても、それはあくまで遊びである。真面目な学生である我々の本業は、古い本に書いてあることを掘り起こして、漢字が羅列された文章を解読する作業に追われることなのだ。

 こんなことをしていれば、世間から置いてきぼりを食らいやすくなるのも当然だ。実際、私の同期には、何年も同じ服を着て、何年も同じ靴を履いている男がいる。

 それはその人間の価値観なのだから別に構わないとは思う。私たちは違いがあるからこそ違いを尊重することができる生き物なのだから。

 なんて、この仕事をするようになってから、少しばかり大げさで、ちょっぴり説教くさいことを言うようになってしまったかもしれない。

 さあ、そして、そんな同じ服を着続け、同じ靴を履き続けている人間というのが、たった今研究室にやって着たチャールトンなのである。

「昨日見た夢なんですけどね、ボブズさんが夢に出て来たんすよ」

「へえ、どんな感じだった」私は業務日誌にペンを走らせながらききかえした。

「ゾンビでしたね」

「それはあれかな、君が私に対して死んで欲しいという願望を抱いているっていう解釈でいいのかな」

「どう解釈すればいいのやら……。その夢では、うちが自分の家に帰ったら、ボブズさんがうちの部屋にいて、うちのパソコンを勝手に解体してから中のパーツを引っこ抜いて自分の頭に突き刺したんすよ。そしたらボブズさんが死んだんです」

「どんなパーツ?」

「平たくて、手のひらサイズの真四角で、表側が怪しく銀色に光っていました。四角くて四隅が丸みを帯びていて、裏側からは幾つもの金色の針が伸びていて、それがボブズさんの頭に、ゆっくりと、ゆっくりと沈み込むように刺さっていきましたね」

「CPUかな」

「ボブズさんは白目をむいて死んで、すぐに倒れかけて、でも倒れずに、頭を垂れ、脱力しながらフラフラと、うちの方に向かって来ました。うちは慌てて、『ゾンビだ、ゾンビだ』と言いながらショットガンをぶっ放したんですよね。そしたら見事にヒットしました。ボブズさんの上半身は木っ端みじんでしたね」

「なんだろう、私は君に嫌われるようなこと何かしたのかな」

「さあ、なんかあるのかもしれないですけど、夢なんだから深い意味ないんじゃないっすかね」

「じゃあゲームのやりすぎだ」

「そういえば一昨日、ゲームじゃないですけど、ゾンビ映画をぶっ通しで四本くらい見ましたからね。その影響かもしれません」

「チャールトンは本当に没頭するよね」

「そうですかね。ボブズさんほどではないと思いますが」

 彼はそう言うと、ペットボトルのお茶を一口飲み込んだ。

 私は、彼には見所があると思っている。見た目はガリガリに痩せていて食も細く、一人称が「うち」で、いつも菓子を持ち歩く女子みたいなところがあるけれど、中身は我が道をゆくタイプの男の中の男だからだ。パワーは無いが、器用で創造的で、それなのに職人気質で頑固者で、一日中オンラインゲームに浸かることさえできるゲーマー根性とでも言うべき光るものを持っている。何かルールで縛って物事に取り組むのが日常化していて、ゲームと日常を敢えて区別しない。たとえ誰かが親切を発揮して彼にアドバイスを与えても、他人の言うことに耳を貸した上であえて逆を行こうとする。私と同じひねくれ者だ。たとえ相手が超偉い先生であっても先輩であっても親であっても服従はしない。道の無いところに道を生み出すことを使命としているかのように生き、外からその様子を見れば、自分勝手な人間に見える場合もあるけれど、実は何か一つの事に何年でも打ち込むド根性が彼の最大の武器なのだ。そういう習性を持った野生の聖なる人間なのだ。だから、一年を通して同じ服を着て、袖が擦り切れてきているのを自慢げに嘆いたりするのだ。そして周囲から新しいのを買え買えと言われても「これはうちのユニホームだからね」などと言い放ち、他人の声に耳を傾けながらも我が道をゆくのだ。自分の好きなことを好きな時にやるタイプの人間で、だからこそ、この研究室に相応しい。この素晴らしい研究室の住人たる資格がある。

「ところでボブズさん、その未来の物体は一体……」

 そう言った彼の視線は、私の左腕に向けられていた。

 チャールトンは、実に優等生だ。さすがに目の付け所が良い男。私の意図に短時間で気づくとは。他の学生たちは授業の課題で切羽詰まっていたようで全く気づかない様子だったが、チャールトンは普段から余裕を欠かさないのだ。

「未来? 何がだ?」

 私は、あえて知らんぷりをした。

「腕に巻いてるそれは何すか」

 私はニヤリと笑い、

「ナップルウォッチ」

 少し格好つけた声で言ってやった。

「おぉ……こいつが噂の……。でも、どうしたんすか、ボブズさんはナップルウォッチ買うやつは頭がいかれてるとか、いつも言っていたのに」

「だって家電屋でタダで配ってたから」

「なんと……。家電屋に行くと、そんなことあるんですね。うちはネットでしか買わないから」

「ネットって実際に品物見られないから、判断基準がレビューになってしまう。他人のレビューに踊らされて選択肢を絞られるのは非常に不幸だ。やはり自分の目で確かめないと納得のいく買い物はできないだろう。だいたいにして、もしもネットで注文して、粗悪品が届いたらどうするの」

 私が少々お節介なアドバイスを発したとき、彼は言うのだ。

「その時は諦めますよ」

 彼は時々、こんな風に驚くべきことを平然と言う。

「え、諦めるの? 大体の商品に保証とかついてるじゃん。返品とかすればいいんじゃないの?」

「それはもうね。運命だと思って受け入れるしかない。でも、あとでレビューでボロクソに書きますけどね」

 なんとなく、敵に回したくない男だと思う。

 チャールトンは、代替品をもらう手続きが面倒だからとか、人と接したくないからだとか、そういう考え方で諦めるわけではない。

 これは、モノに対する真っ直ぐな愛なのだ。

 人間は、誰もが尊厳を持って生まれて来る。では、モノに尊厳が無いのかといえば、モノにだって尊厳はある。モノに命が宿るように考えるのも、相手に名前をつけるという行為も、人間に最優先で向けられるべき尊厳への尊重を、あらゆるモノに対して向けているのだ。

 この感覚は、人間ならば誰もが少しは持っていることだろう。私にも、次のような体験がある。

 昔、あれは中学生の頃だったか。親と一緒にパソコンを買いに行った。私は気に入ったノートパソコンを見つけて、親に「これがいい」と言った。望みは受け入れられ、買ってもらえることになった。親からは「良いものを選んだね」などと褒められたが、結果的に私はあまり喜べなかった。私が選んだ「これ」は、そのまま店頭に残り、レジの奥から箱に入った未使用のものが出てきて、それが我が家のパソコンになった。家に帰り、簡易保護フィルムを纏ったノートパソコンが出てきた時、嬉しくないわけではなかったが、なぜだか落胆したというか、喪失感めいたものを抱いたのだった。

 同じ形をしていても、同じ機能を持っていたとしても、パソコンだって唯一無二なのだ。あらゆるものがそうなのだ。誰かは誰かの代わりにはなれないのだ。そしてこれは、人間ならば誰もが少しは持っている無機物にまで及ぶ共感力。すなわち愛。チャールトンは、そういう常識的な考え方を誰よりも強く、非常識なくらいに強く持っているのだと思う。

 あるいは、彼の反抗的とも言える自我の貫き方は、モノを魂の宿った存在として強く意識することで生まれて来たのかもしれない。

 ここで私が、「じゃあ尚更ネット通販ではなく店頭に足を運ぶべきだ」と言っても、彼は決して聞き入れはしないだろう。なんとなく矛盾しているようにも見えるが、彼の中では矛盾しないのだ。

「それで、どうなんですか、ナップルウォッチの使い心地は」

 チャールトンは研究室内だというのにスマホでゲームをしながら訊いてきた。彼にとってゲームは呼吸をすることと同じだ。だから、特に失礼ということもない。話すときは人の目を見て話せというルールは、この研究室には存在しないのだ。

 ゆえに私は、彼の態度を気にすることなく答える。

「わかるだろう、チャールトン。別にこれなら普通の時計でいい。全然機能が充実してないし」

「やっぱり、ウェアラブル端末は時期尚早だったんですかね」

「いや、多分さ、ナップルパッドとか、ナップルフォンとか、ナップルブックとか、そういう他のナップル製品と一緒に使うと、たくさんの良いことが起こると思うんだけどさ、知っての通り、私はナップル製品を一つも持っていないんだ。新しく変えた携帯も、ご覧の通りナップルじゃないんだ」

 私が言うと、チャールトンは私の新たなスマホに視線を合わせた。

「おお、そういえば、新しいやつですね。何か新しい機能とか搭載されたんすか?」

「期待していたほど新しいのは無いな。既存の機能が強化されたくらいか。まあ色んなアプリに対応するようになったから、できることは増えたけど、初めてスマホを持った時のような感動は、もはや無くなったね」

「そりゃあ、仕方ないっすよね。技術の進歩も、来るとこまで来ちゃってる感じですし、世界はこれから、どこに向かうと言うんでしょうねぇ」

 チャールトンは、窓の外を眺めた。この部屋には外に向いた窓がない。窓の外には、白い壁面と電気が落とされた別の教室があるばかりで、圧迫感満点。我々はこの薄暗いコンクリートの建物の中に閉じ込められてしまっているかのようだった。




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