表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/9

TRACK-5 想う

        1


 まどろみの中、心安らぐ柔らかな旋律だけが耳に届く。

 ソファに横になったまま薄く目を開ければ、大窓から注ぐ午後の陽射しが、部屋を明るさで満たしていた。

 窓の縁に人影が見える。縁に座って、膝に大きなものを抱えている。逆光ではっきりとは分からないが、誰かが何かの楽器を弾いているらしい。ギターだ。

 指ではじかれた弦は、ほろりほろりと歌うような音を奏でる。思いついたまま、気の向くままいているようであるのに、聴き続けていると、それがきちんとしたメロディを築いていくのが分かる。

 これは夢だ。いつの間にか眠ってしまったのだ。でなければ頭がおかしくなったか、だ。 

 弾き手はギターを鳴らすのに夢中なようで、こちらには目もくれない。

 

 ――お前はいつもそうだった。

 

 彼女にとっての一番の存在は、果たして自分だったのか、それともギターだったのか、今でも判然としない。彼女はいつも音楽のことを考えていた。ギターのことを。

 どんな風に弾けばもっとよいメロディになるのか。どうすれば今までにない曲が作れるだろう。アレンジのパターンを増やしたい。口を開けばそんなことばかり。

 深く熱く愛し合った夜を過ごしても、朝になって目を開けると、隣にその姿がない。見回してみれば、ベッドを抜け出して、部屋着姿でギターを弾いている。戻って来いと言っても聞きやしない。そんなことはしょっちゅうだった。

 やはり彼女にとっての最重要項目は、音楽だったのかもしれない。

 

 ――それでもよかったんだ。

 

 一番じゃなくてもいい。その次に自分が立っていられれば。

 側にいられるなら、隣にいてくれるなら、なんだってよかったのだ。

 あの頃は、こんな立派な部屋に住んでいなかったけれど。

 住む場所など、本当はどうでもいい。

 目を閉じると、彼女の姿が浮かび上がる。この陽射しのような、明るく温かい笑い顔が。

 目尻から一雫、頬を伝って耳を濡らした。

 涙など、とうの昔に枯れてしまったと思っていたのに。



 

 虫の羽ばたきのような音が響き、レジーニははっと目を開け、ソファから起き上がった。

 濡れた頬を掌でぬぐう。苦い気分が胸に広がった。

 またか、と、自分に対してうんざりする。いったいどれほど引きずれば気が済むのか。もう痛みを忘れてしまってもいい頃だというのに。

 だがそう思う一方で、忘れることは決してないだろう、とも理解している。忘れられるはずがない。忘れるくらいなら、いっそ……。

 座り直し、眉間を右の親指と人差し指で摘む。口からはため息が出た。

 虫の羽音は、まだ続いている。耳で音を辿り、そちらに顔を向けた。

 音の正体は、テーブルの上のエレフォンだった。マナーモードのバイブレーションのせいだ。

 ディスプレイに、発信者の名前が表示されている。レジーニはエレフォンを取り、電話に出た。

「先生? 珍しいね、僕に直接掛けてくるなんて」

『やあレジーニ、急にすまない』

 電話をかけてきたのはオズモントだった。彼が自分から、こちらとコンタクトをとるのは稀なことだ。いつもならヴォルフを通している。それというのも、彼は正式には裏稼業者ではなく、社会的地位も確かな堅気の人間だからだ。故あってヴォルフに、引いてはレジーニやエヴァンに協力しているものの、両者がつながっているということは伏せられた事実なのだ。堅気の人間が裏稼業者に直接連絡を取るなど、通常ならあるはずのないことである。

「先生がこうして連絡をとってくるということは、何か重要なことでも?」

『うむ。君にはあらかじめ話しておくべきかもしれない、と思うことがあってね』

「例のカプセルの件?」

『いや。昨日、私の所に来ていた女性の件だよ』

 レジーニは、オズモント邸の先客を思い返した。ほっそりとした美人だった。エヴァンが恋焦がれる相手だが、どう考えても「美女と野猿」だ。

「彼女がどうかした?」

『私の知人の娘だと紹介しただろう? その知人というのが……』

 オズモントが語った内容は、レジーニにとっても驚くべき事実だった。そして同時に、有用な情報にもなった。レジーニの頭の中で、事件を調べて収集した情報と、オズモントがたった今話した内容とが交差していく。

『少々出来すぎた話だとは思うが』

 と、オズモント。

『事実というものは、得てしてそういうものなのかもしれん。私の知る限りはすべて話した。あとは君たちにまかせる』

「わかった。話してくれてありがとう」

『彼女を頼めるかね』

 レジーニはすぐには答えなかった。一呼吸おいて、

「それは彼女次第だ」

 とだけ言った。

 オズモントとの会話を終え、電話を切ると、すかさず別の番号からの着信があった。今度の相手はママ・ストロベリーだった。

「ストロベリー? 情報がそろったのか?」

『レジーニ、そのことなんだけど、ちょっとテレビつけてみなさいよ』

 ドラァグクイーンの口調は興奮気味だ。

「テレビ? なぜ」

『いいから早く。どこのチャンネルのニュース番組でもいいわ』

 訳が分からなかったものの、レジーニは仕方なくテレビのスイッチをオンにした。

 壁に埋め込まれた大きな画面に、午後のニュース番組が映し出される。スタジオの様子ではなく、VTRが流れていた。町のどこかの光景だ。

「REC」

 レジーニの音声を認識し、テレビの録画機能が即座に作動する。

 アナウンサーによると、映像はNCTに投稿されたもので、一時間ほど前の出来事であるそうだ。おそらくエレフォンで撮影したものだろうが、機種の手振れ補正機能の性能がよくないのか、画質が荒く、焦点が定まっていない。見やすいとは言えないが、状況を知るには充分だった。

 道路の中心を囲むようにして、人垣が出来ている。人々が取り巻いているのは、三人の人物だ。乱暴な停め方をしたワゴン車の前に、一人の男が立ち、彼の反対側に二人の男女がいる。

 ワゴン車の前の男は長身で、かなり人目を引く風貌をしていた。その男を、レジーニはつい先日目にしている。何よりも特徴的な、赤いゴーグルを着用したその姿。

「あの男は」

『見た? そう、例のあいつよ。名前はサイファー・キドナ。ほんのちょっと前に、グリーン・ベイに現れたみたいね。図書館から女の子を連れ去ったって情報が、アタシのところに入ってきたのよ』

「……ちょっと待て」

 画面は、赤ゴーグルの男――サイファーと対峙する二人の男女を映し出していた。寄り添うように立つ二人のうち、男の方は見間違えようもないほどになじみがある。

「あの馬鹿! なんだってあんなところに……!」

 どう見てもエヴァンだった。撮影者の方に背を向けているが、背格好から判断して、エヴァン以外に考えられない。とすれば、一緒にいる女性はアルフォンセか。

『小猿ちゃん目立っちゃってるわねー。どうもさらわれた女の子を助けに行ったみたいよ。なかなかやるじゃないあのコ』

「ストロベリー、面白がるな」

『小猿ちゃんの好きな子なんでしょ? いいわねえ、身体を張って助けに来てもらえるなんて。女冥利に尽きるじゃない。それよりどうする? 映像、NCTで拡散されるわよ』

「これ以上広がらないようにしてくれ。出来る限り削除してもらえると助かる」

 裏稼業者が、公衆の面前で目立つような行動をとるなど、言語道断である。ましてやその様子が、ネットワーク上に流出するなどもっての外だ。

『わかった、まかせて。それと、サイファーに関してまとめたデータを、コンピューターの方に送っておいたわ。思った以上にやばい奴よ。気をつけて』

 ストロベリーの声が、ワントーン落ちた。

『こいつを調べてみて、〈プレジデント〉がどうしてアナタたちに、今回の仕事をまかせたのかが分かったわ。大きな声じゃ言えないけどね。じゃ、もう切るわね』

 言ってストロベリーは、通話を終了した。

 レジーニはエレフォンをポケットに入れた。テレビ画面を見ると、話題は次のニュースに移っていた。

 テレビを消し、コンピューターを置いてあるデスクに移動する。指紋識別式の電源スイッチに触れると、画面は即座に立ち上がった。

 メールボックスを確認すると、間違いなくママ・ストロベリーからのファイル付きメールが届いていた。

 開こうとしたその時、玄関からインターホンの音が聴こえた。これから肝心な部分を解き明かそうとしていたところに邪魔が入り、レジーニは苛ついた。

 仕方なく、リビングにあるディスプレイで、タイミングの悪い訪問者の顔を確認する。

 映っていたのはエヴァンだった。彼の後ろにはアルフォンセがいた。テレビで見た騒動の後、真っ直ぐにここに来たようだ。

『レジーニ、いるか? 俺だよ俺』

 エヴァンにしては珍しい切羽詰せっぱつまった声が、スピーカーから発せられた。

『いるんなら出てきてくれ。ちょっと大変なことになったんだ。あいつがいたんだよ、あの赤ゴーグル野郎が。あの野郎、アルを連れて行こうとしやがった。おい、いるのかいないのか、返事しげふっ!』

 エヴァンの語尾がいびつになったのは、レジーニが勢いよく押し開けたドアに、顔面をぶつけたからだ。もちろん、自動式のドアをわざわざ手動に切り替えて、狙ってやったことである。

「玄関前でそういうことをペラペラ喋るな。何しに来た」

「お前んちのドアかてえ。無駄に八十階もある高層マンションじゃねーな」

 無駄に、は余計である。それに建物の階数とドアの強度は関係ない。

 ドアが硬いと言いながら、エヴァンはほとんどダメージを受けていないようだ。打たれ強いマキニアンは、こういう時の反応が薄くてつまらない。

「ちょっと訳ありなんだ、入っていいか?」

 駄目だ、と、いつもなら即座に追い返しているところだ。だが今は、アルフォンセが一緒にいる。アルフォンセはレジーニと目が合うと、控えめに会釈した。顔色が悪い。男物のパーカーを羽織っている。おそらくエヴァンのものだろう。

 レジーニは渋々ながら、二人を部屋に招き入れた。

「なあレジーニ」

「なんだ」

「お前、眼鏡は?」

「は?」

 唐突な質問に振り返ると、エヴァンが不思議そうな顔つきで、こちらを見ていた。

「かけてねえけど、見えんの?」

 しまった、とレジーニは内心焦った。だがそんなことはおくびにも出さなかった。何事でもないふうを装い、テーブルの上に置いた眼鏡を取る。

「かけ忘れかよ。どんくさいとこあるな。それにしても、お前のそういう格好、ちょっと新鮮だわ」

 エヴァンは興味津々に、頭のてっぺんからつま先まで、レジーニを眺めた。

 白のカットソーに黒いベストとチノパン、という服装である。髪もセットしていないから、前髪が垂れたままだ。

 外に出る時や人に会う時は、髪型を整えた上に必ずスーツ姿なので、レジーニはスーツしか着ない、というイメージを持たれるのは当然だ。

 プライベートの姿を見られたくないから、今まで誰もこの部屋に招かなかったのに、よりによって最もデリカシーのない野猿の入室を許す羽目になるとは。

「部屋にいる時までスーツ着てるわけないだろう。そんなことより、何があったのか説明しろ。どうせ気づいてないだろうから教えてやるが、一般人の撮った動画に映ってるからな、二人とも」

 レジーニはエヴァンとアルフォンセを指差し、つい先程録画したばかりのテレビ映像を再生した。

 赤ゴーグルの男、サイファー・キドナと、後ろ姿のエヴァンとアルフォンセが映し出される。エヴァンが、ぺし、と自分の額を叩いた。

「ありゃー」

「ありゃーじゃない、この間抜け。ワーカーが目立ってどうする」

「仕方ねえだろ、アルフォンセを助けるためだったんだぜ」

 レジーニは、アルフォンセの様子をちらりと窺った。彼女はおとなしく、居心地悪そうに少し離れた場所に立っていた。

 エヴァンの、勢いと熱意だけは伝わるもののまとまりのない説明によると、件のサイファーは、図書館からアルフォンセを連れ去ろうとしていたらしい。それをエヴァンが追いかけて救出したという。

「図書館? お前、わざわざ彼女に会いに行ってたのか?」

「そのことなんだけどさ」

 エヴァンはアルフォンセを振り返った。アルフォンセはエヴァンの視線に気づくと、ますます居場所がない、というように縮こまった。

 エヴァンはレジーニの腕を引き、部屋の隅まで移動した。声の量を落とし、アルフォンセを気にしながら、話を続ける。

「夕べ、アルフォンセが俺の部屋に入って来たんだ」

 思いもかけない一言だった。

「そんな大胆な子だったとは。物好きな」

「違う! そうだったらすげえ嬉しいし大歓迎だけど、違うんだ」

 エヴァンはポケットから、あの銀のカプセルを取り出した。

「アルはこれが欲しかったんだよ。どうしてなのかは分からない。理由を知りたくて、図書館まで会いに行ったんだ。でも、話してくれなかった」

 レジーニには、アルフォンセが銀のカプセルを欲する理由が分かった。オズモントの話とつなぎ合わせれば、納得がいく。

 サイファーの狙いはアルフォンセとそのカプセルだ。手に入れるために、再度襲撃してくるだろう。

 レジーニは考え至った持論を、今ここでエヴァンに明かす気はなかった。知ればこの青年は、本能のまま突っ走っていくに決まっている。

「サイファーに、あの赤ゴーグルに会ったんだろう? 何か思い出したのか?」

 この問いに、エヴァンは首を横に振った。

「いや、まだ全然。でも、向こうは俺を知ってた。レジーニ、俺のことはどうでもいいよ。俺はアルを守ってやりたいんだ。あの野郎が、いつまたやって来るか分かんねえだろ」

「それはつまり、お前が彼女のボディガードとして付き添う、という意味か」

「ああ」

「彼女はそれを望んでいると?」

「いや、それは」

 エヴァンは言葉をにごした。その態度から察するに、アルフォンセはエヴァンが差し伸べた手を拒否したらしい。それも道理か、とレジーニは思う。

 顔を合わせるのはこれが二度目で、まだ会話もしていない。アルフォンセ・メイレインという女性がどういう人物なのか、まだ決めつけることは出来ない。だが置かれている状況や、おそらくこうであろうと思われる性格を考慮すると、そう簡単に他人に寄りかかることはしないだろう。「これは自分の問題だ」そう考えているのではないだろうか。

「彼女がお前に守られることを望むのなら、側についていてやればいい。ただその場合、正式に“仕事”として依頼してもらう必要がある」

「なんでそんな面倒なこと」

「当然だろう。裏稼業者はボランティアじゃない。ワーカーの労働力が必要なら、それ相応の手続きを取ってもらわないと。その場合、彼女には事情を説明してもらう。彼女の抱えている問題を把握した上で、こちらが関与すべきかどうかを見極める。彼女が事情説明を拒むのなら、この話は無しだ」

「そういう事務的なこと言うなよ。女の子が狙われてるんだぜ? 守ってやろうって思うのが普通だぞ。仕事とか関係ねえだろ」

 エヴァンは予想通りに食ってかかった。本当に分かりやすい男である。

「ついさっき言ったばかりなのに聞いてなかったのか。裏稼業者はボランティアじゃない。ワーカーの労働力は、窓口から割り振られる“仕事”をこなすためにあるものだ。個人的な感情や理由だけで動くことは出来ない。彼女が正式に窓口に依頼し、事情説明に応じ、お前をボディガードとして雇う。これが正解だ」

 エヴァンはまだ、裏稼業者としての自覚が薄い。これまではどうにかやってこられたが、今回は状況が違う。エヴァンは感情に流されている。恋する相手の危機を、自分の手でどうにかしたいと躍起やっきになっているのだ。

 

 ――馬鹿が。

 

 目の前にある熱のこもった緋色の双眸を、レジーニは冷ややかに見下ろす。

 

 ――ワーカーが感情に流されれば、行き着く先は破滅だというのに。

 

 裏社会に身を置く者と、真っ当な表社会の一般人。安易に両者の垣根を越えてはならない。正式に雇い入れる契約を結ぶことで、両者を線引きするのである。 

 レジーニの冷静な態度が気に入らないのか、エヴァンは表情を歪めて反論した。

「なんでお前はそう冷たいんだよ。いつも理屈ばっかりで、頭固くてさ。人を助けようって気持ちに、仕事だとかなんだとか、そんなの関係ねえだろ」

「一般人なら通用するだろうよ、その博愛的主張は。でも僕らは裏稼業者だ。精神論だけじゃやっていけない世界にいるということを忘れるな。元軍部所属者なら分かるだろう」

「だから余計に嫌なんだよ。軍も〈イーデル〉も、俺たち(マキニアン)をただの道具としてしか見てなかった。俺たちは人間だ、道具じゃない。人間だったら、自分の気持ちを大事にするもんだろ」

「残念だが、裏社会ここでも感情論は命取りだよ。そこまで言うなら、彼女に望みを訊けばいい」

 レジーニはつかつかとアルフォンセに歩み寄った。アルフォンセはびくっと肩を震わせ、怯えたような目で、レジーニを見上げた。

「アルフォンセ、君はあいつに守ってもらうことを望むか?」

「え?」

「僕らは裏で仕事を請け負っている。君が正式に依頼するというのなら、あの馬鹿を君のボディガードとして提供しよう。その場合、君が抱えている事情を全て明かしてもらう必要があるが、どうする」

「おいレジーニ、そんな言い方……」

 抗議するエヴァンを、レジーニは指一本突きつけて黙らせた。

 ここは大事な部分である。アルフォンセの覚悟がどれほどのものなのか、それを知るには、多少意地の悪い質問でも答えてもらわなければならない。

 アルフォンセが首を縦に振るなら、それでもいい。レジーニ自らヴォルフに口利きして、エヴァンを護衛につけられるように手配するくらいの手間は、かけてもかまわない。だが拒むのなら、もはやこちらの出る幕はない。

 レジーニたちが今現在請け負っている仕事の内容は、サイファー・キドナと、メメント多発との関係性を調査することだ。サイファーの企みを阻止せよ、というものではない。

 アルフォンセは両手をぐっと握り締め、レジーニを、そしてエヴァンを見た。

「い、言えません」

「では、君がここにいる理由はない」

「はい。お邪魔しました」

 アルフォンセは頭を下げ、玄関の方に足を向けた。

「アル、待って!」

 慌てたエヴァンは彼女を追いかけ、玄関ドアの前で引き止めた。アルフォンセをその場で待たせると、エヴァンは猛然とした勢いで戻ってきて、レジーニの襟首を掴んだ。

 緋色の瞳が、怒りと軽蔑で燃え上がっている。

 ああ、この目を知っている。純粋で、真っ直ぐで、恐れを知らない目。自分が信じるものこそ全てで、出来ないことは何もないと思い込んでいる、若くて幼い目だ。

 

 ――だから嫌だったんだ。

 

 この青年と組むことが。


「お前……最低だな。それでも男かよ」

「性別は関係ない。ワーカーとして当然の対応をしたまでだ。手を離せ」

「ひょっとしたら、本当は面倒見のいい奴なんじゃないかって思ってたけど、マジで氷みたいに冷たい野郎だったんだな」

「僕に何を期待してたんだ? 戯言たわごとは聞きたくないね。もう一度だけ言うぞ。手を離せ」

 エヴァンは信じられないものを前にしたような目でレジーニを睨み、小さく数回頷いた。

「そうか、分かった。もうお前には頼らない」

 突き放すように、レジーニの襟首から手を離すエヴァン。ゆっくりと後退し、やがて方向転換して、レジーニに背を向けた。

 玄関のドアが開き、閉まる音がした。途端に室内は静かになった。

 レジーニは眼鏡を外し、今日二度目のため息を吐いた。

「勝手にしろ」

 いなくなった相手に、吐き捨てるようにして呟く。

 眼鏡をテーブルに置き、再びコンピューターの前に座った。立ち上げたままになっていた画面を操作し、ストロベリーが送ってきたファイルを開いた。

 

        2


 レジーニのマンションを辞した後、アルフォンセは一度図書館に戻りたいと言った。あんなことがあった直後である。いつまた連中が襲ってくるか分からない。危険だから戻るのはよした方がいい。エヴァンはそう答えたが、みんなが心配するといけないから、無事な姿だけでも見せておきたい、というアルフォンセの主張を退けることはできなかった。

 結局、エヴァンは図書館まで付き添うことにした。

 図書館に戻り、アルフォンセが姿を見せると、彼女の同僚であろう女性職員が数名駆け寄ってきた。アルフォンセがさらわれる様子を直接見た者はおらず、ただ急にいなくなった彼女を心配していたのだそうだ。

 側についているエヴァンは、なぜか不審な目で見られた。

 アルフォンセの顔色が良くないことを気にする同僚は、今日はもう帰っていい、と言った。

 アパートまで送るため、アルフォンセについて行こうとすると、女性職員らに引き止められ、厳しい目で睨まれた。

「あの子に変なことしたら、私たちが許さないわよ」

 そんなに怪しい奴に見えるのかよ。少なからず傷つくエヴァンであった。



「ごめん」

 アパートに到着し、アルフォンセの部屋の前まで来た時、エヴァンは彼女に頭を下げた。

「レジーニがひどいこと言って……あそこまで冷たい奴だとは思わなかった。ほんと、ごめん」

「あなたが謝ることなんてひとつもないわ」

 アルフォンセは、少し寂しげに微笑んで、首を横に振った。

「レジーニさんの対応は正しかったわ。事情を話もしない相手を信用することはできないもの」

「でも俺は、それでも君を放っておけない。もう無理に話してくれなんて言わないから、俺をボディガードにしてくれ。もちろん金なんかいらない」

 しかしアルフォンセは、やはり首を振る。

「そんな都合のいいこと出来ないよ。事情を話せないのに守ってもらおうなんて、虫がよすぎるわ」

「アル、なんで話せないんだ? 俺、そんなに頼りないかな」

「違う、そんなことない。それは違うわ」

「じゃあ、どうして」

 アルフォンセは表情を曇らせ、視線を落とす。

「知れば私を軽蔑するわ、きっと。あなたがマキニアンなら尚更」

 エヴァンは息を呑んだ。アルフォンセの口から、マキニアンという単語が出てくるとは思わなかった。マキニアンの存在は、世間一般には知られていないはずなのだ。たとえアルフォンセの目の前で細胞装置を起動させたとしても、マキニアンという言葉が簡単に出てくるとは思えない。

「アル、マキニアンを知ってるのか」

「ええ」

「どこで知ったんだ?」

 アルフォンセは問いには答えず、俯いたまま、

「ごめんなさい」

 それだけを告げ、部屋の中に消えた。

 一人残されたエヴァンは、しばし呆然と、閉ざされたドアの前で立ち尽くした。

 ふと視線を感じ、そちらに少し顔を向ける。マリー=アンが、ドアをわずかに開けて、こちらの様子を窺っていた。心配そうな、不安げな顔で。何か言いたそうに、小さな口を開きかけたが、結局何も言わぬまま、そっとドアを閉めた。

 どれくらいその場にいたのか分からない。やがてエヴァンは、重い足取りで廊下を渡り、自分の部屋に帰った。

〈パープルヘイズ〉に戻る気にはなれなかった。


 

 ヴォルフから何度か着信があったものの、エヴァンは電話に出なかった。

 あらゆることに対する気力が失せていた。あとでヴォルフに拳骨を喰らい、怒られてもかまわない。今は何もかもがどうでもよかった。

 ベッドに身を投げ出し、何も考えず、ただ水槽の中の小亀の様子を、ぼんやりと眺め続けた。

 いったいどれほどの時間、そうやって怠惰に過ごしただろう。いつの間にか外はすっかり暗くなっていた。

 エレフォンの呼び出し音が鳴る。またヴォルフだろうか。画面を見て発信者を確認すると、非通知表示だった。一方的に切り、呼び出し音を止めた。

 一分と置かず、また電話がかかってきた。非通知表示だ。もう一度切る。

 またかかってきたので、すかさず切った。

 それでもしつこく、呼び出し音が鳴り出す。苛ついたエヴァンは電話を取り、ぶっきらぼうに言った。

「何なんだようるせーな! 誰だ!」

 通話口からは、男の声が返ってきた。

『よう。いるならさっさと出ろよクソ坊主』


 

 十分後。エヴァンはとある商業ビルの屋上にいた。屋上には照明装置はないものの、周囲のネオンが闇夜の町を照らし出しているので、視野に問題はない。

 屋上の中央に、大きな影がたたずんでいる。闇に溶け込んだようなその男は、エヴァンの接近に気づくと、くるりときびすを返してこちらを向いた。赤いゴーグルだけが、怪しく光っている。

「来たか」

 ロングコートのポケットに両手を突っ込んでいる立ち姿は、隙だらけに見えた。しかし、不用意に仕掛ければ、たちまち返り討ちに遭うだろう。

「わざわざ呼び出して決着つけようってのかよ。案外律儀だな」

 エヴァンは両の拳を打ち合わせ、いつでも戦闘態勢に入れるように構えた。ところが、こちらのやる気とは裏腹に、相手は片手を上げる。

「まあ、そう逸るなよ。喧嘩しに来たんじゃあないんだ」

「本気の俺と喧嘩したいんじゃなかったのか。相手してやるからかかって来いよ」

「馬鹿言え。全然調子出てないだろうが。いいから落ち着け。俺が誰だか思い出したか?」

「もうお前が誰だろうがどうでもいい。アルに手を出す奴は敵だ」

「相当な惚れ込みようじゃないか。たしかにいい身体してたな。あれでお前を骨抜きに……」

 打ち込んだエヴァンの拳を、男は造作もなく片手で受け止めた。渾身の力で押すも、相手は微動だにしない。

「てめえ……絶対に許さねえ」

「安心しろよ。脱がしはしたが、何もしちゃいない」

 男は受け止めたエヴァンの拳をひねり上げた。エヴァンはその動きに合わせて態勢を変え、拳を引いて間合いを取った。

「俺はサイファーだ。サイファー・キドナ。名前を聞いてもまだ思い出さないのか」

「どっかで会ったような気はするよ。それがどうした」

「なら、今から挙げる連中、覚えている奴全員言ってみろ」

「は?」

「黙って従え。ドミニク、ルミナス、パーセフォン、シェド=ラザ、エブニゼル、シーザーホーク、ガルディナーズ、ベゴウィック、ウラヌス、シェン・ユイ、ロゼット。ディラン・ソニンフィルド」

 サイファーが挙げた名前は、どこかで聞き覚えのあるような気がした。その中には、たしかに知っている名前もあった。

「どうだ。誰を覚えている。言え」

「ドミニク、ガルディナーズ、シェン・ユイ、ロゼット」

 エヴァンは、懐かしい名前を口にした。 

 彼らは、粗悪体のエヴァンとも親しくしてくれたマキニアンたちだ。〈SALUT〉が解散したと聞き、気がかりだったのは彼らの現状だった。ドミニクとガルディナーズは問題ないだろうが、ロゼットとシェン・ユイは若かったから心配だった。

 エヴァンが答えると、サイファーは声を上げて笑った。

「そうか、やはりな! おかしいと思ったぜ。害のない連中だけ残して、あとは消したってわけか」

「何言ってんだ、お前?」

「お前、今はエヴァンとか名乗っているらしいな。ならエヴァン、教えてやる。お前は記憶を弄られたんだよ、〈イーデル〉の奴らにな」

「俺の記憶を? なんで……」

 エヴァンは眉をひそめた。〈イーデル〉の研究者たちが、自分の記憶を弄るとはどういうことだろう。そんなことをして何になるのだ。

「お前は記憶を改竄かいざんされて、そのままコールドスリープを施されたんだ。だから今のお前は、昔と違うのさ。本当の記憶を消し、都合のいいように書き換えられてるんだよ。お前が本来の能力を発揮出来ないようにするために」

「だから、なんで俺にそんなことする必要があるんだ。俺は粗悪体だろ?〈SALUT〉の中じゃ底辺だったじゃねえか」

「粗悪体? ある意味ではそうかもな。だが理由は粗悪体だからじゃない。お前が怖かったからだ。自分たちが創り出した怪物に、牙を向けられるのが恐ろしかったんだよ、あの馬鹿どもは」

 サイファーの話は、エヴァンの理解の範疇を超えていた。〈イーデル〉の研究者たちが自分を恐れていたとは、どういうことなのか。

 どう答えていいのか分からないエヴァンをよそに、サイファーの話は続く。

「〈SALUT〉を構成していたマキニアンは、約三十人いた。その上に、もっとも強力なナノギアシステムを搭載したトップクラス十一人で組織された少数精鋭部隊がある。そいつらは〈処刑人ブロウズ〉と呼ばれていた。さっき挙げた連中のうち、ユイ、ロゼット、ソニンフィルドを除く九人に、俺と、そしてお前を含めた十一人だ」

 ブロウズ。その名前は、エヴァンの胸を深く突いた。知っている気がする。だが、思い出してはいけない。漠然とそう思った。

「〈処刑人〉……? 俺が? お前もマキニアンだって?」

「話の流れから分かるだろ。俺たち十一人は、軍部最強の部隊だった。メメント対策の戦闘員とはいえ、マキニアンは人間相手にも通用する戦闘能力を有する。これを、将来の脅威になる、と〈政府〉が判断したわけだ。

 怖くなったんだよ、自分たちが飼いならしていると思い込んでいた怪物どもが、いつか〈政府〉にとって都合の悪い存在になりはしないか、とな。そのきっかけになったと思われる事案が、通称“CASE40”。お前の初陣ういじんだ」

「俺の、初陣……」

「そうだ。〈処刑人〉第四十番掃討作戦。それまでで最大級の任務だった。大型メメントと、そいつから生まれる小型メメントの群れを駆逐する作戦だった。大量に発生していたメメントを倒したのはお前だ。お前が一人でやった。

 お前の本当のナノギアシステムは、接近戦特化の〈イフリート〉なんかじゃあない。それは、本来のシステムのカモフラージュのために加えられた、ただのハリボテだ。お前は、より多くの敵を、より速く討伐することを前提に生み出されたマキニアンの一人なんだよ」

 エヴァンは信じられない思いで、自身の両手を見下ろした。

「嘘だ、そんなわけあるか!」

「ならなぜ、お前はコールドスリープにされたんだ? 答えは簡単だ、邪魔だったのさ、作戦にな」

「作戦って……」

「マキニアン抹殺作戦。〈政府〉保守派が、極秘に軍部に命じた作戦だ。その名の通り、俺たちマキニアンを殺すためのミッションだよ。陸軍の大部隊が〈イーデル〉にある〈SALUT〉本部に乗り込んできた。そうして〈イーデル〉は戦場と化した」

 頭が痛い。心臓の鼓動が早くなる。

 考えるな。思い出すな。

「陸軍部隊の手によって、ノーマルクラスのマキニアンはほぼ全滅。生き残ったのは数名のノーマルクラスと〈処刑人〉全メンバー。そして〈SALUT〉総司令官ディラン・ソニンフィルドだけだ」

「ちょっと待てよ! いくら軍隊の方が人数多いからって、マキニアンが何十人もそろって、それで全滅? ありえないだろ!」 

「ああ、普通ならナノギアを駆使すれば、軍隊壊滅はできなくても、全員無傷で脱出することは簡単だったはずだ。だが、向こうは忌々しいことに、マキニアン対策を打ってきたんだよ。オートストッパーだ。マキニアンに付与された能力制御機能を逆手に取りやがったのさ」

 ああ、とエヴァンは肩を落とした。説明されなくても理解できたのだ。

 オートストッパーは、非武装の人間に対してナノギアが起動しないように、マキニアン全員に課せられる義務システムだ。これを逆手に取るということは、つまり、

「軍隊は、武装してなかったんだな」

 少なくとも、マキニアンと直接対決する際には、武装を解いていた、ということだろう。

 オートストッパーにより、出力が一般人並みに制限されてしまったマキニアンは、体得した戦闘技術のみで軍隊に立ち向かわなければならない。こうなると純粋な実力勝負であり、陸軍兵士の方がマキニアンの格闘術を上回っていれば、マキニアンが敗北する可能性は充分にある。

「その通りだ」

 サイファーは頷いた。

「これが〈パンデミック〉の真実だ。〈政府〉保守派は、お前が作戦の大きな障害になると判断し、〈イーデル〉内の保守支持派を動かして、お前の記憶を改竄し、コールドスリープを施した。もしあの時、お前があの場にいたら、結果は変わっていたかもな」

「俺にだってオートストッパーがある。俺がいたって変わらなかったんじゃねえのか」

「だが、もしも、お前のオートストッパーを解除したら? 出力制限を課せられなくなったお前がナノギアを使えば、軍隊を皆殺しに出来ただろうよ」

 頭痛が酷くなっていく。握った拳が熱い。

「う、嘘だ! 俺にそんな力はない! だいたい〈パンデミック〉っていうのは、メメント大量発生事件なんじゃなかったのかよ!」

「ああ、発生したよ。そりゃあもううじゃうじゃとな。そこで問題だ。なぜメメントは大量に発生したのか? メメントの発生条件は判明していない、と言われている。世界中のあちこちで起きている紛争現場においても、どれだけ大量の人間が死のうが、一体もメメント化しないケースなんざ珍しくはない。なら、そういう場合と〈パンデミック〉との違いは、どこにあったんだ?」

「そんなの……そんなの俺が知るかよ」

「だが、俺たちマキニアンは知るべきだと思わないか? 俺たちが今まで、何と戦ってきたのか」

 サイファーはもう一方の手をポケットから出した。何かを握り締めている。サイファーはそれを摘むように持ち変え、エヴァンに見せた。

 銀色のカプセルだった。エヴァンが入手したものより、一回り小さい。

「答えは、この〈スペル〉の中にある。お前にも見せてやるよ」

 サイファーが、〈スペル〉を持たない方の腕を伸ばした。その腕が複数に分裂し、縄のようにエヴァンの身体に巻きついた。

 エヴァンを絡め取ったサイファーは、大きく半円を描くように持ち上げ、地面に叩きつけた。 

 背中をしたたか打ちつけたエヴァンの肺から、空気が搾り出された。瞬間、呼吸困難となり、エヴァンは喘いだ。

 すかさずその上に圧し掛かるサイファー。エヴァンを押さえつけたまま、〈スペル〉を摘んだ指を、口の中に突っ込んだ。

 サイファーの指が、喉の奥にまで伸びる。〈スペル〉が喉を滑り落ち、エヴァンはそのまま飲み込んでしまった。

〈スペル〉を飲み込ませたサイファーは指を抜き、エヴァンを引っ張り上げた。

「存分に味わえ。運がよければ、最高にハイになれるぜ」

 むせて咳き込むエヴァンを、屋上の端まで引きずっていくサイファー。再びエヴァンを抱え上げ、夜の街に放り投げた。

 宙に放られたエヴァンは、ハンドワイヤーを起動し、ビルの壁に突き立てた。が、意識が朦朧もうろうとしていて、思うように身体が動かなかった。

 ハンドワイヤーはあっさりと壁から外れてしまい、支えを失ったエヴァンは、奈落の闇に落ちていった。


        3


 気がつくと、アパートの前にいた。どこをどう歩いてきたものか、さっぱり記憶にはないが。

 屋上から落とされたエヴァンは、幸いにも落下地点が植え込みだったため、たいした怪我も負わずにすんだ。

 外傷はなかったのだが、その代わり、ひどく気分が悪い。身体中が熱を帯びていて、頭の中がぼんやりする。周りの音が遠くに聞こえる。

 重い足をゆっくりと運び、エレベーターに乗る。全ての動作が、自分のしていることだとは思えないほどに、エヴァンの意識は遠かった。

 エレベーターが十二階に到着した。壁を伝って歩き、自室を目指す。途中で、アルフォンセの部屋の前を通った。

 ドアの向こうにいるであろう、彼女の姿を思い浮かべる。

「エヴァン」

 名前を呼ばれた。彼女だろうか。

 声のした方に顔を向けると、小柄な少女が立っていた。

「ど、どうしたの? すごく顔色が悪いわよ?」

「……マリー……」

 少女の名を呟く。そこまでが限界だった。エヴァンの意識は完全に離れた。



「エヴァン!」

 突然倒れた青年に駆け寄ったマリーは、彼の側に膝をついた。

 エヴァンの顔色は真っ青だった。額はびっしりと脂汗をかき、呼吸が荒い。

 マリーはどうすればいいのか分からず、うろたえた。

 ――どうしよう、どうしたらいいんだろう。

 悪い病気にかかってしまったのだろうか。いつものバカみたいに元気で明るい面影はどこにもない。こんなに弱った姿を見るのは初めてだ。

 何かしなくてはいけないが、何をしてやればいいのか思いつかない。祖父母は私用で出かけていて不在だ。部屋に戻って救急車を呼ぶべきだろうか。でも、目を離している間に、エヴァンの身に何かが起きてしまったらどうしよう。

 パニックになったマリーの両目に、みるみる涙が溢れてきた。

 その時、すぐ側のドアが開いた。

「マリー?」

 ドアから顔を出したのは、アルフォンセだった。マリーはアルフォンセを見上げた。

「エ、エヴァンが……」

 アルフォンセはドアを大きく開いた。倒れて動かないエヴァンを見ると、息を呑んだ。

「な、何があったの?」

 しゃがみこんだアルフォンセは、エヴァンの容態を調べ始めた。

「分かんない……すごく具合が悪そうで、急に倒れたの」

 マリーは震える手で、アルフォンセの腕を掴んだ。

「ねえ、エヴァンどうしちゃったの? 病気なの? ど、どうしたらいいの? おじいちゃんもおばあちゃんもいないの」

 不安で胸が潰れそうだった。

 アルフォンセはマリーの手を取り、頭を優しくなでてくれた。

「大丈夫、私がてみるわ。だから心配しないで」

「本当? アルが助けてくれるの?」

「ええ、やれるだけやってみる。だから、彼を部屋に運ぶのを手伝ってくれる?」

 アルフォンセの真っ直ぐな目に、マリーの不安は少しだけ和らいだ。両目に溜まった涙を、手の甲で拭い、うん、と頷く。

 それからアルフォンセと協力して、エヴァンを彼女の部屋に運び込んだ。成人男性を運ぶのは大変だったが、どうにかベッドに寝かせることに成功した。

「ありがとうマリー。あとは私にまかせて」

「あ、あの、あたし、出来ること、ある?」

 そう申し出ると、アルフォンセは柔らかく微笑んだ。

「ううん、大丈夫。心配だろうけど、具合が良くなったら教えるから、お部屋に戻ってて。もう時間も遅いわ」

「……うん」

 手伝いたいというのは本心だ。だが、自分には何も出来そうにない、とも分かっていた。マリーはアルフォンセに送ってもらい、素直に自室に戻った。

 部屋に戻ったマリーは、お気に入りの猫のぬいぐるみを抱きかかえ、ベッドの上にうずくまった。


 

 ベッドに横たわるエヴァンは、荒い呼吸を繰り返していた。

 ――なにがあったのかしら。

 エヴァンはマキニアンだ。マキニアンは、そう簡単に体調を崩さない。それが、ここまでの状態になるのだから、よほどのことが起きたに違いない。

 エヴァンの身体の表面が、うっすらと光を帯び始めた。光は稲光のようにまたたき、はじけては消え、また現れる。

「ノイズだわ」

 マキニアンの身体に、深刻な異変が起きた場合に発生する現象である。アルフォンセは急いでクローゼットを開き、奥に隠していたものを引っ張り出した。

 皮製の古いトランクである。中にはコンピューターや、周辺機器などが納まっている。ただし、世間に出回っているような機材とは異なるものである。

 アルフォンセはそれらの機材を、エヴァンが眠るベッドの側で広げた。

 エヴァンの上着を脱がせて汗を拭き、首の後ろや二の腕の付け根にある接続孔にケーブルを挿し、コンピューターと繋げた。

 立ち上げたコンピューターの画面に、エヴァンの状態を表示する映像と数値が表示される。

「力を貸して、お父さん、兄さん」

 アルフォンセは祈るように両手を組み、作業に取り掛かった。


 

 エヴァンの体調を崩させた原因を突き止めるのに、少々時間がかかってしまった。データを照らし合わせると、とんでもない結果が弾き出された。

「大変……、〈スペル〉を飲み込んでるんだわ!」

 アルフォンセは慌てて、エヴァンの体内にある〈スペル〉の状態を調べた。時すでに遅く、〈スペル〉の内容物はカプセルの中から解き放たれていた。

「急がないと」

 こうなってしまっては、強制的に異物を排出させるしかない。 

 トランクの中を探り、注射器と薬品ケースを取り出す。ケースから、薄水色の液体の入ったアンプルを取り出し、注射器にセットした。

 エヴァンの首筋に注射器をあてがい、薄水色の液を注入する。これは〈スペル〉を吐き出させるための薬剤だ。効果はすぐに現れるだろう。

 あとは体内に流出した異物を除去する薬が必要だ。薬品ケースから透明な黄色いカプセルを取り出そうとしたその時、エヴァンが大きな呻き声を上げた。

 エヴァンはベッドの上でのた打ち回った。胃や喉元を掻き毟り、苦しそうに歯を食い縛っている。

「我慢しちゃだめ! 吐いて!」

 エヴァンの身体を横にして、用意していた洗面器を口元に近づける。エヴァンは何度もえずいた。アルフォンセは背中をさすり続けた。

 やがてエヴァンの口から銀色のカプセルが、吐瀉物とともに吐き出された。

 エヴァンは再び横になり、荒い呼吸を繰り返した。

 アルフォンセは、エヴァンの口の周りを拭って汚れを落とした。〈スペル〉を吐き出すのさえ苦しいのに、これから更に苦しまなければならないのだと思うと、エヴァンが気の毒だった。だが、助けるには他に方法がない。

「エヴァン、もうちょっとだから頑張って。これを飲んで」

 黄色のカプセルを、エヴァンの唇に当てる。しかしエヴァンは、顔を背けた。無意識の拒絶反応だろう。

「お願い、口を開けて。これを飲まないと大変なことになるのよ」

 アルフォンセは何度もカプセルを飲ませようと試みたが、エヴァンはその度に顔を背けて拒んだ。

 もうこれ以上時間をかけることは出来ない。

 アルフォンセはカプセルと水を口に含み、エヴァンの顔を正面に向け、唇を重ね合わせた。

 アルフォンセの口からエヴァンの口へ、水と共にカプセルが移された。エヴァンの喉がうなる。カプセルを飲み込んだようだ。

 アルフォンセは唇を離し、ほっと一息ついた。あとは異物を吐き出しさえすれば大丈夫だ。

 カプセルの効果によって、連続嘔吐が始まったのは、それから間もなくの頃だ。エヴァンは何度も嘔吐し、アルフォンセはそれを介護した。

 嘔吐が収まったのは一時間後のことだった。体力を使い果たしたエヴァンは、一度も目を開けることなく、ぐったりとして眠りについた。

 アルフォンセは、エヴァンが眠ったのを見届けると、汚物の処理をした。吐き出された〈スペル〉はよく洗い、小さなケースに入れてトランクにしまった。

 コンピューター画面上の、エヴァンのステータスを確認する。数値に変化はなく、安定している。ヤマは越えた。もう大丈夫だろう。

 エヴァンの容態が回復したことをマリーに伝えるために、部屋を訪ねた。ジェンセン老夫妻は帰宅していて、午後十一時を過ぎた訪問にも関わらず、快く応対してくれた。

 マリーは寝室で眠っていた。待ちくたびれたのだろう。ぬいぐるみをしっかり抱え、小さな寝息をたてていた。

 アルフォンセは少女を起こさないよう、そっとジェンセン宅を辞した。自室に戻り、マリー宛のメールを作成する。エヴァンは回復しているから安心していい、という内容を書き、マリーのエレフォンに送信した。

 全てが落ち着くと、自分の汗を流すために、バスルームに向かった。

 適温のシャワーを浴びると、少し気持ちが落ち着いた。が、それも束の間のことだった。ボディソープで身体を洗う時、胸や腹を見下ろした途端、昼間の出来事が脳裏を過ぎった。

 押し倒され、乱暴に脱がされ、身体中を触られた恐怖。まだ誰にも見せたことのない身体だったのに、あんな風に晒し者にされてしまったことが、悔しくて悲しくてならない。エヴァンが助けに来てくれなかった場合を考えると、恐ろしくて震えてしまう。

 ――忘れよう。

 触られただけで、それ以上のことをされたのではないのだから、一刻も早く忘れてしまうことだ。アルフォンセは自分にそう言い聞かせた。

 シャワーを終え、バスローブを纏う。髪をタオルで拭きながら、エヴァンの様子を見るために寝室に戻った。

 マキニアンの青年は、先程よりも血色が良くなっていた。ノイズは収まり、呼吸も落ち着いている。ステータスも状態良好を示していた。

 確実に回復傾向にあることを確認したアルフォンセは、ベッドサイドに腰掛け、眠り続けるエヴァンを見つめた。

 彼が飲み込んでいた〈スペル〉は、通常のタイプよりも小さかった。明らかに、人間にも取り込めるように作られたものだ。アルフォンセの胸に、苦い思いが広がる。父がもっとも恐れていたことが、現実になってしまったのだ。

 小型〈スペル〉は、あのサイファーという男が持っていたものに違いない。エヴァンはどこかであの男と遭遇し、〈スペル〉を飲まされたのだろう。

 自分に乱暴した、赤いゴーグルの男。あの男が父を殺した犯人だ。

 長い間ずっと追い求めてきた、父の死の真相にようやく近づけた。

 ずっと一人でやってきた。頼れる者はいなかった。誰も巻き込みたくなかった。だから、自分の力だけでやるしかなかったのだ。

 だが、それも限界かもしれない。自分は非力だ。父を殺害した犯人を突き止めたところで、対抗できるはずもない。ましてや復讐など。

 事実、昼間サイファーたちにさらわれた時、手も足も出なかったではないか。

 

 ――この人が来てくれなかったら。

 

 ぼろぼろに傷つけられ、命令に従わされていたかもしれない。

 

 ――あなたは、マキニアンだったのね。

 

 助けに来てくれたあの時、エヴァンの変形を目の当たりにしたアルフォンセは、彼がマキニアンだとすぐに分かった。驚きはしたが、怖いと思わなかったのは、相手がエヴァンだったからかもしれない。

 初対面の印象は良くなかったとはいえ、改めて見るエヴァン・ファブレルという人物は、実に真っ直ぐで純真そのものだと思った。人との衝突を恐れず、正面から向き合う。そのひたむきさが、アルフォンセには羨ましかった。

 他人とぶつかり合うことを恐れなければ、今頃は違った人生を歩んでいただろうか。過去に囚われず、自分自身の幸せを追い求めていけただろうか。


 ――君が好きだからだ。


 エヴァンの告白はストレートで、甘い枕詞も、遠回しな比喩表現もなかった。だからこそ、真っ直ぐ心に響いた。

 本音を言えば、嬉しかった。けれど、アルフォンセの背負う使命感が、彼の想いを受け入れることを、よしとしなかった。

 もしも自分に何の義務もなかったら、素直に彼を愛せたかもしれない。

 規則正しく呼吸するエヴァンの唇に視線が移る。アルフォンセは自分の唇に触れた。

 さっきは無我夢中だったが、思い返せば、あれが初めてのキスだった。

 急に恥ずかしさを覚えたアルフォンセは、耳を真っ赤に染めて、そそくさとベッドを離れた。



 替えのブランケットを持って、ベッドの反対側に置いてあるソファに横たわる。

 コンピューターの作動する音だけが低く響く中、アルフォンセもまた眠りに落ちた。


        *


 香ばしい匂いが鼻をくすぐる。これは何かを焼いている匂いだろうか。ベーコン? ブラックペッパーの香りもする。弾けるような音は、卵?

 無意識に鼻がひくひく動いて、美味しそうな匂いの源を求める。腹が、ぎゅう、と鳴った。

 空腹と、それを訴える自分の腹の音で、エヴァンは目を覚ました。

 両目を開けた直後は、どこにいるのか一瞬分からなかった。自分の部屋に似ている気がしたのだが、雰囲気はまるで違う。

 寝たまま視線を落とす。両腕に電子ケーブルが挿し込まれている。首の裏に手をやると、そこにもケーブルが挿入されていた。ケーブルは、コンピューターなどの機材とつながっていた。コンピューターのモニターには、マキニアンのステータス画面が表示されている。

 

 ――俺、たしか、サイファーに何か飲まされて……。

 

 やっとの思いでアパートに帰り着いたところまでは覚えている。その後の記憶は、ぷっつりと途絶えていた。

 エヴァンはケーブルを引き抜き、ベッドから起き上がった。あれだけ具合が悪かったのに、もうなんともない。

 上半身は裸だった。服はベッドのすぐ側に、きちんと畳んで置かれていた。洗濯までされている。

 服を着て、よい匂いをたどっていく。着いた先はキッチンだ。ほっそりとした後ろ姿が、そこにあった。

 じっと見つめていると、こちらを振り返った。片手にフライパン、もう片方の手にフライ返しを持ったアルフォンセである。

 アルフォンセはエヴァンに気づくと、いつもの柔らかな笑みを浮かべ、

「おはよう」

 と、言った。フライパンの中身――ベーコンエッグ――を真っ白な皿に盛り付けながら、

「具合はどう? 頭痛くない? 吐き気は?」

 エヴァンの様子を尋ねる。

「あ、ああ。うん、もうなんともない。君が助けてくれたのか?」

 アルフォンセは少しはにかんだ表情を見せた。

「やれるだけのことをやっただけ。お腹空いたでしょう。朝食、あと少しで出来るから、先に顔洗ってくるといいわ。タオルは用意してあるから」

 薦められるままに洗面所へ向かった。冷たい水で顔を洗うと、眠気はすっかり失せた。

 ハーブ系のさわやかな香りがするタオルで、濡れた顔を拭く。その時になってようやく気づいた。ここはアルフォンセの部屋だ。

 アルフォンセの部屋で、二人きりの朝。

 男女の甘い夜を過ごしたわけでもないのだが、置かれているシチュエーションに、妙にドキドキしてしまう。

 キッチンに戻ると、朝食の支度が整っていた。清潔なチェック柄のクロスと、無地のランチョンが敷かれたテーブルに、二人分の朝食。トーストと、ブラックペッパーを散らしたチーズ入りのベーコンエッグ、レタスとトマトのサラダ、コーンスープ、ソテーしたマッシュルームにオレンジジュース。

 献立としては、ごく一般的な朝食のラインナップなのだが、いつも大盛りのシリアルか、マーケットでまとめて買っているチルド食品で済ませているエヴァンにしてみれば、宝石のように輝くご馳走だった。

「これ、食っちゃっていいの?」

「どうぞ。そのために作ったんだもの。口に合うといいんだけど」

 アルフォンセが自分のために作ってくれた料理が、口に合わないはずがない。

「い、いただきます!」

 エヴァンは着席するなり、さっそく朝食にかぶりついた。空腹だったこともあり、食が異常に進む。当然のことながら、味も抜群だった。こんなにまともな朝食を食べたことが、今まであっただろうか。感動で涙が出てきそうだ。

 向かいの席に座ったアルフォンセは、エヴァンの貪るような食いっぷりを、慈愛の眼差しで見守りつつ、ゆっくりと食事を口に運んでいる。スープのおかわりを頼むと、大層喜んで、スープカップに注いでくれた。

 たらふく食べたエヴァンは、昨夜の災難など忘れて幸福感に浸った。アルフォンセは食事の後片付けをしている。その後ろ姿を眺めているだけで幸せだ。まるで恋人同士のようではないか。

「エヴァン? どうして笑ってるの?」

 後片付けを終えたアルフォンセが、不思議そうな顔で言うまで、にやにやしていたことにも気づかなかった。

「い、いや別に! なんでもないよ!」

 裸エプロンまで妄想が暴走していたことは、口が裂けても言えない。

「そ、それより、まだちゃんとお礼言ってなかった。ありがとう」

「いいえ。私の方こそ、あなたに助けてもらったわ」

 首を振るアルフォンセは、エヴァンの向かいの席に座り直した。

「あのさ、俺、夕べどうなってたんだ? 何が起きたのか全然分かんないんだ。サイファーに呼び出されて、何か飲まされたんだけど。アル、どうやって俺を治してくれたんだ? 俺は……」

 エヴァンの言葉の続きは、アルフォンセが継いだ。

「マキニアン。マキニアンが体調を崩した場合、一般的な医療技術では治せない。分かってるわ」

「アル、なんで君がマキニアンのことを?」

「それも含めて」

 アルフォンセは真っ直ぐにエヴァンを見た。迷いのない、澄んだ眼差しだ。 

「全て話します」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ