炎獄庭球編 (2)
騎道をコートの外に連れ出して、三橋は高尾には聞こえない程度の低い声で耳打ちした。
「お前、ここに入部する気、あるか?」
「? まさか」
騎道は頭を振った。
「でも、素質はある。
俺と、やりあえるんだぜ? 並の素質じゃない」
熱っぽい目で、それでもしっかりと三橋を見返し、騎道はうなずいた。
三橋が示す、本心の要求を受け止めたという合図。やっぱり、勘のいい奴だ。
「テニスだけじゃないな。お前なら、どんなスポーツでも、きちんと基礎から叩き込めば、すぐに超一流のプレーヤーになれる。
たぶん、俺ほど、マジでトレーニングする必要も無いだろうし」
口元で、三橋は笑った。
騎道も少し笑い返す。
けれど目を伏せ、騎道は首を振った。
「無理なんだ。僕には、最後までやり遂げることができない。
トップになるのでの間、それを続けることが、……できないだろうから」
完全にずぶ濡れになった前髪を払い、騎道は一人で座り直した。
「三橋の期待には応えられない」
騎道を支えていた手を、三橋はそっと離した。
「俺も、中途半端な奴は嫌いだ」
ニッと笑って、三橋は立ち上がりコートに戻った。
ほんの数分の間に、大きく胸に膨らんだ密かな希望。陽炎のような夢、願いは、真夏の幻らしく、すっと冷えていった。
乾ききったコートに染み込む水のように、三橋の想いからかき消えてゆく。
二人で世界へ。ラケット一本で渡る、ワールド・ツアーへ……。
奴となら、最高に楽しめると直感したのだ。負けるにしても、勝つにしても。
「……しっかし、あのヤロ。相変わらず欲がないっつーか、のほほん野郎つーか。
ド素人の分際で、この俺を十分苦しめておきながら、あの言い草。
ケッ、ケッ、ケーっ。全然! 許せませんねー。黙っておられませんねー」
ぶつぶつ呟く三橋に、高尾が相手を買って出てコートに入った。
キッと視線を向けると、彩子に運んできた冷たい水をかけられて、騎道はぴーぴー騒いでいる。
「……大体。お高く止まったあの発言。
最後までやり遂げることがデキナイ?
悟ったよーな口きいてくれて、一番大事なことが抜け抜けじゃあないですか?」
むらむらと湧く苛立ちの渦。
「やい、おとぼけ騎道!
この世の中にはな、一生、やり遂げなきゃならんものが一つだけあるんだよ!
始めるのは結構簡単で、金も道具もなーんにも要らなくて、けど続けるのは、なかなか厄介なんだよな、それが。
でも、その気になりさえすりゃ、一生もので、絶対終わったりしないんだよ!
わかるか? すっとぼけワカトモ!!」
わめいたら息が切れた。なんだか、目も回ったりした。
だが三橋は高尾にサーブを要求した。
「……それもそうだよね。
悪友との縁って、なかなか切れないものなんだよね、彩子さん?」
……悪友……、だとぉおっ!!
「! 三橋、危ない、避けろ!」
悪友と抜かした、同じ騎道の声。
なぜか反応が遅れて、高尾のサーブをまともに腹に受けた三橋。
目の前が真っ暗になったのは、その痛みのせいではないと、薄々気付いていた。
「三橋……!」
真っ先に駆け寄った一人の腕を、三橋はしっかりと握り締めて尋ねた。
「なぁ……、友達でいるのまで、勝手に降りるの無しだぜ……」
親友たちは、二人揃ってコートに座り込む。
「うん。僕も、中途半端で絶交されたくない……」
ひどく安心できて、三橋は体の力を抜いた。暑かった。三橋自身の方が、プールに飛び込みたいほど、熱かった。
「三橋君。君、トレーニングに室内練習場を使っているだろ? もう少し日に当たらないと、ワールド・ツアーを日射病で棒に振ることになるよ?」
高尾の声を最後に、誰の呼び声も、三橋の耳からは遠のいていった。
幻聴、だろうか?
聞こえてくる水音。絶え間なく下る、岩清水を連想しながら、騎道は耳を澄ました。
不規則でかろやかな音色が、ひっそりと、けれども確かに、彼を誘っている。
引き寄せられる欲求には勝てず、寝返りを打つと。
「やだ……、驚いた。急に動くんだもの」
傍らから聞こえる彩子の声に、騎道の方が驚いていた。夢の中では、深い木立ちの中に横たわっていたつもりだったのだ。
現実は、瞬時に騎道に全身の疲労感を思い出させた。ひどく頭が重く、体はだるい。
くんと、鼻をひくつかせてみると、開け放した窓から入る風に紛れて、消毒薬の匂いは薄らいでいた。休養室は、騎道の指定席のようなものになっていた。
「彩子さん、三橋は?」
隣の、少しは使われたらしいベッドを直す彩子に、騎道は顔を向けた。
「水に浸かった方が楽だからって、一年生部員の肩を借りて行っちゃったわ」
彩子は呆れて、諦めきっている。
「そう……。なら、僕もプールに入ろうかな……」
そろりと体を起してみて、騎道は眩暈も立ちくらみもないことに安心した。
「……。あたしは、手を貸したりしないわよ。行くなら這って行きなさい?」
振り返って怖い目をする彩子。だがフイッと、顔を逸らして背を向けた。
なぜか、赤くなった彩子の頬。
「? ! わわわっ……!」
騎道は慌てて毛布を引き上げた。上半身裸であった……。
「彩子さんっ、僕の服はどこでしょう??」
ウエアがびしょ濡れになったせいだろうが。女の子の目の前で……。失態である。
黙って騎道に制服を押し付けて、彩子は小走りでドアに向かっていった。
耳まで赤く染まった彩子の後姿に、騎道はどうしたらいいのかわからなくなる。口をぱくぱくさせるだけで、掛ける言葉が出てこない。
「あたし、帰るから」
「あ……、あの、三橋から聞いてませんか? 海に行くって話」
足を止めた彩子は、振り返った。
「行くわよ。面白そうだもの。騎道は?」
「勿論。すごく楽しみなんだ」
力を込めた騎道に、彩子は苦笑してみせた。
「やーね。君達二人と、夏休み中ずーっと、顔をあわせないで済むと思ってたのに」
えっ? と、真顔になった騎道に、彩子はくすくすと笑い出した。
「駿河たちも行くんでしょ? それと、千秋と田崎君も。園子も来るって言ってたし、三橋は他にも誘っているみたいね。
それだけ居れば、君たち二人が無茶して倒れても、あたし手を貸さなくてもいいから楽ねー」
「……十分、自粛しますよぉ……」
「ええ、ええ。わかってる。騎道は泳げないんだもの荷物番よね。助かるわー」
「彩子さんっっ! 僕だって、海に入りたいですっっ!」
拳を握り締める騎道に、彩子は小さく舌を出してみせた。
「おーし、居た居た。探したぜ、騎道」
「騎道さんっ。僕、お願いがあるんです」
ぞろぞろと休養室に入ってきたのは、駿河と隠岐だった。
「何、か?」
ベッドに張り付いて拝み倒さんばかりの隠岐を、騎道はまじまじと見た。
「待ーて。年長者が先だ」
中学生みたいに細い肩の隠岐を避けて、駿河はベッドの縁に腰掛けた。
「お前、明日空いてるか?」
こくんと、騎道はうなずいた。
「急で悪いんだが、明日一日、俺に付き合えよ」
付き合え……って……、断定形?
目で聞き返す騎道に、駿河は説明した。
「明日、野外での仕事なんだが、間瀬田がこの暑さでバテて寝込んじゃってさ。
お前、臨時の付き人で。頼むよ」
「センパイ。それって、一人で行ったって構わないんじゃ、ないんですかぁ?」
間延びした声を上げる隠岐は、駿河の両手で髪をぐしゃぐしゃにかき回された。
「でも。僕、何をしてたらいいんです?」
「適当にしてろよ。俺が撮影している間、次の段取りを聞いててくれたり……」
「その程度なら、騎道を引っ張り出す必要ないでしょう?」
隠岐に同調する彩子に、駿河は向き直った。
「だったら、彩子。来る?」
彩子は、しばらく考えてから、ポツンと呟いた。
「……一人で、行けないんだ。自分の仕事に……」
ガバッと、駿河は目を逸らして、窓の外などをしきりに気にし始めた。
図星……なのだ。
頼むよ、騎道っ!
騎道への流し目は、必死、であった。
「……。撮影って、面白そうですね。僕でよければ手伝いますよ」
「そっか。騎道くん、来てくれるの? 彩子、悪いな。お前、また今度ね」
白い目を向ける彩子の手前、素直に感謝を表現できない駿河だった。
「なら騎道さん。明後日は空いてます?」
「隠岐君の方は、何があるの?」
手を合わせ、すでに隠岐は拝んでいる。
「うちの事務所、今すごく忙しいんです。従業員が二人も育児休暇に入っちゃって」
「ね? お兄さんの設計事務所って、女の人、一人だったはずじゃないの?」
ゲソっと、隠岐は疲れた顔をした。
「最近は、主夫が流行りらしくて、お父さんの育児休暇なんですよ。彩子さんも、絶対安心して子供産めますからね」
へーえと、彩子は感心してしまった。
「なのに、急ぎの大口の仕事が来て、参ってるんです。騎道さん、CADを使えるから即戦力になれますよ。
アルバイトで、来て欲しいんです」
おねがいしま~すと、頭を下げる隠岐。
「僕、暇だから、行かせてもらうよ」
騎道がにっこりと笑い、商談成立すると、二人はサッサと部屋を出ていった。
現金なものよねー、とは彩子の言葉。
「騎道、暇してるの?」
改めて聞き返されて、騎道は困った。
「うん。こんなに長い休み、どうやって過ごしたらいいのか、わかんなくて」
「長いって思ってると、あっという間に過ぎちゃうわよー?」
そうかな……? そんなの困る。
騎道は、真剣に考えてしまった。
今日から、ほぼ四十日間。学園とか、クラスといったまとまりを完全に解体されて、一人一人の判断で過ごすのだ。
口約束はいくつかしているが、騎道のスケジュールは、ほぼ真っ白だった。
自分の思い通りにできる、『自由』という言葉だけで、白い予定表が埋まっていた。
考えただけで、わくわくした気分が押さえられなくなるほど高まる。
「彩子さん……」
「何?」
次の言葉を待つ彩子に、騎道は頭を振った。
「いえ。なんでも……」
「テニス部、何かあるの? この暑さの中で部活してたの、君たちだけよ?」
言われてみれば、あれは殺人的な選択だった。
「夏休み中に、コートを改修するだそうです。工事は明日からなので、お別れの意味もあるらしいですよ」
なるほど。納得した彩子は、自分の学生カバンを取り上げた。
「じゃあ、帰るね。
四日後、駅前で落ち合いましょ?」
駅前の三橋百貨店前で待ち合わせて、海へ出掛ける。このメンバーでは初めての、一番の遠出になる。
騎道は取り残されて、ベッドの上で膝を引き寄せ、頭を乗せてみた。
言いかけて、言えなかったこと。
彩子には、打ち明けたかった想い。
空に湧き出す積乱雲のように、胸で膨らんでゆく嬉しさが、騎道を息苦しくさせていた。
「……僕、初めてだ……。こんなに長い休暇なんて」
『夏休みって、初めてなんです』
その理由をうまく説明できないと思い直して、騎道は言葉を濁した。
初めての夏休み。
初めての、長い長い何をしてもいい日々を持て余して、騎道は一人ニコニコと、いつまでも微笑んでいた。
『炎獄庭球編 完』