TRACK-4 ガムシャラ
1
午前九時、シーモア・オズモントから連絡があった。預けた銀色の物体について、現在分かったことを教える、という用件だった。
エヴァンはヴォルフの許可をもらい、店への出勤を遅らせ、レジーニとともにオズモント邸を訪ねた。
オズモント邸の玄関扉が開くや否や、犬のジャービルが元気よく走ってきた。尻尾を大きく振りながらエヴァンに飛びつく。
「おー。ジャービル元気だったか?」
顔中を舐めるジャービルの歓迎に、エヴァンは頭や首筋を撫でて応えた。
「先生はどこにいるんだ?」
いつもなら、不機嫌そうな顔を、階段の手すり越しに見せるはずである。だがオズモントが現れる気配はない。インターホンからは本人の声で返事があった上、玄関には鍵がかけられていなかったので、留守ということはないだろうが。
ジャービルが、尻尾を振りながら廊下の奥へと駆けていく。途中で振り返り、黒い目でエヴァンとレジーニを見つめる。案内してくれるようだ。
ジャービルに案内されて着いた先は、応接室だった。オーク材の手動扉が少し開いていて、そこから話し声が聴こえてくる。
ジャービルが扉の隙間から応接室に入っていった。エヴァンは彼に続き、扉を押し開けた。
中にいた人物が二人、こちらを見た。一人はもちろんオズモント。自分専用の一人がけソファに座っていて、エヴァンとレジーニに気づくと、
「やあ、ご足労だね」
と、いつもどおりの不機嫌そうな顔で声をかけてきた。ジャービルは彼の足元で、行儀よく腹這いになっている。
もう一人は意外な人物だった。エヴァンを見ると、驚いて深海色の目を丸くした。驚いたのはエヴァンとて同様である。
「アルフォンセ? なんでこんなところに」
「エヴァン、あなたこそ」
オズモントの向かいのソファに座っていたアルフォンセは、ゆっくりと立ち上がった。視線がレジーニに向く。
「ああ、こっちはレジーニっていって、俺のあいぼぐふっ」
最後まで言い切らないうちに、レジーニのパンチが脇腹にヒットした。
「相棒……?」
「お嬢さん。野猿の世迷言は気にしないことです」
レジーニはいつもより柔らかい表情で、アルフォンセを諭すように言った。これはいかん、とエヴァンは慌てた。普段気難しそうな雰囲気のレジーニが、何かの拍子に刺々しい態度を和らげる。そのギャップに、これまで何人もの女性が落とされているのだ。アルフォンセだけは死守しなければならない。エヴァンはアルフォンセの注意がレジーニに向かないよう、やや声量を上げた。
「そ、それよりさあ! どうして君が先生のとこに? 知り合い?」
「知り合い、というか、その……エヴァン、あなたは?」
「俺は、ちょっと先生に世話になっててさ。えーっと」
エヴァンはちらりとレジーニを横目で見た。レジーニは「いつもみたいにバカ正直に話したら、あとで叩き殺す」と、目で答えた。
「まあ、なんつーか、たまに遊びに来るんだ」
「そう……」
「なんだ、君たち二人は知り合いだったのかね」
と、オズモント。特に驚いている様子はない。
「俺の向かいの部屋に引っ越してきたんだ。先生、アルフォンセとどういう関係?」
「なに、彼女本人とはたいしたつながりはない」
オズモントは、ひょいと肩をすくめた。
「昔、彼女のお父上と仕事上の付き合いがあってね。私がここに住んでいると知り、わざわざ挨拶に来てくれたのだよ」
「へー、そうなんだ」
アルフォンセは、何か言いたそうにオズモントを見つめたあと、
「それじゃあ、私はこれで」
オズモント、エヴァン、レジーニそれぞれに会釈し、アルフォンセはそそくさと退室した。
「あ、ちょっと」
エヴァンは慌ててあとを追った。アルフォンセは早足で、もう玄関ホールまで進んでいた。
「先生と話があるんじゃないのか? 大事な話だったら、俺たちは待ってるけど」
こっちの用事も大事には違いないが、エヴァンはアルフォンセを優先した。今の言葉をレジーニが聞いたら、即座に殴られただろう。
「私はいいの、もう済んだから」
アルフォンセは、身体を半分だけエヴァンに向け、伏し目がちに答えた。
「本当に?」
「ええ、本当。あの、私、これから図書館に戻るから……」
「ああ、うん。えっと、それじゃあ、また」
「ええ、また」
アルフォンセは、最後に少しだけエヴァンと目を合わせてから、扉の向こうに姿を消した。逃げるようなその様子に、一抹の不安を覚えたエヴァンは、彼女を追おうか迷い、足を踏み出しかけた。だが、自身の中に芽生えつつある裏稼業者としての自覚が、その衝動を押し殺した。
アルフォンセが去った扉をしばし見つめ、エヴァンは応接室へと戻った。
戻るとすぐに、レジーニは本題に入るよう、オズモントに言った。オズモントは預けた銀色の物体を持ち出し、ソファの前のテーブルに乗せた。
「率直に言おう。私の力では、これが一体どういうものなのか、具体的なことは突き止められなかった。申し訳ない」
「具体的な……では、ある程度の見当はついている、と?」
尋ねるレジーニに、オズモントは頷く。
「憶測にすぎないがね。これは容器だよ。特定の物質のみを収納するように出来ているようだ」
「特定の物質って、なんだ?」
「そこまでを解明するには、私は専門外ということだよエヴァン。科学者の友人なら何人か当てはあるが、あまり表の人間には触れさせたくなかろう?」
「そうだね。あなたのように、裏社会とつながっている科学者でもいれば、話は早いのだろうけど」
レジーニの、やや皮肉めいた一言に、オズモントはわずかに口元を歪ませた。
「そういう連中もどこかにはいるだろうが、あいにくと私の友人たちは、私と違って皆、真面目で清廉潔白なのでね」
オズモントの小枝のような指が、銀の物体を示した。
「容器、と言ったが、今はこの中は空っぽだ。何を入れるものか、考えつく限りの物質の収納を試みてみたが、どれも失敗した」
オズモントが物体に触れると、双円錐形の頂点が四つに分かれ、口が開いた。内部は空洞である。
「このとおり。つまりはカプセルのようなものだろうと思われる。設定した時間に開くようにもできるし、おそらく遠隔操作も可能だろう。そこで一つ仮説を立てたのだが」
オズモントは両肘を、膝の上に乗せた。
「例えばこれが、あるものの内部に挿入することを前提として造られたものだとしよう。この銀のカプセルが、その“あるもの”の内部にあって、設定した時間に開く。あるいは遠隔操作で開かせる。カプセルの中に収められた物質は、“あるもの”のなかに浸透する。そうなると、何が起きるのか」
オズモントは言葉を切った。エヴァンには、老人の言っていることの意味が、よく分からなかった。しかし、レジーニには理解できたらしい。
「まさか」
声色硬く、秀麗な眉をひそめる。
「あくまでも仮説だ、レジーニ。決定的な証拠はない。だがはっきりしたことはある」
老人の瞳に、追求者の光がきらめいた。
「この容器を造った人物は、少なくともメメントが発生する原因を知っている、ということだ」
「さっきの先生の話、どう意味なんだ?」
オズモント邸を辞した後、エヴァンは電動車の中でレジーニに訊いた。
「お前が理解できなかったのは承知の上だよ」
「すいませんね、頭悪くて。それよりなんでこれが、メメントが湧く原因になるってんだよ」
エヴァンの手の中には、件の銀の物体がある。
「先生が言っていた“あるもの”というのは死骸のことだ。今の段階では仮説にすぎないが、それは死骸、ひいてはメメントの内部に挿入されるように造られたものだろう。その容器に、メメント化する要因となる何かを注入し、死骸に埋め込む。時間が経つと開き、内容物が死骸の中に浸透する。そしてメメントになる。これが正しいのなら、事件がつながる」
「つながるって?」
「脳味噌止まってるのか馬鹿猿。今僕らが追ってる、あの赤いゴーグルの男だよ。あいつらが現れた場所に、高確率でメメントが出現しているのはなぜだ? まるでメメントを操っているかのように。実際に操っていたのはメメントそのものじゃない。メメント化する原因の方を操作しているんだ」
エヴァンはしばし黙り、相棒の説明を頭の中で整頓した。そして合点がいくと、両目を見開いた。
「それじゃ、これを造ったのはあいつだってことか?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただ現時点では、あの男が意図的にメメントを生み出しているのではないか、としか言えない。先日倒したメメントは、その容器に収められていた物質のせいで変化したものなんだろう。ということは、入り口扉を壊した“先客”とはあの男のことで、ひょっとしたら僕たちが戦っている間も、あの廃病院に潜んでいたかもしれない。エヴァン」
「なんだよ」
「お前、あの男を見たことがあると言っただろう」
「ああ、まあ」
赤いゴーグルをした男の姿が、あの声と共に脳裏に蘇る。
――坊主、お前、
何かを訊かれて、不愉快な思いをしたような気がする。いつ、どこで? 何を訊かれた?
不愉快だったから、だから――。
「何か思い出したか」
「いや、何も」
「そうか」
レジーニはそこで黙り込んだ。いつもなら即座に「ボケ」だの「腐れ脳味噌」だのと罵るはずだが、レジーニは何も言わなかった。
二人の間に沈黙が流れた。こんなことは滅多にない。レジーニは何やら考え事をしている。エヴァンもまた、開けた窓から吹き込む風に当たりながら、物思いにふけった。
頭に思い浮かぶのはアルフォンセのことだ。
オズモント邸での様子が、気になって仕方がない。オズモントとのつながりも気にはなるが、逃げるように帰ったあの態度が、どうしても引っかかる。
何か心配事でも抱えているんだろうか。彼女の力になれないだろうか。
(アルフォンセ、俺はレジーニみたいに頭良くないけど、大事な人を守れるだけの力はあるって思っていたいよ)
*
午後九時までの〈パープルヘイズ〉勤務を終え、アパートに帰宅すると、大家のキールマンと出会った。キールマンは温厚な壮年の男で、アパート住人の中でも一番騒がしいエヴァンを、温かい目で見守ってくれる善良な人物である。
キールマンは大きな荷物を抱えていた。それをアパート内に運び込もうとしている最中のようだ。
「キールマンさん、何やってんだ?」
「やあエヴァン、おかえり。これ、修理に出していたテレビなんだ」
「部屋に運ぶの? 手伝うよ」
「ありがとう。じゃあ一緒に」
「平気平気、俺だけで運べるから」
エヴァンはキールマンの腕から、緩衝シートに包まれたテレビを取り上げた。予想通りの重量だが、マキニアンであるエヴァンにとっては、何ほどのものではない。そのままキールマンとエレベーターに乗り込み、彼の部屋まで一人で運んだ。
ついで部屋の中までお邪魔して、リビングにテレビを設置した。
「いやあ、若い人は力持ちだなあ。本当に助かったよ、ありがとう」
キールマンは朗らかに笑い。エヴァンを労った。大したことはしていないが、感謝されるのは素直に嬉しかった。
帰り際、キールマンの妻お手製のクッキーを一包み、お土産にもらった。このクッキーが絶品なのである。
自分の部屋へ戻ろうと、土産のクッキーをパーカーのポケットに入れた時だ。
「あれ」
そこに入っていたはずのものが、ない。反対側のポケット、ジーンズのポケット、あらゆる場所を探した。足元もよく見回した。それでも、ない。
「嘘だろ、マジかよ」
一瞬にして血の気が引いた。どこかに落としてしまったらしい。あの銀のカプセルを。
「やべえ! 失くしたらレジーニに殺される!」
間違いなく処刑される。
エヴァンは大慌てで、来た道を戻った。エレベーターからアパートの玄関ホールまでの隅々を、くまなく調べた。
キールマンから荷物を預かる時、少し身体を傾けたので、その時に落としてしまったのかもしれない。
荷物を受け取ったのは、アパートの入り口。そこから玄関ホールにかけて、這うように移動しながら慎重に探した。
探し始めてから十分ほど経過した。細い双円錐形の物体は一向に見つからない。エヴァンの焦りはピークに達しようとしていた。
「どうしたの?」
頭上から、柔らかな声が降り注いだ。顔を上げるとアルフォンセが、降臨した女神のように立っていた。
オズモント邸での不可解な態度は、もう見られない。純粋に、エヴァンを案じてくれているようだった。
「何か探し物?」
「あ、うん。ちょっと落し物を」
「どんな? このあたりで落としたの?」
しゃがみ込むアルフォンセ。
「一緒に探してくれるの?」
「二人で手分けした方がいいでしょう?」
それが当然であるかのように、アルフォンセは言った。感激のあまり、彼女を抱きしめたくなる衝動にかられたエヴァンだったが、理性を振り絞って自重した。
「え、えっとね、このくらいの大きさの、細い銀色のやつなんだけど」
「小さいね。落としたところから、どこかに転がっていっちゃったかもしれないわ」
それからしばらく、二人で地面と睨み合った。
数分後、アルフォンセが、「あ」と声を上げた。
「見つかった!?」
エヴァンは立ち上がり、アルフォンセのいる場所へ急いで駆けつけた。
アルフォンセは、アパート入り口近くの排水溝の側に立っていた。あんな所にまで転がっていっていたとは。
果たしてアルフォンセの白い手の中には、あの銀のカプセルがあった。アルフォンセはカプセルを持ったまま、じっと食い入るようにそれを見ていた。
「あー! それだよそれ! 良かったー見つかって」
安堵するエヴァンを、アルフォンセは不思議そうな眼差しで見上げた。
「これ、何? どこで手に入れたの?」
「え? あー……うーん、拾った」
こんな時、うまくごまかせるボキャブラリーがない自分が恨めしい。だが、少なくとも嘘はついていない。“拾った”のは事実だ。拾ったものを必死で探すというのも、妙な話なのだが。
「探してくれてありがとう。助かった」
手を差し出すと、アルフォンセは少しためらいがちに、カプセルをエヴァンの掌に置いた。受け取ったカプセルをパーカーのポケットに入れ、もう落とさないようにファスナーを閉める。
「アルフォンセ、どうかした?」
「ううん、何も」
アルフォンセの反応に、昼間と同じような引っかかりを感じたものの、無理に追求することはしなかった。
そのまま二人で一緒に、十二階までエレベーターで昇った。短いながらも二人きりの空間だ。エヴァンは内心有頂天だったが、隣のアルフォンセは終始黙っていた。
部屋の前で分かれる時、おやすみの挨拶をしたのだが、その時もアルフォンセは、どこか上の空だった。
自宅に戻ると、ゲンブはすでに眠っていた。水槽の中で、甲羅に手足を引っ込めている子亀をしばし眺める。敷いている小石や陸用の石は、洗ったばかりなのでまだきれいだ。
毎週欠かさないバラエティ番組を見たあと、シャワーを浴びる。髪を乾かしながら、歯を磨く。
いつも通りの日課をこなしつつも、頭の片隅には向かいの彼女の存在があった。
やっぱり、今日のアルフォンセは、どこか様子がおかしかった。心配事でもあるのだろうか。相談に乗ってやることはできないだろうか。
悶々となるが、事情が分からなければどうしようもない。消化不良のまま、エヴァンは就寝した。
異変を察知し、目を覚ました。枕元の電子時計は午前二時を示している。
エヴァンは目を覚ました時の態勢のまま、神経を研ぎ澄ませた。
暗闇の中に何者かがいる。息を押し殺し、忍び足で動いているようだが、エヴァンには侵入者の存在が手に取るように分かった。
(泥棒か? 動き方が素人だな)
歩数が無駄に多い。あちこち迷いすぎだ。
侵入者の気配が、こちらに近づいてきた。エヴァンは音を立てず、這うようにしてベッドから降りた。
低い姿勢を保ち、侵入者の背後に回る。部屋の中は闇に包まれたままだが、素人の位置など、気配を探れば簡単に把握できる。軍役経験は伊達ではない。
侵入者は何かを探すように、うろうろしていた。おおかた金目の物が目当てなのだろうが、何を好き好んで、こんな平凡なアパートの住人をカモに選んだのか。
侵入者の動きが止まった。衣擦れの音がする。
エヴァンは滑るような動作で相手に近づき、羽交い絞めにした。
「てめえ! 人様の部屋に勝手に入ってんじゃねえ!」
首元と腰に腕を回した瞬間、エヴァンはぎょっとした。原因の一つは、羽交い絞めにした時に、相手が発した悲鳴がか細かったこと。もう一つは、身体つきが想像以上に華奢だったこと。そして、鼻をくすぐったほのかな柑橘系の香り。
「え?」
腕の力が抜けた。拘束力が弱まった隙に、侵入者はエヴァンに体当たりした。エヴァンは反撃できずに、床に尻餅をついた。人影がエヴァンの脇を走り過ぎ、玄関から飛び出ていった。
エヴァンは尻餅の体勢のまま、侵入者が去っていった方向を呆然と見つめた。
「そんな……」
しばし呆けた後、のろのろと起き上がって、部屋のライトを点けた。
床の上に、昼間着ていたパーカーが落ちていた。
2
グリーンベイ市立図書館は、ネルスン河沿いの市民公園敷地内にある。白い近代的な外装の建物だ。
紙書籍が刊行されなくなった今、既刊図書は貴重なものとなっている。昔に比べて貸し出しの規制が厳しくなったのも、そのためだ。
館内は整然としていて美しく、かなり広かった。館内各コーナーのほとんどは、紙書籍の納められた棚で埋まっている。電子書籍のレンタルダウンロードコーナーは別の場所にあった。違法防止のため、来館しなければダウンロードが出来ないよう、特別な処置がなされている。
出版に関する歴史資料室も設けられていた。はるか昔の印刷機材や紙の種類など、印刷技術が辿ってきた歴史が、ここで分かるようになっていた。退屈そうな場所だが、意外と閲覧客は多かった。ちゃんと見ていけば、案外面白いものなのかもしれない。
が、今のエヴァンには必要のないものだ。
図書館内にいる人々は、職員から来館者、清掃員に至るまで皆、規律正しく静かに行儀よく行動している。エヴァンのように、早足でせわしなく館内を歩き回る者はいない。整然とした秩序を乱しかねないエヴァンに、厳しい眼差しを向けてくる人もいる。だが、そんな視線にかまっている場合ではない。
文学とは縁遠いエヴァンが、わざわざ図書館まで足を運んだ理由は、ただ一つ。
その目的のために、ヴォルフを説得して店を抜けてきたのだ。本当なら午前のうちから行動したかった。だが、「やるべき務めを果たしてからにしろ」という、ヴォルフのもっともな言い分を跳ね除けることは出来なかった。ランチタイムの繁忙時を乗り切り、やっと外出の許可が下りて、エヴァンはこうして図書館にまでやって来られたのだ。
求める人物は、なかなか見つからなかった。入れる部屋は手当たり次第に捜した。だが、職員や来館者合わせてかなりの人数がいる中、たった一人を捜し出すのは至難の業だった。
図書館を訪れてから、三十分ほど過ぎた頃。
館内を一周し、エントランスホールに戻ってきたエヴァンは、ついに彼女の姿を発見した。図書館司書らしく、地味な黒っぽいスカートと、白いシャツとカーディガンを身に着けた、ほっそりとした後ろ姿。
「アルフォンセ!」
エヴァンはここが、静かにしていなければいけない場所であることも忘れ、彼女の名を叫んだ。周辺の人々が一斉に振り返る。そしてアルフォンセも。
エヴァンに気づいたアルフォンセは、大きな瞳を更に見開き、くるりと踵を返して足早に去ろうとした。エヴァンは駆け寄って、彼女の前に回り込んだ。
「待ってくれ、頼む」
アルフォンセは俯いたまま、顔を上げなかった。
「話がしたいんだ。少しだけでいい」
二人の周りの人々が、何事か、と足を止める。アルフォンセは目線を伏せたまま、
「場所を変えましょう」
呟くように、そう言った。
アルフォンセに連れられて来たのは、図書館の裏手。フェンスの向こうに広がる、公園の緑地が見渡せる場所だった。人の気配はない。
「ほんとは、今朝一番に会って話したかったんだけど、部屋を訪ねた時にはもういなかったから」
どう切り出せばいいのか分からず、エヴァンはそこで口を閉ざした。
――夕べ、俺の部屋に来ただろ?
侵入者の正体はアルフォンセだ。か細い声と漂ってきた香りで、そう判断した。そんなことありえない、あるはずがない、そうであってほしくない。心は全力で否定したが、頭では肯定していた。アルフォンセを愛している自分が、彼女の特徴を間違えるはずがない。
何よりもアルフォンセの態度が、事実だと肯定している。エヴァンが図書館に来た目的を察しているに違いない。
諦めたかのように無抵抗な彼女は、目を合わせようとはしなかったが、逃げようともしなかった。
「ごめんなさい」
アルフォンセはそれだけを、やっと言葉にした。
「アルフォンセ、俺は謝ってほしくて来たんじゃない。ただ、知りたいんだ。理由を」
頭を下げて許しを請うてほしいのではない。欲しいのは信頼だ。自分を頼ってほしい。それだけなのだ。
「教えてくれないか? オズモント先生のとこでも、なんか様子が変だったし。何か問題を抱えてるなら話してよ」
アルフォンセは黙ったまま、両手を固く握り合わせた。
エヴァンは意を決し、
「これが原因?」
右の掌に乗せたものを、アルフォンセに差し出した。日光を受けて、それはきらりと光った。
アルフォンセは、エヴァンの手の中にある銀のカプセルを、表情を強張らせて見つめた。
アルフォンセが侵入者だと判断した時、目的は金銭ではないだろう、と考えた。アパートの前で落としたカプセルを見つけた時の様子と、侵入時にこれをしまいこんだパーカーを持っていたことから、目的は銀のカプセルではないか、と、普段使わない脳の総力を上げて見当をつけたのだ。
「これって一体何なんだ? どうして君がこんなものを?」
アルフォンセは、やはり答えない。
「メメントと関係がある?」
細い肩が、びくっと震えた。
「知ってるんだね、メメントのこと」
アルフォンセが、ようやく顔をあげた。白い肌が青ざめている。
「これは、メメントの体内から出てきたんだ。オズモント先生に、こいつの正体を調べてもらってた。ひょっとしたら、メメント発生の原因につながるんじゃないかって」
「あなたは、どうしてメメントのことを?」
アルフォンセの口調には、わずかながら疑念が含まれていた。エヴァンは一瞬迷ったが、アルフォンセを真っ直ぐに見据え、答えた。
「俺とレジーニは、裏の仕事でメメントを退治してる。堅気じゃないんだ」
エヴァンは一歩、彼女に近づく。
「君がどんな事情を抱えてるのか、俺には分からない。でも、黙って持っていこうとするくらい、君にとってこいつが重要なものなんだってのは分かった。教えてくれアルフォンセ。これは何なんだ? どうして君が欲しがるんだよ」
「それは、言えない」
「俺が信用できない?」
「違うわ」
アルフォンセは首を振る。
「誰も巻き込みたくないの」
「何があったってんだよ。なんで君が抱えこまなきゃならないんだ」
「言えないのよ、エヴァン」
「力になりたいんだ。君を助けたい。だから話してほしい」
「話せないの。お願い、これ以上聞かないで」
潤んだ深海色の双眸が、懇願するようにエヴァンを捉える。吸い込まれそうなその目に、エヴァンの心は揺れ動いた。だが、ここで引いてはならない。
「これを使って、死骸をメメント化してる奴がいる。君じゃ手に負えない」
「それでも……それなら尚更、どうにかするのが私の務めだわ」
「相手は犯罪者なんだぞ」
「私がやるしかないの」
アルフォンセはためらいがちに、右手を伸ばした。白魚のような指で、エヴァンの掌にある銀のカプセルに触れる。
「これ、持っていくね」
二人の手が重なった瞬間、エヴァンはアルフォンセの手を握り締めた。柔らかくて、温かな手。細くしなやかで、とてもではないが、凶悪な連中と渡り合えるとは思えない。
「俺を信じてくれ。俺はどんなことがあっても君を守る。絶対にだ。だから」
「どうして? どうしてそこまで気遣ってくれるの? まだ知り合って間もないのに」
「それは」
握った掌が熱くなる。熱いのは掌だけではない。胸からこみ上げてくる言葉を、飲み込むことは出来なかった。
「君が好きだからだ。初めて会った時から、ずっと」
言ってしまった。とうとう。声に出した途端、なにかとんでもないことをしでかしたような気がして、エヴァンは動揺した。鼓動が早くなる。口の中が乾く。
アルフォンセの顔色を伺うと、薄く桃色に頬を染め、ぼんやりとエヴァンを見つめていた。
「だ、だから、俺、その」
何か言わなければ。自分の告白に、自分自身が動揺しているエヴァンは、この先どう言葉を続ければいいのか分からなくなった。一方で、アルフォンセは何も答えなかった。再び俯き、ゆっくりと、エヴァンの手から銀のカプセルを抜き取ろうとする。
「これを渡したら、話してくれる?」
アルフォンセの手が止まった。卑怯な物言いだと、自分でも思う。だが彼女を守れるのなら、卑怯でも何でもいい。
アルフォンセの手が離れる。銀のカプセルは――。
エヴァンの掌に残されていた。
「心配してくれてありがとう。でも」
「アル」
「ごめんなさい」
スカートを翻し、アルフォンセが背を向けた。駆けるようにしてその場を離れていく。引きとめようと思ったが、身体が動かなかった。彫像のように突っ立ったまま、去っていくアルフォンセの後ろ姿を、じっと見送ることしか出来なかった。
やがてエヴァンは、重たい足取りで歩き出した。胸の真ん中に穴が開いたような、空しさと寂しさが全身を包んでいた。
図書館敷地内から、道路に出ようとしたその時。
背後――図書館の方から、一台のワゴンタイプ電動車が、速度規制を完全に無視したスピードで、エヴァンを追い越していった。
追い越される瞬間、後部座席に乗っている人物が目に留まった。必死の表情で、窓を激しく叩いている。
「アルフォンセ!!」
彼女の姿を認めたエヴァンは、弾かれたように走り出した。
窓に張りつき、助けを求めていたアルフォンセは、腕を掴まれて強引に振り向かされた。
目の前には、自分を車に押し込めた暴漢どものリーダーと思しき男がいた。不気味な赤いレンズのゴーグルを装着した、長身の男だ。
「よう、お嬢さん。ちょっとドライブしようぜ」
男の口元が、不敵に歪んだ。
エヴァンは道路に飛び出し、全速力でワゴン車を追った。ハンドワイヤーを他の車両に突き刺して飛び乗り、疾走する車の屋根やボンネットの上を、飛び石のように越えた。
アルフォンセを乗せたワゴン車は、大きな交差点を左に折れた。エヴァンは左折する別の車両の屋根に飛び移り、追跡を続行した。
ワゴン車に乗り込んでいる男たちは三人。赤いゴーグルの男と、運転手と、助手席にもう一人。
ゴーグルの男はアルフォンセを押し倒し、彼女の両手首を、左手一本で拘束した。
「〈スペル〉はどこだ」
「な、何のことを」
「しらばっくれても駄目だぜ。あいつから取り返したんだろうが。出せ」
アルフォンセは息を呑んだ。〈スペル〉を使って、意図的にメメントを生み出している者がいると、エヴァンが言っていた。それがこの男たちなのだ。
「い、嫌です」
実際には、〈スペル〉はエヴァンの手元に残したため、アルフォンセは持っていない。だが、仮に持っていたとしても、渡すわけにはいかない。
赤ゴーグルの男は、ふん、と鼻を鳴らして嘲笑った。
「嫌か。だろうな。言うと思ったよ」
男の右手が、アルフォンセの襟を掴んだ。
「ちょいと調べさせてもらうぜ。どこかに隠し持ってるかもしれねえからな」
男はアルフォンセのシャツの胸元を乱暴に掴むと、ボタンを引きちぎった。薄緑の下着に覆われた白い胸が露になる。
「いや! やめて! 触らないで!」
アルフォンセは足をばたつかせて、精一杯抵抗した。だが、腕力で男に敵うはずもない。カーディガンを脱がされ、スカートをめくり上げられた。男の無骨な手が、荒々しくアルフォンセの身体中を這う。
恐怖と恥ずかしさと悔しさで、アルフォンセの目から涙が零れ落ちた。
「あぁ?」
散々アルフォンセの身体を弄んだ男は、忌々しげに舌打ちした。
「なんだよ、本当に持ってないのか。おいイアソン!」
男が助手席を蹴りつけた。そこに座る男が、顔だけをこちらに向ける。
「お前、この女が〈スペル〉を取ったところを見たと言ったよな」
「み、見たよサイファー。たしかにこの目で」
「ならなんでこいつは、〈スペル〉を持ってないんだ?」
サイファーと呼ばれた男は、口調は変えず、纏う雰囲気に殺気を孕ませて、イアソンという男を威圧した。イアソンは怯えたように、小さな声で謝罪した。
「ふん、まあいい。そのうち向こうから持ってくるだろ」
やれやれ、とばかりに肩をすくめたサイファーは、再びアルフォンセの上に覆いかぶさった。
「おい、もう一度訊くぞ。〈スペル〉を持ってるのか持ってないのか、どっちだ」
「も、持ってません」
「そうかよ。なら、もう一つの要求に答えろ。フェルディナンドの研究資料を渡せ」
「ど、どうして……それを」
「お前の親父とは旧知の仲でな。あの野郎の遺品を、娘であるお前が引き取るのは当然だろう。資料を渡せ。そしてフェルディナンドの代わりを、お前が務めろ」
「あ、あなたは……あなたが、まさか」
アルフォンセは、その先の言葉を続けることが出来なかった。あまりに恐ろしく、そして許しがたい事実が、目の前に提示されたのだから。
「なんてことを……許さない、人殺し!」
アルフォンセの喉から嗚咽が漏れた。サイファーはアルフォンセの嘆きを、にやにや笑いながら眺める。
「フェルディナンドは、確かに才能はあっただろうよ。だが賢くはなかったな。ちょっと知恵を絞れば、今頃健在だっただろうに」
アルフォンセは、怒りにまかせて力の限り抗った。たとえ無駄な抵抗であっても、父親を殺した男に、無抵抗なままいいようにされるのだけは我慢できなかった。
サイファーは、アルフォンセの抵抗を面白がっているようで、まるで子どもを相手にしているかのように、軽くいなしてしまう。
「ああ、嫌だろうな。お前の父親もそうだった。だが結局は俺のいいなりになった。お前はどうだ? いつまで抵抗できる? 人に言うことを聞かせる方法はいくらでもあるんだぜ。特に女は簡単だ」
サイファーの右手が、アルフォンセの腹を撫でる。男の指が動く都度、おぞましさがアルフォンセを襲った。何をされようとしているのか、考えなくても分かる。
「やめて……お願い」
「声も態度もおとなしい割りに、身体は立派だな、え?」
運転席の男が、ちらちらと振り返りながら言った。
「サイファー、あんまり車の中で変なことするなよ。運転しにくいだろ」
「うるせえぞディエゴ。お前は黙って運転しろ」
ディエゴという運転手は、肩をすくめる
「分かった分かった。時間が押してるからハイウェイに乗るぜ」
ワゴン車が右折した。その時、サイファーの表情に変化が現れた。眉根を寄せ、顔を明後日の方向に向けて、耳を澄ませるようにじっとしている。
やがて、にやりと笑みを浮かべた。
「ディエゴ、無駄だ」
赤いゴーグルが、凶暴な光を宿した。
「もう追いつかれた」
次の瞬間、ドン、という音と共に、何かがワゴン車の屋根の上に落ちてきた。何が起きたかと思う間もなく、その落ちてきたものが屋根を打ち破った。
「うわあ! なんだ!?」
イアソンが声を上げた。運転中で前方から注意をそらせないディエゴは、バックミラー越しに異変に気づいた。
アルフォンセの目が確かなら、屋根を破壊して現れたのは人間の手だ。信じがたいことだが、屋根に穿った穴の縁に両手をかけ、更に穴を広げようとしている。メキメキと音を立てながら、屋根の穴が徐々に大きくなっていく。
「何だよ! サイファー、何が起こってるんだ!」
混乱するディエゴとイアソンをよそに、サイファーは一人冷静だった。
「騒ぐなディエゴ。とりあえず振り落とせ」
屋根が破壊されつつあることなど、何の問題でもないかのように、サイファーは落ち着き払っていた。
ディエゴはサイファーの指示通り、減速しないままハンドルを左に切った。ワゴン車が大きく弧を描く。周囲からけたたましいブレーキ音や、クラクションの大合奏が起こった。危険運転のワゴン車に対する抗議だ。
激しい遠心力で、屋根の上の人物は振り落とされたらしく、穴を掴んでいた両手が消えた。
ワゴン車は路肩に乗り上げた。停車するや否や、サイファーはアルフォンセを片腕だけで抱え、ドアを蹴り開けて外に出た。
周囲には、人が集まり始めていた。大事故を起こしかねない事態を引き起こした奴らが、どういう者たちなのかと、好奇の眼差しを向けてくる。
屋根の上にいたと思しき人物は、反対車線の歩道の上で、片膝をついていた。サイファーとアルフォンセが姿を見せると、立ち上がり、道路の中央まで駆け寄ってきた。
その人物の正体に、アルフォンセは驚かずにはいられなかった。走行する電動車の屋根に飛び乗り、穴を開けたのは、つい先ほどまで一緒にいた青年だったからだ。
緋色の瞳が怒りでぎらついている。
「アルを離せよ、クソ野郎が」
エヴァンは、炎のように燃え盛る怒りを全身で感じていた。これほどの怒りを覚えたのは初めてだ。
アルフォンセがさらわれたと知った時も、もちろん許しがたい怒りを抱いた。だが、彼女の姿を見た瞬間、その怒りは限界点を越えた。
アルフォンセの服は乱れ、白い胸元が露出していた。更には、そんな姿のアルフォンセを、例の赤ゴーグルの男が抱きかかえている。
アルフォンセをかどわかし、彼女に触れ、乱暴を働いた。何もかもが許せない。
アルフォンセは、青ざめた顔でエヴァンを見ている。今すぐに助け出したいが、下手な動きをとれば、彼女への危険度も増してしまう。頂点を越えた怒りは、かえってエヴァンに冷静な判断をさせた。
「よう。来たな坊主」
赤いゴーグルの男は、軽い口調で言った。男の声を聞いた瞬間、エヴァンの記憶が揺さぶられた。
――坊主、お前、人を、
間違いない。自分とあの男は、過去に会っている。向こうもこちらを知っているようだ。だが、どこで会ったのか、そこまでは思い出せなかった。
しかし、男と面識があろうとなかろうとどうでもいい。今何よりも大切なのは、アルフォンセを救うことだけだ。
「何度も言わねえぞ。アルフォンセを離せ」
「カリカリするなよ坊主。十年振りじゃねえか。再会を喜ぼうぜ」
「ふざけんな。てめえなんか覚えてねえよ」
「本気か? この俺とお前の間柄だぞ? 忘れるとは薄情だな」
男は、嘆かわしいと言わんばかりに、大袈裟に首を振った。
「まあ、こっちもまさか、お前が今頃になって目を覚ますとは考えてもなかったんだが。起きたのはいつだ、つい最近か? 〈パンデミック〉のことは、もう知ってるんだろうな?」
エヴァンは冷静さをキープし、内心の動揺を悟られないように気をつけた。
この男は、コールドスリープされていたことを知っている。なぜ。
「お前がグースカ寝ている間に、こっちはいろいろ大変だったんだぜ。話出すと尽きないくらいだ。だが、今は俺と昔話に花を咲かせる気はないんだろう?」
「当たり前だ。アルフォンセを返せ。そのあとぶっ飛ばしてやる」
「女を奪われたのが腹立たしいか、え? お前ともあろう奴が、女一人に躍起になるとはな。十年寝てれば、性格も変わるのかね」
「言ってる意味が分かんねえんだよ! アルを返せ、クソ野郎!」
エヴァンは細胞装置を起動させ、両腕を〈イフリート〉に変形させた。男に囚われたアルフォンセが、エヴァンの変化に驚き、双眸を見開く。
アルフォンセの目の前で、システムを起動させてしまった。これでもう、普通の人間でないことがばれてしまった。だが後悔している暇はない。アルフォンセを助け出すためには仕方がないのだ。
エヴァンの変形を見て驚いたのは、アルフォンセだけではなかった。なんと男も、呆けたように口を開いている。
しかし、男が驚いている理由は、アルフォンセとは違った。
「おい坊主。反応が低いぞ。まさか〈イフリート〉か?」
この男は、どこまで自分のことを知っているのか。スペックの名称まで分かっているということは、マキニアンだということも承知である証だ。
「だったらなんだってんだよ」
答えると、男は眉尻を吊り上げた。
「ふざけるな!〈イフリート〉だと!?」
男が怒鳴った次の瞬間、彼らを取り囲むように停車していた、一般人らの電動車のうちの数台が空中に跳ねた。野次馬たちの悲鳴が上がる。宙に弾かれた数台の車は、そのまま地面に叩きつけられ、大破した。乗車している人々は、怪我を負ったようだが、命に別状はなさそうだった。
一瞬の出来事で、何か起きたのかまったく見えなかった。だが、男の仕業であることは間違いないだろう。
「舐めた真似をしてくれるな坊主。〈イフリート〉? そんなオモチャで俺と戦り合おうってのか」
「オモチャかどうか、やってみりゃ分かるだろ」
「いいや、オモチャだね。そんな子どもだましのシステムなんざゴミだ」
「じゃあかかってこいよ。ゴミって言ったこと後悔させてやる」
男は口元を歪ませ、乾いた笑い声を上げた。それから、抱きかかえていたアルフォンセを解放し、乱暴に突き飛ばした。
エヴァンはたたらを踏むアルフォンセを、駆け寄って受け止めた。アルフォンセは、変形しているエヴァンの両腕に驚きはしたが、その腕に触れられることは拒まなかった。
「やめだやめだ。お前がそんな調子で、楽しめるわけがない。せっかくお前が十年振りに目を覚ましたんで、これで少しは面白くなると思ったんだがな」
男が苛々した声を上げる。
「女に骨抜きにされて、〈イフリート〉なんぞでこの俺と喧嘩しようとするお前に用はない。時間をやる。少し頭冷やして来い」
「何言ってんだお前……?」
「いいか坊主。俺は本気のお前と喧嘩したいんだよ。そんなオモチャじゃなく、お前の本当の力でな。次に会った時、また〈イフリート〉なんぞ持ち出しやがったら、そこらへんの人間、手当たり次第に殺すぞ」
脅しではない、とエヴァンは直感した。この男なら、そのくらいは実行するだろう。
「肝に銘じておくんだな。そして次こそ本気を出せ。あの時のように、俺を殺しにかかって来い」
男は言い放つと、仲間のワゴン車に引き返し、乗り込んだ。ワゴン車は男が乗り込むと急発進した。野次馬たちは、人垣に構わず突っ込んでくるワゴン車を慌てて避けた。
人だかりの向こうに消えていく電動車を、エヴァンはぼうっと見ていた。
男が残していった言葉が、胸に突き刺さっている。
――あの時のように、俺を殺しにかかって来い。
どういう意味だろう。自分とあの男は、以前戦った経験でもあるのだろうか。そんな強烈な出来事なら、覚えているはずだが。
エヴァンには、あの男との一戦に関する記憶がなかった。
「エヴァン」
名前を呼ばれ、はっと我に返る。視線を落とすと、腕の中のアルフォンセが潤んだ瞳でじっと見上げていた。
男たちが去った今、周囲の野次馬たちは、好奇の的をエヴァンとアルフォンセに絞っていた。そのうち、いや、すでに誰かが警察に通報しているかもしれない。警察に目をつけられるのは避けなければ。アルフォンセを人目にさらし続けるのも嫌だ。
エヴァンは急いで細胞装置を解除し、パーカーを脱いでアルフォンセに着せた。
「行こう」
わずかに震えているアルフォンセの肩を抱き、人ごみを掻き分けて、エヴァンはその場を離れた。