あなたに会えてよかった
「君のことが好きだ。僕と付き合ってほしい。」
音楽と仲間の話し声が溢れる部屋で電話越しにそう言った僕の脳内は、多少のアルコールによってふわふわと別の場所を彷徨っていた。別に彼女のことが取り立てて好きだと思ったこともなかったし、正直自分とは合わないタイプだなと思っていた。きっかけは何だっただろう。いつものように仲間とアルコールを飲んでいたときに、ふと一年生である彼女の話になった。その時、話の流れで面白半分に告白をしてみようということになったのだ。もちろん僕を含めた皆がその告白がうまくいくとは思わなかったし、僕が振られて場が盛り上がる事を期待していた。ところが僕たちのその『予定』を完璧に無視して彼女はしばらく黙り込み、静かな、そして若干の戸惑いを含んだ声で「はい」と答えた。
予想外の答えに僕は少し沈黙した。僕の頭の中を霧のように覆ったアルコールが段々と抜けていくのが分かった。周りを見ると、すでに仲間たちは手に手に缶を持ち、各々が出来る限り悲壮な顔をして乾杯の準備を終えている。
「え?」
そんな短くて馬鹿みたいな言葉が僕の意思とは関係なく飛び出した。もちろん聞こえなかったわけではない。ただ単純にその言葉とも言えない音しか僕の頭の中に浮かばなかったのだ。
「じゃ、えっと、よろしく。」
なんとかこの事態を認識したものの、まだうまく整理することが出来ずにそんなことをもごもごと言ったように思う。
そのときになってようやく自分たちが予定していないことになっていると気づいた仲間たちがなんだか少し真剣な顔をして僕を見ていた。僕は携帯電話を耳から離し、
「えと、なんか俺、彼女が出来たみたい」
と仲間に知らせた。多分その時僕は、生まれて初めて黒船を見た町民のような顔をしていただろう。
再び暫しの沈黙があり、1つ先輩のオカダさんが僕から電話を奪い取り、何事か向こうと話し始めた。そうして、僕の隣に座っていたコウさんがぐびりと缶に残ったアルコールを飲んで静かに「おめでとう」と言った。確かそのときに流れていた音楽はケツメイシの出会いのかけらだったように思う。
次の日の朝、まだ少しアルコールが残る頭で今後のことを考えた。彼女はサークルで自分の班の班員であり、リーダーである僕と彼女が付き合うことを快く思わない人もいるだろうし、そもそも僕は恋愛経験に乏しく、これから何をするべきなのか分からなかった。この先何かいろいろと面倒くさいことになるのだろうなと考える。
「まぁいいや、どうでも。」
床に散らばる空き缶や空き瓶の中から灰皿と煙草を探し出して火をつけた。基本的に僕は物事を深く考えるのも嫌いだったし、もしかしたら昨日のことは彼女の悪ふざけで何事もなかったかのようになんているかもしれないという期待があったからだ。しかし、すぐにその淡い期待も裏切られた。突然寝起きには少々不快な電子音が鳴り響き、僕は携帯電話を取った。サークルの先輩からである。電話にでるといきなり、
「昨日何か良いことがあった?」
と特徴的な、男にしては少々高い声で聞かれた。僕は少し黙り、
「ああっと、何か僕の身におきましたか?」
と聞き返した。
「隠すなって、昨日からトーマと付き合い始めたんだろ!」
「ああ、やっぱり僕付き合ってるんですね。」
「いや~、良かった良かった。長く続くと良いな。」
それだけ言って電話はかかってきた時と同様に突然切れた。どうやらすでに話は広まっており、僕の意思とは関係なくずんずんと進んでいるようだった。僕は短くなった煙草を口に含み、煙を出来る限り沢山肺の中に吸い込んだ。そして彼女のことを考えた。2歳年下の外山茉莉霞のことを。彼女は男女関係なくよく話し、細かいことによく気がつく人であり、サークルの仲間からは親しみを込めてトーマと呼ばれていた。親しくない人と話すことが好きではない僕は、それでも何度か彼女と話したことはあったものの、付き合うほど親しいと言う間柄だとはとても言えなかった。きっと彼女も告白を承諾したことに特別に深い思いはなかったのだろう。
それから数週間たったが、基本的に僕の生活習慣は変わることがなかった。毎日の短いメールのやり取りと、休日に二人で当てもなく遊びにいくことを除けば。毎日電話したり、四六時中一緒にいる事に比べればこれは僕にとってそれなりに幸運だった。星が綺麗だの、僕の知らない高校の話だのを言われると少々退屈ではあったが、予想していたような事にならなくてよかったと心から思う。
花火大会がある日、トーマは公園まで行って花火を間近で見たいと言った。僕は人ごみが嫌いだからそれはいやだと言って、花火大会の会場から離れたマンションの屋上にトーマを連れて行った。トーマはそれに素直に従った。今思えば少し悲しそうな顔をしていたように思う。遠くから見た花火は綺麗ではあったけれど、なにか物足りないような気がした。
それから、トーマは誕生日にピンクパンサーのジッポを欲しがった。
「煙草なんて吸わないくせに。」
僕が少し笑いながら言うと、
「いいの。これが欲しいんだから」
と微笑みながら言った。それから彼女がいつも持ち運ぶバッグの中にそのピンクパンサーのジッポが必ず入れられるようになった。なぜだかそれは僕にとってとても嬉しいことのように思えた。
サークルで夏に行う遠征の前だったと思う。その遠征は飯盒や米など、約30キロの荷物を持って100キロの道のりを歩くという、交通手段の発達した現在にしては無意味で、無謀で、多少危険なものだった。班のリーダーである僕はルートの下見や計画で忙しい時期だ。
「私ね、母親が半年前に結婚したの」
トーマは唐突に僕に行った。
「あそう」
そんなことは僕の周りでは珍しくなかったし、門限や外泊など、何かと制約が多かったから家庭の事情があるのかなと思っていたから、そのことに対しては別に気に留めなかった。そんなことより目前に迫った遠征のほうが大事だったから、まだなにか言いたそうなトーマを無視して地図を開いた。トーマは何も言わなかった。
遠征が無事に終わり、家に帰る直前、僕はトーマに一通のメールを見せられた。そのメールは母親からで、黙って遠征に行ったのだから退学か家を出るか選びなさいというような内容だった。どうやらトーマの家庭は僕が思ったよりも複雑らしい。僕は携帯をトーマに返し、黙って彼女を見つめた。トーマは困った顔をしながらどうしましょうと僕に聞いた。
「家に帰りなさい。そして話し合いなさい。」
僕は言った。トーマは少し考えて頷き、バスのある方向に歩き出した。きっと話し合えばなんとかなるだろうと思ったし、僕が口を出しても意味がないように思えた。
夜の9時ごろメールが来た。
『家に行ってもいい?』
それを見て僕は彼女が家に帰れなかったのだと思った。
『おいで』
すぐさま返事をした。返事をしてから、これからどうしようかと考える。いろいろ考えたけれども途中で考えるのをやめた。トーマの話を聞かないことにはどうしようもない。
1時間30分ほどたって、家の呼び鈴がなった。ドアを開けるとそこにはまだザックを持ったままのトーマが涙を流しながら立っていた。トーマは黙って家の中に入ってきて、しばらく泊めて欲しいと言った。僕はトーマを抱きしめて分かったと答えた。何も聞くつもりはなかった。トーマが自分の生活に深く関わることもそれほど苦痛に思わなかった。
トーマが来てから、生活が楽になった。掃除もしてくれたし、ご飯も作ってくれた。雨が降れば洗濯物も取り込んでくれた。
そして、それ以上に毎日が楽しくなった。小さい蜘蛛におびえたり、お菓子を作って失敗して、少し落ち込んでいたりするのがかわいく思えたし、彼女が話す他愛もない話が楽しかった。トーマは一日のほとんどをテーブルの前の座布団に座って、テレビを見たり本を読んで過ごした。一日の中で彼女と話す時間はほんの僅かだったけれど、そばにいるだけで温かくなった。僕と彼女はキスもしなかったしもちろんそれ以上の関係にもならなかった。それほどトーマとの生活は自然で、抵抗がなかった。いつの間にか彼女は僕の真ん中にいた。
それでもそんな生活は長く続かなかった。どんなにトーマと一緒にいたくても彼女はいつか必ず帰らないといけない場所がある。どんなに事情が複雑でもこの部屋にいても問題は解決しないし、きっとトーマはトーマの家に帰るのが最善の選択なのだろうと思う。それでもこのままだと僕はきっとトーマがいつまでもこの部屋にいることを許してしまうだろう。だからこそ僕は行動した。
いつものように夕飯を作ろうと立ち上がるトーマを僕は抱きしめて、そしてベッドにゆっくりと押し倒した。トーマは初め、あっけにとられていたが、すぐに僕を突き放した。それは僕が予想していた結果だった。
「どうして」
トーマは呟いた。
「不安なんだ。君が僕のことを好きなのか。」
本心だった。トーマは黙っていた。永い時間黙っていた。そしてポツリと言った
「ダメ」
それは僕がトーマから聞く初めての拒絶のことばだった。
「そっか」
「うん」
しばらく気まずい沈黙が流れた後、ぼくはついにその言葉を口にした。
「じゃあ別れようか」
トーマは顔を上げた。その顔はすでに何かを決めた顔だった。
「うん」
その時部屋にはケツメイシのあなたに会えてよかったが静かに流れていた。
大切なものを失って二週間が過ぎた。トーマは僕の全てではないけれど、トーマがいないと僕の全てが上手く機能しなくなる。それはきっと誰もが経験することなのだろうし、立ち直らないといけないことなのだと思う。それでも、トーマと過ごした三ヶ月が何より尊く思えて、それが今の僕を芯まで蝕む。
口から放たれた煙草の煙は静かに宙を漂い、そしてゆっくりと消えていった
トーマ、あなたは僕を好きでいてくれましたか