九話
「ハル兄、おはよ」
「……」
ベッドの傍らにある椅子に腰掛けながら、私は優しくハルに声をかけた。もちろん、返事は返ってこない。けれども主治医のお医者さんに出来るだけ毎日、沢山お話してあげて下さい、と言われた。植物状態でもちゃんと声は聞こえているらしい。
「昨日ね、一日遅れだけど皆んなが私の誕生日祝ってくれたの。プレゼントもいっぱい貰っちゃった」
「……」
「………私二十歳になったよ。あの時のハル兄と同じ歳になっちゃった」
「……」
「ねえ、ハル兄……私のこと…覚えてるよね?忘れて、ないよね?」
「……」
答えは返ってこない。なぜだかずっと、この事に捉われている気がする。いくら考えたって答えが出るはずないのに。でも考えずにはいられない。
その後、他愛ない近況報告をした後私は部屋を出て、階下を降りた。そしてバスルームでシャワーを浴びる。寝起きに浴びるシャワーはさっぱりして気持ちいい。
脱衣所で持ってきた着替え、Tシャツとショートパンツに着替えた後私は空腹に耐え切れず、リビングに急いだ。髪の毛は濡れたままだが、気にしない。後で乾かそう。
「おはよう、珠代さん!ご飯出来てる?お腹空いちゃった」
「ふふ、おはようございます詩さん。もう出来てますよ」
リビングに駆け込むと笑顔で珠代さんが迎えてくれた。
広くて長い、六人がけの食卓テーブルに珠代さんの手によって朝食、いや昼食が並べられていく。
少しぽっちゃりとした体型の彼女は、笑顔が素敵でその笑顔に私たち家族は癒やされている。年齢は五十七歳だが、そのふっくらした体型のせいもあってか実年齢より少し若く見える。住み込みで働いており、単なる家政婦ではなく、箕山家の家族の一員だと私は思っている。
私が幼い頃からここで働いてくれているので、私にとっては第二の母と言っても過言ではない。
「いただきます!……あ、そうだ。珠代さん、お花生けてくれてありがとう」
「いえ…恋人からの贈り物ですか?」
「そんな人いないって。友達からだよ」
珠代さんと会話しながらも、私は用意された昼食に手を伸ばしていく。焼きたての鮭が適度な塩加減で美味しい。私が作ったらこうはいかない。多分丸焦げになる。
そもそも私は料理そのものをあまり作ったことがなく、赤坂の家にいる時も珠代さんがまとめて作って冷蔵庫に入れといてくれるので料理をする機会が全くないのだ。唯一、作れるものといえばお粥くらい。それも料理とは言い難いかもしれないが。
「今日は何かご予定あるんですか?」
「んー…今日は夕方からスケジュールの打ち合わせがあるだけだからその前に、久々にジム行くつもり」
珠代さんは何もすることがなくなったのか、私の向かいの席に座って紅茶をのんびり飲んでいる。
「相変わらず毎週、ジムに通ってるんですか?」
「うん。最近は曲作りで行けてなかったけど、時間がある時は大抵」
「あまり無理なさらないで下さいね。奥様たちも心配されますから」
「うん、大丈夫。
ーーふう、お腹いっぱい。ごちそうさま」
「はい、お粗末様でした」
珠代さんは立ち上がって、食べ終わった食器を片付けてくれた。
「なんだ、詩。やっと起きたのか」
そんな渋い声と共にリビングに入ってきたのはパパの泰士だった。
銀縁の眼鏡をかけ、淡いピンク色のシャツにジーンズというラフな格好をしている。目鼻立ちがどことなく、ハル兄に似ている。
片手には数冊ものクラッシック音楽の楽譜とペンが握られていて、曲の解釈をするつもりなのだろう。オフに仕事するなんて珍しい。
「おはよ、ママは?」
「すぐ来る」
パパが言う通り本当にすぐ来た。
シックな落ち着いた白いワンピースを身に纏い、首にはシンプルでそれでいて、控えめなダイヤのネックレスをつけている。さっき部屋であった時とはまた違う服装だ。どこかへ出かけるのだろう。
「ママ、どこか行くの?」
「高校の同級生とランチにね」
「ふーん……ねえ、今度はいつまでいるの?」
「そうねえ…半年くらいかしら」
「随分長いね」
いつもなら帰国しても、いつも数ヶ月で帰ってしまうというのに珍しい。
「ずっとお休みもらえなかったからね。それにこっちで何件か仕事があるから完璧なお休みってわけではないのよ」
「ふーん、そうなんだ。
ーーじゃ、私上行くわ。そろそろ準備しなきゃ」
私は立ち上がって半乾きになった髪を、肩にかけていたフェイスタオルでガシガシ拭きながら二階の自室へ戻った。そしてドレッサーの前に座り、ドライヤーで胸の辺りまで伸びた髪を乾かす。
この後ジムに行くので化粧してもあまり意味がない。ベースメイクだけ施して、レンズの大きい黒縁眼鏡をかける。
「よし、準備オッケー」
鏡の前で最終確認して必要な荷物を手に取り、家を出た。もちろんハル兄に「行ってきます」と告げるのは忘れずに。