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TRACK-1 彼らの事情

        1


 アトランヴィル・シティ。

 人口約千五百万人。大陸東エリアに属する三十四都市の代表首都である。

 アトランヴィル第九区は、東のソレムニア海にのぞむ地区で、六つの町で構成されている。もっとも栄える中央区からやや離れているが、シティ屈指のオフィス街を保有するため、それなりに活気のある区だ。

 サウンドベルは第九区にあって、一番治安がいいと評判の町である。昔ながらの建物が、いまだに多く残る街並みで、映画やテレビドラマのロケ地となることも多々ある町だ。

 エヴァンが暮らす十二階建てアパートメントは、そんなサウンドベルの大通りに面した場所に建っていた。

 

 

 電子時計が午前七時半を表示する。ミニコンポのタイマー機能が作動し、スピーカーから目覚ましベル代わりの音楽が流れ出した。秀逸なギターとドラムが印象的な、ロックのヒットナンバーである。クライヴ・ストームという、人気ミュージシャンの楽曲だ。

 ベッドサイドで響くロックに耳を突かれ、エヴァンは目を覚ました。

 起き抜けで頭がぼんやりする。エヴァンは億劫そうにベッドから降りると、まず窓を覆うブラインドスクリーンを解除した。

 途端に朝日が射し込み、薄暗かった部屋の中を明るく照らす。エヴァンは眩しさに目を細めた。

 窓を開けると、さわやかな風が部屋に吹き込んだ。アトランヴィルは高層ビルが整然と建ち並ぶ都市だが、サウンドベルは比較的低い建物が多い。おかげでエヴァンが借りている、十二階の部屋からの眺めを遮るものはほとんどなかった。

 都心部の高層ビル群が遠くに見える。ビルとビルとの間を縫うように建っているのは、スカイリニアの高架線路(エアレイル)だ。

「いい天気だー」

 よく晴れた空には、青い画用紙にアクリル絵の具を伸ばしたような、くっきりした白い雲が浮かんでいた。

 部屋の隅に設置した水槽を抱え、燦々(さんさん)と日光の注ぐ窓際に移す。水槽には、エヴァンの掌に乗るほどの、小さな亀が棲んでいる。

「おはよーゲンブ。ひなたぼっこしような」

 ゲンブと名付けられた子亀は、水の中からゆったりと陸地に上がってきた。エヴァンの小指よりも小さい首を、ぐうと伸ばして、気持ちよさそうに朝日を浴びる。

 エヴァンは子亀の様子を見届けると、自分はシャワーを浴びるために、バスルームに向かった。

 五分ほどでバスルームから出た。下着とジーンズを穿()いた姿で、タオルで髪を拭きつつ歯磨きをする。

 テレビをつければ、人気のアンカーマンが滑舌よくニュースを読み上げていた。

 交通事故、殺人事件、芸能人や政治家のスキャンダル。毎日似たような事件が世間では起きているが、怪物が現れた、というニュースが読まれることはない。

(平和なもんだぜ)

 歯ブラシを(せわ)しなく動かしながら、エヴァンは思った。

 メメントの存在が、公の場で語られることはない。噂話に上ることはあるが、政府が正式に存在を認めていないので、ただの都市伝説にとどまっている。軍部が駆除を行っていることも、公式認可されていない、ということになっている。

 当然、裏社会に怪物と戦う者たちがいるなどとは、誰も知らないのだ。

 いかに〈異法者ペイガン〉たちが身体を張って、命懸けでメメントと戦い葬ろうとも、その功績が堂々とたたえられることはない。

 メメントを退治せよ、という仕事を請け、実行する。そうして報酬をもらう。それだけだ。

(別にいいんだけどよ。味気ないよな)

 現状に不満があるわけではない。エヴァンにとってメメント退治など、なにほどのことでもなかった。

 ただ、“華”がないのだ。

 女の子との交際経験がないエヴァン。“彼女受け入れ態勢”は万全なのだが、悲しいかなご縁がない。

 相棒のレジーニは、その容姿とクレバーな性格が受けているのか、言い寄ってくる女性が後を絶たないらしい。腹の立つことに相棒は、彼女たちの誘いをことごとく断っているそうだ。

 一人くらい紹介しろと言うと、女の子に気の毒だ、と鼻でわらわれる始末。

 相棒に比べれば、顔が凡庸なのは認める。だが言うに事欠いて「女の子に気の毒」はないだろう。

 歯磨きを終え、洗面所でうがいをしていると、玄関ベルが鳴った。

「はいはい、今出るよー」

 こんな早朝からエヴァンを訪ねる相手といえば、アパート住民の誰かだろう。頭にタオルを乗せ、上半身裸のまま、エヴァンはドアを開けた。

 部屋を訪ねてきた人物は、エヴァンを見るなり両目を見開き、頬を染めて目をそらした。

「あ、あの、お、おはようございます」

 目をそらしたまま、その女性は挨拶した。

「えっと、昨日向かいの部屋に越してきました。夕べは遅くにお帰りのようでしたので、今朝ご挨拶に伺わせていただきました。アルフォンセ・メイレインと申します」

 エヴァンと同じ年頃かと思われた。ゆるくウェーブのかかったショートボブが、柔らかそうに揺れる。肌は白く、大きな瞳は海のような深い青。華奢きゃしゃな身体つきは、保護欲を禁じえない。

 エヴァンは彼女から目を離せなかった。

 じっと見つめられるアルフォンセと名乗った女性は、困ったように眉尻を下げた。

「あ、あの、お名前伺ってもいいですか?」

 反射的にエヴァンは、頭の上のタオルを取り払い、アルフォンセの方に進み出ていた。

「お、俺エヴァン・ファブレル! 二十二歳! 特技はバケモン退治! 俺もここに来てまだ日が浅いんだ! 何か困ったことがあったらいつでも頼って!」

「あ、はい。ありがとうございます……」

 アルフォンセは目をそらしたまま、少しずつエヴァンから離れようと後ずさった。しかし彼女が退くたび、無意識にエヴァンが近づいていくので、二人の距離は徐々に縮まっていった。

「すみません、ちょっと、近いです」

「この町のことで分からないことがあれば、俺が力になるから。何でも言って、ホントいつでも歓迎!」

 感情が高まったエヴァンは、思わずアルフォンセの手を握り締めた。

 その直後。

「い、いやッ! 何するの!」

 アルフォンセの悲鳴が聴こえたかと思うと、突然乾いた音とともに右頬に衝撃を受け、エヴァンの視界に星がちらついた。あれ? と思う間もなく、横に倒れる。

「痛ってえええ!」

 叩かれた頬をさすっている間に、アルフォンセは足早に逃げ出した。

「あ、ちょっと待って! ごめん! 今のは……」

 呼び止めるも虚しく、アルフォンセは向かいの部屋に駆け込み、バタンとドアを閉めた。

 鍵をかける音が聞こえた。

「ああああ、俺の馬鹿……」

 アルフォンセが消えた後を見つめながら、がっくりとうな垂れるエヴァンは、己の不手際を叱った。これまで女性との接点が少なかったツケが、こんな形で返ってくるとは。

 ふと視線を感じた。はす向かい部屋のドアが開いていて、一人の少女が、汚物を見るような眼差しをエヴァンに向けていた。

「げ、マリー」

 厭な予感がした。その予感は、即座に的中した。

 マリーは意地悪く笑うと、大きく息を吸い込み、部屋の方を振り返った。

「おばあちゃーーーん!! バカエヴァンが裸で女の人に迫ってるーーーーー!!」

「うおおおおおおおやめろおおおおおおおおお!!」




〈パープルヘイズ〉は、大通りから一区画離れた場所で営業している飲食店だ。

 午前九時に開店し、午後三時までランチを提供している。一時閉店の後、夕方五時から再開店すると、アルコールを扱うダイニングバーとなる。

 味には定評があった。店主自慢の料理の数々は、昔からのなじみ客に支持されており、大繁盛とまではいかないながらも、毎日充分な売り上げを取っている。

 一つ問題があるとするなら、新規の客がつきにくいことだ。店の評判を聞きつけ、店に入ったはいいが、店主の風貌に恐れをなして去っていってしまうケースが多いのである。

 ただ、最初の店主インパクトを乗り越えられた者は、リピーターになる確率が高かった。

 その問題の店主は、熊のような図体にソムリエエプロンを巻いた姿で、険しい表情をしていた。大きな鼻孔から息を噴射し、カウンターに突っ伏するエヴァンを見下ろす。

 今は一時閉店中。店内に食事客はおらず、店主のヴォルフとエヴァンだけだ。

「おいエヴァン、てめえいい加減にしろよ」

 岩のような拳骨で、無防備なエヴァンの後頭部を殴った。ごつ、と鈍い音がした。

「痛え」

 呻くように呟くエヴァン。伏せていた顔を上げ、ヴォルフを睨み上げる。

「何すんだよ」

腑抜ふぬけたつらさらして店に立つな。辛気しんき臭くてかなわねえ」

「俺だってヘコむ時ぐらいあるんだよ。そっとしといてくれ」

「お前の場合、ヘコんでんじゃねえ。ふてくされてるだけだ」

「どっちでもいいよ。とにかく今、俺は自分が情けなくてしょうがねえんだ。殴るくらいなら景気づけてくれよ。かわいい従業員が落ち込んでる時ぐらい、優しくしてくれたっていいだろ」

「お前が本当にかわいい従業員だったら、考えてやってもいいがな。馬鹿丸出しのヤンキーみてえな野郎に対して、優しくしてやろうって気にゃなれねえ。なんだその耳は。いつの間にピアス開けやがった。しかも八つも」

「開けたのは先週。ピアスの話題なんてどうでもいいだろ。つか、気づくの遅すぎ」

 むすっとした表情のまま、エヴァンは頬杖をついた。

 ヴォルフはあきれたように鼻を鳴らした。

「女にビンタされたくらいでなんだ。どれだけメメントにぶん殴られようが、すぐ回復するくせによ」

「身体の痛みの問題じゃねえよ。心だよ。俺の心が傷ついてんの。あーもう。第一印象最悪だ。変態だと思われたかもしれねえ」

「初対面の奴に、上半身裸で寄られちゃ、そりゃ変態だと思われてもしょうがねえわな」

「衝動だったんだよ。だってどストライクだったんだぜ? 本能的に身体が動くのも当然だろ」

「たいていの奴なら、そういう状況でも理性を保てるもんだ。お前は本当に、頭じゃなくてカラダで考える馬鹿だな」

 今朝、挨拶に来たアルフォンセ・メイレインは、エヴァンの理想の女性像そのものだ。天使か女神が降臨したと言っても過言ではない衝撃だった。

 これが世間でいう一目惚れか、と、しみじみ思った。

 こんな気持ちは初めてだ。彼女の姿が脳裏に焼きついて離れず、胸がざわざわして落ち着かない。

 切ないため息をつくと、ヴォルフに「うぜえ」と言われた。

 ちょうどその時、店の正面入り口が開いた。古風なドアチャイムが、カランコロンと鳴る。

 ドアをくぐって店内に入ってきたのは、レジーニだった。

 落ち着いた紺色のスーツにストライプのネクタイ。白いチーフが、胸ポケットから少しだけ見えている。黒い皮のシューズは、黒曜石のように磨き上げられていた。今日も着こなしは完璧である。

 レジーニはエヴァンを見るや、完全に見下した表情で、ふ、と鼻で嗤った。

「なんだよ。会って早々、人を鼻で笑うなよ」

「初対面の女性に裸で迫る変態が、目の前で馬鹿面をさらしてくれれば、誰だって嗤ってしまうだろ?」

「ちょっと待て。お前なんでそのこと知ってんだ」

 今朝の失態は、ヴォルフにしか明かしていない。

 相棒は、おもむろにポケットから青い携帯端末エレフォンを取り出すと、なにやら操作し、画面をエヴァンに向けて見せた。メール画面だ。


『聞いてよ! 今朝ね、バカエヴァンが引っ越してきたばっかりのお姉さんに、裸で襲いかかったんだよ! で、ビンタされたの。バカすぎるよね!』


 可愛らしい絵文字を多用しているが、内容は辛辣であった。差出人は「マリー=アン・ジェンセン」とある。

「あンのクソガキ!」

 斜向かいの部屋に住む少女の、生意気な顔が目に浮かぶ。

 マリー=アン・ジェンセンは、十二歳にしてエヴァンの“天敵”となった少女だ。祖父母と暮らす彼女は、引っ越してきた当初から何かとエヴァンをからかい、意地の悪い言葉を浴びせかける。大人であるエヴァンを、完全に下に見ているのだ。

 子どもだと思って甘く見ていたら、痛い目に遭う。黙っていれば、利発そうな可愛い女の子だが、心に悪魔が棲みついているのだ。

 エヴァンは苦虫を噛み潰したような顔で呻く。

「なんでこう、人の恥ずかしいところを、堂々と他人にバラすかな。ご近所さんの名誉を守ってやろうっていう、地域親愛の精神はねーのかあのガキには。しかもなんで襲いかかってることになってんだよ。膨らませてんじゃねーよ。あいつのじいちゃんとばあちゃんはいい人たちなのに、孫は魔性か!」

「ついでに言うと、NCTネットワーク・コミュニケーション・ツール上で、絶賛拡散中だ」

「止めてくれよそういうのは!」

 とんでもない一言に、エヴァンは顔を真っ赤にした。が、相棒は冷静に、きっぱりと言い放った。

「止める理由も必要もない」

 悪魔はここにもいた。

「だいたいレジーニ、なんでマリーとメールのやりとりしてんだ。俺だってあいつのアドレス知らねーぞ」

「不本意ながらお前のアパートに行った時に会った。どうも気に入られたらしくてね。その場で強引にアドレスを交換したよ。なかなか行動力のある、頭のいい子じゃないか」

「悪知恵が働くのは認めてやるよ。つか、何だお前は。十代の子まで落としてんじゃねーぞ、この女子キラーが」

「別に、僕は何もしてない」

「そういうのがムカつくっての」

「嫌だね、モテない男のひがみというのは、見苦しくて」

 芝居がかった仕草で肩をすくめるレジーニ。エヴァンの睨みを無視して、カウンター席に座った。コーナー側の定位置だ。

「お前らは相変わらず、ガキみてえにじゃれ合ってんのか。少しはお互いを理解しようと、歩み寄る努力をしろ」

「ヴォルフ。気持ち悪いから『じゃれ合い』と表現するのはやめてくれないか。僕は常に平常だよ。盛りのついた猿が、勝手に噛みついてくるだけだ」

「猿って言うな!」

 エヴァンの抗議は、完全に無視された。

「猿でもなんでもかまいやしねえから、ちゃんと首根っこ押さえとけ。この馬鹿は、敵と見りゃあ、すぐ突っ込んでいくからな。お前がコントロールしてやれよ」

「猿の世話なんか、もういい加減ご免被めんこうむりたいんだけどね、僕は」

「だから猿猿言うなっつーの!」

 エヴァンが何度抗議の声を上げようとも、この猿呼ばわりが改善されることはない。

「うるせえぞ。キーキー声がでけえんだよお前は。だから“猿”だってんだ。

それよりお前ら。夕べの仕事分の報酬、最初の割り振りどおり、口座ウォレット振込チャージしてあるから、確認しておけ」

 エヴァンはまだ文句を言いたい気分だったが、どうせこれ以上は何を主張しても取り合ってはもらえない、と分かっていた。

 納得いかないまま、エレフォンを取り出し、報酬をチェックする。赤い雫型端末の画面を操作し、口座の電子マネーの残高を表示させた。

「……ん?」

 エヴァンは何度か操作しなおして、何度も残高を確認した。

「ヴォルフ、なんかおかしくね?」

「何がだ」

「思った以上に少ない気がするんですけども」

「贅沢言うな。それがお前の今の相場だ」

「ちょっと待てよ。何か納得いかねえ。レジーニ、お前いくらもらった?」

 レジーニは青いエレフォンを、さっとスーツの内ポケットに隠した。

「そんなこと教えるわけないだろう。金にがめつい奴だな」

「お前に言われたくねーよ。がめついとかそういうことじゃなくて、俺の活躍の対価としちゃあ、少なくないかって言いたいんだよ」

「聞いてたか、鳥頭の猿。それが、今の、お前の相場だ」

 ヴォルフは子どもに言い聞かせるように、わざわざ言葉を区切った。

「裏の世界に入って間もないぺーぺーにしちゃあ、それでも高い方だ。文句があるなら取り消すぞ」

「と、取り消すのはなし! でも俺、結構身体張ってんだよ?」

「身体張るのはお前の仕事だ。悔しけりゃレジーニに追いつくぐらいのキャリアを積むこった」

「分かったよ! やってやるよ! あと二人して猿猿言うな!」

 投げやりに言い、エヴァンはエレフォンをポケットに入れた。

「ガキみてえにねてんじゃねえ。エヴァン、夜の分の買い出しに行って来い」

「え? 次の仕事の話は?」

「レジーニに話しておく。お前にはここの仕事もあるだろうが。ほら、とっとと行け」

「……へいへい」

 いつもこれだ。大事なことは、まずレジーニだけに話す。エヴァンはがっくりと肩を落とし、席を立った。


 

 行きつけのマーケットまでは、徒歩十五分ほど。電動車など持っていないから、てくてく歩いて行くしかない。ヴォルフの電動車は、使わせてもらえなかった。

 バイクくらいは欲しいところだが、今の生活が始まってから、まだ三ヶ月程度。バイクを買うだけの金銭的余裕はない。

 いつものルートで、いつものマーケットに行き、食材を買って、顔なじみの店員と軽く言葉を交わして帰る。

 道すがら出会う知り合いたちとも、声を掛け合う。どうということはない、ごく一般的な日常の出来事だ。

 ありふれた日常は、エヴァンに心地よい違和感を与えた。怪物と戦うことのない、“表社会での生活”。それは今まで、エヴァンが知らなかった世界だった。

 エヴァンの世界は、戦いだけが全てだった。

 与えられた命令に従い、標的と戦い、倒す。ただそれだけだ。

 生きるか死ぬかの二択しかない人生に、“自由”などありはしなかった。


        *


 三ヶ月前の雨の晩。エヴァンは目覚めた。

 目を開けたものの、最初自分がいったいどこにいるのか、まったく分からなかった。裸のままソファに寝ていて、毛布を被っていた。

 

 ――どうなってんだ。ここ、どこだ。 

 

 やや混乱しつつも、周りを見回してみて、できる限りの状況確認をした。

 古めかしい屋敷の一室のようだ。〈施設〉内のどこかだろうが、なぜこんな場所に自分がいるのか、その理由は思いつかなかった。

 

 ――俺、何やってたんだっけ?

 

 こんな格好でこんな所に寝かされる前まで、自分はどこでどうしていたのか。思い出そうとしたが、頭の中は濃い霧に覆われたように不明瞭で、何一つ思い出せなかった。

 分かっているのは自分自身のこと。軽い記憶障害が起きているようだが、自分が何者なのかという大事な情報までも忘れていなかったのは、幸いだったと言えるだろう。

 もう一度周りを見てみた。はて、〈施設〉にこのような場所があっただろうか。エヴァンは寝たまま首をひねった。〈施設〉内の全てを把握していたわけではないのだから、知らない部屋が多数あって当然なのだが、この部屋は〈施設〉とは違う雰囲気がある。

 

 ――何かされたと思うんだけどな。


〈施設〉の男たちに連れて行かれて、何か妙な注射をされたような気がする。うっすらとだが、そんな記憶が脳裏をよぎった。

 うーん、と唸って、懸命に思い出そうとしたが、それ以上は何もひらめかなかった。

 ふと気配を感じて、エヴァンは上半身を起こした。直後何かがエヴァンに迫ってきた。耳の垂れた大きな犬だった。

「お、なんだお前」

 垂れ耳の犬は、つぶらな黒い目でエヴァンをじっと見つめている。邪気のない、愛情あふれるまなざしだ。

「お前イケメンだなー。ご主人は誰だ?」

 こんな犬を飼っている人物などいただろうか。そもそも〈施設〉は、動物の連れ込みは禁止ではなかったか。

 首筋から背中を撫でてやると、犬は太い尻尾を振りながら、ぺろりとエヴァンの顔を舐める。首輪に付いたネームチャームが見えた。

「ジャービルっていうのか。よろしくな」

 部屋の扉が開いた。そちらに顔を向けると、熊のような大男と、対照的に小柄な老人が立っていた。

「やあ、目が覚めたようだね」

 老人は、淡々とした口調で声を掛けてきた。不機嫌そうな顔つきだが、悪意は感じられない。

 一方の大男は、値踏みするような目つきで、じっとエヴァンを見ている。太くたくましい腕を、厚い胸板の前で組んでいた。

「気分はどうだね。吐き気や頭痛は? さきほど一度目を開けたのだが、すぐにまた眠ってしまってね。こちらに運ばせてもらったよ」

 老人はエヴァンの向かいのソファに座った。犬のジャービルはエヴァンから離れ、老人の足元に伏せた。

「いや、別にどうとも。あんたら誰? 俺なんでこんなとこにいるんだ? ここどこ?」

 エヴァンは警戒しながら、二人の来訪者を軽く睨んだ。〈施設〉関係者は好きではない。連中はエヴァンを人間扱いしないからだ。心を許せる相手は何人かいるが、ほとんどはエヴァンを、ただの兵器としか見ていない。

 目の前にいるこの二人も、そんな連中に含まれるのだろう、と思ったのだ。

「私はシーモア・オズモント。こちらの大男はヴォルフ・グラジオスという。ここは私の自宅だ」

「自宅?〈施設〉じゃねえのか?」

「うむ、違う」

 オズモントは、こっくりと頷いた。ますます訳が分からない。ここが〈施設〉外であるなら、この二人は〈施設〉関係者ではないのだろうか。

「君の名を伺ってもいいかな」

「エヴァン・ファブレル。あのさ、ぜんぜん状況が分かんねえんだけど、俺今までどうしてた? なんで裸?」

「覚えていないのかね」

「ちょっと記憶が抜けてるみたいなんだ。自分のことは覚えてるけど」

「では、君自身の確認をしたい。君は、マキニアンだね?」

 オズモントの眼差しが、エヴァンの内側を見透かそうとするかのような、鋭いものに変わった。

「そう……だけど、それが?」

 大男が、その体躯にふさわしい大きな口を開けた。

「先生よ、そろそろマキニアンってやつについて説明してくれや」

 言いながら、オズモントの隣に腰掛ける。ソファが深く沈んだ。

「マキニアンは、対メメント専門強化戦闘員だ。軍部所属の兵士から選出された適合者が、特殊な強化手術を施されてマキニアンになる。さっきも言ったが、れっきとした人間だ」

「特殊な強化手術ってな、どういうもんだい」

 ヴォルフの問いは、オズモントに向けたものでも、エヴァンに向けたものでもあった。

 エヴァンは右腕を伸ばした。

「こんな感じ」


 エヴァンの意思に応じて、全身を構成する〈細胞装置ナノギア〉が起動する。

 右前腕の表面が金属に変化した。金属化した腕の表面から装甲が出現し、前腕を覆う。ものの数秒足らずで、エヴァンの右腕は、グローブ型の武具へと変貌を遂げた。


 ヴォルフの小さな目が、驚きに見開かれた。

「こいつはまた、結構なもんだな」

 その素直な反応に、エヴァンはちょっとだけ気分が良くなった。変形した腕が元の状態に戻るのも、一瞬だった。

「こりゃあいったい、どういう仕組みだ」

 説明は、オズモントが引き受けた。

「マキニアンの肉体を構成する〈細胞装置ナノギア〉の能力だ。特殊手術による〈細胞置換技術〉の賜物たまものだよ。各個体のスペックによって、様々に変形する特性を持っている。〈細胞装置〉は、対メメント用兵器〈クロセスト〉の素材、〈クリミコン〉で造られたものだ。つまり彼らマキニアンは、全身が〈クロセスト〉なのだ。〈人型クロセスト〉と評される所以ゆえんだな」

「なあ、いい加減状況を説明してくんねえかな。俺がここにいる理由とかさ」

 話が進まず、エヴァンは少し苛ついた。オズモントとヴォルフは、互いの顔を見て、わずかに頷き合う。

「単刀直入に言おう。君はコールドスリープ状態にあった。スリープを解いたのは私だ」

「は? コールドスリープ?」

 予想もしなかった言葉に、エヴァンは片眉を吊り上げた。

「そう。冬眠状態にあったと考えたまえ。君を保管していた装置は、先日〈パンデミック〉跡地で発掘された。〈パンデミック〉跡地というのが、どこのことだか分かるかね?」

 まるで分からない。エヴァンは素直に、首を横に振った。

「すなわち〈イーデル〉の跡地のことだ。〈政府〉直属の研究施設にして、君たちマキニアンで構成された戦闘部隊〈SALUTサルト〉の本拠地だよ」

〈SALUT〉。たしかにそこは、エヴァンが所属する軍の特殊部隊だ。部隊員は約三十名。全員マキニアンで、その任務はメメントを駆逐すること、ただこれのみ。

〈SALUT〉は軍部に属する組織だが、本拠地は軍基地ではなく、研究施設〈イーデル〉に設けられている。マキニアン改造技術は〈イーデル〉で研究開発されたからだ。

「その〈パンデミック〉って何だ? 跡地って、どういうことだよ」

「〈イーデル〉内で起きた、大量メメント発生事件のことだ。詳しいことは明らかになっていないが、ともかく膨大な数のメメントが、〈イーデル〉内に発生した。それらの駆逐のために、〈SALUT〉に加えて陸軍も出動し、大規模な作戦が遂行された。

 施設内は戦場と化し、甚大な被害を受けた。戦いの中で、〈イーデル〉は崩壊。〈SALUT〉も壊滅状態になり、以後解散したと言われている」

「解散!?〈SALUT〉が!?」

 オズモントの淡々とした説明に、エヴァンは息を詰まらせそうになった。

メメントを相手に、五十人のマキニアンが壊滅までに追い込まれるなど、にわかには信じられない。

「そんなデカい事件、俺は知らねえぞ。なんで俺は、駆逐作戦に出されなかったんだ」

 エヴァンは〈SALUT〉の新参者だが、大抵のメメント駆逐任務には出動していた。それなのに、陸軍まで駆り出されるような駆逐作戦から外されるとは。少なからず、マキニアンとしてのプライドが傷ついた。

 だが、思い当たる節はある。エヴァンはそこに気づき、自虐的なため息をついた。

「ああ、でも、しょうがねえのかな。俺、粗悪体だし」

「落ちこぼれってか」

 はっきりした言葉で、ヴォルフが言い直した。

「ズバッと言うなよ。ちょっとヘコむだろ。まあ、そのとおりだよ。でも、作戦から外されてる間、俺はどこでどうしてたんだ?」

 肝心な部分が、頭の中からすっぽりと抜け落ちている。

 疑問を解き明かしたのは、オズモントだった。

「おそらく、の話だが。君は〈パンデミック〉発生前に、コールドスリープにされたのだろう。そのまま保管している間に、例の事件が起きた。混乱の中、君を収めた装置は地中に埋まってしまい、君はそのまま眠り続けることになったのだ。

〈パンデミック〉事件が起きたのは、今から十年前。君は十年間眠っていたことになる」

「十年!?」

 エヴァンはあんぐりと口を開けた。驚いた勢いで立ち上がる。ずり落ちそうになった毛布を慌てて掴み、腰に巻いた。

「う、嘘だろ?」

「本当だ」

「それじゃあ、他の連中は? 解散なんだろ? 全滅じゃないんだろ?」

「分からない。解散、と言われているだけだ。さっきも言ったが、詳しいことはほとんど明かされていないのだ。君以外のマキニアンが実際どうなったのか、今となっては誰にも分からんよ」

 立ち上がったエヴァンだが、ぷっつりと糸が切れた人形のように、どさっとソファに座り込んだ。

 十年間眠らされていたとは。目覚めてみれば見知らぬ場所で、所属していた組織は失われていた。そもそもなぜ、コールドスリープなど施されたのか。まったく訳が分からない。

 急に地面が崩壊してしまった気分だ。どこに足を置いて、どう歩けばいいのか見当もつかなかった。

「その、なんだ、仲間のことが心配なのは分かるが」

 ヴォルフはエヴァンを気遣うように言う。

「別に。仲間ってほどでもなかったから」

 エヴァンはそっけなく返した。

〈SALUT〉におけるエヴァンの扱いは底辺だった。研究者らはエヴァンを含むマキニアン全てを、メメント退治の兵器としか見ていなかった。マキニアンの中でも、粗悪体――落ちこぼれであるエヴァンは、他の優秀なマキニアンたちとの交流が許されなかった。たまに顔を合わせても、見下され、馬鹿にされる。そんな連中に、親愛の情をいだけようか。行方が分からない、生死も不明と言われても、彼らの身を案じる気持ちは沸かなかった。

 ただ、そんな中でも数人だけ、親しくした友人はいた。気がかりなのは彼らのことだけだ。彼らがそう簡単に死ぬとは思えない。どこかで生きてくれていると信じたい。

 しかし、友人たちの心配ばかりもしていられなかった。これから自分はどうすればいいのか。一番の問題はそこだ。

 どこへ行き、どう生活していけばいいのだろう。これまでの生活圏は〈イーデル〉内のみ。やれることは怪物と戦うことだけ。自分の存在を支えてきたものが全て失われたエヴァンには、この身一つしか残されていなかった。

 両膝に両肘をつき、掌に顔を埋める。そのまましばし黙り込んで、ばっと顔を上げた。

「いいやもう。どうとでもなれ」

 吹っ切れるのは早かった。小難しいことを考えるのは性に合わないのだ。

 とにもかくにも、自分はまだ生きている。しかも経緯はどうあれ、自由の身だ。初めての“自由”だ。もう兵器扱いされることもない。それに生きていれば、いつかどこかで友人たちとも会えるかもしれない。

「どうとでもなれって、やけに立ち直りが早えな」

 呆れているのだか感心しているのだか、ヴォルフは首を振った。

「ぐだぐだ考えてたって、どうしようもないだろ。それに俺、考え続けるの苦手だし」

「ああ、そんな面してるな」

 どういう意味か。

「しかしエヴァン。君はこれからどうするつもりかね。行く当ては?」

 オズモントは淡々と尋ねた。

「行く当てなんかねーよ」

 エヴァンはきっぱりと答えた。

「〈SALUT〉はもうない。軍にも戻りたくない。俺はこれから自由に生きてくんだ」

「家族はいないのかね」

「俺、孤児だからな。てゆうか、あんたら俺に対して責任があるんじゃねえか? コールドスリープ解いて起こした責任がさ。十年間眠りっぱなしで――見たとこ歳も取ってねえし――、いきなり起こされて、それでおしまい?」

「いや、それについては、もちろん提案がある」

 オズモントはヴォルフに目配せした。熊男は頷いて応じる。

「お前に行く当てはないだろうってのは、予想してたことだ。だったらお前、俺と来い。ちょうどメメントと戦える人材が欲しかったところでな。もうメメント退治はしたくねえってんなら、俺たちはお前との関わりを絶つ。起こした責任として、当分の生活費を工面してやるから、好きな場所へ行って好きにやれ。だがそうでないんなら、俺んとこに来い。仕事と住む所を用意してやる。どうだ」

「メメント退治の人材って、あんたら何者だ? なんで一般人がメメント退治してんだよ」

「小僧、軍の外にもな、それなりの裏事情ってのがあるんだよ。来るのか来ねえのか、どっちだ」

 エヴァンは口を閉ざし、しばし考えた。答えはほぼ決まっている。今のエヴァンには、どこであろうと“居場所”が必要だ。メメントとの戦いは嫌ではない。嫌だったのは〈SALUT〉での扱いの悪さだ。

 残る問題はヴォルフとオズモント。二人を信用していいかどうかだが、エヴァンは他人に対する評価は、最初の印象を信じるようにしている。

 エヴァンは迷いなく頷いた。

「わかった。行く」


        *


 ヴォルフ・グラジオスは、裏稼業者バックワーカーに仕事を斡旋あっせんする窓口役だった。表で飲食店を経営しつつ、この一帯の裏社会を取りまとめる人物だ。

 シーモア・オズモントは裏稼業者ではなく、ワーズワース大学の現役生物学教授だった。以前は国防研(国家防衛研究所)に勤めていたらしい。国防研と〈イーデル〉は、一部技術提携している。そのためにマキニアンについて詳しかったのだ。そんな彼が、どういう経緯いきさつで裏社会の住人であるヴォルフと交流を持つようになったのか。そのあたりの話は聞かされていない。

 こうしてエヴァンは、彼らによって、新しい生活を始めることになったのである。

 ヴォルフは約束どおり、エヴァンに住む部屋も用意してくれた。それが今の住まいだ。

 仕事と住居を提供してくれたヴォルフだが、条件があった。一つは、メメント退治――〈異法者ペイガン〉としての仕事がない時は、ヴォルフの店を手伝うこと。

 もう一つは、ある男と組むことだった。

 引き合わされたがレジナルド・アンセルム、レジーニである。

 ヴォルフは以前から、一匹狼だったレジーニに、どうあっても相棒をつけたいと考えていたそうだ。はじめは相当嫌がっていたレジーニだが、ヴォルフへの義理をみ取ったようで、渋々――心の底から、というのが肌で感じられるほど、渋々――エヴァンとのコンビ結成を承諾した。

 レジーニとは水と油だ、というのはすぐに分かった。直情型のエヴァンに対し、レジーニは理詰めで対処する。口や頭の回転では絶対に勝てない。純粋な体力勝負なら、確実にエヴァンの方が上だ。しかしレジーニには、足りない体力を補って余る知力がある。

 今のところ対等な相棒、というよりは、こちらが一方的に使役されているようなものだ。

 熊のような店主にこき使われ、意外と短気な相棒にも顎で使われ、メメントと戦う生活。

 一見ハードだが、彼女がいない、という点を除けば、エヴァンは満ち足りていた。ヴォルフもレジーニも、出自の特殊なエヴァンを偏見なく受け入れてくれているし、アパートの住人たちも、約一名心に悪魔を潜ませているが、気のいい人ばかりだ。

 十年間コールドスリープ状態だったが、ブランクはあまりなかった。そもそも〈イーデル〉の外の暮らしなど、ほとんど知らなかったのだから、ブランクを感じようもない。

 くだんの〈パンデミック〉事件とやらを、自分なりに調べてみたが、オズモントから聞いた以上の情報は得られなかった。

 その代わり、ようやくちゃんと生きられる場所にたどり着けた気がする。

 平凡な日常を肌で感じるたび、エヴァンはしみじみとそう思うのだ。


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