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実験場

午前三時のレジ、あの日の弁当

掲載日:2026/07/03




 夜というものは、客が減るほど長くなる。


 店内は白すぎて、時間の感覚を奪う。

 外は暗いのに、ここだけが夜から切り離されているようだった。


 コーヒーマシンがときどき思い出したように低く唸る。


 男はレジの横で立っていた。

 立っているだけで金になる仕事だった。

 若い頃、ここに立つ自分だけは想像しなかった。



「袋いらねえって言っただろ」



 男は頭を下げた。

 客は何かを言いながら出て行き、自動ドアが開いて閉じた。


 また静かになった。

 それで終わりだった。


 怒鳴られたことなど、次の品出しをする頃には忘れている。


 忘れなければやっていけない。

 どの顔に怒鳴られたのか、どんな声だったのかも、だいたい混ざって消えていく。


 消えないものだけが残る。


 離婚したのは何年前だったか。

 娘が高校に上がる前だった気もする。

 違った気もした。


 写真はなくした。

 いつだったかは覚えていない。


 午前三時を過ぎた頃、一人の女子高生が入ってきた。


 制服の上に薄い上着を羽織っていた。

 首元が少し開いている。


 店内を一周して、飲み物を見て、菓子棚を見て、また戻る。

 弁当の前で足を止めて、少ししてまた歩き出した。


 男はレジからぼんやり見ていた。


 やがて少女は出て行った。

 ポケットが少し膨らんでいた。


 男は店を出た。


 少女は十数歩先を歩いていた。

 呼び止めると、肩がわずかに揺れた。


 ポケットから出てきたのは、おにぎりだった。

 潰れて、形が崩れていた。


 少女は黙っていた。

 しばらくしてから、言った。



「……お腹が減って」



 その声は、普通だった。


 車が店の前を通り過ぎた。

 犬が鳴いていた。


 男は少女の顔を見なかった。

 店に戻り、廃棄の箱から弁当を一つ取った。


 少しだけ、ためらった。

 渡すと、少女は目を丸くした。


 男は何も言わなかった。

 少女も何も言わなかった。


 しばらくして、小さく頭を下げた。


 男はそれを見なかった。

 レジに戻った。


 春になった。


 ある夜、レジの横に紙切れが置いてあるのを見つけた。

 少し折れていた。


 開く。



「あの日、ごちそうさまでした」



 丸い字だった。

 それだけ。


 男はしばらく、その紙を見ていた。


 店内放送が流れた。

 揚げ物の宣伝だった。


 紙を胸ポケットに入れる。

 ガラスに映った自分の姿は、少し崩れていた。


 ただ、その日だけは。

 ほんの少しだけ、視線が上がっていた気がした。




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