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「待ってよー。いじわるしないでよー。出てこーい!」
少女の周りには少し強めの風が吹いているだけで、彼女が追い求める人の姿も声もどこにもなかった。
いつもそうだ。小さな彼女が彼らの体力に付いて行くのは難しい。けれど幼いからこそ、彼女にはいつか彼らに追いつけるという確信がある。彼女を蔑ろにする彼らのほうがおかしいのだ。わざと彼女を突き放して、彼らは、向こうに点々と転がっている岩の陰からこちらを見つめて嘲笑っているに違いない。
少女は肩をいからせて、岩の群れに近づいて行った。
「ほらっ! きっとここよ」
覗いた岩の陰から兎が飛び出し、少女の脇をかすめてどこへともなく跳び去っていってしまった。
気を取り直して、少し傾斜した地面に突き刺さるように立っている大岩を見る。
「そうよ! きっとあの大きな岩の後ろに五人で隠れて、笑ってるんだわ!」
小さな足を踏ん張って、急激にせり上がっている斜面を踏みしめて上る。追いかけていた仲間たちがその向こうで自分の姿をにやにやと見ていると思うと、ますます腹が立ち、踏みしめる足に力が籠った。
急斜面は、小さな少女など、丸い小石のように難なくはじいてしまう。
踏みしめた足は朝露で湿る草の上でから滑りをして、少女は一気に下方へと転げ落ちた。少女が加速度を付けて転がっていく先には、小さめだがしっかりと地面に根を張った岩が立っている。回る視界で意識を失いかけていた少女には、すぐ先に危険が迫っていることなど分からなかった。
だん!
少女の身体が衝撃を受けて止まった。その衝撃が岩によるものなら、幼い少女の身体は無残に砕けていただろう。しかし、それは弾力をもって彼女の身体を守ったのだ。
少女には何が起きたのか分からない。転がる途中で、小石や灌木の小枝でできてしまった傷が痛みだす方が早かった。ひりひりとする皮膚の痛みに意識が戻ってくると、徐々に自分の身体が大きな温もりに包まれているのを感じ取っていった。
「ああ、良かった」
少女の身体ぜんたいに、低い声が響いた。顔を上げると優しい眼差しがこちらに向けられていた。少女の身体を丸ごと包み込んで大きな顔が満面の笑みを湛えていた。
「アマルにいさま……」
「大丈夫かい? 傷が痛むだろう。帰って手当をしようね」
少女を抱きかかえたその人が立ち上がると、彼女の視界は一気に高くなった。彼女の背ではとても見られないような光景がそこには広がっていた。
少女の背中を包み込んだまま、大きな体が歩き出す。自然とその肩に顎を乗せるような形で少女は身体を預けていた。耳の横の喉仏からまた優しい声が響いた。
「アナ、ここはとても危ないところなんだ。ここで遊んではいけないよ」
「だって、クシたちも遊んでいるもん」
「そう。危ないところで遊ぶクシにも注意しなくてはいけないね。アナはもうここでは遊ばないって約束するんだよ」
「わかった。にいさま、クシをちゃんと怒ってね!」
「ああ、アナを危ない場所に置き去りにしたクシがいけないね。ちゃんと叱っておくよ。アナはおりこうさんだから、もう分かったね」
少女は広い肩に顔を埋めるようにこくんと頷いた。彼女を抱えた身体は少女の動きを察して優しく笑った。少女がその首筋にギュッとしがみつくと、彼女の髪を大きな手が優しく撫でる。それだけで少女は身体の痛みを忘れていた。
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あの時のお返しをするように、彼女は彼の髪を指先でそっと撫でた。
彼の顔から少しずつ苦痛の色が薄れていき、やがて穏やかな寝顔になった。彼女には彼の身体を包み込むことはできない。代わりに柔らかい毛織の布で彼の身体を包み込み、囲炉裏の火を絶やさないようにして温めてあげるだけだ。
あの時の彼のように、傷ついた身体をを丸ごと包み込んであげられたらいいのに。その声で、その言葉で、傷の痛みをすべて忘れさせてあげられたらいいのに。
アナワルキは、深い傷を負ったアマルの身体に負担をかけないように寄り添うと、囲炉裏の灯りに浮かび上がるその輪郭を眼でなぞりながら、遠い記憶に思いを馳せた。