抜けない棘
雨が降り始めたのは、彼女が去った直後だった。窓辺に立ち、街灯の淡い光が濡れたアスファルトを照らすのを眺めている。彼女の言葉が、まだ耳の奥で響いている。
「あなたはいつも、そうやって逃げるのね」
言葉がまるで矢のように私の心に突き刺さる。
抜けない。
それは、ただの別れの言葉だったはずだ。十年近く一緒にいた女が、荷物をまとめ、ドアを閉める前に吐き捨てた一言。だが、私の胸の奥に、鋭い棘のように食い込み、動くたびに新たな痛みを生む。抜こうと指を伸ばせば、指先が血に染まるだけだ。彼女の声は、柔らかく、静かだった。それなのに、なぜこんなに深く刺さるのか。
部屋は静まり返っている。彼女の香水の残り香が、かすかに漂う。テーブルの上には、飲みかけのコーヒーカップが二つ。私のものは冷えきり、彼女のものはまだ湯気が立っていた。彼女はいつも、急ぐように飲む。熱いものを平気で口に運び、舌を火傷しながら笑う。あの笑顔が、もう二度と見えない。
言葉はまるで凶器のように私の急所に突き刺さる。
私は何もできず、自分の身体から流れ出る血を静かに眺めた。
ゆっくりとそして、確実に死へと近づいていく。
血は見えない。外傷などない。ただ、心臓のあたりが、じわじわと熱を失っていく感覚がある。息をするたび、肺が重くなる。立ち上がろうとすれば、膝が笑う。彼女の言葉は、ナイフのように正確だった。私の弱い部分を、迷いなく抉った。逃げる、と言われた瞬間、幼い頃の記憶が蘇った。父が家を出て行った日、母が泣きながら言った言葉。「お前はいつも、逃げる子だね」
私は逃げた。学校でいじめられた時、友人が裏切った時、仕事で失敗した時。いつも、静かに後ずさり、影に溶け込むように消えた。彼女は、それを知っていた。知った上で、愛してくれたはずだ。なのに、なぜ今、こんなに残酷に。
外の雨は強くなる。窓ガラスを叩く音が、鼓動のように響く。血が流れ出る、というのは比喩だ。だが、本当に流れている気がする。記憶の血、感情の血。彼女と過ごした日々が、一滴一滴、床に落ちていく。初めて出会った喫茶店、彼女の髪が雨に濡れていた日。旅行先の海で、波に足を浸しながら交わした約束。「ずっと一緒にいようね」あの約束は、どこで崩れたのか。
私はソファに崩れ落ちる。抜けない矢は、ますます深く沈む。痛みは鈍く、持続的だ。死へと近づく、とは大げさかもしれない。だが、このままでは、生きている意味が薄れていく。彼女の不在が、部屋を巨大な空洞に変える。時計の針が進む音だけが、残された時間を知らせる。
夜が深まる。雨は止まない。私は目を閉じる。血の流れを止める方法などない。ただ、眺めるしかない。ゆっくりと、確実に。彼女の言葉が、最後の凶器として、私を貫く。抜けない棘は、永遠にそこに残るだろう。




