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灰に沈む声  作者: 早乙女皐月
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再び灯る火

その夜、風が強かった。

 冬の終わりにしては湿り気を帯びた風で、遠くの街灯の光を引き裂くように吹き抜けていた。ビルの谷間を縫い、古びた団地の外壁にぶつかり、低い金属音を残して去っていく。

 風の音を聞きながら、三上海斗はパソコンに向かって資料を読んでいた。取材の締め切りが迫っている。明日には編集部に初稿を出さなければならない。彼の仕事はいつも時間に追われていたが、今日はとくに集中力が削がれていた。


 胸の奥に、ずっと引っかかっていたからだ。

 数時間前に届いた、たった一通のメールが。


 《郊外の桐生団地で小規模火災。死者ゼロ。原因調査中》


 淡々とした速報。それだけなら、どこにでもある地方ニュースだったろう。

 だが三上にとって“桐生団地”は──十年前、母が亡くなった火災の現場だった。


 手が止まり、視線がディスプレイの端で揺れる。

 見たくない記憶ほど、容赦なく蘇る。


 ──十年前のあの夜も、風が強かった。

 火は、まるで追い立てられるように上の階へ駆け上がった。

 救助が間に合わないほどに、あっという間に。


 三上は深く息を吐いて立ち上がった。

 狭い部屋の空気は暖房で乾燥しているのに、指先はひどく冷たかった。


 「……見に行くか」


 誰に言うでもなく呟いた声は、少し震えていた。



 団地へ向かう道すがら、三上はイヤホンから流れるニュースを聞き続けた。記者としての癖でもあるし、遺族としての焦燥でもあった。


 《桐生団地の空き住戸で発生した火災は、およそ二十分で鎮火しました。警察および消防によると……室外機内部のショートが原因とみられ……》


 その瞬間、三上は歩みを止めた。

 周囲の車のライトが通り過ぎ、彼の影が細く揺れた。


 ──室外機のショート。

 十年前の火災と、まったく同じ原因。


 偶然か、それとも。


 彼は頭を振った。考えすぎだ。

 事故に決まっている。十年前だってそうだった。

 だが……本当に、そうだったか?


 母が亡くなった日のことは、何度思い返しても輪郭が曖昧だ。

 消防と警察の説明は簡潔だった。「事故です」。

 原因の特定は半端で、詳しい調査は行われなかった。

 当時、団地の空き家問題がニュースになり、行政の忙しさも理由に挙げられていた。


 だが、その“簡潔さ”こそが胸に刺さったままだ。


 団地が見えてきた。

 十年前と同じ、灰色の外壁。

 ところどころにひび割れの走った手すり。

 風に揺れる古い電灯。

 変わったものもあるが、変わらないものの方が多い。


 非常線の向こう、消防車の赤いライトが静かに明滅している。

 燃えたのは三階の空き住戸の一室らしい。

 窓枠が黒く焦げているものの、思ったより被害は小さい。


 「ここ、十年前の……」


 記者仲間を見つけ、三上は声を掛けた。

 知り合いの若手記者が驚いたように振り返る。


 「三上さん? まさか、来るとは……」


 「原因、聞いた。室外機だって?」


 「まだ断定じゃないけどね。でも、おそらくショートだって。老朽化。ここ、まだ交換されてなかったらしい」


 三上は団地を見上げた。

 十年前、母が住んでいた階。

 今はもう誰も住んでいない空き家になっている。


 「……まったく、同じじゃないか」


 呟いた声は、風に攫われていった。



 非常線のそばに立っていた消防隊員が、なにかの機材を持ち上げながら同僚と話している。


 「風が強かった割には広がらずに済んだな」

 「そうだな。プランターも何も置いてなかったのが大きい。部屋の中もほぼ空だし」

 「十年前は運が悪かったんだろうな。いろんな条件が重なっちまって」


 条件が重なった。

 その言葉が三上の背骨を冷たく撫でた。


 十年前の火事は“事故”だった。

 そう説明された。

 納得できるほどの詳細もなかった。

 ただ、事故とだけ。


 だが、なぜ今日の火は広がらず、十年前の火は母の命を奪ったのか。

 同じ原因で。

 同じ建物で。

 同じ風の夜に。


 差を生んだものは何だ?

 偶然か?

 それとも、十年前には“何か”があったのか?


 三上は胸ポケットから、古びたスマートフォンを取り出した。

 画面がひび割れたままの小さな機種。

 母が亡くなってしばらくして見つかった、最後の遺品だ。


 未送信メッセージが一つ、残ったままになっている。

 そこには──


 《今日は遅くなる。帰ったら話したいことが……》


 最後の文字の後は空白だった。

 母が何を伝えたかったのか、もう誰にもわからない。


 画面を見つめる三上の横を、ひゅう、と風が通り抜けた。

 十年前も同じような音がしていた気がする。

 風が、炎を押し上げる音。

 あのときは、それが何を意味するのか知らなかった。



「三上さん?」


 背後から声を掛けられた。振り返ると、市役所の職員の姿があった。

 室田――十年前にも担当として現場にいたはずの人間だ。


 「……来てたんですね」


 「ニュースを見て、気になって」


 室田は目を伏せ、少し逡巡してから語った。


 「今回の火災を受けて、県から“十年前の記録も含めて見直せ”と。調書を見返していたら……いくつか不備が見つかりまして」


 不備。

 嫌な言葉だった。

 十年前のあの乱雑な説明の裏側が、少しだけ見えた気がした。


 「だから再調査に?」


 「ええ。私も、もう一度ちゃんと向き合わないといけないと思ってます。十年前のことを……」


 室田の声は弱々しい。

 罪悪感なのか、後悔なのか、三上には判別できなかった。


 だが一つだけ確かだった。

 この火事は偶然でも、無関係でもない。

 十年前の火の残した影が、まだどこかに残っている。


 「……資料、見せてもらえますか。取材として」


 「当然です」


 室田が頷く。


 強い風が二人の間を通り抜け、非常線のビニールがぱたぱたと揺れた。

 その音が、まるで十年前の炎の音に重なって聞こえた。



 団地を出るころには、空には薄い雲がかかり始めていた。

 街灯がその雲をぼんやり照らし、まるで煙のように滲んで見える。


 三上は歩きながら、ふと立ち止まった。

 胸の奥に、重い塊のようなものが残っている。

 事故だ。

 そのはずだ。

 だが、事故ならなぜ、母は助からなかった?


 もう一度確かめるしかない。

 十年前の火も、今日の火も。

 それを知るために、彼は団地へ戻ってきたのだ。


 風が頬を刺すように吹きつける。


 ──この風を、あの夜も聞いていた。


 三上は口の中で小さく呟いた。


 「事故だと言われても、胸騒ぎだけが残る……」


 そしてゆっくりと歩き出した。


 十年前の“あの日”に置き去りにされたものが、

 また自分を呼んでいるような気がした。

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