☆言葉、伝えられなくて……。☆
いったいどれくらいの時間、屋上にいただろう。
ぼくの涙は、もう枯れてしまった。
悲しみのあまり、立つことさえもできなくて、冷たい地面にうずくまったぼくは、ただ、オレンジ色の夕日から藍色になっていく空を見つめていた。
……生徒会室に戻ろう。行かなきゃ、紅葉と霧我のお仕事が増えてしまう。
そう思うのに、身体は言う事を聞いてはくれなくって、まるで地球上にある重力が全身に重くのしかかってくるような感じがした。
屋上は無人であるのに対して、真下の運動場からは生徒たちの明るい笑い声が聞こえてくる。
それが余計に、ぼくの悲しみを、孤独感をつのらせていく……。膝に顔をうずめて、空さえも瞳に映すことをやめてしまった。
放課後の帰宅をうながす放送と音楽が耳の遠くで聞こえてくる。
もうそんな時間なんだ……。
霧我も紅葉も、きっともう帰るよね。ぼくが生徒会に行かなかったこと、明日は責めるだろうな。紅葉には責任感がないって怒られて、霧我には……来たくないなら来なくていいとか言われちゃうかも……。
嫌われるのかな……。
グスッ。
涙は出ないけど、代わりに鼻水が出てきてしまう。夜はやっぱり少し冷えるね。
今の悲しい気持ちに支配されたぼくには、ほんの少しの光さえも堪えられなくって、拒絶するため、まぶたというカーテンを下ろした。
「……ず」
「……ず!!」
はれ?
霧我の声が聞こえるなんて……。ぼくの耳、そこまでおかしくなったのかな。
外部から聞こえてくる声に閉ざしたまぶたをひらいていけば、そこには一重の目。眉根を寄せて心配している……彼がいた。
「え? あ、霧我……どうしたの?」
涙でぼやけてしまった目をこすって、クリアーな視界を取り戻す。
そして、まばたきしても。やっぱり、目の前にいるのはぼくの好きな人だった。
「どうしたのって……お前……。なかなか生徒会室に来ないから心配したんだぞ? こんな時間までいったいひとりで何をしているんだ。ここにいる理由は何だ? 何かあったのか?」
霧我に早口でまくしたてられてしまう。
だけど、泣いていたぼくの頭は真っ白だから、何を言われているのか全然わからない。言われるまま、口をぽかんと開けてまばたきだけを繰り返す。
そうしたら、涸れていたと思った涙が、目からポトリこぼれ落ち、ほっぺたを伝って流れていく――……。
霧我が……生徒会に顔を出さないっていうだけで、ぼくを探しに来てくれた。
ぼくを待ってくれていた。
それだけがぼくの胸をギュッとしめつける。
「鈴? まさか、誰かにいじめられたのか?」
心配そうな声は震え、涙で濡れたほっぺたを親指でぬぐってくれる優しい霧我。
「なに……も……」
言葉が詰まって出せないのは、胸いっぱいにあふれている優しい霧我への想いを言いそうになるから……。
――でも、言えない。言ったら最後、霧我はぼくから離れてしまう。
気持ち悪いと……そう言われて……。
そんなの……耐えられない。
せっかく霧我の隣にいれてるのに、自分からそのポジションを離脱することになるなんて、そんなのイヤだ。
友達としてでいい。恋人になりたいとか望んじゃダメ。
「むが……」
「なんだ? やはりいじめられたのか?」
心配そうに顔を近づけて、ぼくを見つめる優しい霧我に、ブンブンと頭を振って、右手に持っていた真っ白い封筒を広い胸に押し付けた。
泣いちゃダメ。
恋心を言わないのが正解なんだから……。
自分を奮い立たせて、精一杯微笑む。
「コレ、霧我が好きな子から渡してって頼まれちゃって……」
ズキズキ、ズキズキ。
痛むのはぼくの胸。
本当は、こんな橋渡し役なんてしたくないのに、意志を無視した行動がさらにぼくを苦しめてくる。
「す……」
「そのあとでお腹が痛くなったの。だけど、もう大丈夫。ここで少し休んだから……」
霧我が何かを言いかけたけど、そんなの聞きたくない。聞いたら最後。自分の想いを言ってしまいそうで怖い。
だから、冷たい地面から腰を上げて霧我から離れた。
「鈴?」
「生徒会、行けなくてごめんなさい。明日は行くようにするから」
何でもないと言うために、振り返って霧我を見る。その霧我の表情は、眉間に皺を寄せていた。
まるで、ぼくがどういうことを思っているのかをたしかめるような、そんな感じだった。
やめて、ぼくを見ないで。
知らないでしょ? ぼくがどんなに霧我を好きかっていうこと。
知らないでしょ? いつも霧我を見ているっていうこと。
知らないでしょ? ぼくが今……どんな気持ちで手紙を渡したかってこと……。
――そう。霧我は何も知らない。
ぼくのすべてを見透かそうとしているような鋭い視線に居たたまれなくなったぼくは、霧我から目を逸らし、背中を向ける。
「でもさ、霧我もモテるよね。こうしてたくさんの女子からラブレターたくさんもらっちゃってさ。同じ男として羨ましいな……」
告白して気持ち悪がられるくらいなら、友達のままでいい。
それがいい。
そうしたら、ずっと霧我の隣にいられるんだから……。
たとえ、霧我の特別席がぼくじゃなかったとしても……。
霧我の側にいられるなら、それでいいんだ……。
そう自分に言い聞かせるぼくは、苦しい気持ちをまぎらわせるために両手を空高く上げて、うんっと背伸びをしてみる。
だけど、気なんて全然、まぎれない。だって、ぼくの近くには霧我がいて、その手には、あのかわいらしい女子から手渡された白い封筒がある。
チクチク、チクチク。
背中を刺すのは霧我の視線。
「鈴!!」
「じゃ、また明日ね。心配かけちゃってごめんね。バイバイ、霧我」
霧我が最後にぼくを呼び止めるのも聞かず、そのままゆっくりとした足取りで屋上を後にした。
翌朝、ぼくは朝早くから昨日行けなかった生徒会の仕事分を取り戻すため、重い足を生徒会室に向けた。ぼくの仕事はいたって簡単。霧我と紅葉が不必要だと思った提案書を部門に分けてダンボール箱に詰める作業だ。
えっと……これはこっちで……。この分は……。
なんてひとりでコソコソ仕分けをしていた。
「やあ、鈴。今日は早出かい?」
ふいに後ろから聞こえた明るい声に、手を止めて振り返る。
そこには、いつもと変わらない、何かをたくらむような口角が上がった微笑みをする紅葉がいた。
「紅葉、あの……昨日は無断で生徒会に来なくてごめんなさい」
重い腰を上げて紅葉と向き合うと、深々と頭を下げた。
その瞬間、ぼくの頭がクラリとしたのは、きっと昨日、霧我に渡したくもない女子からのラブレターを渡したからだ。
「いや、それはいい。おかげで面白いものが見れたからな」
面白いもの?
てっきり生徒会に顔を出せなかった理由を訊かれるかおじょくられるかどっちかだと思ったのに、考えもしない紅葉の反応に、下げた顔を上げて、首をかしげた。そうしたら、紅葉はぼくの顔色をうかがって、眉根を寄せる。
「……鈴、少し顔色が悪いぞ?」
「あ、なんでも……」
なくなんかはないけど、他になんて言えばいいのかわからず口ごもる。
「なんでも……? 本当に?」
あ、そうだ。紅葉は人の顔色を見るのが得意だということを忘れてた。昨日の出来事を言おうか。
でも……紅葉に言ったところでどうしようもない。
一度口を開けて、また閉じる。
「昨日の放課後か? 血相をかいて霧我が鈴を探しに行った時か? それともその前か?」
ドキン。
図星だ。思わず心臓が跳ねた。そおかげで両肩が小刻みに動いた。
紅葉は何かに勘づいたらしく、茶色い瞳の奥が光っている。
「やはりな……霧我関連か?」
ああ、やっぱり隠せない。
そこまで言われて隠せる訳もなく、視線は床に置いて、ゆっくりと唇を動かした。
「昨日の放課後、生徒会室に行こうとした時にラブレターを霧我に渡してほしいって女子に呼び出された。どうしたらいいのか迷っていたその後、霧我が来て……」
告げた言葉は震えていた。途中で途切れてしまったのは、あまりにも悲しい現実が待っていたから、口の中にあった唾が喉に詰まったんだ。
「なるほど、そのラブレターを渡したのか。自分で渡せと言えばいいものを……」
視線を外した目の端っこでは、紅葉が顔を左右に振っていたのが見えた。
『相変わらず鈴はお人好しだ』
仕草で、そう言っているのがよくわかる。
「だったら、『霧我が好き』なんだと本人に言ってしまえばいいのに……」
ため息混じりで紅葉はそう簡単に言うけど……言えない。言えるわけない。だって……だって……。
「やっと側にいれるようになったんだよ? それを自分から手放すなんてできないよ!!」
「鈴……?」
「紅葉は、霧我と近いポジションにいて、女子からモテる。そんな紅葉に、ぼくの気持ちなんてわかりっこない!!」
紅葉の残酷な言葉が拍車をかけてぼくを攻撃してくる。
紅葉は強い。だけどぼくは臆病者。それが、ぼくと紅葉の決定的な違い。だけど、それがすべて……。
だから、ぼくは一生霧我には近づけない。
隣にいることができたからって、安心しているとすぐに突き放される。
ぼくは……霧我の隣にいることさえ出来ない。
スルリとほっぺたを流れる涙に気がついて、肘で乱暴に目をこする。
だけど、涙は全然止まってはくれない。流れるばっかりだ。
力強く輝き続ける紅葉の側に居たたまれなくなったぼくは、生徒会から背を向けた。
「本心を伝えなきゃ、取られなくてもいいものを取られてしまうよ?」
背後では、紅葉のそんな言葉が聞こえていた。
――本心を伝えなきゃ、取られなくてもいいものを取られてしまうよ?
グルグル、グルグル回るのは、生徒会室から立ち去り際に言われた紅葉の言葉だ。
朝のホームルームが始まってからも、重たい頭を塞いで机に突っ伏す。
そんなぼくに、同じクラスの男子とか女子が数人心配して話しかけてくれたけど、渡したくない片想いの人に他人からのラブレターを渡したからだとは言えず、深夜からずっとテレビゲームをしていたから寝不足なんだと嘘をついてその場をやり過ごした。
今日は、霧我から話しかけてきてはくれない。
相変わらず先生の言われた仕事を反発せずにやりこなす。
ぼくがどうなろうと、霧我は別に気にしない。
そう言えば、そうだった。霧我からぼくに話しかけてくれたこと、一度もない。
いつもぼくからだった。休み時間とか、先生に頼み事をされた時とか、いつもぼくから霧我に話しかけていた。
それは霧我にしてみれば、ぼくはただの同じ委員会の一人にすぎなかったっていうこと。
昨日、ぼくを探しに来たのもきっと、生徒会の仕事が終わらなくって、人手が足りなかっただけのこと……。
きっと……それだけだ。
あらためて思い知らされる真実に、ズキン、ズキンと頭と一緒に胸も痛くなる。
キーンコーン。
ホームルームが終わるチャイムを耳にして、すぐのタイミングでチラリと大好きな人の姿を目の端っこでとらえてみる。
そうしたら、昨日、手渡されたラブレターの女子と話していた。
ふたりはそのまま教室を出てどこかに行く。
昨日の返事をするの? 霧我はなんて答えるの? ふたりは付き合うの?
「……っつ!!」
ガタン!!
うずくまっていた重い身体が突然動き、教室から去っていったふたりの姿を追いかけた。
どこ? どこに行ったの?
長い廊下を出て、行き交う生徒たちをかいくぐりながら、ぼくはふたりの姿を探した。
そうしたら、階段の方にさっきの女子の姿が見えて、急ぎ足で追いかける。
ふたりの背中にぴったり張り付いてやって来たのは、ほっそりとした木が囲っている静かな裏庭だった。
ぼくは近くにあった木に隠れて、女子を背中にして向かい合うふたりのやり取りをジッと見つめる。
「手紙のことなんだが……」
そう切り出したのは霧我だった。
ドクン、ドクン。
破れるんじゃないかっていうくらい、強く鼓動を繰り返す心臓は、他人にも聞こえてしまうんじゃないかと思うくらいうるさい。
ゴクン。
胃からこみ上げてきそうな何かを飲みこむために、喉を上下に動かしてその場に立ち尽くす。
視界が揺れるのは、これから霧我と彼女が付き合うかもしれないと思う悲しい気持ちがあるから……。
ぼくが両手をギュッと握って拳をつくった直後、霧我の口はふたたびひらいた。
「ごめん、好きなヤツがいるんだ。君への想いには応えられない」
霧我からの返事にびっくりしたのは、告白の手紙をぼくに渡した女子だけじゃない。霧我を好きなぼくにとっても、衝撃的な言葉だった。
それは、彼女からの告白を断ってくれたという、ぼくの嬉しい気持ちを無残にも打ち砕く。
振られた女子は、ほっぺたに光る涙を残したまま、ぼくの存在に気づくことなく、涙を流しながら走り去った。
霧我に好きな人がいたの?
いつ?
だれ?
ぼくの知ってる人?
知らない人?
頭が真っ白になったぼくはただ、悲しい現実に立ちすくむ。
「鈴、立ち聞きは趣味が悪いぞ」
女子が去っていったすぐ後、霧我の声が聞こえた。盗み聞きしてたこと、バレていたんだ……。
「霧我……好きな人、いたんだ……」
観念したぼくは木陰から出て、ゆっくり進むと、すぐに立ち止まる。
「誰が好きでもお前には関係ないことだ」
泣きそうなぼくに、静かに怒っているような雰囲気の霧我は、早口でそう言った。
いつもは、ぼくのこと『鈴』って言うのに、今は『お前』。
盗み聞きされたから怒ってるんだ。
だけど、そんな言い方ひどいよ。霧我が誰かを好きなんだと思う関係……ぼくには大アリなんだ……。
「ぼく……は…………」
「関係ないのにそうやってわざわざ俺の後を追うイヤな趣味は、さっきの女子が気になるからか?」
グサグサと問答無用で口にする霧我の容赦ない言葉は、ぼくの胸を突き刺す。
「そんなんじゃ!!」
「だったら何だ? 女子と俺の成り行きを見るためか? 親切にどうも。俺はそんな親切なクラスメートを持って嬉しいよ」」
どうして?
どうしてそんなひどいことを言うの?
ぼくは……ぼくは……。
「気はすんだか? いらんお節介はもうい……」
やめて。もう言わないで。霧我がぼくを好きじゃないことくらい、もう知っている。
……好きなのに。
どうして好きな人に、そこまで言われなきゃいけないの? 霧我はひどい。残酷だ。
「……ぼくだって霧我が好きだった。ずっとずっと!! なのに、霧我は他に好きな人がいて……。近づいても近づいても追いつけない。生徒会だって、苦手な勉強だっていっぱいして、やっと隣にいれたのに、大好きな霧我からは一生そういう対象としてはみられないんだ!!」
大声で叫んで、ハアハアと肩を上下させたぼくの息が静寂を破っている。
「すず?」
しまった!! そう思った時にはもう遅い。
それは、言うはずのない告白。
言っちゃいけない言葉。
言ったら最後、霧我には嫌われて……もう側にいられなくなる言葉。
霧我に対する自分の気持ちをぶちまけていたことに気がついたのは、彼がぼくを呼んだ後――……。
両手で口を塞いでも、もう遅い。今まで積もり積もっていた霧我への想いを全部言ってしまった。
……だったら、違うって言えばいい。そうしたら、また霧我の側にいられる。何くわぬ顔をして笑って……特別席じゃない、霧我の隣に……。
言えばいい。冗談だって言っちゃえ。
だけど……。
口をあけても、言葉がでないんだ。
何も言えない。
その代わりに、涙ばかりが目から流れていく。
「すず?」
どこか困ったような霧我の声が聞こえる。
だけど、視界は涙でボヤけて何も見えない。霧我の顔、見れないんだ……。
「……っつ!!」
ぼくはギュッと唇を噛みしめた。その直後、さっきよりも大きく頭がグラグラしてきた。
あれ?
さすがにおかしいって思った瞬間、目の前は真っ黒なモザイクで覆われていく――……。
「鈴!!」
霧我の声を最後に、ぼくの意識は……遠ざかった。




