『帳簿しか取り柄のない出来損ない』——その令嬢を追い出した穀倉領は、ひと冬で飢え、国境の城門を開いた
世の中には、止まって初めて気づかれる仕事がある。うまくいっている間は、誰の目にもとまらない。
アルマ・ローエンフェルトの七年は、まるごとその種類の仕事だった。毎晩、蝋燭の下で帳簿をつけた。誰がどれだけ税を納め、倉に麦がどれだけ残っているか。一日でも書き落とせば、次の冬に何人が飢えるか分からなくなる。だから欠かさずつけた。徴税も備蓄も、畑の水番も、国境守備隊へ麦を送る手配も、ぜんぶ。七年、彼女が一人でやってきた。
もっとも、そのことは誰も知らない。表向き領地を立派に治めているのは、姉のジゼルということになっていた。
その夜、婚約者を迎える小さな夜会の広間で、そのジゼルが扇の陰から笑った。帳簿の話になると、いつも決まってこの顔をする。数字が多いと頭が痛くなるのだと、この姉は本気で言う人だった。
「かわいそうなアルマ。あなた、また帳面なんて抱えて。領地のことは、わたくしがぜんぶ見てあげてるのに」
「ええ。いつも、ありがとうございます」
アルマはにこりと返した。姉が「見てあげている」中身が実際は何ひとつないことは、この場で言っても仕方がない。倉の横流しも、水増しした徴税の帳尻も、毎冬こっそり埋めてきたのは自分だ。
(まあ、それも今夜で終わりかもしれませんけれど)
広間の中央で、婚約者のローデリクが葡萄酒の杯を掲げた。ヴァルツ侯爵家の嫡男。格上の家の跡取りで、機嫌がいいと、笑うたびに少しだけ顎が上を向く。今夜もその顎が、よく上を向いていた。
「皆に、報告がある」ローデリクはよく通る声で言った。「私は、アルマ嬢との婚約を破棄する」
広間がざわりと揺れた。
「理由を、伺ってもよろしいですか」
「決まっている。この女には華がない。社交もできん、話もつまらん。取り柄といえば、帳面をつけることくらいだ」ローデリクは令嬢たちに笑いかけた。「——帳簿しか取り柄のない出来損ないと、誰が添い遂げるか」
どっと、笑い声が起きた。
アルマはその笑いを少し不思議な気持ちで聞いていた。悲しくはない。ただ、しゃくだった。
(帳面をつける、ね。……その帳面がなかったら、あなたのお屋敷、去年の冬に飢えてましたわよ)
言わなかった。言ってもこの人には分からない。ヴァルツ侯爵領の倉が去年つなげたのは、婚約者だったアルマが、東の余った村からこっそり麦を付け替えて回してやったからだ。ローエンフェルト本体の穴を埋めるのとは、別の勘定でやりくりした。ローデリクはそれを知らない。家令がやったとでも思っている。
姉のジゼルがすっと前に出た。芝居がかった、憐れむ顔で。
「ローデリク様。妹をあまり責めないでくださいまし。この子はこれでも一生懸命なんです。……ただ、少し頭が足りないだけで」
継母のアガーテが扇を鳴らした。父のコンラートは窓のほうを向いて、何も言わない。卓に置いた指先だけが、卓の縁を意味もなく掻いていた。
「アルマ」父はこちらを見ずに言った。「お前は……この家を出なさい。ジゼルの縁談の障りになる」
頭を下げなさい、と継母が言った。皆の前で、詫びなさい、と。
アルマは頭を下げた。深く。膝が石の床につくくらい、深く。床の石は、氷みたいに冷たかった。頭の上で、誰かの笑い声がひとつ、遅れて起きた。
(……別に。頭のひとつくらい、いくらでも下げますわ。安いもの)
立ち上がると、姉が満足そうに微笑んでいた。父はまだ窓を見ている。
広間の隅で、古い倉番のヨナスが唇を噛んで俯いていた。七年、アルマと一緒に倉の麦を数えてきた老人だ。この場でただ一人、彼女が何をしてきたかを知っている。だが老人にできることは、何もなかった。口を開けば、この歳で職を失う。ヨナスはアルマと目が合うと、耐えかねたように顔をそむけた。
アルマはその老人に小さく笑ってみせた。あなたのせいじゃない、というふうに。七年のあいだ、彼女の帳簿が守ってきたものはいくらでも数え上げられる。守れなかったのは、たった一つ。この夜の、自分の居場所だけだった。
アルマは広間を出る前に、一度だけ振り返った。
「お父様。ひとつだけ。……備蓄倉を、一度お確かめになって」
「なんだと?」
「いえ。もういいですわ」
誰も聞かなかった。姉の扇が、ぱちんと鳴っただけだった。
屋敷を出て、三日が過ぎた。
持ち出せたのは外套ひとつと財布ひとつ。財布はあっという間に軽くなった。実家を頼ることは、もうできない。行く当てもない。
北へ向かう街道をアルマは歩いた。歩きながらつい頭が勘定を始めてしまう。七年、体に染みついた癖だ。
この時季なら、南の三つの村はもう脱穀が終わっている。今年は秋の雨が長かったから麦の乾きが遅い。備蓄倉に入れる前に、風を通してやらないと黴る。守備隊への糧食は、雪が降る前にあと二度は送らないと足りない。水路は——去年ヴィント村で崩れた石橋の下が、また詰まっているはずだ。
(……もう、わたしの仕事じゃないのに)
それでも頭は止まらない。誰かがやらなければ冬に人が飢える。そのことだけは、七年かけて骨の髄まで分かっている。
姉にはそれが分からない。倉の麦を社交の贈り物にこっそり流す。徴税の帳尻を実際より多く書いて父に見せる。空いた分をアルマが別の村から回して、黙って埋める。その繰り返しで、七年、なんとか回してきた。姉に見せる帳簿には、いつもきれいな数字が並んでいた。
けれど、その数字が本当は何を意味するのか——倉に今いくら残り、どの村がどれだけ足りないのか——を知っているのは、毎日つけてきたアルマだけだ。本当のことは、別に控えてある。姉の指も父の目も、決して届かないところに。
帳簿は、あの家に残った。ただ、それを読める人間が、家を出て行っただけのこと。
(帳簿は、噓をつかない。ただ……)
考えて、途中でやめた。今さら誰に言うでもない。
雨が降り出した。街道の石が冷たくて、アルマは轍のそばにしゃがみ込んだ。
(ここで倒れるのは、ちょっと格好がつかないですわね)
こんなときまで、最後にあったかい麦粥が食べたい。そんなことを考えている自分が、われながら少しおかしい。そう思っていたら、行く手に、小さな村の灯りが見えた。
その村は国境に近い寂れた村だった。
軒先で薪を割っていた老人にアルマは声をかけた。三日ぶりに人と話す声は我ながら少し弾んでいた。
「こんばんは。一晩、軒先だけでも貸していただけません? ……お代は、その、あまり持っていないんですけど」
「見りゃ分かるよ、姉ちゃん」老人は彼女の泥だらけの靴を見て言った。「泊めてやりてえが、うちも今年は苦しくてな。麦がもう底なんだ」
「倉が、空? この時季に?」アルマの声が、思わず低くなった。「それは……穏やかじゃありませんわね」
「ああ。この時季に空なんて、聞いたこともねえ。……このままじゃ、村ごと冬を越せねえかもしれん」
アルマの目が、ひとりでに動いた。村外れの、蓋の傾いた倉。田を割る細い水路。石橋の下に枯れ枝と泥が溜まっているのが遠目にも分かった。
(水路が詰まってるから、下の田に水が回ってない。上の田だけ実って、下が凶作。それで倉が空)
「おじいさん。あの石橋の下、詰まってますわね。あそこをさらえば、下の田にも水が戻りますわ。来年の話ですけど。……今年の分は、東の村と麦を融通し合えば、たぶん越せます。あちらは水は足りてて、人手が足りてない。こちらは逆でしょう?」
老人が、目を丸くした。
「姉ちゃん、あんた……何者だ」
「ただの、行き倒れですわ」アルマはにっこり笑った。「今日の、一人目の」
その夜、老人は結局、竈の隅を貸した。具のない麦粥を、椀に一杯。お世辞にも上等じゃない。けれど湯気だけは一人前に立っていて、ちゃんと温かかった。
アルマは三日ぶりのそれを、両手で包んでひと口すすった。
「……おいしい」
「そんな上等なもんじゃねえよ」
「本当に、おいしいんですもの。世界一ですわ」
泣くもんか、と思った。かわりにお腹が正直にぐうと鳴った。
男が村に現れたのは、翌朝だった。
仕立てのいい外套を着て、黒い馬に乗って。けれど身なりのわりに供もつけず、たった一人だった。馬を下りる所作が、妙に静かで品がよかった。
「宰相府の、巡察の者だ」男は村長にそう名乗った。「この秋から、北の穀倉領が軒並みおかしい。前々から調べて回っている」
アルマは井戸端で水を汲みながら、その声を聞いていた。宰相府。巡察。——王都はもう気づいていたのだ。北の穀倉領が根っこからおかしいと。
(早いこと。……いえ、遅いくらいかしら)
男の目が、ふと彼女のほうを向いた。
「そこの。あんたは、この村の者か」
「いいえ。昨日、流れ着いたばかりですわ」
「流れ者が、朝から井戸の水汲みか」
「働かないと、麦粥がもらえませんもの。……あの、お名前は?」
男は少し面食らった顔をした。巡察が来れば、村人はたいてい畏まる。こんな軽口で返してきた娘は初めてだったらしい。
「……セオでいい」
「セオさん。いい馬ですわね。毛艶がいい。……大事にされてる馬だわ」
「馬のことが分かるのか」
「馬のことは、あんまり。人のことなら、少し」アルマは桶を持ち上げた。「あなた、巡察のわりに、村の人に怖がられてませんわね。命令する人の顔じゃなくて、聞く人の顔をしてる。……珍しい方」
セオはそれには答えなかった。ただその日から、彼はなぜかこの余所者の娘のそばをうろつくようになった。
村の様子を見て回るセオに、アルマは頼まれもしないのについて歩いた。
「セオさん。その倉、覗いてもだめですわよ。空ですもの。この村の凶作は、水路のせい。天気のせいじゃありません」
「なぜ言い切れる」
「上の田だけ実って、下が枯れてるから。天気のせいなら、田はまんべんなく不作になりますでしょう? 一部だけ枯れてるのは、水が回ってないってことですわ」
セオが足を止めた。彼女を、じっと見た。
「……あんた、本当に、ただの流れ者か」
「ただの、食いしん坊の流れ者ですわ」
セオがふっと息を吐いた。それから、村人には決して見せない、少し砕けた声で言った。
「……その言い方は、調子が狂う。巡察をからかう流れ者なんて、あんたが初めてだ」
言ってから、しまった、という顔をした。取り繕うように咳払いをする。アルマはそれがおかしくて少し笑った。
その日の昼、アルマは村長を捕まえて東の村へ使いを出させた。麦を融通してほしい、かわりに雪が明けたら水路さらいの人手を回す、と。半信半疑だった村長が、夕方に帰ってきた使いの返事に目を見張った。話がまとまったのだ。
セオはその一部始終を黙って見ていた。行き倒れかけの余所者が、たった半日で崩れかけた村の冬を一つ繋いでしまった。
その晩、事が起きた。
夜半、北の山に降った雨が一気に川を膨れさせた。細い水路の土手が崩れかけた。放っておけば村に水が流れ込む。それより先に、川べりの一軒——病の子どもが寝ている家が、水に浸かる。
村人が松明を掲げて右往左往した。アルマは真っ先に土嚢を担いだ。
「セオさん! そっちの土手が先に崩れます! 土嚢をこっちへ! 女子供は東の高台! 病の子はわたしが運びます!」
セオが迷わず動いた。命令に慣れた体だった。彼が土嚢を積み、アルマが子どもを背負って高台へ走る。二人で代わる代わる泥の中に土を積んだ。
水は、ぎりぎりで土手の内側にとどまった。
夜が明けかけた高台で、アルマは背負った子どもに、外套の内から取り出した麦パンを分けた。三日目の、堅くなったパンだ。自分の、最後の一切れだった。
「はい。半分こ。……本当は全部あげたいけど。わたしも、お腹が空いてるものだから」
子どもがこくりと頷いて、パンをかじった。
セオが泥だらけの顔で、その様子を見ていた。
「あんた」彼はぽつりと言った。「自分だって、行き倒れかけてたんだろう。最後のパンを、他人の子に」
「だって、この子のほうが小さいんですもの」
「……あんたは、変わってるな」
「よく言われますわ」アルマは笑った。それからふと、空の向こう——北の国境のほうを見た。「セオさん。ひとつ、聞いてくださる? わたし、たぶん余計なことを言いますけど」
「言え」
「北のローエンフェルト領。あそこの備蓄倉、たぶんもう空です。あの領の麦で、国境守備隊が食べてる。倉が空なら、守備隊の糧食が、じきに尽きます。……糧が尽きた砦は、保ちません。城門を開けるしかなくなる。そうしたら、隣国が」
セオの顔が変わった。
「なぜ、そこまで分かる」
「勘ですわ」アルマは明るく言った。「……よく当たる、勘」
嘘だ。勘じゃない。あの倉を七年管理してきたのは自分だ。けれど、それは言えなかった。言ったところで、追い出された女の世迷い言だ。誰も信じない。
セオはしばらく彼女を見ていた。井戸端の軽口も、半日で村の冬を繋いだ手際も、最後のパンを子どもに割った手も、全部この余所者の娘のものだった。それから、静かに言った。
「あんたに、頼みがある。……あの穀倉領を、なんとかしたい。手を貸してくれないか」
アルマが屋敷を出てから、日が浅いうちは、まだよかった。使用人たちがいつもの手順で領地を回していた。だが日ごとに歯車が噛み合わなくなった。徴税の帳尻が合わない。倉の数が、帳簿と食い違う。誰も、どこを直せばいいのか分からない。
ひと月が経つ頃、ジゼルはとうとう自分で書斎の帳簿を開いた。
数字は、びっしりと並んでいた。なのに、一つも意味が読めなかった。どの村から、いつ、どれだけ税が入るのか。倉に、今いくら残っているのか。守備隊に、次いつ麦を送るのか。——どこにも書いていない。いや、書いてあるのに、読めない。ジゼルにとって、それは真っ白なページと同じことだった。
「……なに、これ」
ジゼルはページをめくった。手が、震えていた。
「どうやって……あの子は、これを回してたの」
執事が青い顔で、駆け込んできた。
「お嬢様! 備蓄倉が……備蓄倉が、空でございます!」
「空? そんなはず……」ジゼルは、開いたままの帳簿へ目を落とした。「この数字は……満ちていると、読むのではないの?」
「帳簿には、数字ばかりが並んでおります。どれが今の倉の残りやら、手前どもには、とんと読めず。……ですが、倉には、麦の一粒も、ございません!」
ジゼルは立ち上がって、倉へ走った。重い扉を、両手で押し開けた。
がらんとした闇が、口を開けていた。かび臭い、空っぽの匂い。奥のほうで風が、からから、と乾いた音を立てた。
膝が、抜けた。
ジゼルはその空の倉の前でへたり込んだ。自分が贈り物に流した、倉の麦。水増しして父に見せた、徴税の数字。空いた分を、いつも誰かが静かに埋めていた。誰が。——考えるまでもなかった。
「アルマ……」
名前を呼んでも、もうこの家にあの子はいなかった。
ヴァルツ侯爵領でも同じことが起きていた。
ローデリクは家令に詰め寄られていた。
「若様。倉が、底をつきました。冬を越す麦が、ございません」
「ばかを言うな。去年は越せただろう。今年だって——」
「去年は、越せたのです。ですが、あれは……」家令は言いにくそうに口ごもった。「あれは、ローエンフェルトから、つなぎの麦が内々に回っておりました。ご婚約の、縁で。……今年は、それがぱたりと止まりまして」
ローデリクの顔から、血の気が引いた。
婚約の縁で。内々に。——誰が。
思い当たって、彼は机を殴りつけた。あの女だ。帳簿しか取り柄のない、あの出来損ない。その「取り柄」の帳簿がいつのまにか自分の領の冬を支えていた。
「……あの女の、帳簿は」ローデリクは掠れた声で言った。「あの女の帳簿は、どこだ」
どこにも、なかった。彼が自分で追い出した、その日から。
同じ頃、ローエンフェルト伯爵コンラートは、空になった備蓄倉の前に一人で立っていた。
娘が去り際に言った言葉が耳の底で繰り返し鳴っていた。備蓄倉を、一度お確かめになって。
「アルマ……お前は」コンラートは震える声で呟いた。「あれは、無能などでは……」
風が、空の倉を、からから、と鳴らした。もう、遅かった。
王都へ、早馬が続いた。
北の国境から届く報せは日ごとに冷たくなっていった。ローエンフェルト領、徴税滞る。穀倉領、崩壊。国境守備隊、糧食あと十日。——十日を過ぎれば、砦は保たない。城門を開き、隣国に道を譲るほかない。兵の粥は、日に日に薄くなっていた。夜番の兵が、空腹に耐えかね、城門の閂に手をかけては、はっと引っ込める。剣を握る前に、腹で負ける。
北の穀倉領ひとつの崩れが、国の門を内側から押し開けようとしていた。
その報せを読んだ宰相は深い息を吐いた。
「たった一人、実務を握っていた者が抜けただけで、これか……。その者は、どこにいる」
「それが」補佐が答えた。「——追放された、と」
国境の村で、アルマはセオの前に立っていた。
セオが王都から取り寄せた古い記録を机に広げていた。ローエンフェルト領の七年分の徴税と備蓄の写し。彼はそれを丹念に読んで、ずっと考え込んでいた。そして、顔を上げた。
「この帳簿をつけていた人間を、ずっと探していた」
アルマは黙っていた。
セオは写しの一枚を、指でなぞった。
「……姉じゃないな、これは。名前を貸してただけの人間に、数字ひとつ動かせない」
言いさして、彼はアルマを見た。アルマはそっと目を伏せた。
「同じ癖の字が、水路の割り振りにも、諍いの調停にも、守備隊の糧食手配にもある。全部、同じ手だ」セオの声が低くなった。「一人で、全部やってた人間がいる。その一人が抜けた途端に、この領は崩れた。ひと冬も、もたずに」
彼は写しから、アルマへ視線を移した。
「この前、あんたは言ったな。ローエンフェルトの倉は空だと。守備隊の糧が尽きる、と。……この写しを読む前の、あんたの言葉だ。なぜ分かった」
アルマは小さく息を吐いた。もう隠せない、と思った。
「……七年、あの倉を管理していたからですわ」
言ってしまうと、ふしぎと肩が軽くなった。
「わたしが、ローエンフェルトのアルマです。帳簿しか取り柄のない、出来損ないの」アルマはにっこり笑ってみせた。「——その、取り柄のほうです」
セオはしばらく彼女を見つめていた。
「ざまあ、とは思わないのか」彼は静かに訊いた。「あんたを追い出した連中が、今、飢えている。あんたが正しかったと、証明された」
アルマは少し考えて、首を横に振った。
「ざまあ、とは思いませんわ」それから、ちょっと肩をすくめた。「……ちょっと、しゃくですけど」
セオが外套の内から、一枚の印章を取り出した。
隠すように持っていた、それ。宰相府の印ではなかった。もっと重い、金の——王家の紋章だった。
「名乗りが、遅くなった」セオはまっすぐに言った。「セオドール。……この国の、第二王子だ。宰相府の巡察は、方便だ。北の穀倉領がなぜ崩れたか、この目で確かめてこいと、兄上に……国王に命じられて来た」
アルマは一瞬、言葉を失った。それから思わず素の声が出た。
「……道理で。馬の下り方が、上品すぎると思いましたわ」
セオの口の端が、ほんの少しだけ上がった。
「アルマ」彼は名を呼んだ。「あんたが、あの領を七年支えていたことは、今日、知った。……だが、俺があんたを気に入ったのは、それを知る前だ」
「え」
「行き倒れかけていたくせに、他人の子に最後のパンを分ける女。自分を追い出した領の、民の心配ばかりする女。——腕のことも、家のことも、何ひとつ知らないうちから、俺は、あんたのその顔を見ていた」
アルマの頬がぽっと熱くなった。逆境でも湿らなかった目の奥が、こんなときだけうっかり潤みそうになる。
「……ずるいですわ、そういうの」
「ずるくない。事実だ」
セオドールは印章を、机に置いた。
「王命だ。ローエンフェルト領を立て直せ。姉でも父でもない。——あんたの名前で。あんたの采配で」
立て直しは、簡単ではなかった。
アルマが王命の采配役として領に戻っても、はじめは誰も追放された娘の言うことを聞かなかった。横領の後始末に走る家臣、帳簿を隠そうとする者。アルマはその一つ一つを、七年ぶんの記憶と数字で静かに黙らせていった。間に合うか際どい糧食の手配を一晩で組み直す。守備隊の城門が開く、その三日前のことだった。
屋敷の門前には、姉のジゼルと父のコンラートが待っていた。ばつの悪い顔で。
ジゼルは真っ白に見える帳簿を抱えて、震える声で言った。
「アルマ。……お願い。この帳簿、読んで。わたくし、どこに何が書いてあるのか、ちっとも」
「読めませんでしょう」アルマは姉の手からそっと帳簿を取った。「帳簿は、噓をつきません。……ただ、毎日つけた者にしか、読めないだけで」
門の外には、ローデリクもいた。使者を寄越すのではなく、自分の足で。侯爵家の嫡男が、追放した女の采配を、乞いに来ていた。
「……ヴァルツ領に、つなぎの麦を、回してもらえないか」
あれほど「出来損ない」と嗤った男の顎は、もう上を向いていなかった。深く、下がっていた。
アルマはその願いもちゃんと聞いた。ただし——。
「お回しします。倉の麦は、飢える人を選びませんもの」アルマはそこで、少しだけ声を落とした。「……でも、条件は、はっきりつけさせていただきますわ。次の冬に、また誰かがこっそり埋めなくて済むように。——今度は、その穴を誰が埋めていたのか、帳簿に名前で残しますの」
ローデリクは何も言い返せなかった。かつて「飾りだ」と切り捨てた帳面に、今、自分の領の冬が握られていた。
「あんたらしいな」セオドールが、隣で小さく笑った。
「あら。褒めてます?」
「褒めてる」
その晩、アルマは屋敷の書斎で机の二重底を開けた。
誰も知らなかった。あの家に、もう一冊あったことを。姉に見せていた粉飾の数字ではない。姉が抱えて縋ってきた、あの読めない帳簿——毎日つけた者にしか読めなかった一冊の、さらに私的な核。七年分の現実を、本当の残量を、彼女が毎晩、自分ひとりのために書き続けていた一冊が、ずっとこの机の底に隠れていたことを。
――もう、隠さなくて、いい。
新しいページを一枚めくった。いちばん上に、日付を書く。それからその下にこう書き足した。
『国境守備隊へ、糧食の手配を再開。次の冬は、飢えさせない』
蝋燭の火が、ゆっくりと、ひとしずく蝋を落とした。帳簿のインクが、静かに乾いていく。この一冊は、誰にも読めない。七年、毎日つけてきた、彼女のほかには。
窓の外では、久しぶりに、麦を風に通す乾いた匂いが、村のほうから流れてきていた。
その帳簿のいちばん上に、アルマは自分の名前を書いた。
もう、誰の下働きでもない、彼女の名前を。




