わだいがない 5
黄桜さんの場合
あれは自分の高校時代だったか、比較的仲の良かった男のクラスメイトがあるときに、ぽつりと言った。
「女は結婚すれば、苗字が変わるからいいよなぁ。」
「結婚できればね。」
今の時代、そんなセリフは時代遅れだ。養子になれば男性だって変わるし、夫婦別姓だって可能だ。しかし、どうみても結婚できなさそうな彼の苗字は圓楽。名前なら親に文句もあるが、苗字は誰に文句を言ったらいいものやら。その時、お互いに、苗字で苦労するねぇとしみじみ語りあったものだ。
そんな時期を超えて、30代半ばを過ぎた自分が考える現実は「たくさんありすぎる情報は敵」が正解である。
「えっと、ついったーで、だっけ?ふぇいすぶっくの方だったっけな?なんだっけ?あの子の名前は……。」
つい独り言が出る。誰もいない部屋。一人のせいか、照明は最低限で、夕飯も最低限になる。コンビニの袋が最近増えた。
風呂上りに、家のインターホンが鳴ってもすぐには出られないような格好で、冷たいお茶を片手に、パソコンを打つ。誰も文句は言わないが、これで体を壊しても誰も心配はしてくれない。
「あった。えーと、20XX年、卒業?あー……あの子、20代最後か。年下かぁ。にしても、……若すぎる。もっと歳かと思ったのにぃ。」
そうして、ぶつぶつ言いながら、自分の中での恋愛候補を消していく。こうして、何人も、何人も消えていくのだ。
会社に新しい人が来るたびに、手を見て指輪の有無を見て、少し話して、好印象を持ったら、インターネットで検索。そして、いなくなるのだ。
恋愛に年齢は関係ないだろうが、結婚に年齢は関係ある。相手側の言い分もあるだろうが、それは聞かないことにする。
「あーもー!」
誰もいない部屋で叫ぶ。誰も文句は言わないし、隣がもしもうるさくても、文句を言うほど知っている人でもない。そんな生活が数年。友人たちはみんな家族になっていき、会話の内容が合わないどころか、本人に会う時間さえもないのだ。
この間から、会社に入った若そうな男の子は、さわやかな感じ。若いであろう気はしていた。だから、彼のことは最初から自分の中から排除されていた。失礼な言い方だが、そんなものはおそらくお互い様だろう。向こうだって、オバサンは嫌だと思っているに決まっている。
もう一人、若そうに見えない人も入ってきたので、そっちに狙いを絞って、そっと情報を獲得。こんなときの女性の情報獲得時間はすさまじく早い。仲間とライバルがお互いに聞き出すのだ。不確かなものもあるが、それは選別していく能力をこちら側が身に着けていくしかないのだ。
狙う情報は、一つ。インターネット関係のもの。そこに、大抵がある。
彼が卒業した高校、大学、職歴、いまの会社、遊ぶ場所、自分の家族構成、自分の友人関係、趣味、現在の居場所や、彼女の有無、血液型、好きなテレビ番組、歌手、音楽、本、飼っているペットの顔まで載っている。もっとさかのぼれば、過去だって載っていることがある。
その人によって、情報量は異なるが、そこまで調べるほどではない。
私は今回の彼を大学の卒業年数から彼の年齢を引っ張り出した。その結果は、早すぎる排除を意味していた。
若くて、いい男はすぐに売れる。いい男じゃなくても、金があれば、売れる。でも、あたし的に、若いのは嫌なんだけどなぁ……。そんなこと、言ってるから嫁にいけないのよ、とおかぁちゃんに言われるんだろうなぁ。
「あー。も、寝よ。」
いちいち、言わなくてもいいセリフを言いながら、私はパソコンを切った。
「載ってなかったら、幸せだったんだけどなぁ。」
ごそごそ、布団に入るまで独り言。自分で勝手に検索しておいて、勝手なものだ。いつもいつもそこにあるものが正しいとは限らないけれど、半分は信じている。もう半分は嘘ではなく、例えるならばレストランのメニュー表のようなものである。大きくて、美しくて、きれい。まぁ、実際は……というところだろう。
苗字が、黄桜。どこかの酒のメーカーと同じである。おかげで、誰からも憶えてもらえるがいいことも、悪いことも憶えられる。苗字のせいで、あだ名はカッパ。それが嫌な時もあったが、この歳になれば誰も言わないし、言われても自己アピールくらいに利用する力をつけた。
人間、歳をとれば、ずうずうしくなる。そして、そうでなければ生きていけない気さえもしてくる。
「黄桜さんですか?あー酒、強そうですね。」
たいてい言われるセリフ。それほどまでに、有名な名前といえばそうなのかもしれない。
「あはははは、お酒、一滴も飲めません。」
「えー、またまたぁ……。」
「いえいえ、ホントに。」
何度も、何度も同じ会話が繰り返される。一時期は、苗字で呼ばれるのが本当に嫌で、親に文句も言ったが、親も黄桜なのだから、どうしようもない。友人には苗字で呼ばないで、名前で呼んでくれと常々言っていた。
そして、本当にお酒が飲めないものだから、自己アピールには最適だが、酒の席には誘ってもらえず、なにも進展しないのだ。
酒は慣れだという友人と飲みに行ったこともあるが、気分が悪化するだけだと判明し、その友人は私に酒を飲ませることをあきらめた。
その彼女も、酒の席で知り合った、知り合いの知り合いと結婚した。
「あたし、さっさと結婚する!佐藤とか、田中とか、普通のでいいんだ!この苗字は嫌!」
中学生時代にはとっくに、宣言していたはずなのに、結局一人のまま来てしまった。苗字を変える目標は捨てたわけではないけれど、縁がなかったのだ。
「縁がないんじゃなくて、自分で切っているのよ!」
母親はそう言う。
「年齢なんて、いくつでもいいじゃないか。結婚もどっちでもいいし。子供だけ、作っておけば。」
それも一理あるのだが、相手が見つからない。そして、その相手になりそうな人を自分から排除している。それも、インターネットからの情報だけで判断するのだ。ストーカーの三歩手前のようで、そんなことではいけないと、調べずにつきあった人もいる。
シーソーのように、お互いに一から情報交換していくのだ。見たテレビ番組の内容、好きな役者、漫画の貸し借り。
しかし、結局ダメだった。
若いうちは、できたであろうそんなことも、もうこの歳ではなんの情報もなしに、付き合える時間がないのだ。
ダメかぁ……。
そんなことを考えながら、眠った。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
昨日のことなど、なにもなかったかのようににこやかに挨拶。これが大人というものだ。恋愛対象から外れたからといって、仕事にそれは関係ない。
「今日も暑いですねー。苦手なんですよねぇ、暑いの。」
「そうなんですか。私もですけどね。」
にこにこしながら、昨日のデータを引っ張り出す。
暑い日には冷えたビールが合うって、なかったっけ?
「こういう日は、飲みに行けばいいじゃないですか。」
「まぁねぇ。あ、黄桜さん、酒、だめなんですよね?」
「そうなの。でも、飲み会には行くわよ。」
「そうなんですか?」
「うん。会社の子たちと出かけるもん。」
「へぇ。たとえば?」
昨日のデータを引っ張り出す。好きな女の子の髪形はショートカット。
「桜井さんとか。」
「あー、あのショートカットの。」
「うん。ビールとか好きな子なの。」
「へぇ。今度、誘ってみようかなぁ。一緒に行ってくれますかね?」
「どうかしらね。じゃ。」
にこにこ笑いながら、それぞれのロッカーへと移動していく。ちょっと笑ったまま、思うのだ。
桜井さん、マッチョじゃなきゃ、嫌な子だけどね。
あたし、意地悪かなぁ……いやいや、これは個人情報ってことで。秘密だな。うんうん。趣味は変わることもあるし。
いろんな言い訳を並び立てる。自分の席に座って、そっとみた桜井さんはなにも知らずに、仕事をする準備をしている。
自分が恋愛していたり、家庭を持ってそれなりに幸せだったらさっきのことを教えてあげるだろう。でも、今の私にはそんな余裕はない。
そのうち、桜井さんからか、その周りの女性陣の情報でどうなるかがわかるだろう。そんなことだけは本当に素早くいきわたるのだ。
私は、ふいに桜井さんと目があって、ちょっと微笑んだ。