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TRACK-3 プレイヤーズ・ハイ

「おっはようゲンブ! 今日もいい天気だぞ」

 うきうきした気分で、可愛い我が子亀ゲンブの水槽を、いつものように窓際に移す。ゲンブがのそのそと陸地に上がってくる様子を見ながら、少し大きくなったかな、などと父親のような気分でそんなことを思う。

 小亀との出会いは偶然だった。レジーニと組み、裏稼業者バックワーカーとしての活動を始めて間もない頃に、下水道に現れたというメメントを退治しに行った時のことだ。メメントは無事に倒したが、その過程でエヴァンは暴走行為に走り、レジーニの逆鱗に触れてしまった。そのために、怒れる相棒のハイキックによって、下水道の先、ネルスン河に蹴落とされた。

 なんとか河川敷に這い上がったのだが、その時着ていたパーカーのフードに、小さな亀が入り込んでいた。それがゲンブである。

 どういう経緯を経れば、広いネルスン河の片隅、亀の子がパーカーのフードに入り込むことがあるのか。相当な低確率であることは間違いないだろう。こういうのも縁なのか、とエヴァンは思った。亀の子を掌に乗せた途端、そのつぶらな目に情が移ってしまい、そのまま飼うことにしたのである。

 出かける支度を済ませ、ゲンブに留守番を頼み、部屋のドアを開ける。

 数秒後に、向かいのドアも開いた。パステルカラーのスカートが、ひらりと揺れた。

「おはよう!」

 片手を上げて声をかける。アルフォンセも笑顔で、

「おはよう」

 返してくれた。

 並んで立って、エレベーターの到着を一緒に待つ。朝からこんなに幸せを感じたことはない。

 アルフォンセからは、ほのかな柑橘系のいい香りがした。その香りに本能が刺激され、少しだけ理性がぐらつく。いかんいかんと、胸中で自分を叱る。紳士に徹するのも、案外と精神的努力が必要らしい。

「そういえば、なんの仕事してるんだ? ……アルフォンセ」

 初めて名前を呼んだ。ただ名前を呼ぶだけなのに、緊張してしまう。

「グリーンベイにある市立図書館で司書を。本は好き?」

「本って、紙の? いやあ、電子書籍も読まないからなあ。紙の本なんて、今あんまりないよね」

 活字を目で追うだけで眠気が襲ってくる。読むのはコミックだけで充分だ。

 書籍発刊が電子媒体主流に完全移行してから、今年で五十年経つ。紙媒体の書籍は今となっては貴重なもので、古い時代の名著などは、コレクターの間で高額取引が交わされるほどだそうだが、エヴァンには理解しがたいことだ。

 この五十年で、紙書籍をめぐる事柄は大きく変わった。図書館の在り方も、昔とは違うらしい。エヴァンは図書館を利用したことがないので、そのあたりの事情はよく知らない。

「今の書籍は、電子版が主流でしょう? 昔のような紙媒体のものは、もう作られていないの。触れたこともないという人も多いわ。だから図書館で保管されている紙書籍は、とっても重要な文化財でもあるのよ」

「へー」

 何気ない会話が嬉しい。本がとても好きなのだろう。深海のような青い目を輝かせて語るアルフォンセは、生き生きとしていて綺麗だ。ずっと見ていても飽きることはない。

 エレベーターが到着し、ドアが開いた。乗り込もうとしたその時、エヴァンはいきなり何者かに突き飛ばされ、近くの壁に激突し肩を強打した。

「痛って! だ、誰だ!」

 肩をさすりながら犯人を睨む。制服を着た小柄な人物が、ちゃっかりアルフォンセと並んでエレベーターに乗っていた。

「あんた今、こっそりアルに触ろうとしてたでしょ! いやらしい!」

 エヴァンからかばうように、アルフォンセの前に出たマリーは、軽蔑の眼差しで睨み返してきた。

「そんなことしてねーよ! 何言ってんだお前!」

「バカなんかにアルはもったいないんだからね。ばいばーい」

 マリーはエレベーターの開閉ボタンを押し、ドアを閉めた。慌ててエレベーターに駆け寄るも、時すでに遅し。最後にエヴァンが見たのは、「べー」と小さな舌を出すマリーと、戸惑うような、それでいてエヴァンを気遣うような、アルフォンセの柔らかな表情だった。

「あのガキは俺に何の恨みがあるんだ!!」

 せっかくの二人っきりになれるチャンスを奪われたエヴァンは、髪を掻きむしり、腹の底から吠えた。そして、近くの部屋に住む住民に怒られた。

 エレベーターに追いつこうと、言葉通り飛ぶような勢いで階段を駆け下りる。一階の玄関ホールに着いた時には、エレベーターはすでにもぬけの殻だった。

 玄関から外に出て周囲を見回せば、遠く横断歩道の向こうで、姉妹のように仲良く手をつないで道をゆく、美女と美少女の後ろ姿を発見したのだった。



〈パープルヘイズ〉の一時閉店中、グレーのストライプスーツに身を包んだレジーニがやってきた。

 店内を片付けている途中だったエヴァンは、相棒の姿を見るや、トレーを持ったまま彼の方に歩み寄った。

「おー、待ってたんだぜ。あのさあ、デートってどういう風にさそへぶし!」

 語尾が奇怪に乱れたのは、近づいた瞬間、電光石火でトレーを奪ったレジーニによって、顔面を殴られたためである。

「ヴォルフ、コーヒーもらえるかな」

「あいよ」

 相棒は何事もなかったかのように、いつものカウンター席に座った。エヴァンから取り上げたトレーは、ゴミを捨てるかのように、カウンターテーブルの離れた場所に押しやった。トレーは若干変形していた。

 鼻を強打したエヴァンは、患部をさすりながらレジーニの隣に座って詰め寄った。

「なにすんだいきなり!」

「明らかに低俗な質問をしそうな阿呆面だったから、防衛本能が働いただけだが、何か?」

「鼻が潰れそうな勢いだったぞ!」

「潰れて腐ってもげてしまえ」

「そうなったら、お前も同じ目に遭わせるからな」

「僕の鼻に指一本でも触れたら、別の場所を潰してやる」

「……サーセン」

 相棒の目が本気だったので、即座に折れるのが最善と判断した。

 二本の熊の手が伸びてきて、エヴァンとレジーニ、それぞれの前にコーヒーカップを置いた。芳醇な豆の香りが辺りに漂う。

「じゃれ合いは済んだか? それならエヴァン、お前も座れ。今日はいつもと違う話があるぞ」

「メメント退治じゃないのか?」

 ブラック派のレジーニは、何も加えず、そのままコーヒーを口にした。

「まったく無関係、とも言えねえかもしれねえな」

「どういう話だ、それ」

 加糖派のエヴァンは、キューブシュガーを四つカップに放り込み、ミルクを注いだ。

 ヴォルフは両腕を組み、太い眉毛を寄せた。

「今、とある連中がアトランヴィルのあちこちを荒し回っているらしい。先月あたりから現れるようになったとかでな。殺しも盗みも掟を無視してやりやがる。裏稼業者じゃねえらしいが、どうにも手口が玄人じみてるってんで、〈監視員〉が張り込んで、動向の報告を上げていたんだが、そいつらがある日戻ってこなくなった」

「監視がばれたか」

 レジーニが独り言のように言うと、ヴォルフは頷いた。

「遺体は見つかっていないが、おそらくはそうだろう。〈監視員〉は、掟に反する行動を取る可能性があるワーカーの見張りだ。その〈監視員〉を殺したとあっちゃあ」

「〈プレジデント〉に対する反乱、と」

プレジデント〉とは、ひとつのの裏社会に君臨する、いわゆる総元締めである。すべての裏稼業者は、所属領域――ゾーンを治める〈長〉の支配下に置かれている。〈長〉は滅多なことでは、裏稼業者たちの前に姿を現さない。その代わりに、間に立つ役職が置かれている。ヴォルフのような〈窓口〉や〈監視員〉が、その役職に当たる。

〈長〉の権力はゾーンの範囲に比例する。支配するゾーンが広ければ広いほど、〈長〉は強大な権力を握ることになる。つまり裏社会におけるゾーンとは、都市単位ではなく、〈長〉の支配圏を指すのである。

 ここアトランヴィル・シティ裏社会の〈長〉は、“帝王”とも呼ばれるジェラルド・ブラッドリーである。その支配圏はアトランヴィルを含む大陸東エリア三十四都市の四分の三、という圧倒的な権力を持つ人物だ。

 新米のワーカーであるエヴァンは、当然〈長〉に会ったことなどない。レジーニも面識がないそうだ。〈窓口〉であるヴォルフは、年に何度か、顔を合わせることがあるらしい。

「それで、だ」

 ヴォルフの説明は続く。

「その連中には特徴があってな」

「特徴?」

「ああ。そいつらが現れた所には、必ずと言っていいほどメメントが湧いているんだそうだ」

「なるほど」

 コーヒーを半分ほど飲んだレジーニは、カップをソーサーに置いた。

「メメントはいつどこで、どういう条件下のもとで発生するか分からない。だのにそいつらがいた場所に、ほぼ確実に現れている。その無法者連中と、メメント発生の関連性を調べろ。そういうことだね?」

「話が早いな」

「なんだ、調べもんかよ。そういうのは〈探偵〉の仕事なんじゃねえのか?」

 エヴァンは空になったコーヒーカップを脇に押しやり、頬杖をついた。調査だのの外回りは性に合わない。何かについて調べるという行動は、エヴァンには退屈極まりないものだった。

 裏社会の〈探偵〉は、表社会の探偵業と大差ない。依頼主が裏稼業者である点を除けば。

「メメントが関係するだろうから、こりゃお前たち〈異法者ペイガン〉の担当だ。こういう地道な仕事も出来るようにならなけりゃ、この先食っていけなくなるぞ」

「へーい」

 気は進まないが、仕方なし、とエヴァンは了解した。

 ヴォルフは携帯端末エレフォンを取り出し、太い指で画面を操作し始めた。

「先週、市街監視カメラに写った、そいつらの映像を送る」

 まもなくエヴァンとレジーニのエレフォンに、動画ファイル付きメールが受信された。二人はそれぞれの端末で、問題の映像を確認した。

 画面右下、日付とともに表示されている時間は、深夜一時二十一分。どこかの通りに沿うクラブらしき建物の入り口を、左斜め上からとらえた映像だ。時刻は深夜だが、暗視モード撮影のおかげで、細部まではっきりと見える。

 動画が再生されてから二分後、トランクケースを持った二人の男が、周囲を少し警戒しながら店から出てきた。

 その二人のあとから、もう一人。長身の男が、悠々とした足取りで現れた。黒い長髪の男で、ロングコートと古いワークブーツを身に着けている。特徴的なのは、赤いレンズのゴーグルを装着している点だ。

 男たちの前に、一台の電動車が停まった。彼らはその電動車に乗り込み、どこかへと去っていった。

 男たちが去ってから、更に数分後。建物が大爆発を起こした。ドアや看板、窓が破壊され、吹き飛び、すさまじい勢いの炎がクラブを包み込んだ。そしてその炎の中なら、一体の異形が這い出てきた。メメントだ。

 ヴォルフが口を開いた。

「キアラ・シティで撮られた映像だ。メメントは現地の〈異法者〉が片付けた。このクラブは、裏で武器の闇取引をやってる所でな。さっきの連中は、銃火器をいくつか持って行きやがったようだ」

「正面から堂々と出て行くとはね。おそらく爆発させる前に、内部で殺しもしているだろう。まったく身を隠す気がないらしい」

 レジーニは鼻を鳴らして嗤った。

「そのようだな。最後に出てきた、赤いゴーグルの野郎が主犯格のようだ。どこのどいつだか、いまだに正体が掴めてねえ。こいつが引き連れてる連中は、二ヶ月前にジェルゴ・シティで起きた護送者脱走事件で、行方をくらませた囚人たちだって話だ。顔の照合もできてるから、そこは間違いねえだろう」

 ジェルゴの護送者脱走事件は、記憶に新しい出来事だ。受刑者十人を乗せた護送車から、その十人が姿を消した、という事件である。囚人を運んでいた看守二人が殺害されたことや、護送車の扉が外からこじ開けられた痕跡があったことから、何者かが計画的に護送車を襲撃し、囚人たちを連れて行ったのではないか、と考えられている。

 事件発覚当時、どのチャンネルもこぞってこの事件を取り上げていたので、エヴァンでも覚えている事件だ。

 エヴァンは動画を巻き戻し、赤いゴーグルの男が姿を見せた場面で静止させた。

 食い入るように、じっとその男を見る。奇妙な既視感がある。

「なんかこいつ、見たことある気がする」

 レジーニとヴォルフに向けて、あるいは自分自身に向けて、エヴァンは言った。

 どこで見たのか、なぜ知っているのか、詳しくは思い出せない。ただ、男の姿を見た瞬間、何者かの声が脳裏をぎったのだ。

 

 ――坊主。

 

 男の声である。おそらくは、赤いゴーグルの男の声だ。

 

 ――坊主。お前、

 

 何かを訊かれたのだ。どんなことを訊かれただろうか。あまり気分のいい質問ではなかったように思う。

「人違いじゃねえのか。本当にこの男か?」

「うーん、たぶん。どっかで見たんだよ。かなり前だと思うんだけど」

「お前の記憶力なんか当てに出来ない」

 ばっさりと切り捨てたのはレジーニだ。

「つまり、僕らが調べるべきは、この男ってわけだね。なら、さっさと取り掛かろうか」

 すっと、席を立つ。

「情報屋がそろそろ何か掴んでいるかもしれん。レジーニ、いい機会だ、エヴァンを〈プレイヤーズ・ハイ〉に連れて行け」

 ヴォルフの言葉に、レジーニは一瞬動きを止めた。

「まだ面通めんどおししてねえんだろう。今のうちに済ませておいた方がいい」

 レジーニは感情の読み取れない顔つきで、エヴァンを一瞥した。事情が汲めないエヴァンは、レジーニとヴォルフを交互に見る。

「え、なに、何の話?」

 エヴァンの疑問には、二人とも答えなかった。答える代わりに、レジーニは小さく頷いた。

「そうだな。そろそろ頃合いかもしれない」

「だから、何の話だって」

「行けば分かる。お前は外で待ってろ。僕はヴォルフに確認することがある」

「それって、俺も聞いとくべきことなんじゃねえの?」

「お前は知らなくていい。ほら、先に行けよ」

 レジーニは、まるで飼い犬に指示するかのような仕草で、外に出て行くようエヴァンに示した。

「なんだよ。大事そうな話は、いつも俺抜きかよ」

「お前が理解できる内容だったら話してやるさ。僕が行くまで、勝手に車に乗るんじゃないぞ」

「わかったよ! ケチ」

 この、いつまでも子どものようにあしらう態度は、まったくもって気に入らない。しかし、抗議でもしようものなら、ただちに“アグレッシブな教育的指導”が執行されるのも分かりきっている。不服ではあるが、相棒を怒らせるのはやはり怖いので、素直に従うエヴァンであった。


 

 不満たらたらのエヴァンが、ドアの向こうに姿を消した。レジーニはそれを見届けると、ヴォルフの方に向き直る。

「で?」

「なんだ」

 ヴォルフはとぼけるように、片方の眉尻を上げた。

「この話の裏に何があるのか、と訊きたいんだけど」

「なぜそう思う」

「何もないのなら、あんたはこの仕事を僕たちに割り振らなかったはずだ」

 レジーニは緑の双眸そうぼうで、ひたとヴォルフを見据えた。

「メメント関連であっても、退治するだけが仕事じゃないのは分かってる。ただ、同じ〈異法者〉であっても、ワーカーによって得意分野があるのも事実だ。僕やあのバカは退治を専門とする、いわゆる“現場組”。反対に、リサーチを得意としたり、そちらを完全な専門とするチームも存在する。実際僕も、リサーチ特化の〈異法者〉チームを何組か知ってる。もし、この仕事に裏がないのなら、あんたはそういったリサーチ型のチームに話を持っていくはずだ。アトランヴィルの〈異法者〉は、僕らのような“現場組”が他のゾーンと比較しても少ない。なのに、わざわざ僕たちにリサーチの仕事を振るということは、それなりの理由があるからだ。僕らでなければならない理由がね」

 持論を披露するレジーニを、ヴォルフは苦虫を噛み潰したような表情で見返す。

「お前の賢しさにゃ、時々うんざりさせられる」

「褒め言葉として受け取っておくよ」

「どこまで思い至った」

「あんたに、『この仕事を僕らにやらせろ』と指示したのは、おそらく〈長〉だ。違うかい」

 ヴォルフは答えず、荒く鼻息を吹いて、頭をがしがしと掻いた。レジーニは構わず続けた。

「なぜ〈長〉が僕らを指名したか。あいつがいるからだ」

 レジーニは目線でドアを示した。正確には、ドアの向こうでぼんやり待っているであろう青年を。

「あんたはあいつがマキニアンであることを〈長〉にも明かしている。それが〈窓口〉としての義務だからね。マキニアンが自分の支配下にいると〈長〉が把握しているなら、これを利用しない手はない。今のあいつがどういう立場であれ、もともとは軍部の所属で、引いては〈政府サンクシオン〉の管理下にあった。〈政府〉は〈長〉がもっとも貸しを作りたい相手だ。微々たるものでも〈政府〉とのつながりを持つエヴァンをわざわざ指名するということは」

 レジーニはエレフォンのディスプレイを、ヴォルフの方に向けた。ディスプレイは、例の男の姿が映った画面で止まっている。

「この男は軍部、もしくは〈政府〉関係者だろうね。〈長〉の狙いは、この男を利用して〈政府〉に対して貸しを作ることだ。エヴァン本人に〈政府〉に対する影響力はなくても、この男と絡ませることによって得られる何かがある」

 ヴォルフは頭を掻く手を止め、カウンターに置いた。ぐっとレジーニの方に身体を傾ける。

「小僧、俺たちワーカーはな、〈長〉の意向に触れちゃならねえ。本人の意思で事情を明かす以外で〈長〉の腹を探るような真似は命取りだ。よく回る脳味噌はそこまでにしておけ」

「そうするよ」

 ヴォルフの態度で、推測がおおむね的中していることが分かった。今はそれだけでも充分だ。レジーニはエレフォンのディスプレイを待ち受け状態に戻し、ジャケットの内ポケットにしまい込んだ。

「〈SALUTサルト〉に関係が?」

「ジェラルドが何をどこまで掴んでいるのか、俺にも分からん。サスペンスドラマごっこは終わりだ。さっさと行かんと、待ちくたびれて猿が吠え出すぞ」

「じゃ、行ってくる」

 レジーニは軽く片手を上げ、ヴォルフに背を向けた。荒々しい鼻息が、去り際に聴こえてきた。


        2


 電動車が動き出すと、エヴァンはエレフォンを取り出し、オーディオモードに切り替え、カーステレオにセットした。厳選したお気に入りのプレイリストが再生され、車内に軽快なガレージロックが流れた。

「こら。なんでいつも勝手に曲を流す。僕の車を私物化するんじゃない」

 ハンドルを握るレジーニは、横目でエヴァンを睨みつけた。

「止めろ、そんな軽薄な音楽」

 エレフォンに伸びたレジーニの片手を、エヴァンはすかさず払いのけた。

「軽薄ってなんだよ。かっこいいだろ。車ん中は、このくらい楽しい音楽がかかってた方がいいんだよ」

「免許も持ってない奴が、運転環境を語るな。止めないと外に叩き出すぞ」

「止めてもいいけど、俺の質問に答えろよ。さっきの続きで……」

「やめろ。くだらない」

「デートってのは、どうやって誘えばいいもんなんだ?」

「まだそんなことでぐだぐだ悩んでるのか。どうせ信用が落ちてるんだから、なにをやっても無駄だ」

 苛立つレジーニに、エヴァンは勝ち誇った笑みを返した。

「それがだぞ。昨日仲直りしたんだよ! 誤解が解けたんだ。わざわざ俺に会いに来てくれたんだぜ。これからは気兼ねなく、おはようからおやすみまで声を掛け合えるし、そのうち部屋の行き来とかするようになるかもしんねーぞ」

「そのまま押し倒して、今度こそ完膚なきまでに嫌われてしまえ」

「何言ってんだ、押し倒すのはまだ早ええ!」

「予定には入ってるわけか」

 ゆくゆくは正式な恋人同士になりたいという願いはある。だがそこに至るまでには、ちゃんと段階があるのだということも、理解しているつもりだ。ところがその段階を、どう踏めばいいのかが分からない。仲直り出来たのはつい昨日だ。これから徐々に距離を縮めていく必要がある。

 もっと会話を重ねて、お互いをよく知らなくてはいけない。エヴァンとしては、すぐにでも交際を始めてもなんの問題もないが、繊細そうなアルフォンセはそうはいくまい。エヴァンが普通の人間でないことも、いつか明かさなければならないだろう。

 脳内シミュレーションでは、順調に仲が深まることになっている。他愛のない会話を交わし、お互いを理解していく。デートを繰り返し、告白して恋人として成立。更に二人の距離は縮まり、唇と肌が――。

「うおおおおおやっべえええええそこはまだ早いっすよおおおお!」

「うるさーーーいッ! 自分の妄想で暴走するな!」

 感情が高ぶるのにまかせて、ばんばん窓を叩いていたエヴァンは、直後の信号で停車した瞬間に、横っ面を思い切り殴られた。

「デートしたけりゃ食事にでも誘え! さっさと音楽を止めろ!」

 エヴァンより先にレジーニの手が伸び、カーステレオにセットされたエレフォンをむしりとった。そのままエヴァンに投げつける。音楽が失われた車内は、途端に静かになった。

 殴られたことやエレフォンを投げられたことなど意にも介さず、エヴァンは腕を組み、首をひねって思案する。

「食事かあ。やっぱりオシャレなレストランとかカフェなんかがいいんだろうな。女の子だもんなあ。でも、俺サウンドベルの店しか知らねえしな。おっさんとかおばちゃんがやってる大衆食堂ばっかりだし。そんなのでもいいかな?」

「僕に訊くなと言ってるだろハゲ」

「ハゲてねーよ。やっぱり音楽かけていい? 静かすぎて居心地悪いんだけど」

「お前の居心地なんか、この世の終わりまでどうでもいい」

「俺の選曲がダメなら、お前のでもいいから。でもクラシックは勘弁な。眠っちまう」

「人と話をかみ合わせようとしない猿なんか永遠に眠ってろ」

 レジーニは雑言を吐きつつも、自分のエレフォンをカーステレオにセットした。

「お前とは、とことん趣味が合わないらしい。実に喜ばしいことだ」

 スピーカーから、重厚な弦楽器の演奏が流れ始めた。ゆっくりとした、川のせせらぎのような優しい音だ。クラシックかよ、とエヴァンがうんざりしたその時。

 曲調が一変した。重厚なドラム、繊細且つメロディックなベースライン。叫ぶようなギターが、曲全体のテンポを速める。そして聴こえてくるハイトーンヴォーカル。

「プログレメタルっすかレジーニさん!?」


 

 

 レジーニのスポーツカーは、サウンドベルの隣区イーストバレーに入った。区内を縦断するネルスン河に架かるエルマン・ブリッジを渡り、中央通りを抜ける。

 繁華街を過ぎ、スポーツカーが乗り入れた場所は、飲み屋街だった。

 閉店している店舗の多い昼間、通りは閑散としていて、通行人もまばらだ。しかし今はこのように静かではあるが、夜を迎えれば目を覚ます。昼間の静寂とは打って変わって、酒とタバコと、娼婦たちの香水の匂いで満たされるのだ。

 レジーニが電動車を停めたのは、〈プレイヤーズ・ハイ〉と、看板に書かれた店の前だった。派手な外装から、バーであるらしいことはエヴァンにも見当がついた。

 エヴァンは入り口自動ドアの上に掲げられた看板を見上げ、相棒に尋ねた。 

「なあ、ここに何の用があるんだ? 今閉まってるんだろ」

 ドアにはめ込まれたディスプレイには、「CLOSE」と確かに表示されている。

 レジーニはエヴァンの疑問には答えず、ドアの前に立つ。センサーが反応し、ドアがスライドして開いた。

 相棒の片足が、店内に一歩踏み入った。その瞬間、大きな影がどこからともなく現れ、相棒に襲いかかった。

 襲撃者に気づいたエヴァンは、レジーニに危機を告げようと口を開こうとした。だが、その必要はなかった。

 一瞬の展開だった。レジーニは襲撃者の攻撃をかわし、相手の背後に立った。その際、片腕を掴み、背中でひねりあげた。敵はすかさず、その場で回転することで腕を開放した。逆にレジーニの腕を掴み上げ、すさまじい腕力をもって床に叩きつけようとした。

 レジーニは両足が床についた瞬間、片足を軸にして、敵に足払いを見舞う。大柄な胴体が、豪快に倒れた。

 レジーニはすっくと立ち上がり、倒れた敵の背中を踏みつける。踏んだ瞬間、敵の喉から、妙につやっぽい喘ぎ声が漏れ出てきた。

「そういう出迎えはやめろと、再三言ってきただろうが。殺すぞ」

「だって、こうでもしないと触れないじゃない。レジーニったら、意外とガードが堅いんだもの」

 相棒が踏みつけにしている人物から発せられたのは、女口調で話す野太い男の声だった。

「オ、オカマ?」

 エヴァンが思わず口に出すと、レジーニの足の下から這い出てきた人物は、きっと睨みつけてきた。

「気安くオカマなんて呼ばないでちょうだい。アタシは由緒正しい〈プレイヤーズ・ハイ〉のドラァグクイーンなのよ」

 彼――彼女は大柄な人物だった。背はレジーニよりも高く、おそらくは百九十センチは超えている。髪は豊かに波打つホワイトブロンド。引き締まった身体つきは、アスリートのようにたくましく、均整がとれていて美しい。身にまとう服はフリルのついた白いシャツと、シフォンのスカート。ヒールの高いブーツを履いているために、長身による威圧感が増している。

 ドラァグクイーンと自称するにふさわしく、メイクはかなり派手だ。まばたきするたびに、アイシャドウのラメがキラキラと輝く。顔立ちは男そのものだが、立ち居振る舞いは優雅で女性らしい。

 エヴァンは、頭一つ分近く身長差のあるドラァグクイーンを、好奇と畏怖の混ざった目で見上げた。本物の女装家を見るのは初めてだ。

 ドラァグクイーンの方も、興味深そうエヴァンを見下ろす。長い人差し指を、真っ赤な口紅を引いた下唇にあてながら。

「ねえレジーニ、この小猿ちゃんはどこの子? ひょっとしてアナタのパートナー? アタシを差し置いて、ついにこっちに目覚めたの?」

「自慢の鼻を整形前に戻したくないなら、滅多なことは言わない方が身のためだストロベリー。そもそも君なら、そいつが誰だかもう分かってるだろう」

「んもう! アナタとの会話を楽しみたいっていう、アタシの切ない気持ちを汲んでくれたっていいでしょうに! それにしても、よく誰かと組む気になったわねえ」

 ストロベリーは嬉しそうに笑い、大きな右手をエヴァンに差し出した。

「レジーニの相棒君。はじめまして、アタシはママ・ストロベリーよ」

「お、おう。俺はエヴァン・ファブレル。よろしく」

 ちょっと気圧けおされるものの、どうやら人柄は良いらしい。エヴァンはストロベリーの握手に応じた。ストロベリーの表情がほころぶ。

「んふ。お肌スベスベね」

 背筋がぞくっとした。

「え、えっと、二人って友達なのか?」

 エヴァンは相棒とドラッグクイーンを交互に見た。答えたのはストロベリーだ。

「向こうはどうだか知らないけれど、アタシは友達だと思ってるわ。付き合いも短くはないしね」

 ストロベリーの流し目を、レジーニは「ふん」と鼻を鳴らして受け流す。

「へー。俺と知り合う前のレジーニか。興味あるな。だって自分のこと全然話してくれねえもん」

「そうでしょうね。アタシがお話ししてあげてもいいんだけど、後が怖いから遠慮させてもらうわ」

 レジーニを怒らせたくないのは、彼女も同じらしい。

「それで、レジーニ。半年ご無沙汰してて、突然やってきたのは、単にアタシの顔を見たくなったからってわけじゃないんでしょ?」

「当たり前だろう。こっちは仕事で来てるんだ」

「ほんと、つれない人。情報が欲しいって言うのね」

「情報?」

 首を傾げるエヴァンに、レジーニが答える。

「ストロベリーは情報屋だ。独自のネットワークをもっていて、たいていのことなら調べられる調査能力の持ち主でもある」

「じゃあ、あんたも裏稼業者なんだな」

 ストロベリーは両手を腰に当て、自慢気に頷いた。

「そうよ。アタシの元に来れば、ありとあらゆる情報を提供してあげる。依頼があれば、どんなことだって調べてくるわよ。ただし、その分高くつくけれどね」

「そっか。例のあいつことを聞くためにここに来たんだな、レジーニ。じゃあさ、ちょっと調べてほしい奴が……」

 エヴァンが事情を説明しようとすると、ストロベリーは人差し指をエヴァンの唇にあて、言葉を遮った。

「はいストップ小猿ちゃん。情報提供をご所望なら、ここから先はビジネストークよ。ビジネスはギブアンドテイク。欲しいものがあるのなら、相応の見返りをいただかなくてはね」

「お代ってわけだろ? タダで情報くれなんて、さすがに俺だってそんなこと言わねえよ」

 エヴァンはストロベリーの指を払い、にやっと笑う。裏社会の取引らしい雰囲気になってきたと、気分が少し高揚する。

「あんたの情報は、いくら払えばいいんだ?」

「フフ、小猿ちゃんたら背伸びしたいのね。かわいいじゃない。大人の世界にはいろいろあるのよ。アタシはね、いちげんさんお断りなの。ちゃんと信用のできる相手じゃなければ仕事しないわ」

「じゃあ俺はパスだろ。レジーニから紹介されたってことになるじゃん」

 ストロベリーはすねるように、唇を尖らせた。

「ただ紹介されただけじゃあダメよ。アタシ自身が、信用できる相手かどうかを見極めないと。裏社会は表社会以上に、信頼関係がものを言うんだから」

「じゃ、どうすりゃいいってんだよ」

「そんなの決まってるじゃない。肌と肌との触れ合いよ」

「は?」

 突然の一言に、理解が追いつかないエヴァンの思考は、ぴたりと止まってしまった。高ぶりつつあった気分は一気にしぼんだ。ぼうっとしたままストロベリーを見上げる。ドラッグクイーンの情報屋は、にこりと笑う。

「え、なに、どゆこと?」

 困惑し、相棒に助けを求めようと視線をめぐらせる。レジーニは、そ知らぬ顔でカウンター席に座っていた。いつの間にどこから持ってきたものか、カップ入りコーヒーを飲んでいる。

「くつろいでんじゃねーよお前! これ一体どういう意味だよ!」

 動き始めた思考が、おおよその見当をつけ始めていた。十中八九、気分のいい展開にはならない。その不安を消したいがために、必要以上の大声を上げるエヴァンである。

 レジーニは、まるっきり他人事のような態度でカウンターに肩肘をつき、その掌に頭をもたれかけた。

「新人の通過儀礼だと思え。ストロベリーと今後も仕事していきたいなら、これを避けては通れない。大丈夫だ、触るだけだから」

「いやいやいやいやいや! 触るだけでもNGだろうが! なんで俺が! 絶対やだ!」

「つべこべ言わずに、ストロベリーにまかせておけばいいんだ。おとなしくしていれば、彼女の気が済むのも早い」

「そうよお。じっとしててくれたら、すぐに終わらせてあげるから」

 背後からたくましい腕が伸び、エヴァンを抱きすくめた。思わず悲鳴を上げたエヴァンは、ストロベリーの拘束から逃れようともがいた。しかし、ドラッグクイーンの腕力は、予想以上に強かった。

 細胞装置ナノギアを起動させようとしたものの、システムは働かなかった。動揺しつつも「やっぱり駄目か」と納得する。

 マキニアンには、非武装の人間に対して、出力が一般人並みに制御されるオートストッパー機能が備わっている。相手がどんなに戦い慣れていようが、武器を持っていない以上、ナノギアを起動させることは出来ない。

 一般人並みの出力というのは、「そのマキニアンが一般人だった場合に備わっているだろう平均的体力」を元にしている。

 ただし、体得した格闘技術まで制御されることはないので、間違っても一般人に倒させるようなことにはならない。ならないはずなのだが。

「はーなーせえええええええ!」

「あら、アナタ結構体格いいんじゃなくて? 生を拝むのが楽しみだわあ」

 ドラァグクイーンは腕力だけでなく、体力そのものが優れていた。どんなにあがいても、ストロベリーの拘束力は一向に衰えない。

 そのうちエヴァンは、ひょいと抱えあげられ、軽々と「お姫様だっこ」されてしまった。

「心配いらないわよ、ほんとに触るだけ。アタシだってそのくらいの分別はつけるわ。相手が未経験者ならなおさらね。じゃ、レジーニ、ちょっと借りていくわよ」

「ああどうぞ、好きなように」

 さっさと行け、とでも言うように、レジーニはぞんざいに手を振った。

「わああああああ! 助けてレジーニさん! やだーーーーーー!」

 エヴァンを抱えたストロベリーは、意気揚々と奥の部屋へと歩いていく。必死の、それこそメメントを相手にした時でも見せたことのない抵抗を試み続けたのだが、結局エヴァンはそのまま、個室に押し込められたのだった。


 

 悪夢のような濃密な時間は、どうにか過ぎ去ってくれた。

 気力と体力と、その他の大切な何かを奪われたあわれなエヴァンは、精根尽き果て、ぐったりとした足取りで、個室から這うように出た。

 パーカーは、いつ脱がされたのか分からない。Tシャツは半分めくれ上がったままだ。服装を整える力さえ湧いてこない。身体中にバラの香りが着いてしまっている。ストロベリーの香水のせいだ。

 よどんだ目をカウンターに向ける。眼鏡をかけた悪魔が、相変わらず他人事のようにそこに座っていた。

「十五分か。思ったより早かったな」

「このクソ野郎おおおおおお!」

 感情が爆発したエヴァンは、泣き声とも怒号ともつかない声を発しながら、レジーニに殴りかかった。

 顔面を狙うエヴァンの拳を、レジーニは軽い動きでけ、逆にその腕を掴んだ。エヴァンの勢いを利用してそのままひねり上げ、カウンターテーブルにねじ伏せた。

「クソ野郎? 誰に向かってそんな口を叩く?」

 真冬の風にも劣らぬ声色のレジーニ。肘でエヴァンの首筋を抑え、カウンターテーブルに強く押しつける。

「ぐえ」

 エヴァンの喉から、カエルが潰されたような声が発せられた。

「お前はまだ、自分の立場を分かってないようだな。ちょっとおさらいしようか」

 抵抗しようにも、片腕をがっちりとホールドされていて、文字通り手も足も出ない。

「僕はお前の何だ?」

「……先輩です」

「先輩とはどういうものだ」

「絶対的存在です」

「お前は僕の何だ?」

「後輩です」

「後輩とは先輩の何だ」

「下僕です」

「従って、後輩は先輩に?」

「……絶対服従です」

「結構」

 レジーニはようやく、エヴァンを解放した。

「よくしつけられてるわねえ」

 ストロベリーの、感心したような声が聴こえた。エヴァンは反射的に身を起こし、レジーニを盾にして、その背後に隠れた。

「く、来るな!」

「もう、そんなに怖がらなくたっていいじゃないの、傷つくわね」

「ストロベリー、やりすぎたんじゃないのか。ジャケット引っ張るな、馬鹿」

「そんなことないわよ。宣言どおり、触ることしかしてないわ」

「うなじにキスしたじゃねーか嘘つくな!」

「だって、小刻みに震えてるのがかわいかったから、つい。思ったとおり、細いけどいい身体してるわ」

 レジーニの肩越しに、こちらを覗こうとするストロベリーを、エヴァンは相棒の背中を最大限に活用してブロックした。

 たしかにストロベリーは、うなじへのキスを省き、触る以上のことはしなかった。だが、かなりきわどい部分にまで手を出そうとしてきたので、それらの攻撃から身を守るだけで精一杯だった。どこをどんな風に触られたのかなど、この先一生思い出したくもない。

「涙目にならないでよ。そんな顔見せられたら、本格的に襲いたくなっちゃうじゃない」

 ストロベリーが何かを差し出す。パーカーだ。エヴァンはパーカーをひったくり、服の乱れを整えてから羽織はおった。

「レジーニ、かわいい子連れてきてくれてありがとね。すっごく満足したから、今回は奮発してあげるわよ」

「猿っぽい顔が、こんなところで功を奏するとは。よかったなエヴァン。その顔でも通用する世界があって」

「お前ら二人とも、いつか絶対シメてやる」

 本当にシメてやる。エヴァンは固く心に誓った。


 

 エヴァンの散々な「通過儀礼」は、とにもかくにもこれで終了のようだった。エヴァンは情報屋ママ・ストロベリーの新しい取引相手として、正式に認められることになった。幸いなことに「通過儀礼」は初回のみで、これ以降は通常通り、代金支払いによる情報提供となる。これを聞いたエヴァンは、床に崩れんばかりに安堵した。

「この男を調べてほしい」

 そう言ってレジーニは、例の赤いゴーグルの男が映っている動画を、ストロベリーに見せた。

「ああ、こいつね。最近になってアトランヴィルに現れた奴。護送者脱走事件の主犯格らしいけど、今のところ、こいつと囚人たちの関係性は見当たらないわ」

「メメントのことは?」

「こいつらの現れる所に、ほぼ出現するっていうことでしょ? そっちの方も調査中。最初に目撃情報が上がった時から、ずっとマークしてるんだけれどね。全然尻尾を掴ませないのよね。〈監視員〉を殺すくらいだから、おそらく玄人だと思うんだけど」

 ストロベリーは唇に指をあて、とんとんと軽く叩く。

「囚人たちの方は、特に心配しなくていいでしょうね。ほんとにただの受刑者。全員の経歴はすぐに調べがついたわ。おそらくこの男は、何かの目的のために、こいつらを利用しようと脱走させたのよ。その目的さえ分かればね」

「頼めるかい」

「まかせておいて。充分な収穫があったら、すぐに連絡するわ」

 ストロベリーは自信たっぷりに答え、ウィンクをした。



〈プレイヤーズ・ハイ〉を出たエヴァンは、自分の身に起きてしまった異次元の出来事に疲れきり、なだれ込むようにレジーニの車に乗り込んだ。

「ひでーよレジーニ。なんでこんなとこに連れてきたんだよ」

「裏社会の仕事を続けるコツの一つが、『有能な情報屋を一人は抱えておくこと』だ。ストロベリーの顧客になっていて損はない。僕と組んでいる以上、先々必ず彼女の世話になる時が来る。遅かれ早かれ、お前には『通過儀礼』が必要だったんだ」

 レジーニはあくまでも冷静に、理路整然と説明した。その、あまりにも淡々とした対応に、エヴァンは苛々を抑えられなかった。

「それでも前もって言ってくれれば、こっちもそれなりに心の準備ができたんだ。お前はどうだったんだよ。ストロベリーにあちこち触られて、嫌じゃなかったのか。自分がやられて嫌なことは、他人にもやっちゃいけないことだって、みんな子どもの頃に教わるはずだろ」

「僕が? 何を言ってるんだ」

 レジーニは、やれやれと首を振った。

「この僕が他人に触らせるとでも? 鼻を掴んで引きずり回しながら罵声を浴びせ続けたら、それでストロベリーは満足したよ」


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