殴られたヘビ
(3) 殴られたヘビ
「おい、遠藤! 授業に集中しろ!」
今日もこれで何度目だろうか? 村上先生が教壇からまた呆れた顔をこちらに向けた。その度に教室内はざわざわし、先生がせっかく作った授業の雰囲気も台なしになってしまう。
「もうすぐ中学生だろ! 勉強ももっと難しくなるし、大体、そんな態度じゃついていけないぞ!」
また同じフレーズが出た。隣にいる僕でさえ聞きあきたが、仕方ない。これほど何度も注意をしたら、言う方だって説教の言葉が尽きてしまう。先生も最初はいろいろと言葉を変えていた。朝食を食べていないから集中しないんだ、とか、夜は早く寝ろ、だとか、挙げ句に長々と時間を取って、どうして人は学ばなければならないか、などという、壮大なテーマについて語り出した日もあった。しかし、僕の隣は、その話にもほとんど反応することはなく、窓の外に連なっている山々を片肘ついてぼんやり眺めている始末。
放っておけばいいのに。
僕は何度も中断する授業に、辟易していた。公立小学校の基礎的な問題など、受験勉強をしていた僕にとっては全く問題ない程度のものばかりだから、授業そのものはどうでもよかった。だが、授業という公共の場に個人の身勝手が持ち込まれることに違和感があった。だから、思っていた。先生も放っておけばいいのにと。彼は騒いでいるわけではない。黙っているのだから、あえて授業を中断して注意する必要はない。授業を聞かなくて勉強がわからなくなるのは、本人の責任だ。それよりも聞いている他の生徒の態度を優先すべきだと思う。前の学校はそうだった。都会は田舎よりも圧倒的に人数が多い。一人ひとりの態度を気にしていたら、集団が前に進めなくなってしまう。
「遠藤、あとで職員室に来い!」
田舎の学校にも一応決められたカリキュラムというものがあることを思い出したのか、先生はそれ以上の説教はやめ、個人呼び出しという選択をして、話を切り上げ、再び授業に戻った。でも、一度しぼんでしまった授業への集中が完全に元に戻ることはなく、ざわざわした淀みが漂ったまま、五時間目終了のチャイムが鳴ってしまった。
先生は教科書をぴしゃんと閉じた。予定のところまで進めなかった苛立ちがあるのは明らかだった。そして、チョークのついた右手を左手でぱんぱんと叩きながら、こちらを睨んできた。正確には僕の隣の、白い顔をした無表情の生徒を。
彼は立ち上がった。反抗はしなかった。そして、教材を脇に抱えて教室を出ていく先生のあとを、ゆっくりとついていった。二人が出ていくと、みんながこそこそと何やら話し出した。ここの子供たちは、誰も面と向かっては言ってこない。みんなこうして陰で言う。だから、僕も全く知らない。自分がみんなにどういうふうに思われているのか。
言いたいことがあるなら、はっきり言ってくればいい。
黙ったまま推測したって、事実を知ることはできないのに。
僕と同じ市から来たと先生が言っていたから、彼も都会の人間なのだろう。多分、これまでの学校でなら窓の外を見る程度では注意はされなかっただろう。都会にはもっと悪い生徒がいる。授業を抜けて、体育館の裏で遊んでいる子もいるし、もっと悪いのは、家を出てから学校へ向かわずにそのままゲームセンターに行ってしまったりもする。だから、教室でちゃんと黙って着席していられる子が、注意を受けたりすることは滅多にない。
生きていく基準が、何から何まで違う。
みんなでサッカー、みんなで裸足、みんなで授業・・・ そんなの都会の子には無理だって。
彼の代わりに片肘をつき、窓の外を眺めながらぼんやりしていると、次の始業を知らせるチャイムが鳴った。だが、いつもならすぐに入ってくる先生がなかなか入って来なかった。みんなはそれに気付いていない様子で、それぞれが休み時間の続きの会話をあっちこっちの席に飛ばし合って騒いでいる。田舎の子の特徴だと思うが、ここの子たちは細かいことにあまり気が付かない。大らかと言ってしまうのがいいのだろうが、正直なところ僕には鈍感だとしか思えない。
「はい、ちょっと静かにしなさい」
入ってきたのは村上先生ではなく、女の先生だった。しかも、今朝、僕にランドセルを両肩に掛けろと注意してきた、冷たい眼鏡の人だった。
「村上先生は急に出張に行くことになったので、自習にします。算数の計算ドリルか、国語の漢字ドリルをしなさい。ノートは提出。学級委員、この時間が終わったら、ノートを集めて職員室まで持ってきなさい」
さっきまでざわついていた教室内が、急にしーんと静まり返った。村上先生が出張に行ったということよりも、この先生が入ってきたことへの緊張の方が大きいようだった。あまり気に入られていないらしい。どちらかと言わないまでも、僕もこういうタイプは苦手だ。
それにしても、六時間目だけを残して、急に出張だなんて・・・
僕は、先生の「出張」というのがいつも気になっていた。先生が休むとき、大体がこの「出張」で片付けられている気がする。病気のときは「風邪」だとか「インフルエンザ」だとか、ちゃんと病名は発表されるのだが、その他のときは全て「出張」で統一されている。「どこに行ったの?」と聞いたところで、本当のことは絶対に話してもらえない。「研修よ、研修!」などと言って、適当にごまかされるのがおちだ。
などと余計なことを考えていると、教壇の上から冷たい眼鏡が僕をにらんできた。女の先生はこの時間中、ずっと見張りをするつもりのようだった。仕方なく僕は漢字ドリルを取り出した。書けない漢字など一つもないのに書かなければならないのは苦痛だった。だから、書道だと思って、一つずつ丁寧に書くことにする。
そう言えば・・・
女の先生に気を取られていて忘れていたが、隣の子が戻ってきていなかった。ランドセルは椅子の背もたれに掛けられたままだった。もしかして・・・ 勉強に集中できない頭が、別の方向へ動き出した。もしかして、先生の出張と隣の不在は何か関係があるんじゃないのだろうか・・・ じゃなければおかしい。休み時間が終わっても戻って来ない生徒を放っておいて、別の出張へ出掛ける担任がいるだろうか?
僕は隣の椅子にぶら下がったままのランドセルから目を離せなくなってしまった。先生と彼が一緒にいるのならいい。一緒にいて、今も説教が続いているなら何の問題もない。万が一、出張に同行させていたとしてもいい。その出張の理由が彼に関係していることであっても、とにかく一緒にいるならいいのだ。
まずいのは、一緒にいないとしたらだ。
休み時間の説教が終わり、先生が一人で出張に行ってしまっていたとしたら? 彼はどこに行ってしまったのか? クラスの誰も彼がいないということに気付いていない。だから鈍感だと言うのだ。田舎の人間は、仲間が一人いなくなったくらいでは大らか過ぎて気が付つかないときている。
もちろん、みんなにとっては、彼も、僕も、仲間のうちには入っていないのだろうが。
僕はどんどん焦り出した。彼が転校してきて一週間が経つが、朝も時間通りにやってくるし、授業も最後までちゃんと受けて帰っている。一日中ぼんやりしていることが多いが、掃除も一応やっているし、給食の配膳も手伝っている。転校したばかりで、心の中にたくさんの嵐が吹き荒れている最中なのに、休み時間に個別に呼び出すことはないだろう。僕だったら耐えられない。もう少し配慮があってもよかったんじゃないか。と思ったら、心臓がどんどん高鳴った。まるで彼と初めて出会ったときのように。どこへ行ってしまったんだろう? ランドセルを置いたままなんて、冷静さを欠いているとしか思えない。
先生、遠藤くんが戻ってきていません・・・
言おうとした。言わなきゃいけないと思った。口はそこまで動いていた。いや、胸の中では何百回と言葉になって、声なき声が僕の毛穴という毛穴から噴き出していた。だが、冷たい眼鏡の先生には、僕の心の声は届かなかった。挙動不審な僕を何度も何度も睨んでくるのに、隣の空席には全く目もくれなかった。六年間使ったとは思えないほど形の整った真っ黒いランドセルが、もの言いたげにしていたのに。
僕は、こんなに意気地なしだったのか・・・
自分を取り巻く全てに打ち勝てず、何も言えなかった僕は、六時間目のチャイムが鳴った瞬間、ランドセルを抱えて教室を飛び出した。頭の中には良からぬことが次から次へと浮かんできて、もうどうしていいのかわからなかった。「行方不明の小学生」「川で発見の遺体は、転校間もない小学六年生」「教師の注意が原因か」・・・ バカげた妄想だと笑う自分がいる一方で、たった一言が言えなかったことを猛烈に批判してくる自分がいた。もし、万が一のことがあったら、裕太、お前の責任だぞ。あのとき先生に言っていれば、橋のたもとに立っている彼を探し出せていたかもしれないのに。
人殺し!
見て見ぬふりは、人殺しと同罪だ!
前の学校でなら言えていた。隣の人が戻ってきていませんと、言えばいいだけだったのだ。どうしてそんな簡単なことが言えなかったのか。まだ誰も歩いていない道を、一人猛スピードで駆け抜けた。早く家に帰りたかった。正直に言うなら、このまま前の家まで走っていきたかった。いつまで経っても以前の世界から抜け出せずにいる自分。妹が元気になって、お父さんもお母さんもやっと心配から解放させれたというのに、いつまでも下を向いて、たった一言さえも発言出来ずにいる自分。耐えられなかった。転校など、どこにでもある普通の出来事なのに。こんなことすら乗り越えていけない自分が悔しくて悔しくて、真っ直ぐに続く農道が、涙でぐにゃりと歪んで見えてくる。
そのとき、一台の軽トラックが僕の横にやってきた。
すると、右目の隅に、見覚えのある大きな耳が映った。
あっ、と声が出るよりも先に、車は僕を追い抜いた。そして、農道をそのまま走り、奥に見える村唯一の国道を右へと曲がった。突然のことではっとし、足が止まってしまったが、いけないと思い直し、僕は再び走り出して車を追った。村上先生か、誰か他の知っている人が運転していれば問題はない。でも、そうじゃなければ? 追いつけないだろうが、ナンバーなら確認できる。あとで警察に言えばいい。今度こそちゃんと言う。見て見ぬふりなんて嫌なんだ。僕はそういう人間じゃない!
しかし、僕が農道を走り出してすぐに、車は国道で減速した。そして、対向車線側にある、これまた村で唯一のコンビニへと入っていき、駐車場内に引かれた白線の間にすんなりと停まった。一呼吸置いて運転席から出てきたのは僕の知らない男の人で、ポケットに手を突っ込んだまま店の中へと入っていった。
その時点で、これが誘拐でも何でもないことがわかった。軽トラックは二人乗りで、運転手が出ていった今、助手席にいる彼は、窓も開いているし、逃げようと思えばいくらでも逃げられる状態だった。それでも僕は、国道の電柱の陰に隠れて様子をうかがった。もちろん帰ることもできた。だが、何故か気に掛かった。運転手は誰なんだろう? お父さんにしては少し年がいっているような気がする。作業着姿で帽子を被っているから、遠目ではよくわからないが。
すると、しばらくして男の人が店から出てきた。片手に商品の入った小さな袋を持ち、反対側の手で釣り銭だろうか、何かをポケットに突っ込んだ。入っていくときには見えなかった顔が、こちらからではよく見えた。僕のおじいちゃんと同じくらいの年の人だった。機嫌が悪いのか、それとも元々そんな顔の人なのか、眉間にシワを寄せ、身体のどこかに苦しい何かを持っているような表情に、僕には見えた。
それを待っていたかのように、助手席から彼が出てきた。姿からして農作業に従事していると思われる色黒の男の人とは対照的に、彼は外で見てもやはり極端に色白だった。色だけのことではなく、二人の間に血の繋がりがあるようには見えなかった。男の人は顔の造りが全部小ぶりで目立たないのに対し、彼の目鼻立ちは、日本人だと思えないほどどれも大きくはっきりしている。
じゃあ、一体、あの男の人は・・・
彼は軽トラックの荷台側を回り、運転席の扉を開けようとしていた男の人の前に近寄った。僕の位置からは、二人の横顔が遮るものなくしっかりと見えた。彼の口が動いた。離れているので、声までは聞こえない。だが、顔に笑みはなかった。いつも通りの無表情だと言えなくもなかったが、僕の目には少し緊張しているように見えた。隣で窓の外を眺めているときの顔は、もっとぼんやりとしているのだ。
パン!
それは、一瞬だった。のどかに青々と広がる山間の空に、大きな音がこだました。男は怒りを抱えたまま車に乗り込むと、急ハンドルを切ってコンビニから出ていった。彼は車を追わなかった。一切視線を変えることなく、外に置かれたゴミ箱付近をじっと見つめたまま突っ立っている。
男の人が、彼の頬を殴ったのだった。
手を上げた瞬間の怒りに満ちたその顔は、とてもじゃないが子供相手に大人が見せるようなものではなかった。
僕は怖くなって、その場から動けなくなってしまった。車は走り去り、彼は一人になった。もう安全なはずなのに、僕の足はどの方向にも動かすことができなかった。ショックだった。僕はあんなに思いっきり殴られたことはない。しかも、あんな恐ろしい顔で。一度、妹をいじめて、お父さんにすごく怒られた。叩かれはしなかったが、肩を強く揺すられた。でも、お父さんの顔は哀しそうだった。横で見ていたお母さんに後で言われた。子供が悪いことをすると、親は怒りよりも、哀しみの方が強く出てくるものなのだと。
「見ていたんだな」
突然、頭の上の方で声がしてぎょっとした。足元に転がっていた石を見つめながら、あのときのお父さんの表情を思い返していた僕は、全く気が付かなかった。ふと視線を外した間に、彼が近付いてきていた。アスファルトの駐車場だとは言え、いくらなんでも近くまでくれば音も立つだろうに、相手がヘビだからか、僕が間抜けなカエルだからか、この至近距離になって初めて相手の存在に気付くだなんて、最低だ。
「ごめん・・・」
謝るのもどうかと思ったが、それしか思い付かなかった。正確にいえば、思い付く前に口が勝手に動いていた。何かがあって殴られたわけだ。完璧に個人のプライバシーをのぞいてしまったと言わざるを得ない。しかもこちらが勝手に追い掛けていったのだ。ごうごうと音を立てて農道を走っていく軽トラックを、彼が乗っていると知っていた上で。
「謝る必要はない。わからない人間に、何を言っても無駄だ」
わからない人間が一体、誰のことを指しているのかが、僕には今ひとつ理解できなかった。国語は得意な科目であるはずなのに、彼の話すことはいつも僕の頭にすんなり入ってこない。多分、車で走り去った男の人のことを言っているのだとは思うが、もしかしたら、僕のことである可能性もなくはない。お前に何も言っても無駄だから、ここでお前が俺を見ていたことに対して何も言うつもりはない、という意味てはないとは言い切れない。
「あの人は・・・」僕は小さな声で、恐る恐る聞いてみた。どんなに意味不明な言葉が返ってきても、何とか理解しようと身構えた。
「あれは、母親の父だ」
しかし、彼はごく普通の言葉を返してきた。何だか拍子抜けした。だが、同時に仰天した。えっ? おじいちゃん?
信じられなかった。
おじいちゃんが、孫をあんな形相で殴りつけたりするものだろうか?
僕は思う。
おじいちゃん、おばあちゃんという生き物は、子供にとっては宇宙一優しく、好都合な存在なのではないか、と。
僕には二人のおじいちゃんと、二人のおばあちゃんがいるが、四人とも全然怒らないし、いつも何だって言うことを聞いてくれる。お母さんの小言から逃げたいときは、四人のうちの誰かに電話を掛ける。すると、お母さんは大体あきらめる。電話を切ってまで小言を続けようなんてしない。
「あのさ・・・」一瞬、僕はためらったが、意を決して言葉を続けた。さっきみたいに言わずに後悔したくはなかった。「・・・先生に呼ばれてから、どうなったの?」
「特に、何もない」
「ないって・・・」また言葉が詰まった。瞬き一つせずに、じっと僕の目だけを見つめてくる彼に気後れしてしまう。「・・・でも、戻ってこなかったでしょ? ランドセルも置きっ放しになってるのに・・・ 先生は出張だって言ってどっかいっちゃうし・・・」
「それは違う」
「違うって?」
「出張なんかしていない。ずっと面談室にいた。いて、あいつを呼んだ。自分ではどうすることもできないと思って、人に投げた」
彼の言葉を百パーセント信じるとするなら、先生はどこにもいかずに、彼に話を続けていたようだ。そして、どれだけ話をしてもこんな調子でしか受け答えしない彼に業を煮やし、家族を呼んだということらしい。もう首を傾げるしかなかった。僕には到底理解できない。一人の生徒の態度をどうすることもできず、授業を放り出してしまうだなんて・・・
「それほど驚くことでもない。この世界の人間というものは、大なり小なりよく似たものだ。何が正しくて何が間違っているのかということが、全く認識できていない。それは親であろうと先生であろうと変わらない。ともすれば、この世界では、きちんとした立場の人間であればあるほどおかしくなる傾向にある。基準とする法則が間違っていれば、誰かを正しい道に導くことなんてできない」
それは、のどかな村の、誰もいない国道沿いの電柱の裏で聞くような、間の抜けた話ではなかった。僕は彼の言葉を必死になって聞きとり、その場で理解しようと一点に神経を集中させた。それでも難しかった。この村ではなく、この世界。規則ではなく、法則。先生や親を批判する内容であることはわかったが、そこには「だって」とか「けど」と言った、子供特有の自己弁護の言葉は一切なかった。そして、彼自身の感情もどこにも見えなかった。長い間、先生に説教され、挙げ句におじいちゃんに殴られた子供だとは到底思えないほど、彼の表情は淡々としていた。
「・・・悲しくないの?」
そんなことを聞くつもりはなかった。だが、どうしてだか、彼の目を見ていると、自分自身が悲しくなってしまったのだった。彼の大きくて黒目がちな目の奥に、僕の不安げな顔が映っていた。僕だったら耐えられない。こんなところへ転校した上に、先生から怒られ、おじいちゃんから殴られたら、間違いなく川の上から飛び降りる。
「そういう感情は、ない」
彼の目の中にいる僕が、はっと息を飲んだ。感情がない、とはっきり言い切る小学校六年生がいるのだろうか? 強がりだとは思う。思うが、彼を見ていると、何故か嘘をついているようには見えない。不思議だった。こうして話せば話すほど、彼の言葉はみんな本当のことだと思えてくる。
「そうだ。俺は真実しか口にはしない」
彼の目の中にいる僕が、今度は口から心臓を吐き出した。今、彼が言ったこと。それは、一瞬前に僕が
感じたこと。まさか、まさか、まさかそんなことがあるのか!
「まさかなんて、ない。全ては真実だ」
彼の言葉に、僕は電柱に貼りついたまま、動けなくなってしまった。まさか、まさか、まさか・・・永遠の「まさか」が頭の中に止め度となくあふれ、思考が完全に停止した。言葉一つ、足一つ出なかった。
どういうことなんだ・・・
秋の山にはあっと言う間に陽が落ちる。辺りに西日のオレンジ色がどんどん広がってきた。それでも僕は動けなかった。今までの人生経験では理解できない衝撃が、僕をずっと包んで離さない。
どのくらい経っただろう。
山の端に沈み出した太陽に照らし出された僕たち二人の影は、どんどん長くなり、ついにはそこから消えてしまった。