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TRACK-2 熱と氷

        1


 荒野の中を貫くように敷かれた道路を、一台の電動車が行く。

 一見すると、一般道路を走っている他の電動車と変わりがない。しかし窓にはスモークフィルムが貼られており、内側に鉄格子がはめ込まれている。車両の外装は、傍目はためには分からないが防弾仕様になっている。

 運転席と、車体の四分の一を占める後部座席の間を、厚い鉄の壁が隔てている。二つの空間をつなぐものは、小さな格子窓のみだった。

 後部座席は、向かい合うように左右にしつらえてあり、合わせて十人の男たちが座っていた。皆、くすんだオレンジ色の繋ぎを着て、両手両足を枷で拘束されている。

 彼らは囚人。この車は護送車である。

 荒野の道路を走り始めてから、一時間近く経っているだろうか。囚人たちは退屈な時間を、互いの罪暦を語り合うことで、気をまぎらそうとした。しかし口を開くと、即座に助手席の看守に咎められるので、いつしか誰も言葉を発しなくなった。

 無言の空間となってから、しばらくしてのこと。

 護送車は急に停車した。何事か、と囚人たちは顔を見合わせた。窓に貼られたスモークフィルムは、外の景色がほとんど見えないようになっている。だから囚人たちには、現在地がどういう場所なのか分からない。

 目的地に着いたのだろうか。

 運転席側がざわついている。助手席の看守が車から降りたようだ。

 少し間が空いた後、耳を裂くような男の悲鳴が聞こえてきた。慌てた様子で、運転席の看守も外に飛び出した。

 直後、再び悲鳴が上がった。

 そして、唐突に沈黙が訪れた。

 車両に取り残された囚人たちは、互いの顔を見合わせた。いったい何が起きたのか。ろくなことではないだろうことは、容易に想像がつく。

「おい、なんか、ヤバいことでもあったんじゃねえか」

「ヤバいことってなんだよ」

「俺が知るか」

「看守ども、どうなっちまったんだ。まさか俺たち、こんな所に置き去りか」

「冗談じゃねえ。どうにかして出ようぜ」

 男たちは、両手足を拘束する枷を鳴らして立ち上がった。何が起きたか知らないが、看守二人に異変があったことは間違いない。その“異変”が、自分たちに降りかかるのは御免だ。

 囚人らは、しっかりと施錠された護送車両の扉の鍵を開ける算段を始めた。その時。

 凄まじい轟音とともに、護送車が大きく揺れた。囚人たちはよろめき、近くのあらゆるものにすがりついた。バランスを崩した幾人かは、無様に尻餅をついた。

 轟音と振動が収まった後、彼らの目に、異様な光景が飛び込んできた。

 固く閉ざされていた両開きの扉が、まるごとむしり取られていた。開放された扉の前に、長身の男が一人、たたずんでいる。

 男は縮れた長い黒髪の持ち主で、ロングコートを身にまとい、古いワークブーツを履いていた。不気味な赤いレンズのゴーグルを装着しており、顔はよく分からない。

 男の足元に、真っ赤な血溜まりが広がっていた。誰が流した血なのか、囚人たちには分かっていた。

 赤いゴーグルの男は、口の端を吊り上げてにやりと笑い、

「よう」

 低く重い声で、軽い挨拶を投げかける。

「お前らはクズだ。社会からはみ出し、ゴミ置き場に溜まる害虫だ。どこにも身の置き場はない。どこへ行こうが追われ続け、行き着く先は処刑台。それでも」 

 男は囚人たちを誘うように片手を背後に伸ばし、言葉を続けた。

「まだ暴れ足りねえと言うのなら、俺と来るがいい」


        2


 部屋のドアを開けると、向かいのドアも開くところだった。相手の姿を認め合うと、それぞれ異なる反応を示した。

 エヴァンはぱっと表情が明るくなり、アルフォンセ・メイレインは戸惑い、下を向いた。

「お、おはよう!」

 エヴァンは努めて明るく、さりげなく声をかけた。アルフォンセは、自分への挨拶を無視できない性格なのか、目をそらしつつも、

「おはようございます」

 一応の返答はしてくれた。

「こ、これから仕事? 俺もなんだ」

「そうですか……。それじゃあ、あの、お先に失礼します」

 ワンピースの裾をひるがえしながら、アルフォンセはエレベーターまで急くと、そそくさと乗り込んでいった。この間、一度も目を合わせてくれなかった。

 エヴァンは絶望的な気分で、情けないため息を大きく吐いた。

「ああ、駄目だ。完全に不審者扱いされてる」

「ていうより、完全な変態でしょ」

 背後から冷めた声がした。振り返ると、天敵マリー=アン・ジェンセンが、制服姿でエヴァンを見上げていた。

「誰が変態だ、誰が」

「変態が嫌なら、変質者でもいいんじゃない」

「違いがねーだろソレ」

 エヴァンはもう一度、今度は小さくため息を吐くと、エレベーター前に移動した。後ろからマリーもついてくる。

 先ほどアルフォンセが使用したので、エレベーターは下に降りたままだった。上昇ボタンを押し、到着を待つ。

「あんたさあ、あの人が本気で好きなの?」

 隣に立つマリーは、切れ長の瞳でエヴァンを見上げる。意地の悪い発言がなければモテるんだろうな、とエヴァンは思った。

「まだ名前しか知らない相手を、よく好きになれるね。変態って思い込み凄い」

「うっせーな。初対面があんな感じになって、気まずくなってるから、ろくに話もできてないんだぞ。どうやって名前以外のことを知りゃあいいってんだ」

 エレベーターが到着した。乗り込んで、1Fを押す。

「あたし知ってるわよ。アルフォンセのお仕事とか、いろいろ」

「は?」

 驚いてマリーを見下ろす。天敵少女の表情は勝ち誇っていた。

「あたしたち、結構仲良くなったんだ。メールもやりとりしてるしね。この前はうちに食事に呼んだんだよ」

「ななな、なんでその場に俺を」

「呼ぶわけないじゃん馬鹿。あんたのお膳立てなんてしないわよ」

「俺のこと、何か言ってた?」

「全然」

「……あっそ」

 変態と思われていようが、話題にもされない寂しさよりはましだ。

 あの最悪の初対面から二週間。顔を合わせることは何度かあったが、アルフォンセとの距離が縮まることはなかった。会っても、当たりさわりのない挨拶を交わすだけ。明らかにけられている。

 嫌われているにしても、気味悪がられているにしても、彼女の信頼を得るために、乗り越えなければならない壁は高いようだ。

 こちらの想いは増す一方なのだが。

 エレベーターが一階に到着した時、マリーが口を開いた。

「脈なしってあきらめる気はないんだ? あんたとアルフォンセとじゃ、あんまりにも釣り合わなさすぎじゃない?」

「ほっとけ。どうせ俺はかっこよくねーよ」

 いじけたことを言うと、マリーは、

「そうでもないと思うけど……」

 ぽつりと呟いた。

 意味は分からなかったので、それには答えなかった。

「アルフォンセのアドレス、教えてあげようか」

「え? マジか!?」

「うっそー。本人の許可がないのに教えられるわけないじゃん、ほんと馬鹿だね」

 心の底から見下している。

「てンめェェえええ……オトナからかうのもいい加減にしろよな!」

「あんたなんか、ただ身体が大きいだけで、子どもと一緒じゃない。もうちょっとレジーニさんを見習ったら? じゃあねー」

 心に悪魔を飼う少女は、けらけら笑いながらエヴァンに背を向け、軽やかに歩いていった。

 エヴァンは少女の背中に、コウモリの翼を見た気がした。


 

 

 サウンドベル南、隣の地区との境界線地帯に、小さな林がある。ジュール記念病院跡は、その林の中にひっそりとたたずんでいた。

 廃墟となって七年ほど経つらしい。風になぶられ、木々が葉を揺らしてざわめく中で、廃病院は不気味な静けさをはらんでいた。くすんだ外壁はカビとツタに覆われ、窓のガラスというガラスは割れ砕け散っている。訪れる者を拒絶するのか、あるいは飲み込もうとするのか。どちらにせよ、漂う空気は異様である。 

 この廃墟にメメントが現れたという情報があり、ヴォルフはさっそくエヴァンとレジーニを遣わした。

 メメントは夜闇の中でしか活動しない。そう言われていたのは、数年前までの話だ。年々メメントは活動範囲を広げている。暗がりに好んで潜む習性は変わらないが、昼夜を問わず動き回るようになった。

 レジーニの愛車――鮮やかな黒のスポーツカーから降り立ったエヴァンは、朽ち果てた建物を見上げた。まだは高いというのに、この場所だけ肌寒い気がする。

「おおお、なんかいかにもって感じだな。メメントより“本物”が出てくるんじゃねえか?」

「こんな廃墟で、しかも病院。そういう噂は尽きないのは確かだ」

 エヴァンに続いて車から降りたレジーニ。後部座席から本皮のキャリーケースを引き出し、地面において蓋を開けた。

 ケースに大事に納められているのは、彼の武器である蒼いクロセスト〈ブリゼバルトゥ〉だ。ケース内では、刀身部とグリップ部とに分割されている。レジーニは二つのパーツを合体させ、武器の点検をした。小さく頷く。問題ないようだ。

 レジーニは〈ブリゼバルトゥ〉を横に持ち、刀身の峰に付いている発動器イグニッショナーを手前に引いた。武器内部に仕込まれた具象装置フェノミネイターのエネルギーカートリッジから、パワーチャージが開始される。まもなく〈ブリゼバルトゥ〉の刀身は、冷たくも美しい蒼い光を帯びた。これでチャージは終了である。

 フェノミネイターはクロセストのきもだ。炎や冷気、雷など様々な属性エフェクトを発生させるもので、この装置がなければ、クロセストはただのガラクタ同様である。

「でも、幽霊だのなんだのは関係ない。実在するのかどうかは知ったことじゃないし、いたとしても、そういう専門家にまかせればいい。僕らが相手をするのはメメントだけだ」

「たまにテレビでやってる心霊特集、あれって本当の話だと思うか?」

 剣に続き、クロセスト銃の点検を始めたレジーニは、エヴァンの言葉を鼻で嗤った。

「僕に言わせれば、ヤラセもいいところだね。あんな稚拙な合成映像を、本物だと思う方がどうかしている」

「なんだヤラセかよ。夢がねーなー」

 エヴァンはがっかりして肩を落とした。幽霊やらお化けが実在するなら、ぜひお目にかかりたいと思っていたのに。

 失望するエヴァンに、相棒は呆れた表情を見せた。

「ゴーストなんかに夢やロマンを求める奴があるか。実体のない死者より、確実に存在する“元・死骸”に集中しろ」

 レジーニは銃の点検も終え、武器を携えて廃病院へ足を向けた。エヴァンは慌てて後を追う。相棒は一秒たりとも、エヴァンが追いつくのを待たなかった。

 エヴァンは歩きながら、自分の銃の具合を確かめる。特に問題はなさそうだ。

 クロセストはメメントに唯一対抗しうる、特殊な武器だ。その稀少性の高さから、裏社会でもそうそう出回らない。使えそうなクロセストが流通したら、入手は早い者勝ちなのである。

 マキニアンのエヴァンは全身がクロセストだが、彼には〈ショット〉のスペックが備わっていない。近接打撃に特化したスペックしかないため、遠距離攻撃用に、クロセスト銃が必要になるのだ。

 銃はヴォルフが用意してくれたものだ。中古品ではあるが、まだまだ使える。

 銃に異常がなければ、あとは自分の体調次第である。細胞装置ナノギアを発動させるのに必要なエネルギーは、マキニアン本人の体力そのものだ。体力の消耗にさえ気をつければ、マキニアンは限度なく戦える。

 足が長く歩幅の大きいレジーニに追いついた時には、すでに廃墟の入り口門前に到達していた。

 朽ちた建物を見上げたエヴァンは、

 ――いるな。一体、デカいのが。

 直感で分かった。付近に潜むメメントを感知する能力も、マキニアンにはあるのだ。他に小さな反応が、建物のあちこちから感じられる。

「エヴァン、見ろ」

 レジーニが鉄格子の門扉もんぴを指差している。門には電子ロックがほどこされているはずなのだが、それが今は破壊され、片側の門にだらりとぶらさがっていた。壊されてから、そう時間は経っていないようである。

 エヴァンとレジーニは、依頼を受けた際に、ヴォルフから電子ロックの解除コードを教えてもらっている。しかし、こうして強引に開けられているということは、

「先客か」

 レジーニは壊れた電子ロックをつつき、廃墟を見据えた。

「俺たち以外の〈異法者ペイガン〉が、もう中にいるってことか? そんなの聞いてねーけど」

「同業者だったら、ヴォルフが黙ってないだろうな。この一件は僕らにまかされたものだ。ヴォルフがダブルブッキングなんてするわけがない」

 裏稼業者は必ず、ヴォルフのような“窓口”から仕事を請け負わなくてはならない。窓口は、誰かに一件仕事を紹介したら、結果が出るまで、同じ内容の仕事を別の誰かに紹介してはならない。持ち場のワーカーを管理する窓口が、ダブルブッキングをするなどあってはならないことだ。

 同時に、窓口の紹介なしに仕事をすることも、犯してはいけない禁忌である。裏社会はすねに傷を持つ無法者だらけだが、独自の掟が敷かれており、それなりの秩序を保つ義務があるのだ。これらに反する行動をとる者は、すみやかに何らかの処罰が下される。

「同業者じゃねえなら誰なんだよ。〈墓荒らし〉じゃね?」

「〈墓荒らし〉にしたって、所属エリアの窓口に届出はする。窓口たちは同じ日同じ時に、別のワーカー同士が鉢合わせしないように、スケジュールを調整し合うんだよ。〈墓荒らし〉にせよ、他のワーカーにせよ、正式に仕事を請けた僕らがいる限り、そいつらは違反者だ。見つけたら報告する」

「ひょっとして、肝試しでもしてたりして」

「そんな馬鹿はお前だけで充分だ。行くぞ」

 レジーニはロックの壊れた門扉を開け、廃墟敷地内に足を踏み入れた。エヴァンは相棒を追いつつ、聞き捨てならない言葉に、きっぱりと抗議の声を上げた。

「おいちょっと待て。俺はこんなとこで肝試しなんかしねーから。するならもっと派手なとこ行くぞ。古くてでっかい城とかな!」 


 

 荒れ果てた廃病院を、周囲を警戒しつつ進む。廊下に散ったガラスや瓦礫がれき欠片かけらを踏むたびに、ジャリ、ジャリと音が立つ。

 覆うもののなくなった窓からは、明るい外光が射し込んでいる。それにも関わらず、内部はひんやりしていた。

 すえた臭いはカビのせいか。つんと鼻の奥を刺すような刺激臭の正体は、壁に染み込んだ薬品だろう。

 メメントは、確かにいる。エヴァンはその存在を感知している。しかし、一向に現れる気配がない。

「具体的な位置は分からないのか」

 前を歩くレジーニは、振り返らずに訊く。エヴァンは首をひねった。

「俺、感知能力そんなに高く設定されてねーからな。さっきから俺たちを、遠巻きにして様子見してる感じだ。あと、ちっこいのがちらほら」

「本当にただの体力馬鹿だな」

「なあレジーニ。ちょっと大事なことを訊いてもいいか?」

「不毛な話だったら、頭撃ちぬいて窓から突き落とす」

「どうやったら女の子の信頼を勝ち取れるもんなんだ?」

「遺言があるなら聞いてやるよ」

 レジーニはそつのない動作で、安全装置を外した銃を、エヴァンの額に当てた。

「待て待て待て待て、急所を狙うな急所を! 真剣な話なんだって!」

 エヴァンは条件反射で両手を上げ、弁解した。

「僕にとってはくだらないつまらないどうでもいい話だ。投身自殺に仕立てるから靴を脱げよ」

「さらっと恐ろしい計画を立てるな! お前女の子にモテるだろ。どうやって接してんのかなーって」

「例の向かいの部屋の子か」

「うん」

 エヴァンが素直に頷くと、レジーニは呆れたような大きなため息をつき、銃を下ろした。

「どうしてこの僕が、猿の恋愛相談なんかに乗らなくちゃいけないんだ」

「お前しか訊ける相手いないし」

「ラジオの人生相談コーナーにでも投稿しろ」

「それも考えたけど、なんか恥ずかしいじゃん? どっかの大勢の人に聞かれるんだぜ?」

「お前の羞恥心のバロメーターはおかしい」

 レジーニは再び歩き出す。エヴァンはまた、その後を追う形になった。

 相棒は辛辣な態度を崩さないが、エヴァンにとっては重要な問題なのだ。訊ける時に訊いておかなければ、いつまでたっても悩みが解決しない。

「俺さ、同世代の女の子と話すようなこと、あんまりなかったんだよな。だから正直なとこ、どう接すりゃいいのか分かんねーんだ」

「お前が女性に免疫がなかろうが何だろうが、僕にはなんの関係もない。自分で蒔いた種は自分でなんとかすることだ」

「だから、その種をどう収拾つけりゃいいんだよ」

「そんなこと自分で考えろ!」

 怒るレジーニが、くるりと踵を返した。直後、二人はほぼ同時にクロセスト銃を構えた。向き合う二人は、互いの肩越しにエネルギー弾を放つ。エヴァンの背後をレジーニが、レジーニの背後をエヴァンが。

 二人の放ったエネルギー弾が仕留めたのは、中型犬ほどの大きさの、ダンゴムシのような物体だった。硬そうな甲殻と、まばらに生えた体毛を有している。ピルバグと呼ばれているメメントだ。

 二人はお互いの肩越しに、倒したメメントを見やる。エネルギー弾に撃ち抜かれたメメントは、臭気を含んだ蒸気を発生させつつ、消滅していった。

「あれが『ちっこいのちらほら』か」

「だな」

 頷き、銃を下ろす。

「でさ、話の続きなんだけど」

「もういい。こっちの頭が悪くなるような会話はしたくない」

 再び追いかけっこが始まった。

「相棒が真面目に相談してんだぞ。ちゃんと目を見て、ちゃんと答えろよ」

「なにが相棒だ。お前の面倒なんか引き受けるんじゃなかったと、つくづく後悔してるよ」

 レジーニが一向に足を止めず、振り返りもしないので、エヴァンは走っていって、彼の前に立ち塞がった。

「答えてくれなきゃ、もっとしつこくウザくしてやる」

「子どもかお前は。そういうしつこいところを自重しない限り、絶対に女性にモテることはないからな。そもそもお前は、その子の信頼を得て、それからどうしたいって言うんだ」

「え? そ、そりゃお前」

 頬が熱くなるのを感じた。頭に浮かんだ妄想に、思わず口元が緩むのを、エヴァンは手で抑えた。

「ちゅ、ちゅう、とか?」

「踏むべき手順をことごとくすっ飛ばしてダイレクトアタックしようとするんじゃない。そんな調子じゃ、そのうち思い余って押し倒しそうだな」

「するかそんなこと!」

「そうかい。まあ、童貞にそんな度胸なんかないだろうね」

「どどどどど童貞って言うな!」

 二人は同時に反応し、銃を構えた。お互い越しの射撃を、今度は何十発と繰り返す。

 ダンゴムシ似のメメント、ピルバグが、建物内のあちこちからウジのように湧き出してきた。

 驚異的な跳躍力でジャンプしてくるピルバグを、エヴァンとレジーニの放つ弾は、狙いを外すことなく葬った。

 撃破したピルバグは、悪臭の湯気を放出しながら、次々と消えていった。

 正確に、何体倒したのかは分からなかった。メメントを倒し尽くした時には、銃のエネルギー残量が半分ほどになっていたので、かなりの数をほふったのは間違いない。

「現れ始めたな。エヴァン、大きい反応はどうなっている」

「あー、そっちの方は……」

 エヴァンは周囲の気配を探った。ちらほらしていた“ちっこいの”であるピルバグは、さきほどの銃撃で滅ぼした。あとは、ずっと潜んでいる大きな一個体のみだが。

 急速な接近を感じ取った。足元からだ。

「下だ!」

 エヴァンが声を発すると同時に、二人は対極に飛んだ。直後、まるで火山噴火のように床の一部が吹き上がり、赤黒く光る柱が現れた。柱が打ち破った床の破片が、そこかしこに落下する。

 赤黒い柱の正体は、巨大なメメントだった。全長は明らかではないが、相当な大きさだ。無数の足と硬い甲殻に覆われたヤスデのような形状――ディプロフォームである。

 ディプロフォームは長い胴を折り曲げ、どちらに喰いつこうか思案している風に見えた。

 エヴァンは〈細胞装置〉を起動し、両前腕を〈イフリート〉に変形させる。メメントの向こうで、レジーニも〈ブリゼバルトゥ〉を構えるのが見えた。

「すんげえキモいのが出てきたな。油のってそうだし、ここは燃やすのが一番だろ!」

 エヴァンの意思に呼応した〈イフリート〉が、内部搭載のフェノミネイターを発動させる。微量の機械音を発しながら動き出したフェノミネイターは、〈イフリート〉に炎属性エフェクトのエネルギーを充填する。〈イフリート〉の甲が、澄んだ緋色の輝きを放ち始めた。

 ボクサーのように両拳を打ち合わせたエヴァンは、そのまま戦闘態勢をとった。

「来やがれヤスデ!」

「エヴァン、ディプロフォームはかなり大きいぞ」

「油断するなって言いたいんだろ? 分かってるよ、俺だってそんな無鉄砲じゃうごは!!」

 語尾が意味不明の悲鳴になったのは、ディプロフォームの残る半身が床下から出現し、その勢いでエヴァンを薙ぎ払ったからである。

 メメントの強烈な一撃を受けたエヴァンは、壁に叩きつけられた。あまりの衝撃で、壁が大きく窪む。

 ディプロフォームは胴体をひねると、頭部をもたげ、エヴァンを見下ろした。メメントの腹部がむき出しになる。無数の足が蠢くその様子は、形容しがたい気味悪さだった。

 頭部に近い部分に生える足の一箇所が、ガマの口のようにがばっと開いた。その口から、粘液にまみれた触手が現れ、エヴァンを襲う。

 エヴァンはくぼんだ壁から急いで離れ、触手の捕獲から逃れた。獲物を逃した触手は、壁のコンクリートを喰い破る。

「こんにゃろ!」

 体勢を整えたエヴァンは、高熱を帯びた〈イフリート〉を、ディプロフォームの甲殻に叩き込んだ。炎のエフェクトが発生し、火花を散らした。

 手ごたえはあった。しかし、ディプロフォームは炎上しなかった。一瞬燃え上がるのだが、たちまち鎮火してしまう。

「なんだこいつ!」

「エヴァン、お前の〈イフリート〉じゃ、ディプロフォームは仕留められない。僕のフォローに回れ」

〈ブリゼバルトゥ〉の蒼い発光が強くなる。出力が上がったのだ。

「甲殻は火をはじく上に、銃でも貫けない。腹部を狙うしかないんだ。それに」

「マジか!」

 ディプロフォームが大きく動いた。胴がぶるっと震え、触手が二つに分かれた。分裂した触手は、エヴァンとレジーニに同時に襲いかかる。

 レジーニは、迫る触手を避けず、〈ブリゼバルトゥ〉に絡みつかせた。フェノミネイターが冷気を発し、触手を凍りつかせる。レジーニが剣を振り上げると、凍結した触手は木っ端に砕けた。

 エヴァンは触手を片手で掴む。ディプロフォームの重量が、腕を伝わってくる。

「内側をやりゃあいいってんだろ!」

〈イフリート〉の炎エフェクトが発動。〈イフリート〉から生まれた炎は触手を這い上がり、ディプロフォームに開いた口を直撃した。炎を飲み込んだディプロフォームの口腔が爆発する。

「よっしゃ!」

 攻撃が決まり、ガッツポーズをとるエヴァン。しかし喜ぶのも束の間、ディプロフォームの腹部に、新たな口が生まれたのだった。

「げ! また!?」

「話を最後まで聞け! 本当の弱点は下腹部のある一箇所だ。そこから斬り入って心臓をやるしかない!」

 ディプロフォームの半身が、レジーニを吹き飛ばそうと振りあがった。レジーニはその攻撃をかがんで避ける。

「下腹部を外側にさらせ!」

「おう、分かった!」

 ディプロフォームから、耳をつんざくような奇声が発せられた。メメントは壁や天井を破壊し、上階へと逃げる。

 レジーニはエヴァンに、二種類のジェスチャーを送ってきた。

「二手に分かれる」

 エヴァンが頷くと、レジーニは奥の階段に向かって行った。エヴァンは反対側の階段を駆け上がった。

 ディプロフォームは天井を破壊しつつ、どんどん階上へと昇っているようだった。怪物が器物を破壊する轟音が、止むことなく続いている。

 と、その破壊音が唐突に止まった。三階上に昇った時だ。

 ――隠れやがったな。

 エヴァンは足音を忍ばせ、メメントが身を潜めたであろう階を探索した。

 朽ちたその階は病棟で、かつて様々な病人や怪我人が過ごした痕跡が、生々しく残されていた。

 メメントの気配を探る。間違いなくこの階にいる。決して高くはない感知能力を、神経を研ぎ澄ませて最大に活用する。

 病室を一部屋一部屋覗きながら、荒れ果てた廊下を進む。気配は近くまで迫っていた。が、見回しても敵の姿はまだ見えない。

 どこからか、キリキリキリ、という不可思議な音が聴こえてきた。メメントの気配が急接近している。上からだ。気配を追って天井を振り仰いだ。

 天井を這うメメントの触手がエヴァンに迫るのと、その頭部にエネルギー弾が炸裂するのは同時だった。エネルギー弾は、ディプロフォームを負傷させるには至らなかったが、ひるませるには充分な効果があった。 

 撃ったのはレジーニだ。エヴァンのいる廊下の、反対側に相棒はいた。エヴァンはメメントが怯んだ隙に、後方に跳んで距離をとった。が、ディプロフォームの別の部位から出現した触手に片足を掴まれた。気づいた直後、エヴァンの身体は持ち上げられ、窓に向けて勢いよく叩きつけられた。

 窓枠が破り抜かれ、エヴァンの身体は宙に放り出された。


 

 目障りな猿を一匹、外に放ったディプロフォームは、今度はレジーニに標的を切り替えた。自身に傷を負わせるすべを持っているのがどちらなのか、ちゃんと理解しているらしい。

 ――多足亜門の分際で小賢しい。

 レンズ越しの深緑の目が、天井から這い降りてくるメメントを、冷たく射抜く。

 これまで相手にしてきたメメントの中でも、最大級の巨体だ。しかし、判断さえ誤らなければ、倒せないことはない。

 放り出された猿の心配は、一切していない。あれの運動能力の高さだけは認めている。この程度の危機、自分でどうにかできなくては困る。

 ディプロフォームが、蛇のように鎌首をもたげた。レジーニは〈ブリゼバルトゥ〉を構える。剣技に流派はない。怪物相手に、礼節ある流派による戦法など不要だ。

 ディプロフォームが大口を開け、レジーニに覆いかぶさる。レジーニはメメントの噛み付きをすれすれでけ、口のすぐ下を斬りつけた。ディプロフォームがのたうちまわる。

 レジーニはメメントの胴の下をすり抜け、無数にある歩脚ほきゃく何対なんついかを斬り落とした。斬りつけた部位が、冷気によって凍りつく。そのため、傷口から体液が噴出することはなかった。

 腹部の別箇所から、細い触手が束になって現れた。触手の束は〈ブリゼバルトゥ〉ごと、レジーニの右腕を覆った。強力な吸着力で吸い付き、ぎりぎりと締め上げてくる。

 レジーニは自由な左手で銃を取り、触手の付け根を撃った。触手が一本また一本と千切れる。右腕の自由がある程度戻ってきた瞬間、敵に向かって踏み込んだ。

 剣の先端がメメントの胴に突き刺さる。レジーニは冷気の出力を上げた。金属が弾けるような音が響き、剣とメメントの接触部に氷の刃が生み出された。氷刃は、発生した勢いでディプロフォームに衝撃を与え、巨体を大きくのけぞらせた。

 メメントがのけぞると同時に、レジーニは後ろに下がって距離を置いた。触手が張りついたスーツの右袖がボロボロだ。思わず舌打ちする。

 ディプロフォームが、崩れた態勢を立て直した。目があるのかないのか確認はできないので、表情――そもそも表情というものがあるのかも怪しい――は分からないが、怒り心頭なのは間違いない。

 レジーニはちらりと背後を見て、すぐにメメントに視線を戻した。

 ――タイミングだけは間違えるなよ。


 

 建物の外に放り投げられたエヴァンは、左の〈イフリート〉を解除し、五本の指をハンドワイヤーに変え、一番近い木に向けて伸ばした。ワイヤーが枝に絡みついた。エヴァンは枝の上に飛び乗り、病棟を振り返った。

 レジーニが一人で応戦しているのが見える。動きに焦りが一切ない。このまま一人ででも倒せそうな余裕が感じられるあたり、悔しいがさすがとしか言えない。

「もうちょっと苦戦してくれりゃあ、こっちも助っ人のやり甲斐がいってのがあるんだけどな」

 そう思いはしたものの、レジーニという男は、たとえ自身が危機的状況に陥ろうが、他人に助けを請うような性格ではないと分かっている。可愛げのないことこの上ない。

 しばらくその場で、相棒の戦い振りを眺めた。何度目かの応戦の後、ディプロフォームの胴体が、窓際に近づいてきた。

 今だ、と思うや否や、エヴァンは枝から跳び降りた。その瞬間に両手の指を伸縮性ハンドワイヤーに変化させ、病棟に向けて伸ばした。

 ワイヤーの先端が、ガラスの無い窓枠の両端に突き刺さる。ワイヤーの強力な弾性に、エヴァンの身体は隼のごとくに引き寄せられた。


 

 ディプロフォームが窓際に寄っていく。その向こうで、動くものが確認できた。レジーニはメメントの動向から目を逸らさないまま、立ち位置をずらす。直後。

「どりゃあああああああああ!!」

 不必要なまでの大音量で叫びながら、金髪の弾丸がディプロフォームの頭部に突撃した。強い弾性が加わったエヴァンの蹴りを受けたメメントは、エヴァンとともに奥の部屋まで吹っ飛んでいった。

 メメントがコンクリート床に堕ちる。エヴァンはメメントを、全体重をかけて踏みつけ、コンクリートに押しつけた。〈細胞装置〉を起動し、両足を硬化させて、更に重圧を加える。ディプロフォームの頭部が、硬い建築材にめり込む。

 ディプロフォームの胴体が苦痛にもがき、激しく暴れ狂った。メメントの尾が、高く振り上げられる。エヴァンは敵の頭部を踏んだまま、振り上がったその尾に、右のハンドワイヤーを飛ばした。がっちりと尾を掴むと、勢いよく引っ張る。ディプロフォームの胴体が海老反りになり、下腹部が露出した。歩脚の群れが、おぞましく蠢く。

 抵抗するメメントを、エヴァンは全力で抑えつける。

「すぐ済むからおとなしくしやがれ!」

〈ブリゼバルトゥ〉を構えたレジーニが駆けた。ディプロフォームの胴の中でもっとも柔らかい、ゆえに弱点である下腹部の白くなった部分に機械剣を突き立て、心臓に向けて斬り下げた。凍てつく刃がメメントの肉や歩脚を裂いた。

〈ブリゼバルトゥ〉が心臓に達した瞬間、レジーニは剣を横に払った。凍りついたメメントの肉が砕け散った。

 鼓膜を貫かんばかりのけたたましい断末魔が、二人の耳に突き刺さった。

 エヴァンはハンドワイヤーを戻し、メメントを解放する。レジーニは何の感慨もなさそうな顔つきで得物を一振り、付着したディプロフォームの破片を無造作に落とした。

 ディプロフォームはゆっくりと崩れた。巨体がコンクリート床に倒れると、足元が揺れた。

 倒れたメメントの胴から、大量の悪臭蒸気が発生する。と同時に、分解消滅が始まった。ジュウジュウと耳障りな音をたてて、ディプロフォームの肉体が消えていく。

「よーし、終了終了!」

 漂ってくる悪臭を手で払うエヴァン。ディプロフォームの死骸を回り込んで、レジーニの隣に立った。

「腹減ったな。モンジャ食いに行こうぜ、モンジャ」

「今この光景を目の当たりにして、そういう発言が自然と出てくる、お前の神経を疑う」

 ディプロフォームの死骸の分解消滅が、三分の一を残すまでとなった時、メメントが分解した箇所で、何か光るものが現れた。

 気づいたエヴァンは、光るものに近づき、指で摘んで拾い上げた。

「何だこれ」

 それは中指ほどの大きさの、細い銀色の物体だった。非合同の双円錐形そうえんすいけいである。メメントの体内にあったものだろうが、不思議なことに汚れていない。

「レジーニ、何か出てきた」

「こっちに近づけるな、汚い」

「汚くねーって。メメントの中にあったみたいだぜ。なんだろうな? メメントからこんなもんが出てきたことなんか、今までなかったよな」

「あーないない」

「オズモント先生に見せてみようぜ。調べてくれるかもしんねーし」

「あーそうだな。引き上げるぞ」

 言うやレジーニは、エヴァンに背を向け歩き始めた。エヴァンは慌てて、その後を追う。

「待てい! 反応薄すぎるぞ。そっちこそ、ちゃんと人の話を聞けよ」

「やることは終わった。長居は無用だ」

「そーかいそーかい。味気の無いやつ。そんじゃあ飯にしよ。俺のお悩み相談はすんでねえんだからな。モンジャ食いながら、じっくり話そうぜ」

「うるさい、モンジャは嫌いだ」


 

 二人の〈異法者ペイガン〉が、無駄な言い合いをしながら、来た方向へ戻っていく様子を、その男は見ていた。

 ついさきほどまで、〈異法者〉の一人がいた木の枝の上に、彼はいた。

 細い枝の上で微動だにせず、しっかりと立って、彼らの動向を観察している。

 赤いレンズのゴーグルがとらえているのは、金髪の青年の姿だ。

 男は赤いレンズ越しに、青年をじっと見つめ、にい、と歯を剥いて笑った。


 

 シーモア・オズモント邸には、その日のうちに訪ねていった。

 メメントから出てきた物体と聞いたオズモントは、いつもの不機嫌そうな表情に、少し好奇心をにじませた。

 エヴァンから細い銀の双円錐を受け取ったオズモントは、しばらくの間、それをしげしげと眺めた。物体の正体を調べてもらえるか、との願いに、彼は、

「こう見えて忙しい身でね。君らの調べものだけに、長く時間を使うことは出来んよ」

 と言い置いた後で、

「三、四日ほど待ちなさい」

 引き受けてくれたのだった。


 

 軽食にモンジャは、レジーニの一存で却下となった。


        3


 翌日は〈異法者〉としての仕事がなかった。とはいえ、〈パープルヘイズ〉の昼食時、常連客である近所の住民たちの相手をするだけでも、充分忙しい。

 今日のランチメニューは、魚介類の具をふんだんに使ったクリームパスタだ。ヴォルフがこだわって作ったソースは、納得の味だと評判が良い。

 ランチタイムの繁忙時間が過ぎ、店内が落ち着けば、エヴァンも同じメニューを、まかないとしていただくことができる。ずっと動きっぱなしで空腹だったエヴァンは、出されたパスタを、瞬く間に完食した。

 食べ終わって食器を片付けようとした時、入り口のドアチャイムが小気味良い音を立てた。

「いらっしゃい」

 グラスを磨いているヴォルフが、野太い声で言った。来店客の方を振り返ったエヴァンは、その姿を見て硬直した。

「あ、い、いらっしゃい」

 やってきた客は、アルフォンセだった。彼女の方もエヴァンを見るなり、さっと顔を赤くして、動きを止めた。

 帰っちゃうかな。そう心配したのだが、アルフォンセは小さく会釈して、

「あの、お席いいですか?」

 控えめに尋ねた。

「ど、どうぞ! そ、そこの窓際の席、日当たりいいよ!」

 慌てて案内する。アルフォンセはヴォルフにも会釈し、エヴァンが薦めるテーブル席についた。

 座ったアルフォンセと、テーブルの側で突っ立ったままのエヴァン。二人の間に微妙な沈黙が流れた。

「おい」

 背後からヴォルフの声をかけられ、エヴァンははっと我に返った。

「えーっと、な、何に、する……します、か?」

 アルフォンセは、壁のブラックボードに書かれたメニュー一覧を目で追った。飲食店のメニュー表示はデジタルボードが主流だが、〈パープルヘイズ〉のように、こうして手書きで表示している店も少なくない。

「ベリーティーを、アイスでお願いします」

「ちょ、ちょっとお待ちを」

 エヴァンはそそくさとカウンターに戻り、ベリーティーの準備をした。食事類の支度はヴォルフが行うが、ドリンクはエヴァンにも作れる。

 グラスを持つ手が、かすかに震えていた。両手をこすり合わせ、震えを止めようとした。どれだけ大物のメメントと対峙しようが、こんなに震えたことは一度もないというのに。

「しっかりしやがれ。こぼすなよ」

「お、おう」

 ヴォルフに頷き、両手をソムリエエプロンでごしごし拭いてから、ベリーティーをトレーに乗せて運んだ。

「ど、どうぞ」

 焦るな騒ぐな落ち着け、と自分自身に言い聞かせつつ、エヴァンはいつも以上にゆっくりとした動作で、ドリンクをアルフォンセの前に置いた。

「いい香り」

 アルフォンセはグラスを手に取り、ストローで一口飲んだ。

「おいしい」

 微笑んで、グラスをコースターに置く。氷がカランと鳴った。

「じゃあ、その、用があったら、よ、呼んで」

 じわりじわりと後退するエヴァンを、アルフォンセは引き止めた。

「待って下さい。少しだけ、お話できますか?」

「え? お、俺と?」

「はい。忙しければ、改めますが」

 エヴァンは大いに戸惑い、凄い勢いでヴォルフを振り返った。ヴォルフは太い眉毛を曲げ、ちょっとだけ頷き、片手をひらりと振った。許可が降りたらしい。エヴァンは遠慮がちに、アルフォンセの向かい席に座った。

 恋焦がれる女の子が、すぐ目の前にいる。こんなに彼女に近づいたのは、初対面のあの日以来だ。心臓が早鐘はやがねを打っている。このまま破裂するかもしれない。耳や頬が、溶けそうに熱い。今すぐ冷水をかぶってしまいたい。なんなら〈ブリゼバルトゥ〉に斬られてもかまわない。

 しばしの間、お互い無言だった。先に口を開いたのはアルフォンセだ。

「こちらにお勤めだと聞いて来ました」

「俺を捜して、来てくれたってこと?」

「はい」

「ど、どうして」

「ご挨拶に伺った日のことで」

 来たか、と思った。あの無礼を追求される時がついに来たか、と。エヴァンは内心の焦りを悟られないよう、必死に平静を装った。

 なぜあんなことを、と訊かれるだろう。そうしたら何と答えればいいのだ。あなたに一目惚れしました、だから思わず触りたくなってしまいました。そんなことを馬鹿正直に言ってしまえば、それこそ嫌われてしまう。拒絶されることを考えただけで、背筋が寒くなる思いだ。

「ごめんなさい」

 謝罪の言葉を述べたのは、エヴァンではなく、アルフォンセの方だった。予想外の一言に、ぱかっと口を開けることしかできないエヴァンに対し、アルフォンセは言葉を続けた。

「とっさのことで驚いてしまって、叩いてしまいました。なんてことしたんだろうって反省したんですけど、謝るきっかけを掴めなくて、延ばし延ばしになりました。本当にごめんなさい」

 すまなそうに頭を下げるアルフォンセ。エヴァンは大慌てで首を振った。

「めめめめめめ滅相もない! だ、だってあれはどう考えても俺が悪いんだから、君が俺に謝る必要なんて全然ないよ! 悪いのは俺だから、ごめん!」

 と、今度はエヴァンが頭を下げる。テーブルに両手をつき、額もこすりつけんばかりの姿勢だ。

「お、俺、その、よく言われるけど、バカなんだ。だから何もかもうまくできなくて、周りに世話焼かせてる。ほんと、どうしようもねーんだ」

 だから粗悪体だと言われるのだ、と、心の中で自虐的になる。どれだけ戦闘能力が高くても、軍の厳しい訓練に耐えた実績があっても、肝心なときにうまく立ち回れないなら、何の意味もない。なんと情けないことか。

「許してくれますか?」

「許すも何も、君は悪くないんだから。俺の方が許してくれって言わないと」

「それなら、私の方は、もう何とも思ってませんから」

「じゃあ……」

「はい」

 アルフォンセが笑ってくれた。エヴァンは安堵のあまり、テーブルに突っ伏して大きなため息をついた。心に光が射したようだ。歓喜の雄叫びを上げたい衝動を、なんとかこらえる。

 ふと、あることが気になり、エヴァンは顔を上げた。

「俺がここで働いてるって、誰に聞いたの?」

「マリーから」

「え? マリー?」

 エヴァンの脳裏に、小悪魔少女の顔がよぎった。

「あの子と最近仲良くなったんですけど、あなたの話をするんですよ」

「どうせ、バカだとかガキだとかなんとか言うんだろ」

「ええ、まあ」

 アルフォンセは苦笑する。

「でも、アパートのゴミ出しや、一斉掃除には積極的に参加してくれるって。おじいさまやおばあさまからの評判がいいって言ってました」

「へえ……」

 思いもよらないところからの、高評価であった。いつもは自分をコケにするばかりのマリー=アンが、ちゃんとフォローしてくれているとは、考えもしなかったのだ。

 こちらも彼女への評価を改めるべきであるようだ。

 アルフォンセはベリーティーを飲み終えると、席を立った。せっかく誤解が解けたのだから、もう少し話していたかったが、休憩時間が終わるから、というアルフォンセを、強く引き止めることはできなかった。限られた時間を使って会いに来てくれたのかと思うと、それだけで舞い上がってしまうエヴァンである。

 見送るために店先に出た時、アルフォンセが言った。

「改めて、よろしくお願いしますね。私のことは、アルフォンセで結構です」

「俺もエヴァンでいいよ。あと、敬語も使わなくていいから」

 アルフォンセは笑って頷くと、いとまを告げて去っていった。

 華奢な後ろ姿が、最初の角を曲がって見えなくなった瞬間、

「いいよっっっしゃああああああああい!」

 溜まりに溜まった感情が一気に噴き出した。両腕を高らかに掲げ、あらゆるフレーズの雄叫びを上げ続ける。

 その結果、

「やかましい! ご近所に迷惑だろうがバカ猿! 話が済んだらとっとと買い出し行ってきやがれ!」

 ヴォルフの怒号とともに飛んできたトレーが、こめかみにクリーンヒットしたのだった。


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